遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『紫式部考 雲隠の深い意味』  柴井博四郎  信濃毎日新聞社

2023-02-28 20:53:31 | 源氏物語関連
 U1さんのブログ記事を拝読し本書を知った。地元の市立図書館の蔵書になっていたので借り出して読んでみた。「あとがき」を最後に読み、その末尾のパラグラフでなるほどと思った。「私は科学者として、自然が隠した神秘を探り当てることを仕事としてきた。が、紫式部が隠した秘密を探りあてる作業も、実にエキサイティングで楽しいことであった。このレポートを自費出版し、できるだけ多くの図書館に寄贈し、100年後あるいは200年後に理解してくれる読者がいてくれることを夢見ている」(p415)と締めくくってある。自費出版本だったので、書名を目にする機会がなかったようだ。本書は2016年1月に出版されている。

 本書の興味深いところは、紫式部の創作した「源氏物語」を、アガサ・クリスティの推理小説のように、推理小説仕立てになっているという視点で捉えていることである。著者は、「源氏物語」のストーリー全体の構造を分析し、紫式部が仕掛けたヒントを情報収集していく。そして、紫式部が「源氏物語」を創作した動機・意図がどこにあったかを追究していく。
 「外観は平安貴族の通俗小説を装い、当時の王朝貴族に喜んで読んでもらいながら、人と社会の真実を物語に潜ませている。紫式部は、人とその社会に関する彼女の観察と考察を、膨大な物語の中から発見してほしいとまち望んでいる」(p16)と著者は記す。
 著者は、「源氏物語」のストーリーに散りばめられたヒントを見つけだし、収集し、論理的に分析・推理してこのレポートを書いている。農芸化学分野の研究者である著者が、「理系的人間理解」という形で紫式部の観察と考察を読み解いていく。

 著者は「源氏物語」の読み方は人により様々であり、解釈も千差万別である状況を各所に織り込んで説明している。その事例も紹介している。その上で、著者自身の仮説をレポートとしてまとめ、紫式部の観察・考察に一石を投じたと言える。

 通俗小説的に読めば、「『源氏物語』は性欲を抑え切れずに、男も女もこの爆弾を爆発する物語である」(p17)。一方で、「『源氏物語』における紫式部の人間観察は、聖書における人間考察を現実化したものだと言える。してはいけないと知っていながら、やってしまう人たちの物語である」(p18)と言い、この立場で読めば「『源氏物語』は倫理的・道徳的な読み物となり、『でもやってしまい、責任回避』の立場で読めば、はかなく弱く、悲しくあわれな人間の物語であって、本居宣長が言うように『もののあわれ』の物語となる」(p19)と記す。
 様々な解釈がなされるところに、「源氏物語」が1000年を超える不朽の作品として生き残ってきたのだろう。また、紫式部が「源氏物語」の中に、執筆動機をあからさまに書き込んでいれば、すぐに貴族たちに没にされてしまっていただろうとも記す。つぶされるのを回避するために、紫式部は執筆動機となる部分を、ヒントとしてストーリーに埋め込んだと著者はみている(第2章 紫式部の執筆動機)。そのため、今まで紫式部の意図は解明されてこなかったという。

 そこで著者は、「源氏物語」に埋め込まれた推理小説的要素を抽出し整理分析し推理していく形で、己の仮説をここにレポートしている。
 本書の論証の進め方、その基本スタイルはわかりやすい。論証点が章のタイトルとなっている。その論証するために「項」を立て、項の中に論点として「節」を立てる。その「節」においては、<あらすじ>と題して、「源氏物語」の記述の中から論点を明らかにできる記述情報を抽出・列挙し、補足説明を加える。その後に「解説と考察」が述べられる。そのため、章の構成内容がわかりやすい。
 著者の狙いは、「源氏物語」のストーリーの構造を明らかにして、紫式部が主に当時の宮廷貴族社会を観察・考察し、物語を執筆したその動機と意図を解明することにある。
 
 著者は「第3章 発端としての<桐壺>」を分析の起点とする。そして、このストーリー全体の中で、「空蝉と藤壺の相似性」(第4章)と「桐壺帝と朱雀帝の相似性」(第5章)という構造を明らかにする。空蝉の行為と思考、空蝉に対する源氏の思いを読み込んでこそ、記されていない藤壺の思いが深くわかってくると説く。桐壺帝と朱雀帝の帝としてのスタンスを知ることにより、源氏のことが一層クリアになると説く。
 内容が書き残されなかった「雲隠」(第5章)の位置づけを明確にし、その帖で紫式部が意図した内容は何だったかを推論していく。
 「作者が<雲隠>で書こうとしたことは、・・・・源氏が、嵯峨の院で経験する心の移り変わりでしかありえない」(p345)と著者は言う。そのヒントが「匂宮」~「夢浮橋」の帖を読み進める中に隠されているという。それが「浮舟の死と再生」(第6章)だと論じる。源氏の「雲隠」は、「浮舟の死と再生」と照応する関係にあると説く。この論証の積み上げが如何になされるかが読ませどころの一つと言える。

