遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『新・教場』  長岡弘樹  小学館

2024-04-29 16:28:33 | 諸作家作品
 この「教場」シリーズは、タイトルの付け方が一風変わっている。『教場』から始まり、『教場2』『風間教場』『教場0』『教場X』と続いてきた。本書は『新・教場』である。主人公風間公親(カザマキミチカ)の警察官人生の時間軸を行きつ戻りつしながら、ストーリーが続いてきたために、このようなややこしいネーミングになっているのだろう。
 本書は、奥書によれば「STORY BOX」(2021年7月号~2022年7月号)に6つの短編が順次掲載されたのち、大幅な加筆改稿と「エピローグ」「プロローフ」の書き下ろしを加えて、2023年3月に単行本が刊行された。

 本作は例によって短編連作集である。今回は、風間公親が警察学校の四方田(ヨモタ)秀雄校長の許に訪れ新任教官として着任報告をするところから始まる。それ故、「新・教場」というタイトルは不思議ではない。ストレートなネーミングですらある。
 「プロローグ」には、四方田校長の事前認識として、次の諸点が書き込まれている。
*風間は刑事指導官として名声が高かった
*”千枚通し”の異名を取る十崎に襲われて右眼に受傷し、右眼は義眼である。
*犯罪者十崎につけ狙われていることから、本部長の意向で警察学校の教官に異動し、
 警察学校に”匿われる”ことになった
この記述によって、本作を初めて手にし読み始める読者にとっては、過去のシリーズのベースをこの「プロローグ」でカバーされる。本書を第1作とみても特に支障がない。

 この「プロローグ」の末尾で、校長は風間に問う。「どうだね、本校を好きになれそうか?」 風間は「ええ。なれそうです」と答えた。
 「プロローグ」の末尾の一文を書きとどめておこう。
 ”そう答えながら風間は、微かにこちらから視線を外したように思えた。”
 この一行が、「エピローグ」で生きてくる。

 もう1点、「プロローグ」には校長の要望事項が記されている。尾凪尊彦(オナギタケヒコ)という駆け出し2年目の助教が風間の補佐を担当する。この尾凪を学生と同様に育てて欲しいという要望である。
 つまり、この連作短編集には、風間教場における学生の指導と抱き合わせの形で風間が尾凪を指導していく側面も織り込まれていくところがおもしろい。
 風間は、尾凪に辛辣な言葉を時には投げかける。例えば、第三話に風間の尾凪に対するこんな発言が出てくる。「ほう、あれだけあからさまに事実と違う点があったのに、見落とすとは呆れたな。教官室に戻ったら、きみが書いた報告書を読み返すことだ。それでも気づかなかったら助教をやめてもらおうか。きみも学生たちにまじって警察学校生からやり直せ」(p127)

 本作には、冒頭に触れたとおり6つの連作短編が収録されている。
 ここに登場するのは、4月に入校する「第94期 初任科短期課程」の学生。男子28名、女子8名の合計36名である。9月末の卒業式まで、6ヶ月間という時間軸に沿って6つのエピソードが綴られていく。
 風間教場において、風間が学生を指導し、カリキュラムの一部を担当する。本作で学校側が風間に担当させる授業は「地域警察」である。風間は、この科目で様々なテーマを取り上げていく。科目が「犯罪捜査」ではないところに、一ひねりがあるとも言える。風間は警察官にとって最もベーシックな側面を任されることになるのだから。

 さて、6つの連作短編について、ごく簡略にご紹介しておこう。
<第一話 鋼のモデリング>
 テーマは警察官の自殺。学生の矢代桔平と門田陽光が模擬交番での勤務中に喧嘩沙汰を起こしたことに関わる話。
 水溜まりに突っ込んだ足の足跡をどのように採取するか? 校長が尾凪に問いかけたこの事がダブルミーニングになっている。尾凪へのアドバイスと後の話への伏線である。
 タイトルにある「モデリング」もまた、ダブルミーニングになっている。

<第二話 次代への短艇>
 盗難車両に逃走防止措置を施す方法を風間は学生に問いかけた。笠原敦気が己の考える方法を実演する。それは正解だった。だが、その実演を観察していた風間には、どうしても引っかかることが残った。これが端緒となる話。
 末尾で風間は笠原に言う。「わたしも助教と同じく、君の秘密を守る共犯者になろう」と。このエンディングが実にいい!

<第三話 殺意のデスマスク>
 テーマは「自分の身を守るため必死になりすぎるタイプ」を見抜く。
 ブラジリアン柔術を特技とする若槻栄斗が県内の交番に配属され、職務質問の実地研修に臨む。この時、交番で若槻の教育係を勤める警官の急病により、尾凪がその代役となることに。実地研修中に通り魔が子供を襲う事件が発生。若槻が通り魔を取り押さえた。

<第四話 隻眼の解剖医>
 学生のカリキュラムに含まれる「司法解剖の見学実施について」に絡んだ話。初沢紬は、校内の長距離走記録会・最長10km部門での上位入賞を目指して、周到な準備を重ねていた。変死体の発生により急遽見学が実施された。当日、紬は朝食を摂らず、パックの野菜ジュースだけにしていた。司法解剖見学中、開始から最後まで見学したのは風間と紬だけだった。見学実施の後に行われた長距離走記録会当日、紬は全体の8位、女子ではトップとなる。
 この短編は「周到に準備するのはいいが、しすぎると墓穴を掘る場合がある」という風間の発言がテーマになっている。

<第五話 冥(クラ)い追跡>
 テーマはストーカー被害。星谷舞美は風間教場でトップクラスの成績だった。風間の質問に、星谷はストーカー被害の撲滅に尽力したいと答えていた。
 同じ教場の学生石黒亘(ワタル)は、下位から徐々に成績を上げ、星谷にとり上位を争う相手になりつつあった。一方、星谷と石黒は同じ大学の同じ学部出身でもあった。
 星谷が尾凪に女子寮1階の自室を誰かに覗かれたと訴えた。覗き魔が逃げる時、庭にある小さな池が音を立てたということを報告に付け加えた。これが発端となる話。

<第六話 カリギュラの犠牲>
 この短編で、「カリギュラ効果」という用語を初めて知った。
 「強く禁止されると、かえってその行為への欲求や関心が高まる現象。『見てはならない』と言われると、いっそう見たくなるなど」(『デジタル大辞泉』)という意味だという。これがこの短編のテーマになっている。
 風間教場の学生、氏原清純(キヨスミ)は、学究肌で、予定されている講演会に対し、事前に聞き取り調査実施の許可を風間から得て実施する。この講演会が講師の事情でキャンセルとなると、再度聞き取り調査を行うほどに注力していた。
 氏原は、寮の自室の階上に居るモデルガンマニアの染谷将寿(マサトシ)とペアで卒業式典でのスライドショーのデータ作成を担当する。
 卒業式典後の卒業式で、風間は祝辞の代わりに、最後の授業を行うと突然言い出す。そして、スライドショーの中の一枚の写真に言及する。
 その写真に写る問題事象に、式典を傍聴していた新聞記者は気付いていた。

 それぞれの短編で、巧妙に伏線が敷かれている。読み終えてから、ああ彼処に伏線があったか、と気付く。
 「エピローグ」には、風間の門下生、刑事部捜査第一化の平優羽子が風間に報告事項があったと言って登場する。四方田校長は平の来校理由を風間に尋ねると、風間は十崎を逮捕したという報告だったと答えた。このシリーズの読者にとっても、この一行の報告はこの「エピローグ」で知る最新情報である。

 さてこのシリーズ、この後どのように進展するのか否か。「プロローグ」と「エピローグ」の照応関係からは、次作を期待できそうに思う。

 この教場シリーズを読んでいてふと思うことがある。このシリーズでは、卒業できずに、あるは卒業しないで警察学校を去って行く学生が数多く登場する。現実の警察学校の初任科短期課程に入校する警察官は、どれくらいの比率で退校しているのだろうか? という疑問である。こんなデータが公表される訳はないだろうなぁ・・・・・。
 厚生労働省が2022年10月に発表したデータによると、2021年度は大学卒の12.2%が1年以内に離職しているそうなのだが。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
警察学校キャンパスライフ  :「令和5年度警視庁採用サイト」
[調べてみたら]ドラマ「教場」の舞台裏!知られざるリアルな警察学校つてどんなところ?
                      YouTube
警察礼式   :「e-GOV法令検索」
飛行機雲   :ウィキペディア
飛行機雲はどうしてできるの?  :「キッズネット」
カリギュラ効果  :「コトバンク」
カリギュラ効果  :ウィキペディア
新入社員の離職率を下げる方法とは?|業界別最新動向を徹底解説:「みんなの採用部」

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こちらもお読みいただけるとうれしです。
『風間教場』  長岡弘樹   小学館
『教場X 刑事指導官風間公親』   長岡弘樹  小学館
『教場0 刑事指導官風間公親』    長岡弘樹  小学館
『教場 2』  長岡弘樹   小学館
『教場』    長岡弘樹   小学館
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『署長シンドローム』  今野 敏  講談社

2024-04-28 11:54:49 | 今野敏
 これは大森署を舞台とした新しいシリーズの始まりだろうか。
 奥書を見ると、初出は「小説現代」2022年12月号と記されていて、2023年3月に単行本が刊行されている。

 なぜそう思うか。隠蔽捜査シリーズにおいて、竜崎伸也は息子に関わる問題が発生し、左遷されて警視庁大森署の署長となった。大森署はこれまで、竜崎署長の下で登場してきていた。その竜崎が神奈川県警本部の刑事部長に異動となり、竜崎の舞台は神奈川県警に移り、隠蔽捜査シリーズが続いている。
 大森署には、竜崎の異動に伴い、キャリアの藍本小百合が署長として着任した。
 つまり、藍本署長を筆頭とする大森署の組織体制のもとでのストーリーが本作である。この藍本署長がまた特異なキャリアとして登場したのだ。ちょっと天然でユーモラスなところがあり、一方ですごく理知的、判断力も秀でている。一歩引いているが、主導権はちゃんと握っているという感じ。手強さをうまくオブラートに包んでいるという印象をうける。なかなかにおもしろい存在として描きだされているのだ。
 シリーズとして動き出すのかどうか? 本作の読後印象では、竜崎署長時代とは一味異なる形で、藍本署長の独特の采配により貝沼副署長、戸高刑事などが活躍する新シリーズが楽しめそうな感触を掴んだ。読者としてはそうあってほしい。

