6日夜の宴会と二次会は、いずこも同じ酔い心地境地で昔馴染みの無礼
講でしたが、来れなかった人の近況も分かりその人への気遣いもあって、酔
いの深まりも独特の浸み方です。
次の日は上田散策、宴会だけで昨夜中に帰宅した地元の従弟や早朝次
の予定で帰った内の神さんなどがいなくなって十二名で車に分乗。まずは
上田城へ、「上田城初めての人」と幹事がたずねると一人だけ、北海道から
参加の従兄弟の奥さん。 だがその従兄弟も 「はじめて来たのと同じだよ」と
言います。 多分何十年振りでしょう、変わったのは当然です。 三年に一度ぐ
らいここに来ている私でも、その都度変わっているのに気付きます。
公園の一画に工事の人が入っていました。 「ここに昔料亭があったでしょう」
と、 私が言うと 「そうそう」 と応じてくれる兄嫁と従妹、 「そこの娘が小学校の
時同じクラスだった」 と私が言います、大柄で美しかった女の子の姿が浮かび
ます。 そこに建物が無くなったのはかなり前でした、この 「いとこ会」 は十年前
位からやり始めて、今回四回目ですが最初の時終ってから自分ひとりでここへ
立ち寄った時はなにもやっていない建物だけがありました。 次に来たときには
もう建物は無かったと思い出されます。
三回目は上田から離れたところでやったので、ここへ寄っていませんから、
この数年空き地のままになっていたということでしょうか、そして今回工事の人
がいたということは新たな変化が公園の一画に生れ始めているということで、
次何時になるか分かりませんが、様変りしていることでしょう。
上田城域内の真田神社の裏、西櫓の元に立って市内を見下ろします、築城
当時この断崖の下まで千曲川の流れがあり、この辺を尼が淵と呼び、城も一
時尼が淵城と呼ばれていたと何かで読んだ記憶があります。
この城で有名なのは真田石と名付けられた石垣の大きな石で、その前には
由来を書いた木札が立てらています。 石垣全体を見ながら、最近ペルーを訪
問した従弟に 「ペルーの石造物とこの石垣の造りは同じかね」 と聞いたみまし
た。 昨夜彼ら夫婦がペルー訪問のDVDを見せてくれて、色々聞かせてくれまし
たので。
石の種類も違えば工法も違うでしょうが、彼の話では石造物の表ばかりでなく、
中も全部石でつくり上げられているとういことでした。日本の築城においても、表
面の石の背中にはより多くの石が積み上げられているに違いありません。 江戸
時代の築城家の争いを描いた「富士に立つ影」という小説を思い出しましたが、
それは築城術が戦国時代にとどまらず、武士の戦いを支えてきた重要な要素だと
いうことを示しています。
以前、古墳見学の折、専門家の話で古墳をつくる技術は農業の発展を支えた
田畑つくり、農道・水路・石垣などなどの技術から発展したものでそういう生産的
技術の上に成っていると聞かされ、そうだろうと納得したものでした。
城の石垣のことからペルーや古墳づくりへと話が飛びました。それも気心の知
れた身内と歩くことから生まれるものかと思い快い散策です。