遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』  朝井まかて  講談社文庫

2024-06-05 22:40:26 | 朝井まかて
 著者のデビュー作がこれだと知り、遅ればせながら読んだ。
 文庫本の解説の冒頭を読むと、本書が著者のデビュー作、しかも初めて書いた小説だったという。小説現代長編新人賞奨励賞を受賞した作品である。
 当初、2008年10月に『実さえ花さえ』の題で単行本が刊行された。それに加筆、改題して、2011年12月に文庫化されている。

 かなり前に、何の本だったか忘れたが、江戸時代に朝顔が園芸品種として盛んに栽培されその交配により様々な新種が生み出されたこと。園芸が一種の流行となっていて、下級武士層の内職仕事になっていた側面もあったこと。今では見られない品種も存在したことを読んだ記憶がある。また、染井吉野という桜は、江戸時代末期に、オオシマザクラとエドヒガンの交雑種として作り出されたこと。それらが記憶の底にあった。

 そんなことから、本作が江戸時代、文化・文政期に、新次とおりんの夫婦が向嶋で営む「なずな屋」という植木屋が舞台になっていて、植木職人、花師である新次が主人公でおりんが甲斐甲斐しく新次を助けていくという設定が親しみやすかった。さらに花師という職人の世界を扱っていることに興味を抱いた。この分野の職人を扱う小説を読むのは初めてである。初物の楽しみ。

 駒込染井にある霧島屋という江戸城にお出入りする植木商に植木職人として奉公し、六代当主、伊藤伊兵衛政澄みの一人娘、理世とも花師となるべく共に修業を積んでいた新次がこの小説の主人公である。新次は霧島屋を去り、文人墨客が好み大店の寮(別荘)や隠居所が点在する風雅で鄙びた向嶋になずな屋という植木屋をおりんとともに営んでいる。敷地の中心になずな屋の母屋がある。それは元豪農の隠居所だった家屋で三間きり。そこを新次とおりんは住居兼店としている。敷地の周囲を藪椿と櫟の混ぜ垣を低く結い回し、そぞろ歩きの人々も庭の風景が垣間見えるようにしてある。敷地の庭には新次が丹精込めて植木や花々を育成している。苗選びに訪れる客は敷地を巡り、縁側でおりんから番茶の接待を受けるという小体な店である。
 新次は「売り物といえども、むざむざ枯らされちゃ花が可哀想だ。それで花いじりが厭になっちまうお客にも気の毒だ。だから売り放しにはしねぇ、どんな相談にも乗るのが尋常だ」(P12)とおりんに言い暮らす職人肌の花師。一方、おりんは生家が浅草の小間物屋であるが、事情があり生家を出た後は深川の伯母の家で裁縫やお菜ごしらえを教わりながら過ごした後、手習いを教えるようになった。新次が名付けた新種の花の名の清書を頼まれたことがきっかけとなり、気がつけば、おりんは新次の女房になっていた。おりんは売り物の苗に「お手入れ指南」といういわばマニュアル文を添えることを考案し、墨書したものを添付するようになった。それが客から評判がいい。おりんのからりとした明るい性格と工夫心が実に良い。
 こんな夫婦の「なずな屋」物語。出だしからなかなか好い雰囲気・・・・・。引きこみかたが巧い。

 さて、ストーリーの第一幕は、向嶋の隠居所に住む日本橋駿河町の太物問屋、上総屋の隠居の六兵衛がなずな屋を訪れてきたことから始まる。お手入れ指南の片隅に三月に売り出す花の広目(宣伝)の書き入れをどこかで目にした六兵衛が頼み事にきたのである。
 新次の生み出した発売予定の新種の桜草を小鉢に仕立てたものを、快気祝いの引き出物にしたいという。配る相手は見舞いに訪れて励ましてくれた俳諧仲間なのだ。
 小鉢の選択は新次に任され、桜草30鉢の納入。鉢の代金を含め総額30両までは掛けようと言う。勿論、新次は有難く引き受ける。六兵衛が気に入った桜草は問題ない。それにマッチする小鉢をどうするか。そこからこの納品までの紆余曲折が始まっていく。