 本作は、副署長の貝沼悦郎警視の立場と視点からストーリーが進展していく。藍本署長を補佐して、大森署の運営を滞りなく行うという貝沼の思考態度が、まずその中核になっている。貝沼副署長の目を介することにより、警視庁の組織体制に絡まる思考と判断の側面や、竜崎署長時代との対比による思考と行動判断が盛り込まれ、広がりが加わっていく面白さが生まれている。
 刑事組織犯罪対策課(通称、刑事課)の強行犯係・戸高善信刑事は健在である。戸高は不思議なことに藍本署長に信頼されていて両者の相性はよいというのがおもしろい。戸高の活躍場所が確保されていると想像を膨らますことが出来る。関本刑事課長、小松強行犯係長、斎藤警務課長なども従来通りそのまま在籍する。
 このストーリーで、強行犯係に新人、山田太郎巡査長が加わる。小松係長は戸高を山田と組ませて、ペア長とする。貝沼は少し危惧を抱くが様子見をすることに・・・・・。
 この山田、意外な特技を持っていることが明らかになってくる。戸高は捜査活動の中で山田の才能に気づき、彼の能力を引き出していく役回りになる。読者にとっては、この山田のキャラクターがまずおもしろい。どのように成長していくのかを楽しめそうである。

 貝沼副署長の視点から観察した藍本署長と山田刑事のプロフィールを本文から抽出してまずご紹介しよう。
 藍本署長を貝沼は次のように見ている。
  *キャリア。併せて、度を超して圧倒されるばかりの美貌の持ち主
   署長に会った者は必ず再度会いたがる。幹部ほど顕著で「署長詣で」が続く
  *朝礼での話はいつでも短い。人前での話は苦手なのか・・・・とも思う
  *署長が「考える」と発する時は本当に考える。婉曲的な断り表現ではない
  *署長のふんわりとしたほほえみは、大森署にとりとてつもなく強力な武器かも
  *知ったかぶりをしない。わからないことはわからないと言う。竜崎前署長と同じ
  *常に最良の結論を導き出す

 山田刑事を貝沼は次のように観察している
  *言われたことをどう思っているのか、さっぱりわからない。読みとれない
  *応答に気迫が感じられない
  *いつもぼんやりとした表情
  *藍本署長のオーラに影響されることがない。この点、戸高と同じ
  *戸高から山田の特技を聞き、驚く
    「こいつ、一度見たことはすべて記憶してしまうようなんです」
この二人の人物設定が読者を楽しませることに。私は楽しんだ。 

 さて、このストーリーについてである。本庁の組織犯罪対策部長でノンキャリアの安西正警視長が大森署を訪れ、大森署に前線本部を設置したいと告げたのが始まりとなる。組対部が時間をかけて内偵してきた事案があり、それについて海外からの情報が入った。銃器と麻薬の密輸取引が羽田沖の海上で行われるという。薬物と銃器の出所はアフガニスタンだと安西部長は言う。アフガニスタンからヘロインと武器を持ちだして売りさばくことに中国人が暗躍しており、羽田沖での買い手はチャイニーズマフィアと推定されると言う。
 組対部が主導なのだが、事案の性格上、組対部と公安外事二課、警備部の特殊部隊などの応援が必要かも知れない、テロ対策チームである臨海部初動対応部隊(WRT)も投入すると言う。東京湾臨海署の船を加え、海上保安庁との連携も考えるという大がかりな前線本部構想なのだ。本部を設置される大森署としてはどうするのか・・・・という問題にもなっていく。貝沼は藍本署長を補佐してその矢面に立つことになるという次第。
 前線本部が設置されると、実質的な責任者は組対部の馬淵課長になる。貝沼の目から見ると、この課長はクレーマーの最たる者だった。貝沼は結果的に、藍本署長から振られて、前線本部に詰める羽目になっていく・・・・・。
 そこにさらに、厚生労働省の麻薬取締部の黒沢隆義が大森署に乗り込んでくる。捜査の邪魔をするなと釘をさしにきたのだが、その黒沢が前線本部に居座る形になっていく。黒沢もまた藍本署長の美貌に魅せられた。

 前線本部において、情報収集の捜査活動で戸高が一働きするとだけ述べておこう。
 複雑な寄合所帯の前線本部がどのようにこの事件に取り組んで行くのか。その紆余曲折がおもしろい。
 度肝を抜く意外な展開から、捜査についての捉え方に興味深さと抱き合わせに面白さが加わって行く。どの観点を基軸に捜査をするか、それによりその後の対策と社会への影とリアクションが大きく変化する。そんな側面を含んでいくところがおもしろい。
 藍本署長の観点は実に明解「大きな荷物を持った外国人を捕まえる。それだけのことなの。余計なことは考えなくていい」(p261)、「こいういう形に収めようと言い出したのは私です。ですから、すべて私の責任。そういうことにしましょう」(p306)実に明解なのだ。竜崎と通底するところを感じる。おもしろい!

 藍本署長と貝沼副署長との二人三脚。大森署ストーリーがシリーズとなってほしいものだ。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『白夜街道』  文春文庫
『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
『審議官 隠蔽捜査9.5』   新潮社
『マル暴 ディーヴァ』   実業之日本社
『秋麗 東京湾臨海署安積班』   角川春樹事務所
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                      2022年12月現在 97冊
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『太閤暗殺 秀吉と本因坊』  坂岡真  幻冬舎

2024-04-21 17:38:12 | 諸作家作品
 本著者の作品を読むのは初めて。新聞広告でこのタイトルを見て惹かれた。
 豊臣秀吉を暗殺しようとする事件が起こる。サブタイトルで秀吉と本因坊を敢えて対比しているということは、本因坊が秀吉暗殺に何等かの関与をするという暗示? 本因坊がどう関わるのか? タイトルが注意を引く。ストレートに興味を抱いた。

 私にはもう一つ惹きつける要因があった。京都の東山仁王門の交差点から仁王門通を西に入ると、南側に寂光寺がある。

その門前に「碁道名人 第一世本因坊算砂旧跡」の石標が建っている。
碁は不案内なのだが、この石標が縁で以前にこの寺を訪れ、もう一つのブログに記事を載せたことがある。

 本因坊は初代算砂が住んでいた建物の名称であることをこの探訪の時に知った。元々は京都御所の西側(室町出水)にあった寺が、秀吉による京都大改造計画の一環で、寺町通二条に移転させられた。この移転の時に、寺内に本因坊という坊舎が建てられた。
 寂光寺は顕本法華宗の寺で、開山日淵上人の法弟にあたる日海と称する僧が、そこに住んでいた。日海は碁に秀でていて、織田信長から「名人」と称されていた。日海は後に本因坊算砂と号する。
 辞書に「本因坊」が載っていて「碁の優勝者に与えられる称号の一つ」(『新明解国語辞典』三省堂)と説明されている。
 本因坊という人物画がサブ・タイトルに登場することで興味が増幅された次第。

 時代歴史小説には様々なタイプがあると思う。本作の構想と構成を私はけっこうユニークなものと思う。天正10年(1582)本能寺の変から秀吉の死までの時期に焦点をあてていく。本書の主人公は本因坊、つまり碁の名人・日海である。信長、秀吉、家康等々は日海と碁を打つ相手として登場して来る。ここでは、碁は手段でしかない。

 歴史的事実は、残された証拠・史資料・記録が現存するものであり、点的もしくは部分線的情報にしか過ぎない。事実の間隙を作家が想像力と創作力でどのようにつないでいくかという面白さが時代歴史小説の醍醐味である。そのつなぎかた、フィクションの織り込み方に様々なバリエーションが生まれる。ごく穏当なフィクションの織り込みから、かなり思い切ったフィクションの織り込みまで。本作はどちらかと言えば後者に属する。
 
 本作の全体構成をまずご紹介する。
 「序」は、本因坊算砂が、山崎の天王山の麓に所在する妙喜庵の茶室・待庵に、慶長19年(1614)年文月、徳川家康に招かれる場面から始まる。待庵で、家康は、服部半蔵が関ヶ原の戦いののちに、ある咎人(トガニン)の発した言だと報告したことを、算砂に投げかける。「『太閤殺しは本因坊に聞け』と咎人は発し、舌を噛みきったそうじゃ」。家康は算砂にこの意味を問う。
 算砂は、32年前、天正10年(1582)水無月に遡り、己の半生を回想し始める。回想は、秀吉の死が明らかにされ、朝鮮半島から憔悴した兵たちが舞い戻ってきた年までの期間に及ぶ。
 エピローグに相当する部分が、この期間からさらに16年後、慶長19年神無月の場面になる。それが現在時点。

 待庵で、算砂がこの回想(このストーリー本文)を家康に語ったか、語らずに済ませられたかは、読者の判断に任されている。場面描写から推察すると、語らざるを得なかったのでは・・・・という気がするけれど。

 このストーリーのおもしろさは、碁を打つ場面で、対局者の語りが歴史的事実の大きな流れを日海と読者に伝える形で進展する構想にある。日海自身の行動描写以外は、碁の対局相手が、碁を打ちながら、己の胸の内を問わず語りに語り、己の思念を吐露するスタイルになっている。対局相手がいわば時代の流れのスポークスマンで、日海は聞き役に徹している。その過程で日海は時代状況の変化、人間関係の変転等を熟知する。読者も同じ。
 そこに、大胆なフィクションがいくつか織り込まれて行き、全体が方向付けられる。その最初が回想の冒頭にまず出てくる。本能寺の変が発生する前日、日海は本能寺において信長の相手をして碁を打っていた。本能寺の変が勃発すると、信長は日海を同行させ、本能寺から秘密の抜け穴を経由して、密かに安土まで戻る。この経緯描写がストーリーの始まり。勿論、日海はこの事実を一切誰にも語らない。
 日海の心情を著者は記す。「信長公に抱いた恋情は一時であっても、畏敬が薄れることは片時もない。日海にとって、織田信長は永遠に侵すべからざるものでありつづけている」(p20)と。

