遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 松岡圭祐 角川文庫

2024-01-31 16:37:31 | 松岡圭祐
 新人作家・杉浦李奈の推論シリーズの第9弾。2023年8月に書き下ろし文庫として刊行されている。
 このシリーズ、出版業界の舞台裏に光をあて、そこにテーマと題材を見出して、ミステリ・フィクションに仕立てあげる。出版業界の舞台裏が表にでてくること自体が、読書人にとっては興味をかき立てるフェーズといえる。
 この第9弾は、タイトルにある通り、結果としては「人のしなない」ミステリ仕立てになっている。それはあくまで結果としてはということであり、巧みな落とし所となっている。ストーリーの変転で読者の思考を匠に困惑させる。李奈がこのミステリの意外な結末を導き出す役回りになる。さらに李奈にとってハッピーな結果が生まれるという次第。

 本作では、新人作家が発掘され、その作家と編集者がどのような人間関係を形成するのか、編集者が作品の完成までに、作品自体にどのように関与していくのか、あるいは関与する可能性があるのか。新人作家の頭脳から創作された最初の原稿がどのように変容する、あるいは変容させられる可能性があるのか。また、本という商品が完成するまでに、どのようなステップがあるのか。例えば、本の紙質の選定や装丁という側面がその一例である。本が出版される以前の舞台裏がリアルに書き込まれているところが、私には興味深い。こういう視点と出版業界知識が本作の副産物と言えるかもしれない。

 さて、杉浦李奈が鳳雛社の編集者・岡田眞博から出版の誘いを受ける。「数枚のプロットだけでも書いてくれたら」と。これに対して、李奈は長編『十六夜月』の原稿を仕上げて岡田に送信した。岡田は原稿を読み、主人公史緒里が悲劇的運命を回避していく終盤に圧倒されたと賞賛する返事を送ってきた。だが、その後、ベストセラー作りの巧みなやり手の名物副編集長宗武義男から横やりが入る。結末を読者皆が号泣を誘う方向に変える提案だった。李奈は宗武がベストセラー作家ともてはやされた岩崎翔吾の担当編集者だった理由がわかる気がした。李奈はそれを受け入れられないと拒絶した。こんなストーリーの出だしがどう展開するのか。まず、読者を戸惑わせる。

 宗武が別件として李奈に本を書いて欲しいと持ちかけてくるのだからおもしろい。宗武は、まず最初に、小説の原稿を読んで、プロの目からアドバイスを欲しいと李奈に持ちかける。未知の原稿を読める誘惑に負けて、李奈はその原稿を読むことになる。ここで李奈がその原稿について語るコメント自体が、読書好きには参考になる副産物。
 原稿の表紙の題名は『インタラプト』。一行目から「31歳の編集部員、岡田眞博は中途採用で鳳雛社に入った」という一文が出てくる小説。
 宗武は、ある新人作家につい最近までの事実をノンフィクション風ノベルに下書きとして書かせ、その原稿に宗武自身が朱を入れたという。その第八章まで書かれた原稿をベースにして、李奈に小説として仕上げて欲しい。それを李奈の作として出版するという仕事のオファーだった。これがこのストーリーの第一ステージである。
 ここまでで、既に出版業界の裏舞台の一局面が『インタラプト』の原稿文として織り込まれ、原稿への作家と編集者の視点がストーリーとして語られていく。この点もおもしろく参考になる。

 著者は宗武に次のとおり李奈に出版社の副編集長として、己の立場表明をさせている。
「創作に固定されたやり方などないはずだ。うちは今回このやり方をとる。あらかじめ打ち合わせをして、プロットを作り、そのあらすじに沿って書いてもらうというのも、ある意味で事前に方向性を定めておく方法だ。これはもっと効率的に、版元の要望と著者の創造性が一致をみる、画期的な手段だよ」(p89)と。
 「わたしの小説じゃない」と李奈は反発する。
 宗武は言う。岡田の周辺からの事実聴取をした上で原稿が書かれている。岡田には取材はしていない。だから、岡田に李奈が取材し、その結果を自由に加えて手直しして小説を書いてくれ。小説化にあたり、登場人物名等は一括変換で変えられる。現実を彷彿とさせる小説にしてほしいと。
 宗武と李奈が、駅のロータリーに駐めた大型ワンボックスカーの中で話し合いをしている時に、車の後尾のタイヤを故意にパンクさせる事件が起こった。その実行犯の顔を李奈は視認した。岡田だった。
 李奈は、宗武の小説化の依頼を受ける気はなかったが、鳳雛社の編集者として小説にオファーをしてくれた岡田についての事実を確かめたいという意志が李奈を動かす。小説『インタラプト』を引き受けるかは保留という条件付きでまず取材活動を引き受けることに同意した。ここからストーリーの第二ステージが動き出す。

