遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『散華 紫式部の生涯』 上・下巻  杉本苑子  中公文庫

2024-06-19 22:06:58 | 諸作家作品
 千年余を越え現在も読み継がれ、諸外国語で翻訳版も出版され続ける『源氏物語』という畢生の大作を生み出し、『紫式部日記』『紫式部集』を残した通称紫式部。その紫式部はどのような人生を過ごしたのか。生年も没年も不詳。わずかの著書と断片的な史資料を踏まえて、なぜ、『源氏物語』が執筆されたのか、その経緯を中核に紫式部の生涯を描ききった小説である。
 本作は、『婦人公論』(昭和61年3月号~平成2年1月号)に連載として発表された。その後、1991(平成3)年2月に単行本が刊行され、1994年1月に文庫化された。冒頭のカバー表紙はこの文庫版のもの。そのカバー画は加山又造作で、上巻「夜桜」(部分)、下巻「朧」(部分)が使われている。かなり以前に入手していた文庫版を読み終えた。
 調べてみると、2023年9月に、カバーをイラストに変更した新装版文庫が刊行されている。

 本作で紫式部は小市という名で描かれていく。姉は大市。播磨国飾磨の市の日に生まれたので大市と名付けられた。紫式部は二女として生まれたことから小市の名が付いたとする。父の藤原為時の赴任先、播磨の国府で、三人目の子、薬師麿を生んだ後、産をこじらせて母が播磨で亡くなる。父為時は任務を終え、子供らと共に帰京。為時には周防と称する妹が居て、この周防が兄の子供らの世話を引き受ける。
 周防が小市と薬師麿を伴い、粟田口から日岡の街道経由で来栖野にある宮道列子の墳墓や勧修寺を訪ねる場面からストーリーが始まる。往路、日岡の街道で、裸で虚死(ソラジニ)していた男が強盗を働く様子を偶然に目撃した。周防等はこの強盗と勧修寺の回廊で出くわすことになる。同行していた薬師麿の乳母が、この男を今評判の袴垂かと推察した。男は藤原保輔と名乗り、その場を去る。この出会いが後々への一筋の伏線となっていくところがおもしろい。
 余談だが、最近平安時代を背景としたいくつかの著者を異にする小説を読み継いできて、袴垂れの保輔がいずれにも出てくる状況に出くわした。当時名を馳せた実在のいわゆる義賊だったようである。
 
 ここから始まる上巻は、当時の社会的状況と貴族社会の勢力関係などの背景を巧みに織り込んでいく。『蜻蛉日記』を介して藤原一門の状況が語られ、強盗の横行と魔火(放火)が頻繁に発生していた状況が明らかになる。円融帝が退位、花山天皇が新帝となるが、麗ノ女御と呼ばれた忯子の死が契機となり、藤原道兼の唆しに乗り花山天皇が出家する。花山天皇が東宮だった時に小市の父・為時は学問の相手として関わりを得、花山帝の政庁発足で式部丞に補されたのだが、この事態はたちまち為時に失職という影響を及ぼす。一方、姉の大市は、花山帝側近の一人となった権中納言義懐の想われ人として見出されていた。それが姉の人生を変える結果となる。
 花山帝出家、一条帝が7歳で践祚し、一条天皇の時代となる。それは息子たちを使い、政略謀略により一条帝の外祖父となった藤原兼家一族の時代、藤原摂関家の時代の始まりである。まずは兼家謳歌の時代。だが、そこから一族内部の兄弟間の熾烈な権力闘争に進展していく。まず長男道隆が摂関家を継承。道隆の娘・定子が一条帝に入内する。しかし、道隆は疫病で没し、二男道兼は「七日関白」で終わる。道隆同様に赤班瘡(アカモガサ)で没した。道長の時代へと移る。道隆の子息の伊周(コレチカ)と隆家(タカイエ)は、史上でいわれる「中ノ関白家事件」で転落していくことに・・・・。
 上巻では、左大臣になった道長の時代のもとで、小市の父・為時が当初淡路の国司への除目が、越前の国司に変替えを通達されるところまでが描かれる。

 ここまでの時間軸で興味深いと思った点がある。
1. この段階では、小市は己の生きている時代を、己の目と耳で見聞する観察者の立場にいる。父を含め、周囲の人々から社会の情勢、貴族社会内部の人間関係や権力闘争、政治の状況について情報を吸収する立場である。貴族社会内の格差を実感する。過去のことは、身近にある書物から知識を蓄える。小市が情報を己にインプットしていく状況を描いていると言える。そのプロセスで小市は己の見方を徐々に培い始める。
 たとえば、小市の意識を著者は次のように記している。姉の大市の生き方に絡んで、
「美しいものはこころよい。花でも鳥でも虹でも星でも、美しいものが世の中を潤す力ははかりしれないが、人間--ことに女が生きる上で、外貌の美醜が幸・不幸を分ける重大な決めてとなっている点が、小市には釈然としないのだ。(女の仕合わせとは何か、不仕合わせとはどういうことか)」   p340
そして、姉の生き方を(わたしには耐えられないわ)と己の立ち位置を自覚する。

2. 現在進行中のNHKの大河ドラマのフィクションとは大きな構想上での差異点があっておもしろい。
 1) 小市の母の死についての設定が全く違う。
 2) 父為時の越前国司受任時点までに、小市と藤原道長との人間関係は発生しない。
 3) 同様にこの時点までで小市が清少納言との間で親交を深める機会は描かれない。
  ただし、伯父・為頼の息子伊祐が清原元輔の家を訪ねる際に、小市が同行する。
  そこで、御簾を介して、小市が清少納言に古今集に載る清原深養父の歌17首を誦
  しきる場面が描いている。 上巻・p174-176
 4) 逆に、小市は姉大市が女房務めをしていた昌子皇后の御所に同様に幼女の頃から
  仕えている御許丸との関係が生まれ、織り込まれて行く。御許丸とは後の和泉式部
  である。著者は、御許丸の歌に、小市が「わが家は詩歌の家すじ・・・・・・せめて生き
  た証を、その伝統の中で輝かしたい」と触発される場面を描く。 p446
 5) 藤原宣孝が為時の家に頻繁に訪れ、小市と対話するのは双方で同様。
同じ史実をベースに踏まえても、状況設定が大きく異なり、それが成り立っているのが、フィクションのおもしろさといえるだろう。