 理系の研究者として、著者は熱力学第二法則を思考の背景に据えている。「自然に起こる現象はすべて混乱と無秩序をもたらす」(p21)という法則である。
 紫式部は「秩序ある人間社会は、時が経つと秩序を失った混乱の人間社会へと変貌していく」(p332)という様相を冷徹な目で観察し、「平安時代の朝廷貴族社会でゆっくりと確実に進行しているさまを、『これこそ人間の正体なのだ』」ととらえて、「源氏物語」に仕立てたのだと著者は論じて行く。それが「人徳の高い桐壺帝から、混乱と無秩序の曾孫、匂宮と薫への物語でもある」(p332)という。記述情報の詳細な列挙で論証が進められている。本文を詳細に読み込まれていることを痛感した。

 「紫式部が描いた宮廷貴族社会の退廃と停滞は、フランス革命前夜における宮廷貴族社会のそれと相通じるものがある」と述べ、「紫式部が徹底してヒューマニズムの視点に立っていたからこそできた人と社会に関する観察と考察」(p414)であると論じている。
 また、「『源氏物語』の主題は、『仏の道における死と再生』とも言える」(p297)と結論づけている。

 本書で考察されている興味深い視点をいくつかご紹介しておこう。
*「源氏物語」の基本線として「秘密は隠せない」という考え方が貫かれている点。p126
*「源氏物語」の背景に、「末は劣る」という末世思想があるとみる点。  p235
*紫式部は人の遺伝現象を観察・考察していたとする。匂宮と薫にその反映をみる。
 皇族に多い近親結婚の弊害も描き込んでいる。 p361-362
 一方、環境因子に着目し、玉鬘と浮舟にそれを見て「気高い」と形容する。p210,245
*浮舟と玉鬘の相似性もまた論じられている点 p229
*横川の僧都の哲学は、紫式部自身の哲学であると著者がとらえている点 p322

 本書は、これらの論証がどのようになされていくか、その推論のプロセスが読ませどころと言える。

 さて、最後に一つ疑問点を掲げておきたい。
 著者は「あとがき」の中で、一つの原文について、解釈により主語の解釈が180度変わっている事例として、様々な現代語訳例を列挙している。p410 には、原文としてまず次の一文が記されている。これは「総角」に記された一文。
 原文
 御かたはるなるみじかき几帳を、仏の御方にさしへだてて、かりそめにそいしたまへり。

 手許にある『源氏物語 5』(新編 日本古典文学全集 小学館)を参照すると、
 原文
 御かたはらなる短き几帳を、仏の御方にさし隔てて、かりそめに添ひ臥したまへり。

 この違いは、底本が異なるということだろうか。この疑問を抱いた。

 いずれにしても、私は現代語訳で一度通読しただけなので、「推理小説仕立て」の発想すら思い浮かばなかった。それ故、本書はけっこう「源氏物語」の読み方に対する刺激材料になった。「源氏物語」の解釈として、たしかにエキサイティングな部分を含みおもしろい。お陰でまた一つ考える材料が増えたことがありがたい。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『源氏物語入門 [新版]』  池田亀鑑  現代教養文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<源氏物語>関連本の読後印象記一覧 最終版
                 2022年12月現在 11冊
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『爆弾』  呉 勝浩   講談社

2023-02-25 16:42:12 | 諸作家作品
 新聞広告で本書を知った。広告文面に興味を惹かれ読んでみた。その広告を見るまで著者を知らなかった。初読みの作家本となる。奥書によると本書は「小説現代」2022年3月号に掲載され、同年4月に単行本が刊行されている。

 警察小説を読み始めて10年余になるが、このタイプのストーリーの進展のさせ方は、私の記憶では初めて接したものと思う。ちょっと特異な進展となっていく。その点新鮮な感覚があった。

 まず、この単行本の表紙に触れておこう。
 最初なにげなくみていたときは気づかなかった。よく見ると、東京タワーを中央にして鳥瞰的な暗雲の都内風景が、東京タワーを背表紙に据えて天地逆転した風景が使われている。その風景を地にして、爆弾の爆裂後のイメージが重ねられている。都内のあちらこちらで爆弾が破裂する。大都会のパニックの始まりを予感させる印象。この表紙の発想もまたおもしろい。

 この小説、私にとっては初タイプの特異な進展と言った理由を述べよう。
 本書は三部構成になっている。だが、その前に何の見出しもなく、3ページの文が始まる。普通のスタイルでは「プロローグ」とか「序」という見出しが付いているのだが・・・・。ここには、大学生の細野ゆかりが登場する。サークルの飲み会に参加する目的で日曜日の秋葉原に出て来た。その時のゆかりの心理描写である。その末文は、
   いま、この街に隕石が落ちてしまえばいいのに。

 その後が三部構成となる。第一部が137ページ、第二部が74ページ、第三部が107ページというボリュームになっている。第一部のウエイトが相対的に大きいと言える。
 第一部に入った途端、全く細野ゆかりとは無関係なシーンに転換している。
 場所はJR総武線中野駅を最寄り駅とする野方警察署の取調室。スズキタゴサク、49歳と名乗るだけの男を等々力功刑事が取り調べている場面である。スズキタゴクは、酒屋の自動販売機を蹴りつけて、止めにきた店員を殴ったことが原因で逮捕された。彼はのらりくらりとした態度で取り調べを受け続ける。このスズキが刑事に「十時ぴったり、秋葉原のほうで、きっと何かありますよ」と発言する。「いいかげんにしてくれ。冗談になっていない」と刑事は反応した。
 スズキの指紋は前科者データベースに引っかからない。空っぽの財布を持つだけ、住所は忘れたの一点ばり。