 岡田の行動の裏付け取材が、鳳雛社に関わるさまざまな状況を明らかにしていく。
 この内容が一つの側面描写として、出版業界の舞台裏話につながっている。
 編集者岡田の様々な側面と行動が明らかになっていく。たとえば、鳳雛社は新人作家飯星祐一の『涙よ海になれ』という大ベストセラーを生み出した。それを推進したのが副編の宗武であり、ストーリーの結末は、宗武の意見が取り入れられ悲劇的な結末で創作された。それがヒットの一因になったという裏の経緯がわかる。この飯星祐一こと橋山将太を新人作家候補として見出したのが岡田だった。岡田は編集者として橋山とコンビを組んで、橋山の経歴を生かし、純文学の家具小説シリーズを出版していた。だが、売れなかった。橋山を宗武に引き合わせたことで、宗武の考えに沿った路線の小説を橋山が創作し、ベストセラー作家飯星祐一が誕生した。
 ベストセラー誕生の暴露話が具体的な経緯とともに明らかになっていくプロセスが興味深い。売れるように書くという商業主義の側面が描写されていておもしろい。

 今、飯星はあきる野市にある宗武の自宅近くに引っ越しし、執筆活動を続けているという。李奈は飯星に取材するため、宗武の車に同乗し、宗武の自宅に向かう。宗武の自宅に飯星が来て、取材に応じるために待機しているからだ。
 飯星に面談した李奈は、二階建てアパートの飯星が借りている住居に行くことになる。ここから、大きく状況が変転していくことに・・・・・。いわば、ストーリーは第三ステージに入っていく。
 『インタラプト』の下書原稿と李奈自身の取材活動というストーリーの進展は、いわば編集者岡田をはじめ主な登場人物をクリアーにしていくための準備段階だったと言える。ミステリの真骨頂が始まっていく。
 本作でも、進展してきたストーリーのどんでん返しが李奈の推理によって行われ、結末を迎えることになる。やはり、著者は巧妙なオチをつけた。

 さて、「人の死なないミステリ」というタイトルがどのように着地するのかは、本書で確かめていただきたい。このフレーズは、宗武のつぶやきとして記述されている。

 もう一点、本作全体を眺めてみて改めて気がついたことがある。
 本作の第1~2節と最後の第24節が作るストーリーの間に、第3~23節のストーリーが入るという入れ子構造になっている。そして、第1~2節と第24節には、出版に絡む発想の逆転が見られる。それが第3~23節の結果から生み出されている。
 そこに大きな問いかけが底流にあると思う。作家の創作に対して、本を編集するとはどういうことか。編集者とは何か。という問いかけである。そのこと自体、出版業界の舞台裏である。読者にとっては、作家の名と顔は見えるが編集者等出版側は出版社名しか見えない。

 最後に、本作で印象深い文をいくつか引用しておこう。
*小説家として成功したいと願う気持ちと、魂を売り渡してもかまわないという決心とのあいだには、大きな隔たりがある。どんな恩恵にあずかろうとも、『十六夜月』の史緒里を殺せるはずがない。  p55
  ⇒宗武の小説の結論部分を悲劇の方向に書き換えてほしいという提案に対して
*歩きながら李奈は思った。・・・瑠璃は以前の李奈と多くの共通項がある。大衆から認められたい理由が、孤独にともなう寂しさにあることに気づいている。それならあとは書くだけだろう。文芸こそ誇れる自己表現だと悟ったとき、瑠璃はきっと本物の作家になるにちがいない。  p237
  ⇒瑠璃は『インタラプト』の下書原稿を書いた新人作家
*わたしは現実に生きる人間ですから・・・・。多くの別れを経験して、より重く感じるようになったんです。小説とは登場人物に命を吹きこみ、読者と共有するものだと。 p271
  ⇒李奈が宗武に語る考え
*小説家が乗り越えていく創作の苦悩の日々に、信頼できるパートナー以上の存在はありえません。   p277
  ⇒パートナーとは編集者のこと。
*吉川英治のいったとおりだと李奈は思った。晴れた日は晴れを愛し、雨の日には雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ。  p287

 ご一読ありがとうございます。
 

こちらもお読みいただけるとうれしいです。

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