 下巻は、小市が同行し、為時が越前国司として赴任地に出立する場面から始まる。往路の状況。越前国府での小市の心境。為頼伯父の病臥という通知を潮に小市は帰京。宣孝との結婚に至る紆余曲折。賢子誕生と宣孝の死。中宮定子に対抗する形での道長の娘彰子の入内。『枕草子』の評判。「光る源氏 輝く日ノ宮」の書き始め。小市の出仕とその直後の顛末。道長呪詛事件と道長の宮廷への布石。小市が中宮彰子出産の記録を担当。和泉式部の出仕と「宇治十帖」執筆。彰子の人格的成長(人形から賢后へ)。小市の晩年。という進展により、紫式部の後半の生涯が描き出されていく。
 大河ドラマがこの後どのように進展するのかは知らないが・・・・・。
 このストーリーでは、小市が宣孝と結婚して、女として体験する様々な側面、その感情と思いを著者は書き込んで行く。この期間は短いけれどもこの小市の結婚生活での心理的体験、女心の変転する機微が多分『源氏物語』の人物描写の中に反映していく、いわば創作の肥やしとなっていくのだろう。
 小市が土御門第に居た彰子のもとに年末に出仕したが、その直後に自宅に戻ってしまった。その時の原因を著者は道長の関わりとして描く。それを、恵み、通過儀礼の側面としている。当時の時代背景を踏まえると、立場によりその行為がいかように解釈できるかという描写となり、実に興味深い。この体験が、小市にとり『源氏物語』創作の肥やしになるのだろう。道長の立場での解釈を、小市が推察する記述が下巻のp318に明確に記述されている。その前に、小市の立場からの反射的判断が描き込まれているのはもちろんである。さらに視点を変えた解釈も小市が考えていく。多面的思考が盛り込まれていて興味深い。なるほど・・・である。

 四十余年の歳月を経た時点で「近ごろ小市を苦しめつつある索莫とした心情」として、著者は小市が自己省察する内容を明確に記している。これは著者が捕らえた紫式部像とも言えるだろう。長くなるが引用する。 
”もともと小市は、内省的な性格に生まれついていた。頭がよく、洞察力もあるため他人への批判はきびしい。口に出しては言わないけれど、見る目はなかなか辛辣だし、相手の欠点や短所を抉るのに手加減しなかった。
 しかもその目が、他人ばかりでなく、自分自身にも同じ鋭さ、容赦のなさで注がれているところに、小市の気質の不幸な特色があった。おのれに甘く人に辛いなら、まだしも救われる。相手を悪者にしてのければ気分は安まり、解き放たれもするのに、「まちがっているには相手、自分は正当」と思いこめる自己本位な楽天性が、小市にはない。
 人から蒙る不快、苦痛、恨みや憤りも、煎じつめてゆくと結局、自身に回帰してくる。原因をおのれに求めるという出口のない、息ぐるしい形に至り着いてしまう。それでなくても、よろこびの実感は常に淡く、あべこべに、悲しいこと口惜しいこと情けないことつらいことは記憶の襞に深く刻みつけて、容易に忘れないたちだった。
 誇りを傷つけられる無念には敏感に反応したし、何びとにも犯させない矜持と自我を、頑なまでに守り通しながら、まったくうらはらな弱さ脆さ、おのれへの嫌悪感、愧じの意識に苛まれるという二律背反の矛盾の中で、重荷さながらな生を、曳きずり曳きずり生きてきた四十余年の歳月なのである”  p398
 
 小市が『宇治十帖』を書き継いだ理由、心情の底にあるものも著者は記している。これは本書を読んでいただきたい。

 さらに、「それはすでに、小市の--紫式部の『源氏物語』ではなく、その読み手自身の『源氏物語』なのである」と記す。p416
 その後に、こう述べている。「作者は自分のために書き、自分の好みにのみ、合わせるほかないのだ」(p416)と。これは著者自身の自作に対する思いでもあると感じる。

 著者は「あとがき」に、「本質的には現代人と変わらぬ生き身の人間として、登場人物を描くことにつとめた」と記している。
 大長編小説だが、読みごたえがある。紫式部という存在が、ちょっと身近に感じられる小説だ。

 ご一読ありがとうございます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『まいまいつぶろ』   村木嵐    幻冬舎

2024-06-13 23:09:22 | 諸作家作品
 本書を読んで、「まいまいつぶろ」がカタツムリの異称だと知った。本書を読む動機は新聞広告で目にしたこのタイトル。意味不明でおもしろい語感に興味をいだいた。著者の名もこの新聞広告で初めて意識した。
 本書は書き下ろしの歴史時代小説で、2023年5月に単行本が刊行された。2023年下半期・第170回直木賞の候補作となった。

 改めて手元の辞書を引くと、「まいまいつぶろ」は「まいまいつぶり」の項に付記されていて、「まいまい」の子見出しとして載っている(大辞林)。共にカタツムリの異称と記す。また、まいまい(まいまいつぶろ)は、神奈川・静岡・岐阜、岡山・広島・福岡方言だと言う(新明解国語辞典)

 本作は德川家重と彼に仕えた大岡兵庫(後に忠光に改称)、二人の生涯の関わりを描き出していく。本作を読むまで、德川家重(1711~1761)は全く意識外の存在だった。彼は德川吉宗の長男として生まれ、最終的には9代将軍(在位:1745~1760)となった。
 手元の国語辞典では、生没年と在位期間の他に、「虚弱体質で言語障害があり、側用人大岡忠光が権勢を掌握」(日本語大辞典)、「幼名長福。身体虚弱で酒食に溺れたという」(大辞林)と記す。また、「德川九代将軍。吉宗の長子。延享二年将軍。性惰弱、酒食に耽り政治を顧みなかった。宝暦十年、将軍職を家治に譲り、翌十一年没。諡は惇信院(1711~1761)」(広辞苑初版)とも記されている。