 9月27日22時1分、秋葉原の繁華街から外れ、往来に面していてテナントが去った空きビルの3階でガスを使った時限式の自家製爆弾が爆発した。同ビル3階の窓がいっせいに割れ、ガラスが路面に降り注いだ。
 
 秋葉原での爆発が、取調室の等々力に伝えられた直後から状況は一転する。スズキは変わらない笑みのまま、等々力に告げる。
 「あなたのことが気に入りました。あなた以外とは何も話したくありません。そしてわたしの霊感じゃあここから三度、次は一時間後に爆発します」と(p14)。スズキはあくまで己に霊感が降りたその内容を伝えるのだというスタンスを貫いていく。
 1時間後に、東京ドームそばで爆発が起きる。ニュー番組がそれを報道し、取調室に居る等々力は、記録係の伊勢が示したパソコン画面の報道でその事実を知る。

 この後、等々力は外され、爆弾テロの被疑者として、スズキは警視庁捜査一課特殊犯罪係の清宮によって引き続き取り調べを受けることになる。
 第一部は、清宮によるスズキの取り調べに終始していく。清宮とスズキとの間での心理・思考合戦が延々と始まって行く。清宮はスズキから爆発物がどこに仕掛けられ、何時に爆発するように設定されているのか。こんな行為に及んだ動機は何か。これが単独犯なのか集団による犯行なのか・・・・。一切合財を聞き出そうとする。清宮には、類家と名乗る部下が付き添っていた。清宮がスズキを尋問し、類家は後で彼らのやり取りを傍聴する形となる。取り調べの記録係は引き続き伊勢が担当する。
 爆弾の爆発時刻が何時で、場所はどこかを聞き出す尋問は、常にタイムリミットを考えながらの駆け引きとなっていく。現場の警察官たちは状況不明のままで、本部からの指示をうけて捜査に右往左往するという危機的状況に放り込まれて行く。一方で、スズキの犯した暴行事件を契機にスズキについての聞き込み捜査も行われて行く。
 スズキタゴサクとなのる男は何者なのか?

 霊感と言い続けるスズキから爆弾のヒントを得ようと清宮は質問を投げかけていく。スズキは<9つの尻尾>というゲームで心の形を当てるというゲームを清宮に投げかけ、2人の間でのやり取りが始まって行く。その会話の中で、スズキは巧妙に謎かけを試みていく。清宮と類家はその含意を分析し対処を始めることに。勿論、現場は振り回されることになる・・・・。現場の状況が点描的にパラレルに織り込まれて行く。こんなストーリー展開の警察小説は私には初めて。まさに特異な状況設定。スズキと清宮間でのまどろっこしいやり取りとその会話のテンポに、徐々に引きこまれていく。
 <9つの尻尾>のゲーム中で、4問目として、スズキは「その人は長谷部有孔さんですか?」という質問を清宮に投げかける。長谷部有孔は元野方警察署の刑事だった・・・。
 スズキの仕掛ける謎解きに清宮と類家がどう対応するのかというおもしろさ。読ませどころの一つはそこにある。その一方、現場でのカオス状態の描写とのコントラストがリアル感を高める。都民側の反響はほとんど描かれないというのもこのストーリーの特徴と言える。

 第二部冒頭に、細野ゆかりがちらりと登場する。だが、なぜ著者は彼女を描くのか・・・。第二部は、清宮に代わり類家がスズキを尋問する形になる。スズキが清宮に「ほら、清宮さん。これがあなたの、心の形です」と発言した。それが、尋問の担当をバトンタッチする契機となる。類家が己のシャープさを発揮していくことに・・・・。
 スズキが事前にアップする設定をしていた動画、都内に爆弾を仕掛けたという内容が放映されてしまう。それは、あくまで犯人に脅されての読み上げだという形で・・・・。事態は新たな局面に入る。著者は、都民の反応とそのカオス状況を読者の想像に委ねてしまう。
 スズキがクイズで投げかけたヒントは、取り調べから外された等々力が担当する分野の捜査の先で、ある事実の発見へと導いていく。そこは、別のタレコミ情報を得た野方署沼袋交番勤務の矢吹と同僚倖田沙良が行き着いていた場所でもあった。等々力が行き着いた時には、爆発が起こってしまっていた。
 
 第三部は、類家とスズキの間の心理・思考ゲームと現場サイドの捜査との交点が現れるステージへとつき進んで行く。
 スズキは、「与謝野鉄幹はご存知ですか」と唐突に言い出し、「捨て置けない詩の一篇が」と言い、
  人といふ人のこころに
        一人づつ囚人がゐて
        うめくかなしさ    
となめらかに暗唱して、そして黙った。この詩が与謝野鉄幹のものではないことを承知の上で、スズキはそう言ったのだろう。それ自体がスズキの謎かけの一環だと思う。記録係の伊勢は誰の作かを知っていた。即座に発言する。

 最終ステージに、細野ゆかりが登場する。ある駅での爆発事件に遭遇した被害者の一人として。ここで彼女は怪我人を助ける側の協力者となるのだが・・・。たぶん、著者はひとりの一般市民を象徴的にこのストーリーに登場させたということなのだろう。
 事件からひと月が経過した時点の状況を書き加えて、このストーリーはエンディングとなる。
 末尾の一文をご紹介しておこう。「最後の爆弾は見つかっていない」

 このストーリーの舞台裏は廻り廻っておもしろい構成になっている。
 類家は最後に、一方的に己の推理・思いをぶつける。
 読み終えてはじめて、読者自身がその複雑に絡まり合った関係性をどう解きほぐし、理解するかを委ねられている。類家の推理・思いを下敷きにして・・・・・そう感じた。

 もう一つ、こんな爆弾テロの状況はフィクションの世界だけのことであってほしい。

 ご一読ありがとうございます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『源氏物語入門 [新版]』  池田亀鑑  現代教養文庫

2023-02-23 16:02:15 | 源氏物語関連
 鈴木日出男編『源氏物語ハンドブック』(三省堂)は事典扱いの参照本としてかなり以前に購入した一冊である。その中の「『源氏』学の変遷」を読んでいた時に、次の一節に目が留まった。”池田亀鑑(1896ー1956)は『源氏物語』の諸本を、青表紙本、河内本とそのいずれにも属さない別本の三種類に分類して、徹底した調査を進めた。これは、『源氏物語』の諸注集成の作業の途中で、『源氏物語』自体にさまざまな本文が存在することが判明したために、そこから本文の研究へと方向転換したものである。・・・・・やがてその成果は『校異源氏物語』に結実する。これは戦後索引や資料を増補して、『源氏物語大成』となり、源氏研究のもっとも基礎的な文献のひとつとなっている。”(p104-105)
 これを読んで、あるとき標題の[新版]がたまたま古書店で目にとまり、いずれ読もうと購入していたことを思い出した。『源氏物語』を三種類に分類整理した研究者が書いた源氏物語入門書という点に俄然関心が湧いたことによる。
 奥書を読むと、この[新版]文庫が刊行されたのが2001年4月。初版は1957年8月に刊行されている。著者は「1956年東大文学部教授在職中に、死去」されたので、その翌年に、文庫版初版が刊行されていることになる。
 出版からかなり歳月を経ているが、その内容は語り口調の雰囲気があり読みやすく、得るところが多い。『源氏物語』の全体像を捉えるうえでは、コンパクトにまとめられていて、基本書として有益である。必読書の一冊になると思う。

 この点は本書の構成からうかがえることと思う。まずその要点をご紹介しよう。
<書名> 
 源氏物語の本来の呼び方、実際にあった別の呼び方について説明する。

<巻数と巻名>
 五十四帖ではなかったかもという説、巻名の由来について説明する。

<作者とその像>
 作者についての異説を紹介。著者が論考を加え、やはり著者は紫式部だと判断する。

<成立の時期>
 出典を明示し諸説を紹介したうえで、著者の持論を加えている。
 著者は、紫式部が一応源氏物語を夢浮橋まで完成させた後に、中宮彰子の家庭教師と
 して道長一家に招かれたとする。
 次の指摘はなるほどと思う。
 ”人物の配置にしても、事件の発展にしても、およそ500人の人を動かし、4代80年の長期間を扱いながら、それが年次的にも性格的にも、また宮仕えや事件などの関係においても、前後の矛盾や破綻をみせることが少しもないのです。いくら記憶がよいといっても、もし十数年もかかっていたら、はじめの方はぼんやりしてしまうかもしれませんし、大体作者の興味がそんなに長くは続くまいと思います。” (p44-45)

<物語の梗概>
 65ページのボリュームで、五十四帖のあらすじを解説する。著者は源氏物語を三部構成
 として説明する。それぞれに主要人物系図をまとめている。三部構成は次の通り。、
 「第一部 桐壺~藤裏葉」「第二部 若紫~幻」「第三部 匂宮~夢浮橋」

<構想と主題>
 三部構成ととらえたその構想について説明する。著者は主題について次のように記す。
 ”源氏物語の主題は--まとめて言ってみれば--人間の真実に対する強い憧憬によって、青春の光明、老後の寂寥、そして死後の宿命と、こういった三つのものを、世にも珍かな貴公子の、運命的な恋愛生活において描こうとした、暗示的な意欲--とでも言ってはどうでしょうか。仏教でいう生老病死の苦悶と、それをこえるものとに、形を与えているようなものです。” (p120)
 その続きに、物語は虚構(フィクション)だが、”人間のとらえ方や人生の方向としては、あくまで真実であるという意味です。”(p120)と述べている。

<女主人公の点描>
 「源氏物語 主要登場人物系図」を掲載した上で、女主人公を抽出し描写します。
 ここに取りあげられているのは、紫の上、藤壺、明石の上、葵の上、六条御息所、
 空蝉、夕顔、末摘花、朧月夜、朝顔、玉鬘、雲井の雁、女三の宮、浮舟の14人である。
<モデル論>
 源氏物語の研究には、古くから準拠説(モデル論)が盛んだったと述べ、その状況を
 概説する。従来のモデル説を一瞥してまとめている。

<後世文学への影響>
 源氏物語が後世文学にどれだけの影響を及ぼしているかを概説する。驚嘆の一語。

<諸本とその系統>
 冒頭に引用した三種類の系統について、著者自身がわかりやすく説明を加えている。

<鑑賞>
 源氏物語から、10の主題を取り上げ、それらを示す最適な場面を抽出している。
 10の主題とは、もののまぎれ、母性愛、名残、怪奇、拒絶、幼き恋、中年の恋、嫉妬
 死、求道である。
 その原文を提示した上で、原文の大凡の意味を説明し、鑑賞ポイントを説明する。
 いわば、ちょっとした事例研究解説である。 
 たとえば、「その九 死」は「総角」に描写された大君の死の場面を取り上げている。
 その事例説明の末尾に、次の文が記されている。現代語訳を通読した時に、私には考え
 も及ばなかった視点である。
 ”亡き人の顔を灯火(ともしび)の光で見ることは、「御法」の巻にもあるのですが、その上に髪の匂いを点じたところに「総角」の描写の美しさがある。「匂い」こそは宇治十帖の本質なのだ。それは「光り」に対照される世界のものだ。”(p217)

<研究史及び研究書目>
 源氏物語が学問研究という立場から扱われてきた経緯を概説する。玉石混淆を指摘。
 私には現代語訳についての指摘が印象的だった。
 ”たった一つの文章を訳すにしても、現代語のもつ一つの助詞、一つの助動詞のつかいかたで、ニュアンスがちがってくるのです。現代語訳は結局は訳者の創作的行為です。その人がいかに源氏物語を享受したか、それを正直に語るものです。”(p230)

 最後に、本書出版時点までにおいて、源氏物語の研究書目の主要なものを分類し、一覧
 にしてある。註釈書、秘事・秘伝・難義の解説書、辞書、梗概・解題・翻案、有職故実
 年表・系図、論評・書史、と分類されている。
 その後に「『源氏物語』を読むと」題し、編集部作成の一覧が分類し併記される。
 その分類は、現代語訳、原文を味わう[校注]、随想・研究・事典・美術ほかである。

 『源氏物語』をまず多角的に捉えていくうえで役立つ入門書と思う。

 この入門書で、紫式部及び、紫式部と源氏物語の関係について、著者が所見を記している部分をいくつか引用しご紹介しておこう。
*彼女の憧憬は、常に奥深いものの中をさまよう。孤愁とでもいいましょうか、無限の憂愁と永遠の寂寥、それが式部の生きた人生であったと思われます。p37
*より高い人格をたえず求めるために、衆愚にくみしない潔癖さで、人間や人生を批判しました。その心は、自己の内部に向けられたときに、もっとも峻烈でした。 p37
*とくにあの明石の上など、やはりわたしは作者の自画像だと思いたいのです。 p38
    ⇒ p142 でも著者は再度掘り下げて論じている。
*藤原氏は、同族兄弟あい争って、娘を入内させることに狂奔しました。そういう時代に、源氏物語は、三代にわたる皇族出身の后の冊立をもくろんだのです。どうしてそのような大胆なことができたのでしょうか。しかも紫式部自身、藤原貴族の恩顧によって生きた人なのです。
 これはよほど作者の腹の底に、高邁な精神が宿っていた結果とみなければなりません。権勢のかなたに、個人の自由と解放を望み、その理想を、超藤原氏的な広大な人間社会に求める、そういう世界観が、源氏物語の根底に流れていると思うのです。 p169
*作者は浮舟という女性をとおして、あまりにも迷いの多い、溺れ、そして求める心の強い人間の姿を描いた。それは実は作者自身の内部に巣くう、人知れぬ苦悩そのものではなかったか。明石の上や花散里のような女性の生き方を理想としながら、藤壺や紫の上のように人知れず悩みつづけ、やがて女三の宮や浮舟のように身をほろぼしてゆく女人の懊悩と哀愁を、作者はわれとわが心の中から分析して、それをひとつひとつ、この大きな物語の、とりどりの女性に分け与えたのではなかろうかと、私は考えずにいられないのです。 p221

 ご一読ありがとうございます。

補遺
池田亀鑑  :ウィキペディア
池田亀鑑  :「コトバンク」
池田亀鑑(いけだ きかん) :「鳥取県立図書館」
源氏物語大成 :ウィキペディア
青表紙本   :ウィキペディア
河内本    :ウィキペディア

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


「遊心逍遙記」に掲載した<源氏物語>関連本の読後印象記一覧 最終版
                  2022年12月現在 11冊

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『列島融解』 濱 嘉之  講談社文庫

2023-02-20 12:49:00 | 濱嘉之
 2011年3月11日に東日本大震災が発生し、さらに福島第一原子力発電所事故が起こった。本書は2012年3月に単行本が刊行された後、加筆、修正され2013年3月に文庫化されている。たぶん原発事故直後に構想され創作されたのだろう。政治家を主人公にエネルギー政策問題を中核に据えながら、中国への震災後の危うい企業進出問題を絡めた同時代情報小説という印象を抱いた。インテリジェンスという側面も含むが、主体はエネルギー資源情報そのものに焦点があたるという印象である。

 プロローグは、震災から1年半が過ぎた時点から始まる形で設定されている。中心となるのは、三度目の当選を果たした衆議院議員の小川正人である。彼は「東日本電力」の出身で、日本自由党に所属するが、派閥には参加せずフリーランスの立場で活動する姿勢を堅持する。小川が目指すのは、日本が直面するエネルギー問題に真摯に取り組み、国家のエネルギー政策を確立するための提言をすることである。
 メイン・ストーリーは、小川が衆議院議員中から厳選した議員に呼びかけて勉強会を主導し、エネルギー政策を提言するまでのプロセスを描き出す。そこに政界の舞台裏が見え隠れしていく。小川は安い電力供給を目指すためには、エネルギー問題を希望だけでは語れないと冷徹に判断する。現状での原子力依存を容認しつつ、電源ミックスを目指す。