 このストーリーが語る時期において、多くの場合、日海はいわば黒子的役割である。時代状況を語り、分析し、意見を述べるのは誰か。日海と対局する相手なのだ。
 それは誰か。相国寺の傍に「啓迪院(ケイテキイン)」という医学舎を創設した高名な薬師(医師)の曲直瀬道三。彼は正親町天皇の脈診もする薬師。もう一人は、秀吉の側近で、京都所司代の前田玄以。日海は著名な大名たちにも招かれ、碁を打ち、語る機会もある。
 信長に「名人」と称された日海は、信長なき後、秀吉が勢力を伸ばすに伴い、「囲碁坊主」として、秀吉の御伽衆の一人に組み込まれていく。
 御伽衆を統べる立場の薬師・施薬院全宗は、要所要所で日海の前に現れる。それが日海を心理的にも危地に立たせる役回りになっていくところが興味深い。
 一方で、日海はそれぞれの領域で著名な人々と交わる機会が増える。それが時代の潮流を知り、考える機会、己の身の振り方をも考慮する機会になっていく。たとえば、吉田神社を統べる吉田兼和、当代一の連歌師・里村紹巴、千利休との交流などである。
 勿論、日海の行動そのものの中で、当時の社会状況での関わりが描き込まれていく。京都にある切支丹の南蛮寺の神父との関わり、大坂の下層民の頭・石川五右エ門たちとの出会い、服部半蔵との出会いなどが、当時の社会状況理解を広げて行くきっかけになり、おもしろい。

 日海は、碁の対局という場を介して、時代状況の精選された要約情報に触れられる環境に居る。その中で、たとえトップシークレット情報を知っても、日海は口のかたさで己の立ち位置を見極めつつ生き抜いていく。一方、口の硬さが日海をさらに窮地に追い込んでも行くことにもなる。そこが興味深い循環である。
 その最終ステージが、太閤暗殺というシナリオ!! 日海はある役割を担わされる危地に陥る。このフィクションの織り込み方が実におもしろい。日海、どうする??

 最後に、本作で印象に残る文章をいくつかご紹介しておきたい。
*世の秩序を保つのに、茶の湯はまことに便利な道具だ。それゆえ、利休には有力な武将何人ぶんほどもの価値があり、秀吉にもそのことがよくわかっている。ただ、道具はあくまでも道具でしかない。権威付けしようとすれば、無理が生じてくる。  p130

*合戦とは所詮、人と人との殺しあいなのだ。どのような大義名分もまやかしにすぎぬ。 p165

*人は誰しも闇を抱えておる。闇をみつめてその正体を知り、仕舞いには闇ごと飲み干す。それが茶やと申す者もおる。
 人を大勢殺めた武将たちにとって、茶の湯は追善にほかならず、散っていった者たちを供養し、生死の区切りをつけたいがために茶を所望すると、利休は静かに語ったのだ。
     p192

*露地の地は心であると、吉田兼和に教わったことがあった。煩悩を抱えた者は心のありようを晒したまま露地を進み、蹲踞の冷水とともに煩悩を洗い清め、茶室の躙り口へ向かう。背を屈めて潜ったそのさきにあるのは彼我の境目、夢とうつつのあわいなのだという。 p196
 
ご一読ありがとうございます。


補遺
本因坊算砂   :ウィキペディア
日淵      :「コトバンク」
曲直瀬道三   :ウィキペディア
前田玄以    :ウィキペディア
吉田兼見    :ウィキペディア
施薬院全宗   :ウィキペディア
露地(茶庭)とは  :「庭園ガイド」
探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -1 仁王門通の清光寺と寂光寺
   ⇒ もう一つの拙ブログ「遊心六中記」に載せたブログ記事(2021年11月)
 
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『さいえんす?』  東野圭吾  角川文庫

2024-04-14 18:23:25 | 東野圭吾
 おもしろいタイトルの小説かと思って本書を開いてみたら、科学の視点と科学ネタを絡めたエッセイ集だった。手元の文庫は平成21年(2009)10月の第14版。平成17年(2005)12月初版発行である。「ダイヤモンドLOOP」「本の旅人」に掲載された連載を収録した文庫オリジナル。
 エッセイに付された初出の日付をざっと見ると、両誌で2003年4月号~2005年9月号の期間に連載されていたようである。

 このエッセイ集を読み、私的におもしろい、興味深いと思った点をまとめてご紹介しよう。
1.文庫本としては普通に縦書きの本なのに、目次は横書きになっている。サイエンスの本は横書きの本が多いから、『さいえんす?』の目次を横書きにしたのだろうか。それとも意図的に違和感を演出しているのだろうか。見かけないスタイル!

2. 科学に関するあれこれエッセイと言いながら、<北京五輪を予想してみよう> <堀内はヘボなのか?> <ひとつの提案>など、メダル獲得予想や野球の予想に関わるエッセイなど脇道に入ったエッセイもある。連載された当時の雰囲気が感じ取れ、懐かしめる。

3. ミステリー作家の視点で、科学技術の進歩が、創作に対して大きく影響を及ぼす側面を語っている。
 <科学技術はミステリを変えたか>
  携帯電話、デジタルカメラ、交通機関の発達、インターネットの広がりなどの科学
  技術と小説の構想、トリックの工夫との関係を作家の立場、舞台裏から語っている。
  「もっとも、作家が現実を追い越し、小説中で新犯罪を予見した、というケースは
  極めて稀だ」と末尾で述べてはいる。
 <ツールの変遷と創作スタイル>
  作家として手書きからいち早くワープロへ、さらにパソコンへと転換した体験談を
  語る。特にかな入力を選択した理由を述べている。ツールが進化しても、楽になら
  ない側面が、このエッセイのオチになっている。
 <嫌な予感>
  科学捜査による身元特定を話材にする。特に、DNAに光を当てていく。
  「彼等(=役人)は政治家を操り、国民全員のDNAデータを揃えようとするので
  はないか」(p36)という危惧まで飛び出してくる。無いとは言えない・・・。
 
4. 携帯電話やインターネットは疑似コミュミケーションと論じている。
 冒頭に、<疑似コミュニケーションの罠(1)> <疑似コミュニケーションの罠(2)>が取り上げられている。インターネットの掲示板、出会い系サイト、携帯電話、電子メールなどを俎上にのせて、「生身の人間同士のコミュニケーションが確立されているという前提」(p18)の重要性を論じる。「間違っても、『新しいコミュニケーション』などという表現を使ってはならない」(p18)と著者は言う。

5. 当時の時代状況を反映するテーマが取り上げられていて科学と絡めて語られる。
 <教えよ、そして選ばせよ>
  自宅のマンションの回覧「夏の電力供給不足による停電問題が起こってしまったら」
  に絡めて、原発問題、あらゆる危険姓とその確率の公表が論じられている。
 <何が彼等を太らせるのか>
  様々なダイエット法の氾濫に目を向けたエッセイ。末尾の一文がアイロニカルだ。
  「我々はいつまで馬鹿げたマッチポンプを続けるのだろうか」(p67)
 <人をどこまで支援するか?>
  カーナビと運転支援装置の開発、自動車の電子制御の現状が話材になっている。
  このエッセイの結論がおもしろい。近未来予測としてのドライバーの弁明発言だ。
 <滅びるものは滅びるままに>
  江戸時代には黄色い朝顔があったということをネタに、絶滅種の復活、クローンを
  論じている。一方で、冷徹に言う。「自然破壊が終わるのは、人間が絶滅した時だ
  ろう」(p79)と。
 <調べて使って忘れておしまい>
  自己の利用体験を踏まえて、電子辞書の功罪を語るエッセイ。そして、末尾の文が
  おもしろい。「彼等(=子供たち)の脳の発達に関しては、大人たちに責任がある
  のだ」(p85)と着地させる。
 <少子化対策>
  「少子化に歯止めをかけるには、女性が出産を検討できる期間を大幅に広げるしか
  ない、と私は考える」(p104)というのが著者の主張である。
 <大災害! 真っ先に動くのは・・・・・・>
  大震災の直後に起こる様々な事象を取り上げている。その上で結論づける。真っ先
  に動くのは詐欺師だと。ウ~ン、ナルホド。嫌な現象だが頷かざるを得ない。
 <誰が悪く、誰に対する義務か>
  このエッセイで著者がスノーボード好きということを知った。雪に引っかけて、温
  暖化問題が論じられている。末尾に若者側の主張を提示し、「この正論にどう答え
  ればいい?」(p141)と読者に投げかけている。
 <もう嘆くのはやめようか>
  2005年6月から実施される特定外来生物被害防止法に絡めて、外来種の放置に伴う
  問題を取り上げたエッセイ。末尾は悲観調である。
 <ネットから外れているのは誰か>
  500円硬貨の偽造事例から技術者たちの過信について論じ、コールバック・サービ
  スの問題事例に展開する。外れているのは誰かの指摘がオチになっている。
 <今さらですが・・・・・>
  血液型性格判断は全く科学的根拠がないのに、繰り返しブームが起こっている実態
  を取り上げているエッセイ。最後のオチがおもしろい。
 <どうなっていくんだろう?>
  2000年問題、2007年問題が論じられている。今から見れば遙か過去の話。だけど、
  このエッセイを読み、職人達の「勘」は、本当に数値化・技術化でき、コンピュー
  タ技術の中に組み込むことができたのだろうかと、改めて疑問に思う。

6. 著者の経験と絡めて論じられているエッセイにも、おもしろい視点が押さえられている。<数学は何のため?> <誰が彼の声を伝えるのか> <理系はメリットか> <二つのマニュアル> <42年前の記憶> これらのエッセイは著者の背景を知る上でもおもしろい。

7. 作家という立場に絡んだ主張も語られている。
 <ハイテクの壁は、ハイテクで破られる>
  書店の激減傾向、そこに万引きが絡んでいること。それに対する対応策としてのI
  Cタグの検討。だが、必ずハイテク破りが出てくることを論じている。著者曰く「
  犯罪防止にはローテクが一番だと思っている」(p54)と。
 <著作物をつぶすのは誰か>
  貸与権が認められているのは音楽や映像に対してのみだそうだ。貸与権を出版物に
  も適用することを主張。この点を論じている。「一冊の本を何千人に貸そうが、作
  家に入るのは一冊分の印税でしかない」(p58)書籍の電子書籍化に懸念を提起し
  ている。
 <本は誰が作っているのか>
  収録エッセイの最後がコレ! 著者の論点は実に明解。「この世に新しい本が生み
  出されるのは、書店で正規の料金を払って本を買ってくれる読者の方々のおかげで
  ある」(p186)
  とは言え、新刊書も買うけれど、図書館や新古書店も愛用するなあ・・・・・。

 20年ほど前の科学ネタと含めたエッセイ集だが、そこに含まれる視点は決して古くはない。問題指摘は今も生きていて、連続していると思う。
 気軽に読めるエッセイ集である。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『虚ろな十字架』   光文社
『マスカレード・ゲーム』    集英社
「遊心逍遙記」に掲載した<東野圭吾>作品の読後印象記一覧 最終版
               2022年12月現在 35冊

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『千里眼 The Start』 松岡圭祐  角川文庫

2024-04-13 21:05:19 | 松岡圭祐
 千里眼クラシック・シリーズを読み終え、今、新シリーズの第1弾を読み終えた。
 とは言え、本書は平成19年(2007)1月刊行の文庫書き下ろし作品で、はや17年前の作品ということになる。新シリーズになり、カバー表紙のモデルも代わっている。

 この新シリーズ、岬美由紀がなぜ防衛大学に進学し二等空尉になり、その後自衛隊を除隊し、臨床心理士という新たな人生を踏み出したのかという経緯が導入部となる。これは巧みな導入部になっている。なぜか?
 クラシック・シリーズを読み継いでいる読者にとっては、岬美由紀が楚樫呂島の大地震と津波の被害の際に無断で救難ヘリを操縦し救助活動に参加した事件についての事実上の査問会議の内容が明らかになるからである。リエゾン精神科医、笹島雄介の所見発言により美由紀の上司である坂村三佐は、その時の判断と行為を糾弾され、その結果解任となる。その解任理由には承服できないと、美由紀は己の意志で除隊した。美由紀は笹島の所見の誤謬を証明したいがために、心理学を学び臨床心理士になる決意をした。それが新たな人生の始まりだった。この側面はクラシック・シリーズには触れていず、楚樫呂島での臨床心理士友里佐知子との出会いの側面が色濃かったように思う。記憶違いがあるかもしれないが・・・・。いずれにしろ、部入部で美由紀の過去の側面が再認識できる。
 一方、クラシック・シリーズを読まずに、この新シリーズから読む読者には、二等空尉で除隊し、カウンセラーに転身した美由紀の過去のキャリアと経緯の大枠を理解でき、この第一作のストーリーに、すんなりと入っていける仕組みになっている。

 臨床心理士になるトレーニングとして、美由紀が品川にある赤十字福祉センターの臨床精神医学棟で、臨床心理士の舎利弗から指導を受けるという状況は、クラシック・シリーズを読んできた読者にも、初めての内容になっている。美由紀が舎利弗の指導を受けて自己トレーニングを積むことで、千里眼と人から称される能力が開発される経緯は、精神医学、心理学に関心を抱く人には特に興味深いところになると思う。科学的知識と訓練により、己の身体能力と統合されて形成された美由紀の能力ということを納得できる流れになっている。

 美由紀がトレーニングを受けている時期に、全く離れたミラノでの場面がパラレルに挿入される。それは東大の理工学部を卒業してイタリアに渡った小峰忠志に関わる話である。彼は、遊園地用のアトラクションを製造する大手企業の子会社において、”存在するものを無いように見せる”技術として、フレキシブル・ペリスコープとなづける円筒を開発した。だが、その製造費用の巨額さでは採算に合わないと判断され、小峰を含む開発チームは解雇される。解雇された小峰に、マインドシーク・コーポレーション特殊事業課、特別顧問と称するジェニファー・レインが接触してくる。そして、2年後に南イタリアのアマルフィ海岸の崖からの自動車転落事故で小峰が事故死したことがさりげない挿話となる。これで小峰のことはストーリーから潜行してしまう。新シリーズの次の展開への大きな伏線がここで敷かれた。

 さて、この The Start は、狭義の導入部の後、臨床心理士資格を取得できる前の段階で、いくつかのエピソードを織り込みながら進行する。その挿話を簡略に並べておこう。
 *宮崎にある航空大学校に出向いて笹島雄介に会い、笹島の誤謬を指摘する。
  この時、笹島は両親を飛行機事故で亡くしていたことを聞かされる。
 *マンションの隣人の湯河屋鏡子の部屋が荒らされた事件に頼まれて関わっていく。
 *臨床心理士資格の面接試験の状況
 *大崎民間飛行場内の6階建てビルからの飛び降り自殺懸念のニュースに反応する
おもしろいのは、飛び降り自殺懸念の事件を解決できた直後に、美由紀は現場でトレーニングの指導者だった舎利弗から資格に合格したと臨床心理士のIDカードを受け取るのである。
 ここまでが、広義の導入部、つまり美由紀の過去のストーリー。著者はあの手この手で読者を楽しませてくれる。あちらこちらに、美由紀の知性と鋭さを散りばめていく。
 そして「現在」につながる。現在とは、クラシック・シリーズの最終巻「背徳のシンデレラ」の事件から1年以上過ぎた時点である。

 この新シリーズ第1作のメインストーリーは、美由紀が高遠由愛香(タカトオユメカ)と待ち合わせて会話をしている時に、ふと目をひいた写真週刊誌の表紙の見出し”旅客機墜落、全員死亡の日”がきっかけとなる。フリーライター好摩牛耳(43)、またまたお騒がせ情報。今度は旅客機墜落。その記事に好摩の顔写真も掲載されていた。「好摩が本当に旅客機墜落の事実を知っていて、その秘密を暴露したのだとしたら、この表情は理にかなったものといえる」(p129)、この男が真実を語っている可能性があると美由紀は感じた。その墜落予告は3日後だった。
 ひと晩かかりで、美由紀は好摩についてのインターネット情報を収集する。そして、写真週刊誌の版元を訪ねることから始めて行く。版元の編集長を助手席に乗せ、美由紀は好摩の事務所兼仕事場を訪れる。書庫で発見したのは、吊されたロープに首を巻きつけたスーツ姿の好摩のだらりと垂れ下がった姿だった。
 デスクの上には、JAIのロゴが刻印されたジャンボ旅客機の整備用の図面類が散らばっていた。
 好摩のスーツのポケットには、遺書らしきものが入っていた。本庁捜査一課の七瀬卓郎警部補は、その現場に自殺の疑いもあるので、好摩の生前の精神状態を推量するための専門家として、笹島雄介を呼び寄せた。美由紀は再び笹島と対面することになる。
 七瀬警部補はあくまで好摩を他殺/自殺両面で捜査するという認識であり、旅客機墜落予告の線は眼中にない。美由紀との認識ギャップは埋められない。
 美由紀は旅客機墜落予告をした好摩について、独自に関連情報を収集する行動に歩み出す。笹島はそれに協力すると言う。美由紀は好摩が直近に取り組んでいた事案について、調べ始める。このストーリーの進展でおもしろいのは、様々な意外な豆知識が美由紀の説明の中に織り込まれていくことである。これは他のシリーズにも共通する一面であり、おもしろい。好摩が取り組んでいた事案から、中華料理店でアルバイトをしている20歳の吉野律子が糸口となる。いわばそこから芋蔓式に事象がつながっていくことに・・・・・。
 それが意外な展開を経て行く結果になる。
 なんと、美由紀は飛行機墜落予告の対象となった飛行便を突き止めるに至るのだが、美由紀自身がその飛行機に笹島とともに搭乗する。
 その時点で既に美由紀は犯人を推定していた。美由紀はどうするつもりなのか!?

 搭乗するまでの経緯そのものが実に波瀾万丈となる。その先がさらに意外な展開へ。ここが読ませどころなので、これ以上は語れない。

 このストーリーの掉尾に、上記のジェニファー・レインが登場する。ここに小峰の一周忌という表現が浮上する。さらに、「またしても出しゃばってきたか、岬美由紀。だが、今度こそ邪魔させない」(p266)という彼女の執念が吐露される。
 今後おもしろくなりそう・・・・。

 新シリーズの始まりとなるこの第1作に記された美由紀の思いを引用しておこう。
*人の感情が見えるようになって、わたしにはわかる。人の本質はそんなに闇にばかり閉ざされてはいない。誰もが信頼を求めてる。信じられる前に、まず信じようと努力する。疑心暗鬼は信頼に至るまでの道のりの途中でしかない。  p262
*わたしは一方的に、人の感情を読んでしまう。相手がわたしの心をたしかめることさえないうちに。  p262
*この能力とともに歩んでいく。わたしが心を読むことによって、救える人がいるかぎり。 p272

 最後に、本書には「著者あとがき」が付されている。その中の次の文をご紹介しておきたい。新シリーズでは、科学的視点が求められる設定については極力リアルに描くと著者は言う。
*かつて「すべては心の問題」と見なされていた精神面の疾患は、脳内のニューロンに情報伝達を促進する神経伝達物質の段階で起きる障害に原因を求めるなど、より物理的で現実的な解釈が主流となってきました。ひところ流行った「抑圧された幼少のトラウマ」を呼び覚まして自己を回復する「自分探し」療法は、いまや前時代的な迷信とされつつあるのです。  p276

 精神医学、心理学の領域も大きく変容しつつあるようだ。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
アメリカ精神医学会    :ウィキペディア
精神障害の診断と統計マニュアル(DSM) :ウィキペディア
境界性パーソナリティー障害(BPD)について・基礎情報・支援情報:「NHKハートネット」
ヘンリク・ヴィニャフスキ :ウィキペディア

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『千里眼 背徳のシンデレラ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 角川文庫
『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』   角川文庫
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊
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