 読後に確認したこれら国語辞典のごく簡略な説明は、德川家重と大岡忠光について、1つのイメージを喚起する。だが、私にとって本作の読後印象は、そのイメージとは対極にありそうな二人の人物像のイメージが余韻として残っている。このストーリーの世界に感情移入していくと、最後の主従の別れの場面は涙せずにはいられない。家重と忠光の主従を越えた人間的な強い絆の形成・確立がこのストーリーのテーマになっている。
 最後に家重が忠光に言う。「さらばだ、忠光。まいまいつぶろじゃと指をさされ、口がきけずに幸いであった。そのかげで、私はそなたと会うことができた。もう一度生まれても、私はこの身体でよい。忠光に会えるのならば」(p320-321)

 本作は、江戸奉行、大岡越前守忠相が、大奥の上臈御年寄の滝乃井に呼び出される場面から始まる。滝乃井はかつて吉宗の嫡男・長福丸(家重)の乳母を務めた。滝乃井は忠相に家重の言葉を聞き取る者が現れたと告げ、兵庫と称する少年が忠相の遠縁に当たると言う。滝乃井は、忠相に兵庫に対して御城へ上がる心得を説いてほしいと依頼する。忠相自身が縁戚として知らなかった者だった。調べてみると、兵庫の父・大岡忠利は、忠相と「はとこ」の関係にあたるのだ。
 同日の夜、若年寄の要職にある松平能登守乗賢が忠相の役宅を訪れる。乗賢は長福丸様が小禄の旗本の子弟とお目見得を行う儀式で奏者番を務めた折の経緯について、困惑をしつつ忠相に語った。忠相は兵庫が見出された顛末を乗賢から聞かされる。忠相はもはや後へは退けぬことを知る。
 
 長福丸は吉宗が8代将軍になる前に、赤坂の紀州藩邸で生まれた。あわや死産という寸前で命をとりとめた。しかし、長福丸の発する声を誰も聞き取れない。普通に口がきけるようにはならなかった。麻痺で片頬が引き攣れている。手に麻痺があり、仮名ですら書けない。尿を始終漏らすので、座った跡がまいまいのように濡れて臭うとまで言われていた。ひどい癇癪持ちで、怒り出すと手が付けられない。
 そこに、長福丸の言葉を聞き取れる少年が現れたというのだ。長福丸のことを案じてきた人々にとり、これほどうれしいことはない。

 だが、ここで一筋縄ではいかない問題が生まれてくる。将軍職の継承と幕府の政事という次元が長福丸の人生に絡むのだ。将軍職は原則長子継承である。長福丸を心身虚弱として廃嫡することは、まずこの原則から外れる。

 さらに厄介な問題が生まれる。兵庫を長福丸の小姓に取り立てると、「長福丸の言葉には幕閣の誰一人、老中でさえ逆らうことはできないのだ。それがある日を境に、兵庫の言葉に取って代わらぬと言い切れるだろうか。兵庫が長福丸の言葉だと偽って、己を利する言葉を吐くようにならないだろうか。 それなら兵庫がわずかばかり利口だということは、むしろ悪を企む危うさのほうが大きい」(p22)という懸念である。

 5代将軍綱吉が御側用人制を創った。これを吉宗は廃止し、幕政改革を推進してきた。長福丸に一人だけ言葉が分かる小姓が侍ることは、側用人制の復活につながらないかという懸念である。吉宗が長子継承の原則を捨て、長福丸を速やかに廃嫡すれば問題にはならない。だが、吉宗は廃嫡論を自らは語らない。棚上げ状態が続く。

 兵庫と対面した忠相は1つだけ兵庫に忠告する。「兵庫には心しておかねばならぬことがある。そなたは決して、長福丸様の目と耳になってはならぬ」(p37)
 「長福丸様は、目も耳もお持ちである。そなたはただ、長福丸様の御口代わりだけを務めねばならぬ」(p38)と。
 この忠相の忠告が、兵庫にとりその後の生涯にわたる原則となる一方、兵庫(忠光)が家重の側で己を律する上で苦悩の因にもなっていく。長福丸(家重)の口となり、鏡になったつもりで言葉を映すことは、相対的にたやすい。しかし、お側に仕える小姓として血の通った心で役立つには何ができるのか。その判断が難しくなる。

 家重と家重の口となる忠光との、いわば二人三脚が始まって行く。このストーリーは、常に、廃嫡問題が底流にありながら、長福丸が、若君と呼ばれる立場になる。さらに、京の都より、比宮(ナミノミヤ、増子)を正室として迎える段階に進展する。
 比宮は江戸城にて家重を見るなりショックを受ける。それを起点に、比宮の心理の変転が描き込まれていく。家重の外観への嫌悪から、家重の真心、真の姿を感得し、比宮が家重に寄り添って行こうとするプロセスが1つの読ませどころとなっていく。ここはこのストーリーの楽しいフェーズでもある。
 比宮は妊娠するが男子を死産する。その後、比宮は京から同行し侍女として仕えてきた幸に家重の御子を挙げよと遺言を残して没する。この幸が後に、家重の子、家治を産むことに進展する。だが、この二人の女性の差異が、直接的な描写のない部分に間接的に語られているように感じる。心の通いあい方の差異なのかもしれないとふと思った。
 やがて、幸の侍女として大奥に務めた千瀬が家重の側室になっていく。

 さて、吉宗は将軍に就いてからおよそ30年間の在位の時点で、遂に家重に将軍職を引き継ぐ旨を、まず近親者と老中を集めて宣言する。この場が次の大きな山場となっていく。ここで、老中の松平乗邑が懸念を露わに表明する。この場面をどのように決着させるか。実に微妙で興味深い場面が生み出されていく。家治が投じた一石が見事というほかはない。ここは読ませどころである。

 将軍に就いた家重は、父吉宗が築いた改革路線を推進していく立場である。老中の構成も大きく変化する。吉宗が始めた目安箱に投げ込まれた1つの訴状を契機に、美濃国郡上での積年の藩政の歪みが浮上する。それは一藩の問題事象ではなく、幕政に携わる人々を多く巻き込んだ事象だという事実が次々に判明していく。ここでは、家重の口となる忠光ではなく、家重の小姓になり栄進してきた田沼意次が重要な役割を担っていく。家重の裁断として実のある決着が導き出されていく。
 家重が将軍になった以降においても。家重の御口となる忠光が徐々に認められて岩槻二万石に栄進したことを例にし、忠光の働きと存在を貶めようとする老中がやはり存在する。忠光の生涯につきまとう批判中傷である。だがこれは、家重と忠光の二人三脚が、将軍家重の治世を推し進める原動力として機能していることを、理解しがたい人々がいることの例示になる。
 忠光よ、よくぞ家重の御口になるという立場と意味を貫いたなとエールを送りたくなる。

 この家重の治世を描くことは、これまでの江戸幕府の根底にある重農主義的政策による全国統治がもはや限界に来ていてる事実と、転換点としての兆しについても触れていることになる。それを家重の小姓として仕えることから始めた田沼意次に語らせているところがおもしろい。

 最後の「第八章 岩槻」で、岩槻藩主である忠光の息子・忠喜と十代将軍德川家治が岩槻城で語り合う場面を加えられている。二人の会話は、家重の言葉を忠光は真に聞き取って伝えていたのかというところに集約されていく。この二人の会話の終わり方が良い。その余韻を感じていただきたい。

 德川家重の生涯について、事実は何か? 全てがわかることはない。
 ここに描き出された1つのストーリー(-家重と忠光の絆-)は、史実の断片をロマンを秘めた想像でつなぎ、創作されているのだろう。そのロマンが生み出した世界が読者を感情移入させていく。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
德川家重   :ウィキペディア
第9代将軍/德川家重の生涯  :「名古屋刀剣博物館 名古屋刀剣ワールド」
八代吉宗、九代家重とその時代 :「德川記念財団」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『同志少女よ、敵を撃て』  逢坂冬馬  早川書房

2024-06-03 15:21:37 | 諸作家作品
 独ソ戦争は、1941年6月22日、ドイツ側の奇襲攻撃に始まり、1945年5月9日、ベルリン近郊カールスホルストにおいてドイツが無条件降伏文書に調印したことにより終わった。ソ連邦側は、この戦争を大祖国戦争と呼称し、ドイツ側は東部戦線と呼称した。

 本書は2021年8月に第11回アガサ・クリスティー賞を受賞。その後加筆修正されて、同年11月に単行本が刊行された。

 プロローグは、1940年5月に、16歳のセラフィマ・マルコヴナ・アルスカヤが、母親のエカチェリーナと鹿猟に出かける場面から始まる。一方、エピローグは、1976年のイワノフスカヤ村で生活するセラフィマの姿を描くところで終わる。本作は、独ソ戦争の全期間を題材に取り上げる。この戦争の戦史的側面が背景に織り込まれつつ、大祖国戦争の渦中で狙撃兵となり、戦場を駆け抜け、生き抜いたセラフィマの喜怒哀楽と信念、一人の同志少女の成長が描き込まれていく。

 第1章は、1942年2月7日、セラフィマが母親エカチェリーナと一緒に鹿の猟を行っているところから始まる。その途中で次の会話が親子の間で交わされる
「それなのに私は、大学へ行くなんて、本当にそれでいいのかな。私は銃を撃てるし、同い年のミーシカだって戦争へ行ったのに、戦わなくていいのかな」
「あなたは女の子でしょ」
「でも、リュドミラ・パヴィリチェンコだって女性なのにクリミア半島で戦っているのよ」
「ああいう人は特別でしょう、もうドイツ兵を200人も殺してるのよ、フィーマ、戦うといっても、あなたに人が殺せるの?」
「無理」
「それじゃだめよ、フィーマ。戦争は人殺しなのだから」(p22)

 鹿を仕留めて、二人がイワノフスカヤ村を見渡せる山道のカーブまで戻ると、村にはドイツ兵が出現していた。アントーノフおじさんの頭を指揮官らしき軍人が撃ち抜いた。「もう一度聞く、パルチザンの居場所を言え、言わなければ全員を処刑する!」それはドイツ兵側の建前だった。母は銃を構えたが、ドイツ兵側から狙撃を受けて屍と化した。
 フィーマはドイツ兵に捕らえられる。額に銃口を突きつけられ、危機一髪というところに、赤軍兵士たちが出現し、戦闘となる。フィーマは救助された。
 だが、村は壊滅。母の遺体も含め、殺された村人たちと村そのものが、赤軍の女性兵士の命令で焼却される事になる。
 女性兵士のイリーナ・エメリヤノヴナ・ストローガヤがセラフィマに問いかける。「戦いたいか、死にたいか」と。母と村人たちが虐殺されたことに茫然となっていたセラフィマは「死にたいです」と本音を返した。だが、イリーナの挑発的な言動に接し、最後は叫ぶ。「ドイツ軍も、あんたも殺す! 敵を皆殺しにして、敵を討つ!」と。
 この瞬間が、このストーリーの実質的な始まりとなる。

 セラフィマは捕らえられた時の記憶を辿る。顔に傷があり、髭面でスコープ付きの銃を持ち、イェーガーと呼ばれていた男を。戦闘結果の死体の中に、その男に該当する死体はないと一人の兵士が答えた。いち早く逃亡したようである。
 イリーナはセラフイマに言う。「それがお前の母を撃った狙撃兵だ。お前が殺す相手さ」と。
 この日から、セラフィマはイリーナの教え子になる。イリーナは元狙撃兵だった。

 セラフィマはイリーナにより、中央女性狙撃兵訓練学校の分校に連れて行かれる。
 そこは、大祖国戦争が進行する最中、ポドリスクに女性狙撃兵の専門的な訓練学校を来年から本格的に開始するための先行実験を目的とする分校だった。元狙撃兵のイリーナが教官として、この分校で訓練指導をする。イリーナ自身が選んだ訓練生が集められたということになる。
 このストーリーは、セラフィマという狙撃兵の誕生と成長、狙撃兵としての活動の全プロセスを大祖国戦争の史実と経緯に織り込んで、戦争の実態を描き上げていく。そのプロセスで、セラフィマの戦争に対する心理が変化・変容していく。セラフィマの思い・信念が狙撃兵としての行動に直結して行く。
 戦いの渦中にあって、セラフィマの心は揺れる。例えば、次の一節が心中の思いとして誘発する。「女性を助ける。そのためにフリッツ(=ドイツ兵の意味)を殺す。自分の中で確定した原理が、どことなく胡乱に感じられた。今までは迷うことがんかったのだ。・・・・ 被害者と加害者。味方と敵。自分とフリッツ。ソ連とドイツ。それらは全て同じだと、セラフィマは疑うこともなく信じていた。
 だが、もしもこれらが揺らぎうるならば。
 もしもソ連兵士として戦うことと、女性を救うことが一致しないときが来たなら。
 ソ連軍兵士として戦い、女性を救うことを目標としている自分は、そのときどう行動すればよいのだろう」(p319)
 このストーリーの眼目は、大祖国戦争の渦中に投げ込まれたセラフィマの心の内部を描くことにあると感じる。そして、セラフィマ並びに彼女が所属した第39独立小隊(後に第39独立親衛小隊と改称)の各隊員達の心の内部を媒介にして、戦争とは何かを著者は読者に問いかけているように思う。

 ストーリーの大きな流れとしては、3つのステージがある。それぞれに山場が生まれていく。そして、問題意識も・・・・。
1. 中央女性狙撃兵訓練学校分校での訓練課程の描写。その結果、狙撃兵の精鋭が誕生。  
  イリーナが選抜した訓練生のバックボーンが徐々に明らかになっていく。それは、大祖国戦争という事態で結束しているソ連に内在する民族間問題、そこに含まれる蔑視、差別、支配・被支配、独立心などの諸要素を露わしていくことにもなる。ソ連自体が大きな問題を内包しているという事実。
2. スターリングラードでの独ソ攻防戦。セラフィマたちはウラヌス(天王星)作戦の
もとでの実戦に投入される。彼女らは「最高司令部予備軍所属、狙撃兵旅団、第39独立小隊」と位置づけられる。5人の小隊にNKVD2人が付く狙撃兵小集団としての行動することに。
  激戦地となった工場「赤い十月」の西側、ヴォルガ川岸に面したアパートの一室を拠点とするマキシム隊長以下のたった4人の第12大隊に合流し、ここを拠点に市街戦での行動に加わる。

3. 1945年4月、要塞都市ケーニヒスベルクでの戦いが大詰めとなっていく。そこはナチス・ドイツに併合されたポーランドの北端に位置し、ドイツ語で「王の山」を意味する古都である。バルト諸国と西欧をつなぐ玄関口として重要な港を有する要塞都市。
  塹壕を拠点にして、要塞都市に立て籠もるドイツ側との戦いとなる。地上では戦車と火炎放射器が投入され、空には戦闘機、攻撃機が飛来する。最後の戦闘となっていく。
  この都市で、セラフィマは、狙撃兵イェーガと対峙することになる。

 このストーリー、ミステリという視点から捕らえると、セラフィマが破壊されるイワノフスカヤ村でのイリーナとの出会いを起点として、セラフィマがイリーナの心中の基底に厳然とある思いは何なのかを推理し探求し続けるという文脈が内在すると思う。
 元狙撃兵のイリーナが、最終的に少人数の狙撃兵の精鋭を育成し、戦闘の場で行動を共にしていく。イリーナの思いは何なのか。その心を見極めるために、セラフィマはイリーナとの関係を通して、イリーナの心を推理し探求しつづける。この点も、読ませどころの1つになっている。

 印象的な文章をいくつか引用しておこう。⇒以下は私的な補注である。
*新聞に載る言葉は自分のものではなく、常に、自分の言葉を聞いた新聞記者のものだ。
 ⇒狙撃兵として有名になったセラフィマがインタビューを受ける場面での思い p330
*エレンブルグが重宝されたのは、結局兵士の戦意を煽るのに有効な言葉を使ったからだよ。彼が去ってもその言葉は生きている。  p354
 ⇒ドイツ人をぶっ殺せというエレンブルグの論法 ソ連での防衛戦では重宝された
  「ドイツ人」と「敵兵士」を同列視して成り立つ論法は、戦争終結後には禍根を
  残すことになる危険なもの
*いずれにせよ、確かめようがなかった。死者の考えを推し量り、言葉の意味を考えることは生者の特権であり、何を選ぼうと、死者がその正否を答えることはない。
 オリガは死に、自分は彼女を偽装に用いて、生きている。それが全てだった。p437
*「ターニャ、あなたは敵味方の区別なく治療するの」
 「ああ。というよりも、治療するための技術と治療をするという意志があたしにはあり、その前には人類がいる。敵も味方もありはしない。たとえヒトラーであっても治療するさ」 p452
 ⇒ターニャは第39独立親衛小隊の一員で看護師。セラフィマが問う。
*殺される心配をせず、殺す計画を立てず、命令一下無心に殺戮に明け暮れることもない、困難な「日常」という生き方へ戻る過程で、多くの者が心に失調をきたした。 p467
*ソ連でもドイツでも、戦時性犯罪の被害者たちは、口をつぐんだ。
 それは女性たちの被った多大な精神的苦痛と、性犯罪の被害者が被害のありようを語ることに嫌悪を覚える、それぞれ社会の要請が合成された結果であった。 p475
*失った命は元に戻ることはなく、代わりになる命もまた存在しない。  p477

 本作には、次の記述がある。
”「国家」という指標で語られる勝利と敗北。
 4年に満たないその戦いにより、ドイツは900万人、ソ連は2000万人以上の人命をを失った。
 ソ連の戦いはここで終わらず、余勢を駆るようにして残る枢軸、日本へ8月に戦線布告した。”
ここに記された犠牲者数、調べてみると、犠牲者数に諸説があるようである。しかし、その犠牲者数の多さに驚く。一方、この犠牲者数について、本作を読み初めて認識した次第。歴史の一事実としては学んだ記憶がある。だが、ほんの表層だけを知っていたたにすぎない己の不敏さに気づかされた。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
独ソ戦争  :「ジャパンナレッジ」
数字で見る「独ソ戦」 映像の世紀バタフリエフェクト :「NHK」
独ソ戦の開始と太平洋戦争の勃発  :「学校間総合ネット」
独ソ戦  :ウィキペディア
人類史上最悪・・・犠牲者3000万人「独ソ戦」で出現した、この世の地獄:「現代ビジネス」
リュドミラ・パヴリチェンコ  :ウィキペディア
ケーニヒスベルグ(プロイセン) :ウィキペディア

トに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日蓮』   佐藤賢一   新潮社

2024-05-19 18:44:50 | 諸作家作品
 タイトルが目に止まり読んだ。本作は「パッション」という題で「小説新潮」(2020年6月号~2021年1月号)に掲載された後、2021年2月に「日蓮」に改題されて、単行本が刊行されている。
 表紙のカバーには、日蓮聖人御持物『妙法蓮華経』(池上本門寺所蔵)が使われ、本扉には、長谷川等伯筆『日蓮聖人像』(髙岡大法寺所蔵)が使われている。この日蓮聖人像はどこかで見たことがある・・・・。手元にある京都国立博物館での特別展「没後100年 長谷川等伯」(2010年)の図録を改めて見ると、通期で展示されていた一点だった。長谷川等伯が永禄7年(1564)に描いた作。重文。

 日蓮についての本は今まで読んだことがない。著者は関心をよせる作家の一人でもあり、よい機会だと思った。本作は伝記風小説というところか。
 日蓮の視点から日蓮の活動のプロセスを描き上げていく。焦点となる時期は、日蓮が十余年にわたる勉学を終えて「叡山帰り」をし、建長5年(1253)、安房の国の名刹・清澄寺において「説法」をする場面から始まる。この時点から、文永11年(1274)10月、来襲した蒙古軍・高麗軍が風雨により撤退するいわゆる文永の役に至る。日蓮はこの報を身延の庵室で弟子から聞くという場面で終わる。
 日蓮は貞応元年(1222)2月生まれなので、当時の年齢法でいえば32歳から53歳までの時期が描き出されている。ネット検索で得た情報を加えると、1253年の「説法」場面は、日蓮の「立宗宣言」に相当する。一方、最後の場面は、日蓮が身延(山梨県)に入山した年になる。(資料1,2)

 本作は<第一部 天変地異>、<第二部 蒙古襲来>の二部構成である。
<第一部 天変地異> 建長年(1253)~文永4年(1267)
 「一、朝日」は、まず日蓮が仏法・真理を学んだ経緯を簡潔に記す。そして、「叡山帰り」をした1253年に17日の籠山行を行い、その直後に、得度により是聖房と称してきた己の名を、日蓮と自ら改めたという。「日」は法華経如来神力品第21、「蓮」は従地涌出品第15より引いたということを、この小説で初めて知った。
 「二、説法」から始まる場面が、日蓮の信念とスタンスを如実に描き出していく。人々が救われるのは法華経に依拠するときだけであり、法華経には全てのことが記されているという日蓮の信仰・信念・思想が表明される。それゆえ、後に「立宗宣言」と称されるのだろう。日蓮は既存の他宗派を悉く否定する立場を明確にする。その槍玉に最も挙げたのは浄土宗の念仏「南無阿弥陀仏」の否定である。さらに禅宗、天台宗、真言宗等の否定である。
 清澄寺は天台宗、比叡山横川流の末寺であった。その天台宗で行われていた念仏すら否定した。そして、「南無妙法蓮華経」を唱えよと主張する。唱題の勧めである。
 結果的に、日蓮は師の道善房から破門されて、清澄寺を去り、鎌倉に向かう。

 第一部で、日蓮は辻説法により唱題を勧めり。経典に依拠して、論理的に他宗派の思想・法論の誤謬を論破していく行動を積極的に推し進める。いわゆる「折伏」である。日蓮は法華経を基盤に、他の諸経典類を援用して、己の論理を構築していることに、よほどの自信があったことをうかがわせる。
 正嘉元年8月23日に発生した「鎌倉大地震」(正嘉の大地震)が地獄絵を引き起こす。その地獄絵の状況から人々を救済するために、日蓮は再び一切経に立ち返って行く。駿河国岩本にある実相寺において、拠るべきは釈迦が述べた言葉であり、無謬の仏に尋ねるべきだという信条のもとに、一切経に立ち返り、考究を重ねる。日蓮は、『金光明経』『大集経』『薬師経』『仁王経』などから、仏の予言に気づくと著者は記す。
 日蓮の経典探求が『立正安国論』の著述として結実する。日蓮は、宿屋光則を介して、北条得宗家の当主、最明寺入道(北条時頼)にその勘文を届けた。この小説で知ったことは、その後も、日蓮は北条得宗家に対して『立正安国論』を繰り返し進言していることだ。己の信念を貫き通すという日蓮の凄さが見えてくる。
 日蓮に帰依する人々が増えて行く。一方で日蓮の他宗派排斥の折伏の継続が軋轢を生む。日蓮の庵があった松葉ヶ谷が強襲される結果となり、日蓮は逃亡せざるを得なくなる。そして、遂に日蓮は断罪を受け、伊豆に配流の身となる。法難である。だが、この配流には、最明寺入道の配慮があったようである。そこは興味深い点でもある。
 第一部は、日蓮の活動が徐々に帰依者を増やし、清澄寺は日蓮が安房で弘法した際の拠点となっていくまでを描く。

 この第一部において、日蓮の考えは、次の引用箇所に集約されていると思う。
「なすべきは法華経の弘法と決まっていた。やってきたことを、やり続けるしかない。この国の仏法を正しい道に戻せたならば、王法も自ずから盤石となるからだ。やり続けるしかない。相模守時宗を支えるに、それに勝る助けはないのだ」(p150)

<第二部 蒙古襲来> 文永5年(1268)~文永11年(1274)10月
 蒙古の牒状と添付の高麗の国書が鎌倉に届いたという知らせが日蓮に届く場面から始まるが、この第二部は、蒙古襲来そのものの状況を描いている訳ではないところがおもしろい。牒状が届き、実際に蒙古襲来が起こるまでの時期に、日蓮が何をしていたのかを克明に描いていく。
 興味深いことは、日蓮が蒙古という大国の存在を知っていたわけではないこと。経典に記された「他国侵逼難」を予言として確信していただけであることだ。だが、その知らせを聞き、日蓮は『安国論御勘由来』を柳営に進言する。だが、日蓮の進言は無視される。 文永8年(1271)5月には旱魃が発生する。鎌倉の柳営は極楽寺の良観忍性に雨乞いの祈祷を命じるが効果なし。日蓮の主張と他宗派との軋轢が高まっていく。7月、名越松葉ヶ谷の日蓮に『行敏難状』が届けられることに進展する。それが因となり、日蓮は奉行人と対決することになり、日蓮は捕縛されることになる。さらには、「竜の口」の法難、「佐渡」への流罪という法難に進展していくことになる。
 第二部の主題は、日蓮の法難の経緯を描くところにあると言える。
 その根底には、日蓮と他宗派との間に、法華経の解釈、読み解き方の差異もあるようだ。また、鎌倉の柳営は、現存する仏教諸宗派の存続を前提とする政治的方針を変えない。政治の次元と宗教の次元の相容れない局面がここに表出しているとも言えそうである。
 この第二部の要は、竜の口の法難において、日蓮が寂光土を感得し、地湧の菩薩の中に現れる四人の導師の中の上行菩薩が己であると開眼し、それ以降、日蓮が上行菩薩としての生き方、人々の教導をめざしたというところにあるように受け止めた。佐渡の流罪はその過渡期といえようか。
 佐渡への流罪は、大仏宣時の一存による下文よる沙汰であったという。下文は本来は執権が下す、あるいは了解して下すものなので、相模守北条時宗は先の下文を怒り、取り消して、日蓮を赦免にする。日蓮に科なく、主張も空言ではないとしたという。
 文永11年(1274)2月に赦免された日蓮は、3月下旬に鎌倉に戻る。だが、日蓮は甲斐国身延に引き籠もる選択をし、5月17日に身延に着いた。身延につき従う弟子もいた。
 日蓮は、身延にて文永の役の事実を知る。

 このストーリーを読み終えて、思ったことがいくつかある。
1.鎌倉幕府の政治的文脈で考えると『立正安国論』は取り上げられなかった。
2. 日蓮の主張が通らなかったので、日蓮は蒙古調伏の祈祷を実行していない。
3. 身延に引いた日蓮と日蓮の弟子たちとの関係は、その後どのように維持されたのか。
4. 日蓮が既存の他宗派の問題点として指摘した事実を各宗派はどのように受け止めた
  のだろうか。

 後半の2点は、私にとっては、新たに考えるべき課題になった。

 本作は、私にとり、日蓮という宗教家を掘り下げていく上での出発点、考えるための材料を得られる機会になった。起点ができたことが大きなプラスである。
 
 ご一読ありがとうございます。


参照資料
1. 日蓮大聖人の御生涯(1) :「SOKAnet(創価学会公式サイト)」
2. 日蓮正宗略年表     :「日蓮正宗」

補遺
大本山 清澄寺  ホームページ
清澄寺  :ウィキペディア
日蓮聖人の生涯  :「日蓮宗 いのちに合掌」
日蓮の手紙  100分 de 名著  :「NHK」
日蓮の足跡を訪ねて  :「さど観光ナビ」
日蓮宗   :「コトバンク」
日蓮宗とは  仏教ウエブ入門講座 :「日本仏教学院」
日蓮宗   :ウィキペディア
日蓮宗総本山寺院ページ一覧  :「日蓮宗 いのちに合掌」
『立正安国論』を読む :「鷲峰の風」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』  羽鳥好之  早川書房

2024-05-10 16:58:54 | 諸作家作品
 「立花宗茂残照」という副題に関心を抱き、本書を手にとった。
 本書は2022年10月に単行本が刊行されている。尚、本作の原型となる作品が2021年、日経小説大賞最終候補作となったという。その原型に大幅な改稿を加えて、著者は本書にて作家デビューをした。
 著者略歴によれば、1984年文藝春秋入社後、雑誌編集長、文藝書籍部長、文藝局長など、一貫して小説畑を歩み、2022年に退社。63歳で作家デビューするという異色さ。

 さて、私は葉室麟さんの『無双の花』を読んで、立花宗茂という武将を知り、戦国武将の中で関心を抱く人物の一人になった。この作品の読後印象記を以前に拙ブログ「遊心逍遙記」に載せている。その時、「立花の義」ということがテーマになっていることと、追記で「『無双の花』は宗茂を主軸にしているが、柳川城を退去せざるを得なくなって以降の時代、柳川藩に大名として返り咲くまでの人生後半の段階を焦点にストーリーが展開される」と述べていた。
 そこで、副題の「残照」という言葉が私の心のアンテナに感応した次第。

 目次の次のページから、本書は登場人物について、多くの他書と比較すれば長文ぎみな紹介がある。だがそれは簡略かつ要領を得た人物プロフィールになっている。本作のストーリーの進展を考えると、豊臣秀吉の命令による朝鮮の役、東軍・西軍による関ヶ原合戦、德川家の初期の将軍継承、これらについての背景情報を読者に予め知らせる役割を兼ねているようだ。私はここを読まずに本文を読み始めたので、後で振り返ってみた印象の一つとして、まず記しておこう。

 本作の中心人物は勿論、立花宗茂である。「登場人物」での紹介をまず引用しよう。
”豊臣秀吉から「西国無双」と讃えられた名将。「関ヶ原」では西軍に与して改易されたが、家康、秀忠からその能力を買われ、唯一、旧領を回復する。晩年は将軍家光に敬愛され「御伽衆随一」として重きをなす。左近将監。飛騨守。通称「柳川侍従」”
 登場人物紹介は、これくらいのプロフィールが、この後、德川家光から始まり、加藤忠広まで、19人について列挙される。そして、その後に、「関ヶ原 周辺図」「関ヶ原の戦い 勢力図」が併載されている。この勢力図が本作では大きな意味をなしてくる。

 本書のタイトルは、「尚、赫々たれ」。
 「赫々」を辞書で引くと「(形動トタル)①光り輝くさま。②手がらや名声が際立つさま」(日本語大辞典・講談社)と説明されている。
 本作は、立花宗茂が德川三代将軍家光の御伽衆として仕えている時期を扱っている。「西国無双」と称された宗茂の過去の有り様がまず大前提になっているので、文脈から言えば、②の意味合いといえる。しかし、そこに「尚、」が頭辞として付いているところに、重い意味がある。本作のテーマをこのタイトルが象徴しているなあ・・・というのが読後印象。将軍家光に向かう宗茂のスタンスをこの語句が示している。「西国無双」とまで言われた己の生き様、いわば「立花の義」を崩すことなく、かつ、泰平の世に向かう德川政権の時世の中で、旧領を回復して後の柳川藩と己がいかにサバイバルすることができるか。
 本作では、家光を筆頭とした德川政権と立花宗茂との微妙な心理面での駆け引きが描かれて行く。そこにさらに、重要な人物が関係してくる。一人は毛利秀元、もう一人は天樹院である。
 毛利秀元は、”長府毛利家の藩祖。「関ヶ原」では毛利一統を率いて南宮山に布陣したものの、戦況を空しく傍観して「宰相の空弁当」と揶揄された。その後、大国毛利の執政として本家の藩政を主導し、また将軍家「御伽衆」となる。甲斐守。通称「安芸宰相」”と紹介されている。本作では、秀元も御伽衆となっている。
 天樹院とは、二代将軍秀忠の長女であり、千姫の名で知られる。家光の姉にあたる。

 本作は三章構成で、「第一章 関ヶ原の闇」「第二章 鎌倉の雪」「第三章 江戸の火花」である。
 第一章は、祖父である「神君」家康をことのほか崇敬する家光が、父・秀忠の「武断政治」を引き継ぎ、生まれながらにして将軍家の子孫として三代将軍に就く。宗茂は家光直々に、関ヶ原の話をせよと命を受けることになる。関ヶ原では、西軍の一将として参戦した宗茂である。德川政権が確立して以降、戦勝した東軍(德川方)の諸将は己の都合のよい解釈で関ヶ原を語り伝える部分がある。家光が宗茂に参内を命じてきた時期、大御所・秀忠は西の丸で病床にあった。諸藩の誰しもが大御所の死期の到来を思い、三代将軍家光に完全に政権が移れば、己等の存在・藩の存続はどうなるかについて、心中に疑心暗鬼をいだいている時期だった。そんな最中でのお召しである。宗茂が家光と対面する席に、家光は姉の天樹院を同席させるという。その場面から、このストーリーの実質が始まる。
 家光の問いかけは、「天下を握る戦いで、東照神君はどこに一番、意を砕かれたのか、その叡慮に、わずかでも触れたいと願っている」(p31)「戦場を踏んだこともなく、神君からも大御所かrなお、親しく教えを受けることのなかった私に、それがどれほどの輝きをもつことかわかってほしい」(p33)
 この家光の問いかけが、真に本音として何を宗茂から聞きだそうとしているのか。ここで宗茂が述べたことが、家光にどのように受け止められるか。後にどのように使われることになるのか・・・・。事は単純な昔話ではない。その発言内容が話中に登場する人々あるいは己に、谺が刃となり返ってくるかもしれないのだ。宗茂にとては、家光の本音を感受しながらの心理戦、駆け引きをも内包する対談の場になっていく。
 関ヶ原を経験した武将ははや数少なくなっている段階である。それも西軍に加担していた生存者ではごく僅か。実経験者から実話を聞ける機会ももう最後という時期でもある。 そして、宗茂の関ヶ原話の行き着く先は、南宮山上に陣取った毛利一統の去就となっていく。それが、御伽衆の一人となっている毛利秀元に関わってくるのだ。宗茂は秀元と友に、家光に関ヶ原について語ることへと発展していく。それが関ヶ原合戦の闇を明らかにすることに・・・・・。この対談の経緯が読ませどころの一つとなる。

 第二章は、家光から直に天樹院に引き合わされた宗茂が、天樹院に同行し鎌倉に行くことになるエピソードが描かれる。このエピソードは、宗茂が天樹院をより深く知る機会となる。さらに、鎌倉では、天樹院から、東慶寺において、豊臣秀頼の遺児、天秀尼に引き合わされることに。
 この機会は、天樹院が宗茂という人物により信頼を深める機会となる。一方で、宗茂が天樹院に思いを寄せる契機にもなる。
 本作においてはしばしのインターミッションのような役割を果たしていて興味深い。

 第三章は、宗茂への天樹院の信頼感は、宗茂に難問を投げかける形になる。なぜか。
 それは、天樹院と家光にとっては弟である德川忠長の甲府蟄居の問題に関連していた。 大御所秀忠の病状が年の瀬に向かなかで、ますます悪化していた。それ故に、天樹院は弟忠長の蟄居の赦免について、宗茂に家光への働きかけの助力を依頼してきたのである。 この天樹院の依頼に対して、宗茂はどのように対応していくか。御伽衆に過ぎない宗茂が、将軍家の内輪の問題にどこまで関与できるのか。下手をすれば己の身が余波を受けてしまうことになりかねない。さて、宗茂、どうする。どこが助力できる限界となるか。そこが読ませどころになる。
 最後に、大御所秀忠が亡くなった直後の状況が描かれる。その中で、後に加藤家改易騒動と称される事態が発生する。それは情報収集合戦の様相を呈するようになる。その中で、毛利秀元は宗茂に協力を惜しまない。関ヶ原の回顧が彼らの絆を深める機会となったのだ。政権の変わり目の中での宗茂の思い、残照を描き上げている。

 秀忠から家光への実質的な政権交代の転換期、さらには、戦国の残影から泰平の維持強化への移行期という社会状況が、立花宗茂という人物の生き様と絡めて描き出されて行く。立花宗茂の残照を描きつつ、その反面で德川家光の曙光を描いていることになる作品とも言える。
 
 著者は、最後に宗茂の思い切れぬ胸の痛みを描写する。それが宗茂の残照として余韻を残す。

 ご一読ありがとうございます。
 
補遺
立花宗茂   :ウィキペディア 
立花宗茂   :「コトバンク」
德川家光   :ウィキペディア
德川家光   :「コトバンク」
千姫     :「コトバンク」
毛利秀元   :ウィキペディア
德川秀忠   :ウィキペディア
德川忠長   :ウィキペディア
德川忠長   :「コトバンク」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする