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遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『花で読みとく「源氏物語」 ストーリーの鍵は、植物だった』 川崎景介 KODANSHA

2025-04-24 23:47:59 | 源氏物語関連
 「花で読みとく」というタイトルのリーディング・フレーズが目に止まった。『源氏物語』を花で読みとこうというのだから、面白そうと感じてしまう。こういうアプローチは、私にとっては初めてなので、副題に「ストーリーの鍵は、植物だった」と付けられると、惹かれてしまった次第。表紙に、KODANSHA と表示されている本を手にするのも初めてかもしれない。

 本書は、2024年4月に単行本が刊行された。

 本書は、光源氏を筆頭に、『源氏物語』に登場する人々が花の名称を和歌に詠み込み相互にコミュニケーションをしている場面に焦点を当てる。そういう場面を抽出し、整理分類し、章立てている。そのコミュニケーション場面がどのような内容であるか、『源氏物語』に沿って人間関係等を整理し、位置づけなおして、解説していく。対話する人々の心のやり取りを分析して、対話者の心理を織り込みながらそのシチュエーションに著者が解説を加えるのだから、わかりやすい。『源氏物語』の大筋の流れも、いわばダイジェスト的に理解できることになる。

 『源氏物語』には、作中和歌が795首詠み込まれている。私は瀬戸内寂聴訳『源氏物語』の文庫版を通読したのだが、その時本書に取り上げられて、一冊の本にできる位に花を詠み込んだ和歌があるということをほとんど意識していなかった。『源氏物語』に登場する個々人の特徴と彼らが歌の中に詠み込んだ花とがマッチングしているということを、分析し論じていくというアプローチがおもしろいと思った。その花がその人物を象徴している。こういう読みときもあるか・・・・。そんな思いを楽しめる。

 「はじめに」で、まず著者は、『源氏物語』の作者紫式部自身と花をリンクさせることから手始める。紫式部が藤原宣孝に贈ったと書き残している歌を事例に取りあげる。

  おぼおつかなそれかあらぬか明ぐれの空おぼれする朝顔の花

 紫式部自身がこの歌で、宣孝を朝顔の花に例えているのだ。つまり、宣孝という人物像が浮かび上がるということ。それと同様のことが、『源氏物語』のストーリーに織り込まれているという。「紫式部が植物をよく観察し、登場人物に各植物の特性を重ね合わせ、物語をより豊かにふくらませている」(p3)と「はじめに」で述べている。
 そして、本書の目的について、「『源氏物語』の命とも言える魅力的な主要登場人物と花や植物の関係をひも解こうと試みました」(p3)と記している。

 本書は、4章構成になっている。各章に誰が登場するのか? 登場人物名を列挙しておこう。その人物と誰とがコミュニケーションする場面を取り上げ、その和歌にどのような植物が詠み込まれているかは、本書を読むお楽しみである。

 第一章  光源氏と妻たち
   光源氏、葵の上、紫の上、花散里、明石の君、女三の宮

 第二章  光源氏を彩る女君たち
   桐壺更衣、藤壺中宮、空蝉、夕顔、六条御息所、末摘花、朧月夜の君、秋好中宮
   明石の姫君、朝顔の姫君、雲居の雁、玉蔓、真木柱、落葉の宮

 第三章  光源氏を取り巻く男たち
   桐壺帝、頭中将、朱雀帝、冷泉帝、夕霧、蛍宮、柏木

 第四章  次世代の担い手たち
   薫、匂宮、大君、中の君、浮舟

 これだけの人々が本書に主だった登場人物として出て来る。和歌に詠み込まれた花の名称がその人物たちを象徴しているという分析は興味深い。その読みときは『源氏物語』の世界に入り込む上で、導きの一冊として大いに役立つ。

 誰がどういう花を詠み込んだ歌で取り上げられているのか、垣間見として、少しご紹介しよう。勿論、どのようにそれが解説されていくかは本書をお楽しみあれ!

 光源氏:ヤマザクラ、紫の上:ハス、明石の君:マツ、六条御息所:サカキ
 明石の姫君:マツ、頭中将:フジ、夕霧:フタバアオイ、薫:オミナエシ
 匂宮:コウバイ、 浮舟:タチバナ  この辺りでとどめておきたい。

 各パートでは、そこで取り上げられた花について、花のイラストが掲載され、その花について、学名・分類・原産・開花期・特徴が簡潔に付記されている。読者にとっては、花そのものを知り、イラストで楽しめるという副産物になっている。これらの要素が読みやすさを加えている。
 また、東京都立中央図書館蔵の<源氏絵物語>から歌川国貞筆の各帖の絵が文中で各帖に言及される箇所に掲載されている。江戸時代に人々が見る機会をもった『源氏物語』の一端をここに垣間見することができるという要素も組み込まれている。

 『源氏物語』に登場する人々を理解する鍵が花にあるという分析と説明を加えた上で、最後の的確なポイントとして、その花の花言葉を巧みに援用して著者は論じていく。なるほどと思う説得力が生まれている。
 一方で、ふと思ったことがある。花言葉というものは、何時頃始まり、現在各所で紹介されている形に定着してきたのだろうか。『源氏物語』が書かれた時代に、著者がここで紹介する花言葉に端的に表される形の認識が既に共有されていたのだろうか。紫式部はどのように認識してそれらの花を登場人物に関わる花として詠み込んで行ったのだろうか。 本書は、『源氏物語』を花という観点から、捉え直した現代的解釈書なのだろうか。
 読後印象の一つとしてこの素朴な関心事項に留まっている。

 いずれにしても、読ませどころに満ちた花いっぱいの源氏物語解説書である。

 ご一読ありがとうございます。

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『恋愛しない私でも『源氏物語』は楽しめますか』  西原志保  春秋社

2025-02-13 16:00:47 | 源氏物語関連
 「恋愛しない私」という条件設定をして、『源氏物語』は楽しめるかどうかという問いかけをタイトルにしている。地元の図書館の本紹介コーナーに並んでいた。『源氏物語』には関心を抱いているので、このタイトルを見て、興味を持った。『源氏物語』を読み継いでいるが、こんなタイトルの本は初めて!
 勿論、本書のような『源氏物語』へのアプローチのしかたの本を読んだのも初めてである。

 タイトルの問いかけに対する著者の回答をまず記しておこう。
 「異性愛でない人間や、老後を共に暮らすような、あるいは困っている人同士で同居するような結婚の可能性を考えている人にとってこそ、『源氏物語』を今読み直す意義があるのです」(p199-200) と述べ、「あとがき」の中でもこの引用箇所と同趣旨の文の終わりで「『源氏物語』は今読むべき古典なのです」(p240) と結論づけている。
 
 奥書の著者プロフィールは、「もともと専門は平安文学だが、恋愛や生殖に忌避的な女性の感性に注目し、日本近現代文学・文化も対象とする。現在の研究テーマは、動物・植物・人形表象」の研究者と記す。

 本書は、2024年8月に単行本として刊行されている。

 本書の構成をまずご紹介する。
 はじめに セクシュアリティとアイデンティティ
 第1章 仕事で恋愛をすること 現代におけるセクシュアリティとアイデンティティ
 第2章 心と体で分けられた自己 『源氏物語』のアイデンティティ
第3章 融合する身体 宇治十帖のアイデンティティ①
 第4章 浮舟の変身 宇治十帖のアイデンティティ②
 第5章 セクシュアリティを自認しない世界 『源氏物語』のセクシュアリティ
 第6章 作者と作品を結びつけること 紫式部のセクシュアリティ
 おわりに

 次に、著者の立ち位置と私が理解した事項を列挙しておきたい。
*現代社会において、アイデンティティやセクシュアリティという近代的な枠組みに疑問を持つ立場にある。
*作品と作者は切り離して研究する。古典作品はできるだけその時代の言葉や文化的文脈に即して読む試みをする。
*『源氏物語』に近代的な枠組み(セクシュアリティとアイデンティティ)は当てはまらない。
*『源氏物語』は必ずしも恋愛だけの物語ではない。
*仕事とオフィシャル(公)、プライヴェート(私)は結構可変的なものである。

 この本、第1章は、副題にある通り、現代の事象についての分析から始まる。
 第1章の内容は、私にとっては、使われる事例を含めて、初めて知ることばかり。著者は、はるな檸檬『ダルちゃん』、テレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』、テレビドラマ『恋せぬ二人』の3つを素材として、著者の問題意識を論じていく。内面・擬態・仕事・恋愛・プライヴェート・自己の領域・感情・好き・家族などが、キーワードとなっている。
 この3つの素材については、あらすじが説明されているので、著者の論議をフォローしていくことはできた。ここであと2つ、未知の用語が論議に絡んでいた。おかげでこの用語を学ぶ機会にもなった。この用語がこの後、大きく関わって行く。
 アロマンティック:「誰にも恋愛感情を持たない人」。恋愛傾向に関する用語。
 アセクシュアル :「性的傾向の一つ」で「通常は、他者に性的に惹かれないこと」
である。(p45) 
 この二語は違う観点での分類なので、組み合わせのパターンは広がる。「なお、性的指向は白か黒かというような単純な二元論ではなく、範囲のようなものとして捉えられています」(p45) と言う。
 本書に著者はこの二つの観点から見た自分自身の距離感、体験をも記述している。

 著者は、近代に築かれた枠組みがセクシュアリティ、プライヴェート、オフィシャル、仕事などの相互関係と区分が現代社会において揺らぎつつあることを、この章で明らかにしていく。
 そして、古典作品については、「近代とはまた異なった枠組みでものを考えていた時代の物語を読むことは、むしろアクチュアルな意味があると思うのです」(p67)と位置づけている。
 つまり、第1章での分析が『源氏物語』への導入になっている。新鮮なアプローチだなぁと感じた。

 第2章から第5章で『源氏物語』が分析の対象になる。ここで興味深い点は、近代日本のアイデンティティや価値観のもとに、『源氏物語』が解釈されてきた点を問題視しているところにある。近代的な価値観や構造による『源氏物語』解釈の解体をめざすというスタンスとアプローチである。著者は、『源氏物語』の中で使われ、私たちが現在も使っている言葉に着目して、その言葉を抽出し、『源氏物語』が書かれた時代を背景として、『源氏物語』に記述された文脈で、その言葉の使われ方を分析していくというアプローチが本書での研究手法となっている。
 
 第2章:『源氏物語』の内、光源氏が主人公となる部分を範囲とする。
     会話や内心語の文脈から「内面」が語られる箇所を分析
     「身」と「心」という語を使用した箇所の分析
     近代的な「アイデンティティ」との対比という観点でその相違を論じる。
 第3章:『源氏物語』の内、宇治十帖の部分を範囲とする。
     「身を分く」「同じ身」という言葉を使用した箇所を分析
     この物語における「分身」概念の考察
     近代的な「アイデンティティ」との対比という観点でその相違を論じる。
 第4章:第3章に続く形で、「かはれる身」という言葉を使用した箇所を分析
 第5章:『源氏物語』にセクシュアリティのように見える要素があるかの分析
     女三宮、宮の御方、紫の上、源氏の女性的な美しさ、小君と光源氏の関係、
     須磨巻のホモソーシャリティなどを分析する。
 これらの各章で、どのように分析され論じられていくかは本書をお読みいただきたい。
 特に印象に残るのは、第5章の子見出しの一つ、「六条院は異性愛の帝国かーーーーポリアモリーについて」から章末尾までの箇所。著者は「六条院が恋愛関係や性愛関係のみによって構成された空間ではないという点」(p193) に着目していく。六条院には、漠然と光源氏が築いたいわばハーレム的なイメージを根底に持っていたので、本書の分析は実に新鮮であり、頭にガツン! 気づかされた箇所である。
 「ポリアモリー」という用語もまた、私には初見だった。”「合意の上で」「同時に複数のパートナーと「誠実」に愛の関係を築く」ことを指す言葉”(p192) だと言う。

 最初に著者の立ち位置を述べた。最後の第6章は、その逆を行く。なぜか?
「しかしながら、作者と作品を結びつける発想は、近代的なセクシュアリティとアイデンティティの問題と、実は根深く関わっています。近代においては恋愛や性愛に関わる何らかの『告白』があることが人間の『内面』と見なされ、私小説の構造は、その語り手や主人公と作者を同一視しました」(p204) という背景と、先行研究での言及を踏まえて、「紫式部」の恋愛やセクシュアリティについてこの章で論じている。
 『紫式部日記』と『紫式部集』が分析の対象となっている。この章の最初に、「セクシュアリティを読み取ることができないことを示すことによって、セクシュアリティとアイデンティティの結びつきを解体することを試みます」(p204) 著者は記す。
 
 第6章内の大見出しをご紹介しておこう。
   1 紫式部は「同性愛者」だったか
   2 「紫式部」の恋愛
   3 水の上の戯れ
 出版物等では、あまり表に出てこない、読むことのない側面だが、研究論文レベルでは結構論議され、研究されてきているようだ。その一端もうかがえておもしろい。

 こういう分析のしかたもあるのか・・・・と、その分析、論述を楽しめて視野が広がる一書である。

 ご一読ありがとうございます。

追補 2025.2.13 21:00
ブログ記事を投稿した後に、ネット検索していて入手した関連情報を補足します。

KUNILABOブックトーク2025第二弾 西原志保『恋愛しない私でも『源氏物語』は楽しめますか』(春秋社)    NPO法人国立人文研究所   YouTube
    著者も参加したZOOM会議によるディスカッションの動画。

『恋愛しない私でも『源氏物語』は楽しめますか』(西原志保)編集後記
               あらきさんの編集覚え書き     :「no+e」

恋愛ばかりが重要なのですか? 『源氏物語』から仕事とプライヴェートの問題を考える
                2024.10.3 記事:春秋社    :「じんぶん堂」
    本書の「まえがき」が全文を紹介されています。


 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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『紫式部と男たち』    木村朗子    文春新書

2024-11-16 22:45:07 | 源氏物語関連
 『源氏物語』と紫式部に関連した本を少しずつ読み継いでいる。タイトルが目に止まった。紫式部と「男たち」を対比しているところに関心を惹かれた。著者は何を語ろうとするのか。
 本書は、2023年12月に刊行されている。

 平安宮廷社会において、男たちは書き言葉として漢文を使った。一方で、やまと言葉の文体が生み出され、和歌を詠んだ。やまと言葉の文体は女子供が読む物語を綴るのに使われていく。こちらは、当時における言文一致の口語体の文体であると著者は説く。この文体があったからこそ『源氏物語』が生み出されたと。そして、これが世界で最も早く、それも女性作家により書かれた本格小説作品であることを強調する。そして『源氏物語』が生み出される土壌が平安貴族社会にあった点を明らかにしていく。

 「はじめに」の末尾に、著者の関心と本書執筆の意図が提示されている。「紫式部とはどのような人だったのだろうか。いったいどういうわけで、『源氏物語』のような大作が生まれたのだろうか。『源氏物語』と照らし合わせながら、紫式部の生きた時代をみてみよう」(p10)と。「男たち」には、宮廷貴族社会そのものを象徴している意味合いもあるようだ。

 「男たち」は2つの視点で論じられていく。1つは、紫式部が『源氏物語』の中に描き込んだ、光源氏を中心とした「男たち」である。なぜ、あのような形で男たちが物語に描き込まれて行ったのか。描くことができたのか。先行する日記文学の作品並びに『源氏物語』のテキストを例示し、著者は具体的に分析し論じられていく。さらに、なぜ紫式部があのような内容を織り込んでいったのかについて、著者の見解がわかりやすく説明されている。
 もう1つは、紫式部自身の体験という視点である。『源氏物語』を書き始めた紫式部が、藤原道長にスカウトされて、中宮彰子のもとで仕える。仕事の一環として『源氏物語』を書きつないでいく。女房務めにより実際の宮廷社会を内部から眺め、体験することになる。宮廷生活の中で接する「男たち」との関りとリアルな体験という視点である。勿論、宮廷社会の実生活の中で女性たちを見つめる側面を抜きにしては語れない。
 この2つの視点を織り交ぜながら、紫式部の生きた時代が明らかにされていく。

 本書は8章構成になっている。章構成と私が理解したキーポイント並びに読後印象を少しご紹介しよう。

< 第1章 『源氏物語』の時代 >
 『源氏物語』は「延喜・天暦の治」(醍醐天皇・村上天皇の御代)を時代背景に設定して描かれているらしいと言う。『源氏物語』が生み出された時代は、摂関政治の時代であり「学問の叡智に頼らず、性愛によって天皇をとりこめていく政治体制」(p24)がその内実だったとズバリ論じる。わかりやすい。学才よりも恋愛力が重視される時期だった。「ならば色好みの男たる光源氏が主人公となるのも必然という気がしてくる」(p25) のっけから、なるほど・・・。この対比、今まで深くは意識していなかった。また、怨霊と物の怪の登場がこの時代を反映していることもよくわかる。
 明治~太平洋戦争以前の時代における『源氏物語』の扱いに触れているところがおもしろい。

< 第2章 摂関政治下の色好みの力 >
 当時の「天皇の政治とはまずもって性を治める『性治』であって、それを踏み外すことなどよもあってはならない。まさに『性治』の乱れは政治の乱れだったのである」(p34)この一文は端的。大河ドラマ「光る君へ」に登場する場面を連想してしまう。
 権力再生産の論理において「生む性」と「生まない性」を明確に区別し論じているところがわかりやすい。権力再生産の埒が明確だったのがよくわかる。
 著者は興味深い視点を投げかけている。「『源氏物語』が権力再生産に関わらない女たちとの関係をこそ描こうとしているとすれば、それは摂関政治体制に対するアンチテーゼであったかもしれない」(p38) と。
 そこで、現代社会における「生む性」とは、という点にも言及している。
 また、この章で、当時の女房階級の中にみられた「召人」という男女関係も明確に位置付けて説明されていて、わかりやすい。

< 第3章 すべては『蜻蛉日記』からはじまった >
 誰しも光源氏のモデルは誰か、に関心を抱く。この章の最初に論じられている。
 著者は、先行しておとぎ話が数多く存在するのに対し、『源氏物語』という本格小説が生み出されるうえで、『蜻蛉日記』が大きな影響力を果たしたことを明らかにする。
 『蜻蛉日記』の名前は知っていても、内容は知らなかった。本書で初めて道長の父・兼家について、および夫の兼家への思いが綴られた日記であることを具体的に知った。『蜻蛉日記』は、実在人物の話でありながら、本格小説の走りとしての存在だと言う。
 
< 第4章 女の物語の系譜 >
 『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『栄花物語』が論じられていく。興味深い文を引用しておこう。
*開かずの戸を「真木の戸」と詠むのは兼家歌によってかたちづくられたイメージである。 p87
→和泉式部はこの歌ことばを好んで使い、『紫式部日記』にも道長歌として登場
*『源氏物語』の光源氏のモデルと目されている道長よりもずっとその父兼家の方が光源氏像に近い。その兼家像とて策略家であった兼家を直接引いているというわけではない。 p109

< 第5章 呪いと祈祷と運命と >
占いにたよった兼家、陰陽師安倍清明に占わせた道長、夢告について日記に記録する藤原行成の事例などをとりあげ、当時の人々の心理と行動の側面が論じられている。
 そういう実態が、『源氏物語』の中に当然投影され、織り込まれている。

< 第6章 女房たちの文化資本 >
 文化資本とはおもしろい表現だと感じる。ここでは中宮定子が形成した後宮サロンがどのような目的を持ち、どのようなものだったかが明らかにされている。そこで活躍したのが清少納言であり、そのサロンの充実が一条天皇をはじめ宮廷の貴公子たちをひきつけることになった。
 その評判に対抗する形で、中宮彰子が己のサロンを形成していくことになる。紫式部がそこに関わっていくのは御存知の通り。
 この2つのサロンが対比されて具体的に語られる。

< 第7章 『源氏物語』はどう読まれたか >
 紫式部の評判/紫式部のユーモア/『源氏物語』のなかの滑稽譚/愉快な玉蔓十帖/『源氏物語』はどう読まれていたか/「蛍」の巻の物語論/『源氏物語』と男たち/学問を重んじた光源氏と藤原道長、という小見出しで、この章が論じられていく。

< 第8章 女が歴史を書く >
 明石に事実上配流となる光源氏像には、配流となった藤原伊周が重ねられているという説明から、入っていく章である。さらに、吉夢と呪い、物の怪に触れられる。
 そして、「物語が女の人生を照らす参照枠になるというのが、『源氏物語』の基本的な態度である」(p196)と論じている。さらに、「物語が現実を変えてしまうことがある」(p198)という側面にも例をあげて論じていく。
 最後に、女が書いた歴史として『榮花物語』に触れている。

< おわりに >
末尾は、清少納言と彰子サロンの女房たち/和泉式部とあ清少納言、に触れた後、紫式部と道長の関係を論じて本書は終わる。どのように論じているかは本書をお読みいただくとして、最後に、末尾の箇所を引用しておこう。『源氏物語』とリアルな世界とを表裏一体にした解釈と詠みとることができる。

*紫の上の死後、光源氏はどの女君たちにも関心を失い、・・・・・そんななかで、ただ一人だけ光源氏が夜を共にする女がいた。それは紫の上に仕えていた女房の中将の君である。光源氏の召人であったその人が、光源氏の最後の女になる。
 『源氏物語』は光源氏の死を描かない。だから中将の君との愛に終わりはない。一人の召人との関係が永遠の愛を得て、物語は完結するのである。それが道長の召人であった紫式部の答えなのである。  p227

 ここまでの言及が印象深い。
『源氏物語』と紫式部について、一味ちがう局面から眺めることができたように思う。

 ご一読ありがとうございます。


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『紫式部の実像』 伊井春樹  朝日新聞出版

2024-05-23 12:20:00 | 源氏物語関連
 本書のタイトルには、「稀代の文才を育てた王朝サロンを明かす」という長い副題が付いている。本書は、2024年2月に朝日選書1041として刊行された。

 「はじめに」の冒頭は次の文から始まる。
 「紫式部とは、どのような人物だったのだろうか。どのような環境に生まれ育ち、いかにして漢籍、和歌、物語文学のほか、さまざまな有職故実に堪能な女性として成長したのだろうか」この問いかけが本書のテーマである。だが、最初のパラグラフの末文は、「そのいきさつをはじめ、紫式部の生まれた年や名前などもまったく不明といわざるをえない」と明記する。そこから「紫式部の実像」探求が始まる。現存する史資料を駆使して、実像に迫ろうとした書である。史資料を基盤に、根拠を明示した上で、著者の論理と推論が重ねられて行く。そこからうかがえる実像が明らかにされた。ここには学究的なスタンスが貫かれている。
 
 紫式部の実像として、端的な事例を第11章から取り上げてご紹介する。『紫式部日記』の中で、紫式部は清少納言批判を記している。このことは以前に他書でも触れていて、読んだ記憶がある。本書ではその箇所を引用した上で、著者は次のように説明している。
 「紫式部の清少納言に対する評価は異常といってもよく、すでに五、六年前に清少納言は宮仕えをやめているため、現実に対面したことはなく、それでも執拗に厳しいことばを連ねる。紫式部はもっぱら『枕草子』と女房からの話が情報源であったはずで、直接交流したことのない彼女に対し、感情的とまで思われるような口吻で批評する」(p290-291)と。そして、この記述について、「道長から宮仕えを求められた折、中宮彰子を、かつてはなやかだった定子文化サロン以上にし、具体的に清少納言をもちだし、匹敵する働きをするように厳命されたのではないかと思う」(p291)と、紫式部の批評ぶりから著者は推論を推し進めている。
 これを「実像」の一側面と捉えると、現在NHKの大河ドラマ「光る君へ」で進行中のまひろ(紫式部)とききょう(清少納言)の交友関係は、脚本家の独自の想像力がフィクションとして大胆に織り込まれて進展してきているものと言える。この先どのように『紫式部日記』に記述された内容と整合させていくのだろうか・・・・そんなことが気になる。大河ドラマにおけるまひろとききょうの親交の進展状況から、紫式部と清少納言の関係をイメージする人は、「紫式部の実像」からはかなりかけ離れていくことになるのではなかろうか。紫式部と『源氏物語』、さらには藤原道長がどのように描き込まれるかに関心があるので、他にも部分的な違和感をいくつか抱きながらも、今まで見ることのなかった大河ドラマなのだが、「光る君へ」は見つづけている。

 余談として『紫式部日記』での清少納言批評には、別の解釈もある点をご紹介しておこう。池田亀鑑著『源氏物語入門[新版]』(教養文庫)は「作者とその像」において、次のように説明している。
 「日記の中で、和泉式部の奔放な行動や、清少納言の衒学的な態度を非難しているのも、決して対抗心や嫉妬心ではありますまい。実は、自分の内部に対する間接的な鞭であったと考えていいでしょう。それだけに紫式部には、みずから高く己を持すといった性格がある」(p37)と。日記記述の解釈にも学者によりかなり幅がありそうだ。

 さて、本書の構成をご紹介しておこう。
 1章 セレブ二人の間を取り持つ
 2章 具平親王文化サロンと父たち
 3章 父為時の官僚生活の悲運
 4章 紫式部の少女時代
 5章 為時の越前守赴任
 6章 為時の任務と宣孝との結婚
 7章 女房の生活
 8章 紫式部の宮仕え
 9章 紫式部之宮中生活
 10章 中宮彰子御産による敦成親王誕生
 11章 献上本『源氏物語』
 12章 その後の紫式部

 本書から学んだことの要点をいくつか取り上げ、覚書を兼ねてご紹介したい。
1. 紫式部が女房として仕えた当初は「藤原の式部」と呼ばれていたと推測される。
 『栄花物語』では「藤式部」と呼ばれている。父為時が式部丞だった。(2章)
2. 中務宮(具平親王)の邸・千種殿は文人サロンの場であり、紫式部の父為時の兄の
 為頼は具平親王と和歌における交流があった。為時と為頼は同じ敷地に住んでいたと
 思われるため、紫式部はおじから和歌の手引きをしてもらったと推定できる。
 紫式部にとり、具平親王は近しい人物であった。宮中の文化から諸芸能に至るまでの
 親密な師でもあったと推定できる。 (1章~3章)
3. 為頼・為時の母(定方女)と、具平親王母(荘子)はおば・姪の関係であり、紫式
 部と具平親王の祖母は姉妹である。紫式部と具平親王は遠縁の関係でもある。(3章)
4. 夫・宣孝の喪が明けたころから、紫式部が成長する娘賢子の理想的な将来の姿とし
 て筆を執ったのが「若紫物語」であり、短編として書かれたと著者は想像している。(8章)
5. 南北朝時代の書『河海抄』は、大斎院選子から中宮彰子に物語の求めがあり、中宮
 は紫式部に新しい物語を作り差し出すよう命じた。それで紫式部が石山寺に参籠して
 物語を書き始めたとの説を伝えている。『源氏物語』の生み出される端緒となる。
  大斎院選子は、12歳で賀茂斎院に卜定めされ、天皇五代57年間その任にあり、物語
 を収集し、文化サロンを形成した。選子内親王は具平親王の妹である。(7章~8章)
6. 紫式部が女房となったのは、寛弘2年(1005)12月29日とする説が有力。だが、その
 直後から宮中を退出し、出仕拒否の期間が続く。寛弘4年4月当時には、すでに女房で
 あったとしかいえない。 (8章~9章)
7. 『紫式部日記』は人に読まれることを前提に書かれた作品である。
 寛弘5年7月から始まり、中宮彰子が敦成親王を出産する見聞記は、道長の求めに応じ
 て記された高度なドキュメンタリー作品となっている。道長とかその周辺から資料が
 与えられないと書くことができないほどの複雑さを含む。(10章)

 さらに詳しくは本書をお読みいただくとよい。

 本書の中で、著者が興味深いことを述べている。最後にそのことに触れておこう。本文から引用する。
*「物語に登場する人物のようだ」とか、「まるで絵に描かれているのと変わらない」などとする表現が、しばしば清少納言や紫式部の口から出される。当時の人々のものを見る眼は、物語の内容とか絵の場面がまず先に想念に浮かび、その基準で現実の姿を判断していたのであろうか。それほど、日常生活の中に、物語や絵が普通に存在し、人々に共有されていたのであろう。  p247
*清少納言がいた定子サロンにも、大斎院の女房集団にも、わがほうはけっして引けをとらないとする。『紫式部日記』は人々に読まれることを前提にしているだけに、世の人が想像している以上に自分たちは高度な文化集団であると主張したく、それはまた道長の願いでもあった。  p298

 紫式部その人を知るための学究的なアプローチとして役立つ一冊である。
 それにしても、紫式部は幾重もの御簾の向こう居るかの如く、素顔を見せることのない人だなぁと感じる次第。
 
 ご一読ありがとうございます。

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『読み解き源氏物語』 近藤富枝  河出文庫

2024-05-01 13:17:14 | 源氏物語関連
 本書のタイトルは、2008年5月に文庫化されるにあたり改題された。手元の文庫は初版である。奥書によると、元本は、1996年7月刊『近藤富枝と読む源氏物語--千年めの男ぎみと女ぎみ』(発行オリジン社・発売主婦の友社)と記されている。
 そして、本書の「はじめに」の冒頭は、「まことに源氏ブームである。その講筵は日本中あらゆるところにあり、新しい現代語訳もつぎつぎと出版され、史上始まって以来の黄金時代であるというべきであろう」という文から始まる。「はじめに」には日付が記されていない。「あとがき」には2008年春と付記されている。「はじめに」は元本の刊行時に記されたものと推測した。
 ネット検索してみると、「1998年4月15日(水) 源氏物語ブームを読む」という見出しの番組紹介ページを見つけた。NHK・クローズアップ現代の全記録の一項である。(資料1)番組紹介文文から、この時期は、瀬戸内寂聴さんの源氏物語訳が6年かけて完成していた時で、大ブームを巻き起こしていたことがわかった。なるほど、その頃にあたるのかと思った次第。

 本書は著者が20年来「源氏」を読む教室を続けてきたという経験を踏まえて、様々な観点から『源氏物語』を読み解くというエッセイ集といえる。文庫本で7,8ページの目安で大半の項目がまとめられている。「ともあれこの本は、源氏ファンの一人から源氏ファンの方々へ寄せる、親密なないしょばなしだと思っていただきたい」と述べて、著者は「はじめに」の末尾を締めくくっている。
 である調の文体で書かれていて、一エッセイ完結型であり、内容は読みやすくまとまっている。きちりと突っ込みはあるが、学術っぽさは避けられているので、敷居の高さは感じない。読者は関心に応じて、どこからでも読む進めることができると思う。

 本作の全体構成を最初にご紹介する。括弧内の数字はその章に載るエッセイの数。
   第1章 現代の窓から見る    (6)
   第2章 恋の手習い       (6)
   第3章 平安の世情       (5)
   第4章 貴人(アテビト)の秘めごと (6)
   第5章 うつろいの美      (5)
 色々な視点から読み解かれていることがおわかりいただけるだろう。

 以下、印象深い記述個所をご紹介し、本書への誘いとしたい。
「」は引用、他は要約、⇒以下は私見や補足説明である。

 [ はじめに ] には著者のスタンスが明確に述べられている。
*「教室での私はどこまでも原文尊重主義である。どんなに巧いいいまわしをあてはめても『源氏』の文章そのままの香気はあらわせない。・・・・教室のお仲間に音読をすすめることにしている」 p4
*「『須磨がえり』という言葉があるように、須磨の巻ぐらいで中断してしまう人が多いのだ。・・・・須磨までは上質の大衆小説であり、メルヘンである。それ以後で作者は、光の人生以外に女人たちの女人であるが故の苦しみを真摯に描いて、人間とは何かに迫っている。『須磨』までもいいが、『須磨』以後も読まなければ『源氏』は読んだとはいえない」  p5-6

 [ 第1章 現代の窓からみる ]

 < 王朝事件簿 > では次の点に触れている。
*主要な人物には思い当たるモデルが存在する。ズバリもあれば複合された人物もある。 p24 
    ⇒ このエッセイでは史実から推定できるモデル事例にふれている。
*「『源氏』は藤原時代の女房(宮中や上流貴族の家に部屋を賜って仕える侍女)の話し言葉、語りで全編が表記されている」 p25

 < 夕顔の巻の謎を推理する >
*推理小説と考えてもおかしくないと述べ、戯曲風に著者は謎を推理していく。
*「それから夕顔という花。平安時代は全く認められていなかった。画やきものの文様などに使われるようになったのは『源氏』で、夕顔の巻が生まれて以後のことである」p41
    ⇒ エッセイの末尾のこの指摘は知らなかった。

 < 年上妻 >
*「平安時代は年上女房が断然多かった。貴族の男性が加冠(成人式)をすると、早速その晩副伏(ソイフシ)といって妻が与えられる。当時は身分が高ければ高いほど加冠の年齢は若く、皇子などの場合は十一、二歳が多かった。となると副伏の女性は年上が選ばれる」
  P42  ⇒ 光源氏は12歳で加冠。左大臣の娘の葵は4歳年上。

 < 光源氏の犯罪 >
*「彼(=光源氏)にはさまざまの犯罪疑惑があるので、私の推理を語ることにしよう。
  まず彼は生涯に多くのレイプを行なっている」 p60

 [ 第2章 恋の手習い ]

 < 初枕 >
*「初枕というものが心の用意のなかった少女にとってどんなにショックなものかを作者はいいたかった。とにかく『源氏』以前にこうした女性心理の描写は文学でなされていない」 p83
     ⇒ 紫君に関連して
*「初夜の晩は婿の沓を花嫁の父か兄が抱いて寝るということである。これはこの家に婿の足を止めさせる呪(マジナイ)であった」 p84  ⇒ 初めて知ったこと。

 < くぜつ八景 > 著者は光君の「女のくどき方」を八景にまとめ、説明している。
   第1景 平気で嘘をつくこと
   第2景 ぬけぬけとほめる
   第3景 殺し文句を忘れるな
   第4景 攻撃とは最良の防衛
   第5景 女心にタックル
   第6景 ロマンを演出せよ
   第7景 冒険で女心をゆさぶれ
   第8景 尼姿でもためらわない

 <幸人(サイワイビト) >
*「『源氏』若菜上の巻で世間の人たちが幸人として賞でた女人がいるが、それは明石尼君であるのが意外性があっておもしろい」 p110 ⇒この後著者は当時の論理をたどる。

 [ 第3章 平安の世情 ]

< 女君の出産 >
*「この頃のお産は座産です」 p127

< 香をつくる >
*「きものに香をたきしめるのは一晩かかる。夫が他の女のもとへ行くのに、その身じまいの世話をする妻の哀しさが『源氏』には散見できる」 p139
*「香は身につける人が秘術を尽くして自分流のかおりを処方するので、匂いだけで誰がくるのかわかるということもあろう」 p140

 [ 第4章 貴人(アテビト)の秘めごと ]

 < 女房たち >
*「中宮とか女御とか内親王になるとかなりの人数で、入内の折の供揃えに三、四十人と書かれていることが多い。ただし女房以外にもいろいろ下仕えの女とか樋洗(ヒスマシ)とか、女童(メノワラワ)とかいるわけで、侍女団の人数はざっと百名内外をそれぞれの御殿は抱えていると思う」 p156
*「彼女たち(=女房)は独身である必要はない。恋人でも夫でも主家のわが局(ツボネ)に通ってくることは当然のことで、子供ができれば産休をとって自宅で産み、やがて子供は乳母に托してまた主家に戻ってくる。場合によっては赤児同道ということもある。子が少し大きくなると、女なら女童、男の子でも何かの用にいっしょに主家に勤める。そうした人の夫はだいたい主人の宮廷における部下だったり、家司(ケイシ)だったりである」 p159

 [ 第5章 うつろいの美 ]

 < 春秋の争い >
*「平安人の自然観察はなかなか鋭く深いものがある。春から夏へ夏から秋へ季節が二重写しになっている美しさを発見したのは彼らで、”うつろい”という言葉でそれを表現している。しかし何ごとも遊戯化せずにはいられなかったのがこの時代の貴族たちである」    p204
*「装束のかさねにも四季の別をいい立てて、自然と一体化しようという思いが見られる」    p208

 この辺りでとどめておこう。
 『源氏物語』が創作された当時の時代背景、宮廷政治の知識、宮廷の日常生活の基礎知識がどれだけ備わっているかによって、ストーリーの読み方に深浅、濃淡が加わってくることを感じるエッセイ集である。私の覚書を兼ねて、なるほどと思った箇所の一部を抽出したにすぎない。『源氏』を味読するには、もっと基礎知識の充実が必要だと感じさせる一書となった。

 お読みいただきありがとうございます。

参照資料
1. 源氏ブームを読む 1998年4月15日(水)  クローズアップ現代 :「NHK」


補遺
近藤富枝   :ウィキペディア
源氏物語の各種現代語訳について  finalvent 氏 :「no+e」
今年こそ、『源氏物語』....あなたが選ぶ現代語訳は? ;「讀賣新聞オンライン」

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