 主要な登場人物の一人に小川の一期先輩の藤原兼重がいる。元経産省のキャリア官僚出身の衆議院議員。彼は日本自由党が与党に復帰した段階で、己の意図を持ち外務副大臣に就任する。彼は中国の情勢に特に関心を抱いている。藤原は、原発事故を国の責任と考えている立場に立つ。藤原は3回生の時に「勉強会」と称して40人を超える政策集団を運営している。将来の総理候補とみなされている一人である。小川は己の政治信念を国政に反映させるために、距離を置きつつ藤原との連携を維持する。

 さらに、主要な登場人物として、太田正治という企業経営者がいる。福島で自動車会社の第4次下請け工場を経営していたが、震災で家族を失う。工場が原発事故による汚染区域にあるため、移転を余儀なくされる。避難所生活の一方で自ら工場再建地を探索し、候補地をほぼ決めようとした頃に、「東洋商事」日本支社長の野田剛が現れる。太田は野田からアジア進出を持ちかけられてアジア各国の視察旅行をする。その結果、野田のシナリオどおりに中国への企業進出を決断する。そこから太田の中国での工場立ち上げが始まって行く。だがそこには予期せぬトラップがあった。

 もう一人、主要な登場人物に日比野孝之がいる。彼は内閣情報調査室事務官で、省庁派遣者ではなくプロパーの事務官である。国内部の政党担当班長で与野党を問わず、政党そのものや主な国会議員に関する情報を収集する任務を担っている。エネルギー政策に精通していて、小川・藤原の活動に注目し、関わりを持っていく。

 小川は、東日本電力時代に6年間政策秘書をして活動する時期を経験していた。そこで衆議院議員に初当選した後、政策秘書は自ら厳選した。後藤和也である。彼は警視庁公安部のノンキャリア警察官だが、内閣官房内閣情報調査室出向中に政策担当秘書の国家試験に合格した変わり種である。公安部人脈を維持していた。また、電力会社出身の優秀な人材、佐久間健を政策スタッフに加える。

 この小説をエネルギー資源情報小説と私が称したのは、小川が後藤と佐久間との間で、エネルギー政策を考えるための論議をする場面が要所要所に描き込まれていくことによる。この小説の比重の置き所は、この論議のプロセスを核にするところだと思う。論議の俎上にのるエネルギー資源情報は現在のリアルタイムな情報であり具体的である。この点は読者にとって再生可能エネルギーについての見方を広げるいい思考材料となる。
 その一方で、政策論議の基盤になる現実的で詳細な事実情報の収集と認識に関して、政党や国会議員の間での情報収集と状況認識がどれだけ頼りなく、無駄な論議が罷り通っているかが併せてアイロニカルに書き込まれている。フィクションという形であるが政界の裏側の一側面を暴いていると感じる。
 また、フィクションの話材の中に、リアルな事実とリンクしそうなストーリー部分も推察され、実に興味深いところもある。

 太田正治の中国への企業進出の経緯ストーリーは、知的所有権という概念が稀薄な中国の現状を背景としての問題事象として描き出されている。フィンションとして描かれているのだが、読み進めて行くとそこにはリアル感が漂ってくる。著者は思いきった状況設定をしているようにも思うが、事実は小説より奇なり、ともいう。現実はどうなのか・・・・・。絵空事とは思えないところにシリアスさを感じる。
 現地での工場運営の過程で、太田は徐々に状況を把握していき、彼の聡明さがリスクマネジメントとしての対策を講じていく。彼のとった対応策がおもしろい。

 このストーリーでは、衆議院議員の小川と藤原を、彼らの出身母体が民間企業とキャリア官僚という対比の形に設定されている。この背景の違いが議員活動とどのように関係する側面があるかも、描き込まれている。それは政界の舞台裏を垣間見せているように思えて、興味深い。

 最後の「第七章 この国の形を描き直す」では、小川の原子力政策とエネルギー政策が、ブリーフィング資料として開示される。この内容、現在の日本のリアルな政策状況と対比させて眺めてみるのも読者にとっては考える材料になり、おもしろい。

 エピローグでは、小川と日比野のそれぞれが交際している女性に関して、ちょっとしたオチがつくエンディングになるところがおもしろく、楽しめる。

 警察小説を主体にする著者にしては、ちょっと異色なアプローチが試みられた小説だと思う。

 ご一読ありがとうございます。

補遺 リアルな事実情報を少し検索してみた。
特集 東日本大震災  :「防災情報のページ みんなで減災」:「内閣府」
福島第一原子力発電所事故 :ウィキペディア
福島第一原子力発電所事故の経過と教訓 :「TEPCO」(東京電力ホールディングス)
再生可能エネルギー   :「資源エネルギー庁」
再生可能エネルギー  :「ENEOS」
シェールガス  :ウィキペディア
知っておきたいエネルギーの基礎用語 ~メタンハイドレートとは?:「資源エネルギー庁」
液化天然ガス  :ウィキペディア
液化石油ガス  :ウィキペディア
地熱発電  :ウィキペディア
日本風力発電協会  ホームページ
太陽光発電のメリット・デメリット :「EVDAYS」東京電力エナジーパートナー
ソフトバンクグループの自然エネルギー事業の歴史(前編):「みるみるわかるEnergy」
日本にメガソーラーを誕生させた、参考人・孫正義氏による国会でのプレゼン「電田プロジェクト」【全文】  :「logmiBiz」
ソフトバンクグループ 太陽光発電の子会社株式 大半を売却へ   :「NHK」
再エネ特措法って何?令和4年の改正点とは?わかりやすく解説!:「アスエネメディア」
再生可能エネルギー固定価格買取制度について  :「電気事業連合会」
再生可能エネルギー電気の利用の促進に関する特別措置法 :「eーGOV法令検索」
再生可能エネルギー電気の利用の促進に関する特別措置法 :「eーGOV法令検索」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『群狼の海域 警視庁公安部・片野坂彰』  文春文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<濱 嘉之>作品の読後印象記一覧 最終版
                 2022年12月現在 35冊
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『父子ゆえ 摺師安次郎人情暦』  梶よう子  角川春樹事務所

2023-02-15 23:08:19 | 梶よう子
 摺師安次郎の第2弾が出ていることを知り、早速読んでみた。こちらも短編連作集で、5編の作品が収録されている。「ランティエ」(2013年3月号~2017年8月号)に断続的に発表され、2018年1月に冒頭表紙の単行本として刊行された。

 2021年7月に、時代小説文庫の一冊として文庫化されている。表紙が変化して、安次郎の顔が見えるようになっている。また、安次郎の子、信太の顔は見えなくなったが、斜め上に掲げた左手に独楽を持っている。この表現には大きな意味が隠されている。この第2作での一つの押さえ所といえる。

 神田明神下の五郎蔵店に住む摺師安次郎は、妻のお初に先立たれ、生まれた息子信太を押上村にあるお初の実家に預けて、一人暮らしを通してきた。信太ははやくも5歳になる。安次郎はお初の実家に預けてきた信太をどうしようと思っているのか。また、第1作には安次郎の幼馴染みで、一橋家に仕える大橋新吾郎の妹・友恵が登場してきた。父子の関係、安次郎と友恵の関係が気になるところだった。それが、早めに読みたくなった動機・・・・。まさに、人情の側面にリンクしていく。

 さて、この第2作には冒頭に記したが、第1作と同様、5編の短編が収録されている。それぞれ独立した短編として読めるが、やはり連作としてストーリーの根底には大きな流れができているので、最初から順番に読んでいくのが穏当だと思う。
 第1作と同様に、この第2作でも、要所要所で摺師の技法・作業の工程などが描写されていく。彫師の技法・作業工程も少し出てくる。浮世絵愛好者は、浮世絵版画についての知識を副産物として楽しめる。私には無知の部分だったので、興味深く読めた。
 キーワードだけ、ここに列挙しておこう。あとずり、摺り抜き、べた摺りとぼかしの版木、色落ち、見当(鍵見当・引き付け見当)、あてなぼかし、馬連、板ぼかし、一文字ぼかし、両面摺り、である。一部は短編作品のタイトルにも使われている。
 以下、各編の感想・印象を含めて、少しご紹介していこう。

<第一話 あとずり>
 16文の錦絵の後摺(あとずり)を手にして、直吉が摺り場に飛び込んで来る。隅田堤を描いた絵の後摺である。その初摺はおまんまの安と呼ばれる安次郎が手がけていた。安次郎は、「摺師は絵師の色差し通りに色を置き、版木に記された指示通りに様々な摺りを施すだけだ」(p21)と考えている。だが、後摺は絵師の手を離れ、版元が自由裁量を働かせることができるそうだ。版元の指示を受けて、この後摺を誰が手がけたのか。それが安次郎と摺長の長五郎にとっては、大問題になるのだった。長五郎は「後摺のほうが、艶っぽいのさ」と安次郎に言う。「これは、伊蔵さんの摺りです」(p23)と、安次郎は断言した。
 伊蔵とは? それがこの短編のテーマになっていく。工房の摺長、長五郎、安次郎に大きな関わりがある摺師だった。摺師伊蔵には、極秘とする秘密があった。
 この短編には、サブストーリーがある。五郎蔵店に住むおたきの孫・太一は、今は植木屋に奉公している。その太一が同じ植木屋に奉公している11歳の喜八が摺師に興味を持っていると安次郎に紹介したことから、安次郎には関わりが生まれていく。
 渡りの摺師となった伊蔵が事件に巻き込まれていく。摺師伊蔵の秘密と意地が切ない。
<第二話 色落ち>
 摺長に雇われた渡りの摺師新吉が関わってくる話。摺師の腕はいいのだが女たらしという評判を持つ。それ故に新吉が事件を引き寄せる羽目に。新吉は彫源からの版木待ちをしていたが、届いた版木に色落ちを見つける。その頃、彫源では、彫師源次の娘お德が行方不明で大騒ぎ。お德は長五郎の娘、おちかの友達だった。失踪したお德は親の決めた許嫁ではない男の子を身ごもっていた。新吉にはお德との間の噂もあった・・・・。
 雨が降り続く中で、押上村に出向き、しばし息子の信太との時間を過ごす。父子の関わりが織り込まれていく。離ればなれの父と子の心情と哀感が点描される。
 新吉の日常行動が誤解を生み出す滑稽さが一方でおもしろさとなっている。人は見かけで判断してはだめ、という一例なのかも。
 
<第三話 見当ちがい>
 『新明解国語辞典 第5版』(三省堂)を引くと、「見当」とは「いろいろな材料に多分こうだろうと判断すること(した結果)。[狭義では、大体の方角・方向を指す]」と説明されている。そういう意味合いだけで理解してきた。錦絵は幾枚もの版木を使う多色摺りなので、鍵見当と引き付け見当という二種の見当と称される印が彫師により付けられているという。見当という言葉がこんなところで使われていることを具体的に知る機会となった。
 この見当をはずすとどうなるか、それを彫師伊之助と摺師安次郎が、なんと歌川国貞の版下絵で示し合わせてやってみるという話。その発端は、歌川一門の若い絵師の描いた役者絵を版元、彫師、絵師の立ち合いのもとで安次郎が試し摺りをした。その浮世絵の像主である役者が自分の顔には似ていないと憤慨したことが問題の発端となっていた。
 国貞がオチをつける。「多色摺りってのはよ、画を描く者、彫る者、摺る者、その三つが揃わなきゃ、錦の絵にならねえんだ」(p174)と。
 絵師と役者の見当ちがいの見当はずれを題材にしていくところがおもしろい。
 この短編には、パラレルに独立のサブ・ストーリーが織り込まれる。実は冒頭がこのサブ・ストーリーで始まる次第。お初の兄、安次郎には義兄になる市助が五郎蔵店の安次郎の家を訪れてくる。信太が怪我をした・・・・と。信太の気丈さとともに、その心中が哀れでもある。この事態を契機とし、ついに安次郎は決意をする。安次郎の心配りと心情に、読者は共振していくことだろう。

<第四話 独楽回し>
 五郎蔵店の長屋住まいで、安次郎・信太父子の生活が始まる。その生活ぶりが具体的に描かれて行く。長屋の人々の関わり、人情があたたかい。信太は長屋の子供たちに馴染んでいくが、その一方で、子供の世界が生む酷い側面が表出する。信太が子供たちと遊ばなくなったと。そこには信太の右手親指が不具合になったことが絡んでいた。
 安次郎は子供の世界のことに口出しせず、信太を見守る立場を貫く。
 この第四話では、いくつか状況変化が加わってくる。大橋友恵が兄新吾郎の家を飛び出し、独自に長屋暮らしを始めたこと。その住まいは直吉と同じ長屋であること。信太が友恵の住居に出入りするようになること。友恵には兄夫妻から再婚話が出ていることなど。
 安次郎は信太を摺り場にも連れて行く。信太は、己が彫師になり父がそれを摺るという夢を持っていた。安次郎は信太を彫師伊之助に引き合わせる機会を作る。信太にとり、それが一つの転機になる。なぜか、は読んでのお楽しみ・・・・。
 この第四話には、第五話に引き継がれる重要なエピソードが織り込まれている。彫師の伊之助が摺長にその話を持ち込んで来る。国貞の弟子の絵師と像主の役者とのいざこざ騒動の一件が伝わり、ある摺り場の主が安次郎に会いたいと申し出てきたという。安次郎は、直吉を連れて会いに行くことで、伊之助の依頼に応じる。それが次の一波乱を生み出す因となる。
 安次郎を取り巻く環境が大きく変化し始める転機の時点を切り取った一話といえる。

<第五話 腕競べ>
 話は安次郎の幼馴染みで、友恵の兄になる大橋新吾郎が安次郎の住まいを早朝に訪ねてくる場面から始まる。
 そして、摺惣・惣右衛門の息子で摺師の清八と安次郎が摺り勝負へと展開していく。
 この話は実に興味深い状況設定になっている。その状況設定だけご紹介しよう。
 注文主 さる旗本   摺物の目的 孫への祝いのための私家版(お上の統制外)
 版元 (記されず)
 絵師 歌川広重師匠
 彫師 彫源の伊之助
 摺師 摺惣: 惣右衛門の息子清八、職人頭の佐治、寛太郎(惣右衛門の娘婿)
    惣長: 安次郎、新吉、直吉
 摺り勝負の条件
  *摺師は事前に画を見ていない。絵組、色版の枚数も知らされない。
  *色は13と数を指定。どの色を持ち込むかは自由。その費用は版元もち。
  *勝負の場で初めて校合摺りを見ることになる。
  *紙は奉書
  *摺り技は摺師の裁量に任せる。⇒ この条件が特に異例!
 判定 広重師匠が行う。互角判定の場合は注文主と版元でいずれかに決する。
 場所 浅草駒形町の料理屋「立田屋」。見物料を取り観覧客を入れる。
さて、この摺り勝負どのような展開となるかは、お読みに・・・・・。
 この第五話、友恵の長屋住まいに対し兄の新吾郎がある通告をする。そのことを安次郎が友恵から知らされることで終わる。

 安次郎の様々な面での心配りと彼の信念が描き出される。読後に余韻が残る短編連作である。さて、またまた、この後が読みたくなってくる。期待して待とう。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
読書情報誌「ランティエ」 ホームページ
初摺と後摺 摺りの違いを楽しむ 歌川広重「名所江戸百景 両国花火」:「静岡市美術館」
浮世絵の「初摺り」と「後摺り」 :「旅と美術館」
ご注意!! 川瀬巴水の後摺を初摺として販売している件  :「渡辺木版美術画舗」
バレン ばれん  :「武蔵野美術大学 造形ファイル」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『いろあわせ 摺師安次郎人情暦』  時代小説文庫(角川春樹事務所)
『お茶壺道中』   角川書店
『空を駆ける』   集英社
拙ブログ「遊心逍遙記」に記した読後印象記
『広重ぶるう』 新潮社
『我、鉄路を拓かん』 PHP
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする