先日、京都市京セラ美術館で開催中の特別展「モネ 睡蓮のとき」を鑑賞してきた。展示されていた作品の大半は、モネがジヴェルニーの自宅の庭で描いた睡蓮と花々や日本の橋などの連作だった。
そのとき、ふと本書を購入しながら未読だったことを思い出した。特別展の余韻を動機づけにして、本書を読み終えた。
本書は印象派の画家たちと彼らに関わった人々を題材にしたアート短編集である。
ここには、次の4つの短編が収録されている。
うつくしい墓
エトワール
タンギー爺さん
ジヴェルニーの食卓
最後の短編のタイトルが本書のタイトルになっている。
本書に収録された短編は、「すばる」に発表された後、2013年3月に単行本が刊行され、2015年6月に文庫化された。手元の文庫は第1刷。
各短編ごとに、内容を簡略にご紹介し、読後印象を付記する。
本書の末尾には、「本作は史実に基づいたフィクションです」と明記されている。
< うつくしい墓 >
オテル・レジナをアトリエにし、アンリ・マティスは晩年、切り絵作品を主体に芸術活動を続けた。そのアンリ・マティスに、1954年6月からお手伝いとして雇われたマリアという女性がいた。マリアがマティスに仕えたのは、マティスが亡くなる前の6ヵ月に満たない期間である。身近でマティスを見つめ続けたマリアが、インタビューを受けて、当時己が感じ、観察したマティスの思い出を語る。一人語りの文体による語り尽くしになっている。
この短編で特に印象的なのは、マリアの前雇い主であるマダムの指示でマティスにマグノリアの花束を届ける経緯。そして、マティスとピカソとの間で往復することになった「一輪の、マグノリアの花」の意味をマリアが気づく経緯である。
この短編のタイトル「うつくしい墓」が何を意味するかをお楽しみあれ!
< エトワール >
「ドガ回顧展」と題して、ドガの「遺産」たる作品の売り立てが始まった画廊デュラン=リュエルを、今や老婦人であるメアリー・カサットが訪れる場面から始まる。そこから、メアリー・カサットの回想が始まる。メアリーが画家となった経緯と当時の美術界の時代背景。エドガー・ドガとの画家としての交流が生まれた経緯、当時のパリの美術界の状況が彷彿とする。そして、メアリーは画廊の美術倉庫で、ドガが生前に発表した唯一の彫刻作品『14歳の小さな踊り子』と再会する。14歳の踊り子にまつわるドガの画家としての思いに焦点が絞られていく。
ドガはメアリーに言う。踊り子も芸術家も同じだと。「芸術家と、パトロン。私たちもまた、パトロンの気を引くために、彼らの共感を得るために、日々、絵を描いているじゃないか。パトロンに見いだされなければ、生きていけないじゃないか。この世界の星になりたいと切望しているじゃないか。君も、僕も。メアリー、私たちは、彼女たちなんだよ」(p123)と。彫刻像にまつわる結末は哀しい。
『コンサイス仏和辞典』(三省堂)を引くと、エトワールの第一義は、星、[天]恒星であり、第三義に、花形、スターと説明されている。
< タンギー爺さん >
タンギー爺さんの娘が家族の代表として、ポール・セザンヌに手紙を書く。1878年4月21日、1888年11月23日、1894年7月20日の日付で送られた3通の内容がこの短編を構成するという趣向。娘は手紙で父の画材屋経営の窮状を訴える。セザンヌに借金の返済を求めるというのが目的なのだが、その書き記す内容は、新進の芸術家たち、つまり印象派の画家たちの売れない作品を絵具画材の代金代わりに預かり、あたかも画廊のようにもなっている状況を切々と伝えていく。そんな手紙から始まり、セザンヌ自身の家族のことに触れる内容へと広がっっていく。
ここには、印象派芸術が世に受け入れられるまでの過渡期の様子が鮮やかに切り取られている。タンギー爺さんの人物像が間接的に浮かびあがる心温まるアート短編である。
< ジヴェルニーの食卓 >
画家クロード・モネのジヴェルニーでの活動と生活ぶりを、ブランシュの視点から描き出す。ブランシュはモネの義理の娘。モネはブランシュの母・マリアと、共に連れ子がいる形で再婚した。ブランシュは、モダン・アートの巨匠として世界中に名を轟かすモネの晩年を身近で支えていく。ブランシュの視点から捉えたモネの姿。ジヴェルニー以前のモネとマリアの関わりについての回想も織り込まれることで、ジヴェルニーの食卓風景を含めた描写が一層際立ってくる。
フランスの元首相、ジョルジュ・クレマンソーとモネとの親交がこのストーリーの中心に据えられている。睡蓮装飾画をモネが国に寄贈した。これが主要テーマとなり、その経緯が描かれる。併せて、モネが白内障の手術に踏み出した経緯も語られている。それがモネの画業にどのように影響したかがわかってくる。
このアート短編は睡蓮装飾画誕生の舞台裏話ということにもなる。
今でこそ。巨峰としてそれぞれ際立つ印象派の画家たち。彼らがどのような葛藤を重ねながら真摯に作品制作に取り組んで行ったのか、その姿が見えて来る短編集である。
この4つの短編に共通しているのは、画家の身近にいた人の視点から描きだされたという点。物語の構想スタイルがそれぞれ大きく異なる点も読者としては興味深く、かつ楽しめる。
お読みいただきありがとうございます。
補遺
アンリ・マティス :ウィキペディア
マティス・色彩の魔術師が病を得てたどり着いた自分流と切り絵:「日曜美術館」(NHK)
Vence マチスのロザリオ礼拝堂があるヴァンス :「マイ コート ダジュール」
マティスを旅する。生涯の最高傑作「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」を訪ねて:「家庭画報.com」
アンリ・マティスがたどりついた「切り紙絵」の境地。その意味を知る展覧会へ:「SUMAU」
マティスとデュフィの眠る丘 Nice② そして雑記 :「ハナノモトニテ」(FC2)
アンリ・マティス「生きる喜び」 :「Artpedia」
パブロ・ピカソ :ウィキペディア
メアリー・カサット :ウィキペディア
エドガー・ドガ :ウィキペディア
14歳の小さな踊り子 :ウィキペディア
世界で見つけたドガの「14歳の小さな踊り子」コレクション :「TrimSkip」
タンギー爺さん :ウィキペディア
タンギー爺さんの肖像 :「美術資料」
GIVERNY:ジヴェルニー、モネの庭園 :「O'bon Paris」
モネと睡蓮の庭 :「西洋絵画美術館」
印象派の中心的存在・モネはどんな思いで睡蓮を描き続けたのか?:「日曜美術館」(NHK)
国家に寄贈された連作「睡蓮」の全体が、動画にでてきます。
北川村「モネの庭」モルマッタン ホームページ 高知県安芸郡北川村野友甲1100番地
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そのとき、ふと本書を購入しながら未読だったことを思い出した。特別展の余韻を動機づけにして、本書を読み終えた。
本書は印象派の画家たちと彼らに関わった人々を題材にしたアート短編集である。
ここには、次の4つの短編が収録されている。
うつくしい墓
エトワール
タンギー爺さん
ジヴェルニーの食卓
最後の短編のタイトルが本書のタイトルになっている。
本書に収録された短編は、「すばる」に発表された後、2013年3月に単行本が刊行され、2015年6月に文庫化された。手元の文庫は第1刷。
各短編ごとに、内容を簡略にご紹介し、読後印象を付記する。
本書の末尾には、「本作は史実に基づいたフィクションです」と明記されている。
< うつくしい墓 >
オテル・レジナをアトリエにし、アンリ・マティスは晩年、切り絵作品を主体に芸術活動を続けた。そのアンリ・マティスに、1954年6月からお手伝いとして雇われたマリアという女性がいた。マリアがマティスに仕えたのは、マティスが亡くなる前の6ヵ月に満たない期間である。身近でマティスを見つめ続けたマリアが、インタビューを受けて、当時己が感じ、観察したマティスの思い出を語る。一人語りの文体による語り尽くしになっている。
この短編で特に印象的なのは、マリアの前雇い主であるマダムの指示でマティスにマグノリアの花束を届ける経緯。そして、マティスとピカソとの間で往復することになった「一輪の、マグノリアの花」の意味をマリアが気づく経緯である。
この短編のタイトル「うつくしい墓」が何を意味するかをお楽しみあれ!
< エトワール >
「ドガ回顧展」と題して、ドガの「遺産」たる作品の売り立てが始まった画廊デュラン=リュエルを、今や老婦人であるメアリー・カサットが訪れる場面から始まる。そこから、メアリー・カサットの回想が始まる。メアリーが画家となった経緯と当時の美術界の時代背景。エドガー・ドガとの画家としての交流が生まれた経緯、当時のパリの美術界の状況が彷彿とする。そして、メアリーは画廊の美術倉庫で、ドガが生前に発表した唯一の彫刻作品『14歳の小さな踊り子』と再会する。14歳の踊り子にまつわるドガの画家としての思いに焦点が絞られていく。
ドガはメアリーに言う。踊り子も芸術家も同じだと。「芸術家と、パトロン。私たちもまた、パトロンの気を引くために、彼らの共感を得るために、日々、絵を描いているじゃないか。パトロンに見いだされなければ、生きていけないじゃないか。この世界の星になりたいと切望しているじゃないか。君も、僕も。メアリー、私たちは、彼女たちなんだよ」(p123)と。彫刻像にまつわる結末は哀しい。
『コンサイス仏和辞典』(三省堂)を引くと、エトワールの第一義は、星、[天]恒星であり、第三義に、花形、スターと説明されている。
< タンギー爺さん >
タンギー爺さんの娘が家族の代表として、ポール・セザンヌに手紙を書く。1878年4月21日、1888年11月23日、1894年7月20日の日付で送られた3通の内容がこの短編を構成するという趣向。娘は手紙で父の画材屋経営の窮状を訴える。セザンヌに借金の返済を求めるというのが目的なのだが、その書き記す内容は、新進の芸術家たち、つまり印象派の画家たちの売れない作品を絵具画材の代金代わりに預かり、あたかも画廊のようにもなっている状況を切々と伝えていく。そんな手紙から始まり、セザンヌ自身の家族のことに触れる内容へと広がっっていく。
ここには、印象派芸術が世に受け入れられるまでの過渡期の様子が鮮やかに切り取られている。タンギー爺さんの人物像が間接的に浮かびあがる心温まるアート短編である。
< ジヴェルニーの食卓 >
画家クロード・モネのジヴェルニーでの活動と生活ぶりを、ブランシュの視点から描き出す。ブランシュはモネの義理の娘。モネはブランシュの母・マリアと、共に連れ子がいる形で再婚した。ブランシュは、モダン・アートの巨匠として世界中に名を轟かすモネの晩年を身近で支えていく。ブランシュの視点から捉えたモネの姿。ジヴェルニー以前のモネとマリアの関わりについての回想も織り込まれることで、ジヴェルニーの食卓風景を含めた描写が一層際立ってくる。
フランスの元首相、ジョルジュ・クレマンソーとモネとの親交がこのストーリーの中心に据えられている。睡蓮装飾画をモネが国に寄贈した。これが主要テーマとなり、その経緯が描かれる。併せて、モネが白内障の手術に踏み出した経緯も語られている。それがモネの画業にどのように影響したかがわかってくる。
このアート短編は睡蓮装飾画誕生の舞台裏話ということにもなる。
今でこそ。巨峰としてそれぞれ際立つ印象派の画家たち。彼らがどのような葛藤を重ねながら真摯に作品制作に取り組んで行ったのか、その姿が見えて来る短編集である。
この4つの短編に共通しているのは、画家の身近にいた人の視点から描きだされたという点。物語の構想スタイルがそれぞれ大きく異なる点も読者としては興味深く、かつ楽しめる。
お読みいただきありがとうございます。
補遺
アンリ・マティス :ウィキペディア
マティス・色彩の魔術師が病を得てたどり着いた自分流と切り絵:「日曜美術館」(NHK)
Vence マチスのロザリオ礼拝堂があるヴァンス :「マイ コート ダジュール」
マティスを旅する。生涯の最高傑作「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」を訪ねて:「家庭画報.com」
アンリ・マティスがたどりついた「切り紙絵」の境地。その意味を知る展覧会へ:「SUMAU」
マティスとデュフィの眠る丘 Nice② そして雑記 :「ハナノモトニテ」(FC2)
アンリ・マティス「生きる喜び」 :「Artpedia」
パブロ・ピカソ :ウィキペディア
メアリー・カサット :ウィキペディア
エドガー・ドガ :ウィキペディア
14歳の小さな踊り子 :ウィキペディア
世界で見つけたドガの「14歳の小さな踊り子」コレクション :「TrimSkip」
タンギー爺さん :ウィキペディア
タンギー爺さんの肖像 :「美術資料」
GIVERNY:ジヴェルニー、モネの庭園 :「O'bon Paris」
モネと睡蓮の庭 :「西洋絵画美術館」
印象派の中心的存在・モネはどんな思いで睡蓮を描き続けたのか?:「日曜美術館」(NHK)
国家に寄贈された連作「睡蓮」の全体が、動画にでてきます。
北川村「モネの庭」モルマッタン ホームページ 高知県安芸郡北川村野友甲1100番地
ネットに情報を掲載された皆様に感謝!
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