 このストーリーに、しばしば新次の幼馴染みである大工職人留吉一家が絡んでくる。女房のお袖との間に男の子二人がいるが、留吉とお袖の間ではいざこざが絶えない。その仲裁役を新次に振ってくるのだ。おりんがお袖のために去状を代筆することに発展する位である。勿論、お袖がそう簡単に離縁する訳ではないのだが・・・・・。この一家の関わりがいわば1つのサイド・ストーリーになっていき、楽しませてくれる。そこには江戸市井の庶民の感覚が溢れている。
 新次の悩みを手助けしておりんが桜草の納品に絡んで出したアイデアが、留吉を巻き込むことにもなる。この後も、留吉・お袖夫婦が幾度も登場してきて面白味を加える。

 もう1つ、サイド・ストーリーが織り込まれていく。それは六兵衛の孫でいずれ上総屋の跡取りとなる辰之助に関わる話である。最初、なずな屋まで六兵衛に奇妙な形で同行してきたときから始まる。凡人からみれば、辰之助の波乱含みの生き方が節々で描かれつつ、新次との関わりが深まっていく。その関わりが1つの読ませどころになっていく。

 さて、メイン・ストーリーの第二幕がタイトルの「花競べ」になる。
 桜草の小鉢もので縁ができた六兵衛が、その話を新次に持ち込んで来る。
 花の好事家の集まりである「是色連(コレシキレン)」により、3年に一度、重陽の節句の翌日の9月10日に「花競べ」が行われる。勝ち抜き式の評定(審査)は浅草寺の本堂で行われる。この花競べに新次に出品して欲しいと六兵衛が頼みに来るのだ。出品のお勧めではなく依頼という所に、この第二幕の眼目があった。六兵衛は是色連にも関係していた。
 六兵衛は新次に言う。「有り体に申しましょう。このままでは、霧島屋さんは大変なことになる」(P99)と。さらに、その内情については探りをいれている段階だともらす。
 霧島屋は新次が花師の修業をした花の世界では特別な家。霧島屋の一人娘の理世と切磋琢磨した場所でもあった。現在の当主は七代目伊藤伊兵衛治親。5年前に理世の婿養子となった。元500石取りの旗本の三男坊である。彼の野心と行動が問題となっていた。
 新次は六兵衛の依頼を受け、何を出品するかについて工夫を重ねていく。
 この頃、新次は日頃雀と呼んでいる子供を預かっていた。草花の棒手振(行商人)を生業とする栄助の子である。栄助は売り物にする苗の仕入れでなずな屋に出入りするようになり、栄助は育種について新次に教えを受けてもいた。栄助は商いで上州に旅をするのでしばらく預かって欲しいと、子を託して行ったのだ。そして、音沙汰を絶つ。
 子がいない新次・おりん夫婦にとって、雀は家族の一員のようにもなり、新次の弟子の立場にもなっていく。
 この雀は、新次が花競べに出品する作品の名付け親となるとともに、第二幕から始まるサイド・ストーリーの1つになっていくとだけ述べておこう。お楽しみに。
 9月10日、花競べの場で、新次は理世と再会する。新次と理世の微妙な関係性、この点もまたこのストーリーの読ませどころとなる側面である。この小説に織り込まれた秘やかな花物語と呼べるサイド・ストーリーかもしれない。

 メイン・ストーリーには、第三幕がある。
 その翌年の半ばに、新次は駒込染井にある藤堂家の下屋敷から用命を受ける。
 用人の稲垣頼母からの要件は、毎年2月15日に大勢の客を招いて、殿が仲春の宴を催される。下屋敷の東庭が宴に使われる。野遊びの趣向で100坪の庭を仕立てよというのが新次に名指しで依頼されたのである。
 頼母は言う。「霧島屋になら遠慮は不要ぞ。主庭と北庭は霧島屋にすべて任せているが、東庭は宴にしか使わないものでな。腕利きの庭師や花師にも広く機会を与えてやるよう、殿の仁恵である。むろん、霧島屋には某から筋を通してあるゆえ、安心いたせ」(p166)
 新次はこの仕事に花師としての思いと手持ちの植物類を注ぎ込む。だが、この仕事の依頼には、用人の知らぬ次元で裏のカラクリが潜められていた。

 このストーリー、最後はそれぞれのサブ・ストーリーのエンディングが重ねられていく。メインである花師新次のストーリーは、吉野桜で締めくくられる。このエンディングへのプロセスが読ませどころといえる。
 この最終段階全体を第四幕というべきかも知れない。
 松平定信まで登場して来る。その定信が良い役割を担っているのだ。そこがおもしろい。 

 ご一読ありがとうございます。


補遺
第二章 独自の園芸の展開 :「NDLギャラリー」(国立国会図書館サーチ)
  描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-
草木に1億円!江戸の園芸ブームは数々の品種を生み出していた :「はな物語」
江戸のガーデニングブームはなぜ起きた?一番人気だった花とは :「AERAdot.」
展覧会 花開く 江戸の園芸 :「江戸東京博物館」
染井吉野   :「桜図鑑」
ソメイヨシノ :「庭木図鑑 植木ペディア」
ソメイヨシノと‘染井吉野’はちがう?!意外と知らない桜の真実  :「HONDA」

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『悪玉伝』    角川文庫
『ボタニカ』   祥伝社
『朝星夜星』   PHP
「遊心逍遙記」に掲載した<朝日まかて>作品の読後印象記一覧 最終版
                 2022年12月現在  8冊


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『悪玉伝』   朝井まかて   角川文庫

2024-03-13 18:40:55 | 朝井まかて
 「行くで。どこまでも、漕ぎ続けたる」が本作末尾の文。その少し手前に、「わしこそが亡家の悪玉やった。欲を転がして転がして、周りの欲もどんどん巻き込んで、江戸まで転がったわ。けど、これこの通り、生き残った。しかも船出するのや。惨めな、みっともない船出やけど、船には弁財天が乗る。悪玉の神さんや」(p436-437)という箇所がある。「悪玉伝」というタイトルは、この箇所に由来するようだ。
 わしこそ悪玉と述懐するのは、大坂の炭問屋に養子に入って、炭問屋の主となった木津屋吉兵衛である。なぜ、こんな述懐をしたのかがこのストーリー。
 大坂で名の知られた吉兵衛が、実家の辰巳屋を継いだ兄の急逝と事情により、正式に辰巳屋の跡目相続人となる。だが謀計による家督横領と訴えられたことが因となり、捕らえられて江戸送りの身に。伝馬町の牢暮らしと取り調べの日々を耐え抜いて、サバイバルして出獄する・・・・・その顛末の半生が描き出される。
 
 「悪玉」という言葉は経験的に考え、文脈により様々な意味づけやニュアンスで使われると思う。吉兵衛が己を悪玉と述懐する他に、視点を変えて本作を見直すと、様々な悪玉が登場しているストーリーと見ることもできる。真の悪玉は誰かと問いかけているストーリーという側面を内包しているようにも思う。そこがおもしろい。

 本書は2018年7月に単行本が刊行され、第22回司馬遼太郎賞を受賞。令和2年(2020)12月に文庫化されている。

 本作はその構成が実に巧みである。
 メイン・ストーリーは木津屋吉兵衛の半生物語である。そこには、大坂商人の慣習、思考、行動がベースになっている。商人の目で押し通す。
 吉兵衛は大坂の有数の炭問屋木津屋に養子になる。その商売面においてではなく、長年遊蕩と学問の方に走ったことで世間にその名を知られる。それが因で、三万両あった木津屋の身代が潰える寸前までに立ち至る。そこからこのストーリーが始まる。読者は吉兵衛のプロフィールをまず鮮やかにイメージできる。ここがいわば「起」と言えようか。

 実家辰巳屋の当主である兄の急死が吉兵衛に伝えられる。大坂の豪商「御薪 辰巳屋」に吉兵衛は駆けつけ、兄の通夜と葬儀に弟として采配を振るい、兄の娘・伊波を助けて、辰巳屋の家格・体裁を示そうとはかる。が、そこに大番頭の与兵衛が横槍を入れてきて、吉兵衛を排除しようと試みる。徐々に吉兵衛は長年離れていた実家辰巳屋の内情を知って行くことになる。吉兵衛は一旦、おのれが跡目相続人となる正式な手続きを推し進める。その背景の一因は、吉兵衛の兄が泉州の海商である唐金屋から養子に迎え、いずれ伊波と娶すつもりだった乙之助にあった。この通夜から跡目相続人になるまでが、ストーリーの最初の山場になっていく。「承」にあたる。

 パラレルにサブ・ストーリーが「第二章 甘藷と桜」から始まっていく。こちらの舞台は江戸。寺社奉行ほかの役職を担う大岡忠相が登場する。こちらは政治・行政の目という位置づけになり、大岡忠相の視点からストーリーが織り込まれていく。
 公方吉宗公に敬服する忠相は吉宗公に見込まれて行政手腕を発揮してきた。江戸町奉行から寺社奉行に栄進したのだが、内心は一種の左遷ではという思いを抱いている。そんな忠相が、吉兵衛の事案に関わっていくことになる。それは、なぜか。
 吉宗は将軍となり抜本的な財政立て直しに乗り出した最中の享保6年に、「御箱」を設置する仕組みを創設した。投函された「目安」(訴状)に自ら目を通し、吟味を要すると判断した訴状内容には、問題解決担当者を決めて吟味させるのだ。大坂商人の跡目出入の一件を吉宗は問題事象に取り上げた。大坂での裁きに対する不服を江戸で出訴した目安だった。この目安の内容の吟味・解決に対する御用懸4名の一人として忠相は関与する立場になう。この時点から、忠相が吉兵衛の事案に関わっていく。
 このサブ・ストーリーの興味深さは、まず、忠相の子飼いの役人である、薩摩芋御用掛の任に就いている青木文蔵(号は昆陽)と「公事方御定書」の編纂を任とする加藤又左衛門枝直を忠相の自宅に登場させる場面から始まる。さらに、忠相が染井村の霧島屋を玉川に桜の木を植樹する事案で訪れる場面、吉宗公から呼び出され吹上御庭に参上する場面が重ねられていく。これらの場面は、御用懸の任を担当することになる忠相にとっての伏線となっていく。

 江戸で投函された目安を吉宗が取り上げることになり、その当事者として吉兵衛が捕らえられて江戸送りとなる。この辺りからが、いわば「転」だろう。捕らえられた時の吉兵衛の思惑と行動、江戸送りの道中での入牢についての付きそう役人から教えられる知識、伝馬町での入牢生活が、吉兵衛の視点から描き出されていく。
 読者にとって、このプロセスは吉兵衛の観察力としたたかさ、彼の思考を眺めていくことになる。
 一方、副産物として、江戸時代の伝馬町の牢屋の仕組みと実態を具体的に知ることになる。このあたり、当時の状況を著者はかなりリアルに描き込んでいるのではないかと思う。
 
 遂に、具体的に「辰巳屋一件」の取り調べが始まる。ここからは一気に読み進めてしまう大きな山場となっていく。「結」のプロセスである。
 吉兵衛は入牢生活に絶え抜いていく。その中で智謀を巡らし、己がなぜその窮地に陥れられたかに思いを巡らす。取り調べへの対応策を練る。大坂での遊び仲間である升屋三郎太や大和屋惣右衛門が吉兵衛を支援する。だが、彼等もまた吉兵衛の取り調べに巻き込まれていき、己のことで精一杯になっていく。辰巳屋の番頭で吉兵衛を子供時代から知る嘉助もまた吉兵衛の居る牢屋に入牢させられる羽目に・・・・。
 牢内では牢内役人の辰三との関係が深まり、辰三は吉兵衛に情報を提供してくれるようになっていく。
 吉兵衛は己の立場を堅持する。奉行所側の取り調べの結果の請証文に対し爪印を捺すことを拒絶する。
 疫病がはやり牢名主が死ぬ。その直前に吉兵衛は思わぬものを入手した。吉兵衛は己の戦略で奉行所側と交渉をするタフさを発揮していく。
 さて、具体的にどのような展開になるかは、本書で楽しんでいただくとよい。

 江戸時代の政治経済状況について、ストーリーの背景に事実情報を数多く盛り込みながら、木津屋吉兵衛のしたたかさと行動に、読ませどころを盛り込んでいく。
 大坂と江戸の文化差も盛り込まれている。その中で、大坂の商人の目と江戸の政治・行政者の目の対比が興味深い。その底流に「民を動かす根本は美辞麗句でも脅しでもなく、『欲』だ」(p109)が潜んでいる。政治・行政の目の裏側にもまた、己の利が働いている側面が垣間見える。
 将軍吉宗もまた多面性を持つ人であることを大岡忠相の目を通して描写している。この点もおもしろい解釈だと思った。吉宗は「米将軍」「野暮将軍」と陰で呼ばれていたという。このストーリーの中では、大岡忠相もまた、政治の目で、吉宗の思考を忖度してこの御用懸の任を務め、判断している印象を私はもった。

 エンターテインメント性もたっぷり盛り込まれている。特におもしろいと思うのは、吉兵衛とお瑠璃の関係である。島原の遊郭で禿だったお瑠璃を身請けして女房にした。そのお瑠璃は吉兵衛を嫌う一方で、寒牡丹の育成を趣味にしている。この二人の関係性である。
 本書の表紙には、牡丹がデザインされている。ストーリーの底流では、牡丹が江戸の吹上御庭、木津屋と辰巳屋の庭、牡丹の連仲間、泉州の荒金屋へとつながっている。趣味の世界はそれぞれが無意識の内に輪環しているのだ。「寒牡丹が売れたんどす」(p434)とお瑠璃が吉兵衛に告げる一言にリンクする。

 全体の構成のおもしろさ。さすが受賞作だけのことはある。

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『ボタニカ』   祥伝社
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『ボタニカ』  朝井まかて  祥伝社

2023-08-07 15:07:22 | 朝井まかて
 NHKの朝ドラ「らんまん」は人気があるらしい。朝ドラは見ていないので内容は知らない。NHKのウエブサイトを見ると、連続テレビ小説であり、「春らんまんの明治の世を舞台に、植物学者・槙野万太郎の大冒険をお届けします!!」の後に、「高知県出身の植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとしたオリジナルストーリー」だと記されていた。 本書は、2021年の『類』に続いて、牧野富太郎その人の植物研究人生を綴った伝記風小説である。史実にフィクションを織り込んだものと思うが、牧野富太郎その人の風貌と生き様のエッセンスはこの作品の中軸としてしっかり捉えられているように感じた。
 世間的な物差しでみれば、やはり奇人変人の部類につらなる一人なのだろう。植物と語り合い、植物研究の為にはお金のことなどお構いなしに己の思いを貫き進んで行く。まず研究ありき。事情、状況がどうであろうと、それを結果的に貫けたという人生はなんと恵まれた人だったのか・・・・・そんな思いが第一印象に残る。

 著者はこの小説を次の文章で結んでいる。(p494)

   惚れ抜いたもののために生涯を尽くす。かほどの幸福が他にあるろうか。
   この胸にはまだ究めたい種(ボタニカ)が、ようけあるき。
   ゆえに「どうにもならん」と「なんとかなるろう」を繰り返している。

   富さん、ほら、ここよ。 
   富さん、私のことを見つけてよ。
   一緒に遊ぼうよ。

 本書のタイトル Botanica(ボタニカ)は、ラテン語で「植物の」という意味という。
英語で botanical になるのだろう。ネット検索すると、ラテン語では、植物(botanica comes)、植物学(botanicae)と説明されていた。
 本書の最終章が「十三 ボタニカ」で、その中に上掲の「種」にボタニカとルビがふられている。本書タイトルはここに由来するのだろう。
 本書は月刊『小説NON』(2018年11月号~2020年11月号)に連載後、加筆・訂正を加え、令和4年(2022)に刊行された。

 植物学者で絵の巧みな牧野富太郎という名前はどこかで見聞していたが、それ以上に踏み込んで考えたことがなかった。小説という形ではあるが、本書で初めて牧野富太郎という人物の全貌をイメージでき、一歩近づけた気がする。
 文久2年(1862)土佐(高知県)佐川村の牧野家に生まれた。屋号を「岸屋」と称する造り酒屋を生業とし、江戸時代には名字帯刀を許された家。地方の素封家である。ものごころがついた頃には両親を亡くしており、祖母に育てられた。このストーリーは明治6年富太郎が数え12の時から書き出されていく。塾では抽んでて優秀、村での遊びにおいてはおのずから大将になる。野山を巡り植物を愛でる。植物に不思議を感じ、植物に惚れ込んでいく素地はこの少年期に形成されたようだ。
 祖母は祖父の後妻であり、富太郎とは血がつながらない人であるが、「岸屋」を継承し富太郎に「岸屋」を継承させるために育て見守った。富太郎のやることをまさに見守ることに徹し、彼の行動に釘をさすようなことはしなかった。それが富太郎を植物学の世界にのめり込ませ、自由奔放に行動できる環境を培ったようである。何事もそうだが、植物を研究するにも金がいる。研究するための情報源である書物を入手し、読まねばならない。富太郎が少年期以降、まず恵まれていたのは、金について心配を一切しないという立場を貫けたということだ。勿論後年に金について苦労があったとはいえ、気にせず己の行動を貫いていく。植物の研究について資金面で挫折して終わりということがなかった。
 富太郎が研究のために東京に居住するようになってからも、祖母に金を送ってほしいといえば、金が届けられた。祖母は富太郎の従妹にあたる3歳離れた「お猶」を引き取り養女として育てていた。祖母の目論見どおりに、後に富太郎は猶との祝言を上げる。だが、それは名前だけの夫婦であり、富太郎は研究の便宜性から東京を拠点とした生活に入る。祖母の死後は、土佐の猶に金送れと連絡を入れるだけ。やがて、東京でスエという女性を見初めて一緒に住むようになる。つまり、当初はいわば現地妻である。富太郎には実質的な妻であり、東京での家庭を築く。富太郎はスエの存在を猶に告げている。猶が己を取り乱すことなく、そのことに対応するというのも明治という時代感覚なのだろうか。現代では考えられない状況と思う。富太郎が「岸屋」の身代をつぶし、猶と離婚した後は、東京での金の工面は正妻となったスエが陰で担うことになる。それは借金という形での自転車操業なのだが。
 富太郎は金の入手源について頓着しないのだ。研究には金が要るものと思うだけ。そのことからだけでも、まず世間的には奇人の部類に入るだろう。だが、それが結果的にまかり通った人生なのだからびっくりするとともにうらやましさすら感じてしまう。

 富太郎は全く完全な在野の研究者ではなかった。東京を拠点にするようになったのは、研究を継続するためには、当時の東京帝国大学植物学教室への出入り、研究のための蔵書の閲覧利用や最新情報に接することが不可欠と判断したからである。植物学教室への出入りがどのようにして可能になったのか。その経緯が興味深い。
 それは富太郎が20歳で土佐から上京することから始まる。独学で研究する富太郎が会いたかった博物局の小野先生を訪ね、そこで天産部長の田中芳男先生にも会う。そこから『泰西本草名疏』の著者小野圭介先生を小石川の植物園に訪ねることになる。その人間関係が植物学教室の扉を開けることになっていく。興味深いのは、富太郎が大学に入り、植物学の学位をとるという方向に一切興味を示さなかったことである。富太郎は文献情報や資料にアクセスでき、疑問を問える相手がいれば、独学で十分研究できるという信念を培っていた。少年期から実行してきた植物の咲く現場で植物に接し、採取し、研究するということが本道であると。誰にも負けない植物を描く才能も開花させてきた。
 植物学教室の出入りを許され、教室での手伝いをする。教授との軋轢で植物学教室の出入り禁止となったり、一方で東京帝国大学農科大学の教室への出入りが可能になる。その後、帝国大学理科大学植物学科助手になる。更に紆余曲折をへて、講師になった時期もある。不思議な立場を歩んだ人である。この経緯がおもしろい。

 史実に基づいているのだろうが、本書によれば富太郎の人生で大きくは2回、己の借金を肩代わりし清算してもらう経緯があったようだ。勿論、それができたのも、牧野富太郎という在野の植物学者の非凡な才能を有識者が認識していたからである。この借金清算の紆余曲折がストーリーではいわば山場になっていく。読者はどうなることか、富太郎の研究はこれで頓挫か・・・と一層引き込まれていくことになる。
 このストーリーには、富太郎がどのような研究をしていたのかがきっちり書き込まれていく。その実質的な業績と彼の知識レベルにより、富太郎の才能を認識し、彼を支えようとする人々に恵まれていたとも言える。

 なぜ、富太郎が莫大な借金を抱えるに至るのか。
 研究のために必要な本なら購入資金のことを考えずに、どんどん購入してしまう。
 研究した成果を本にまとめて出版する。自費出版である。その費用がかさむ。自ら印刷機を購入するという手段さえとる。石板印刷の技術を実地に学ぶことすら行った。
 富太郎は、山野に分け入り、植物を採取し、それを克明に描画し、植物標本を作成するという現場主義を植物研究の本道と考えている。そのため、しょっちゅう日本全国の山野に赴くことになる。月単位での現地踏査に及ぶ。
 活動資金のことを考慮せずに、思いつくままにそれらを実行するのだから・・・・・。
 だが、そこにはそれを結果的に許す環境があったのだ。たとえそれが、「岸屋」を破産させ、また巨額な借金を作ったとは言え。

 昭和32年(1957)1月、齢94歳で没する。牧野富太郎、稀有な人生を駆け抜けた人。
 凡人には思い及ばない生き様。ある意味、うらやましいなぁ・・・・・。
 その生き様には己への自負と気概があり、輝きを感じる。
 植物学の世界において、花に触れ、花を愛で、その不可思議を研究し続けた人。
 日本における植物学を日本人が確立する!我ここにあり・・・・スゴイ人が実在した。

 最後に、印象的な記述個所を引用してご紹介しておこう。
*教えること、すなはち一方的に伝えることではない。教えることは、自らで何かに辿り着く瞬間を辛抱強く待つことでもある。思い起こせば、目細谷の伊藤塾の欄林先生はよく問い、よく待ってくれた師だった。  p45
*書物を読んで知を得、その知を深く識るためには己の足で探索し、己の目と手、いや、持てるものすべてを使って観察することだ。するとなにかしらに気づく。  p148
*植物にかかわる学者であるなら、やはり大学の外を歩くべきだ。山に登り、渓流に入ってこそ得られる景色と植物があるのであって、研究室に籠って欧米の学会誌や専門書を読み漁るテーブル・ボタニーだけでは日本の植物学者は自前で屹立できない。 p352
*だが、周囲の誰も彼もが、「教授を立てよ」「気を兼ねよ」と、足を引っ張りにかかる。そんな情実を挟んでおったら、日本の植物学はいつまで経っても進歩できんじゃないか。  p361
*不遜傲岸と退けられようと、最初から世界を見ていたのだ。好きなこと、信じることのみに誠実に生きてきた。   p468
*人生は、誰と出逢うかだ。 p415

 ご一読ありがとうございます。

補遺
練馬区立牧野記念庭園 ホームページ
  牧野富太郎について
高知県立牧野植物園  ホームページ
  牧野富太郎
東京都立大学 牧野標本館 ホームぺージ
  牧野富太郎博士
小石川植物園で活躍した研究者:牧野富太郎  :「Science Gallery」(東京大学)
牧野富太郎  :ウィキペディア
牧野富太郎、日本初の植物学雑誌創刊のため、石版印刷の技術を身に付けた熱意|植物学者・牧野富太郎の生涯(3)  :「JBpress オートグラフ」
牧野富太郎が歩いた「国有林」 :「四国森林管理局」
牧野富太郎特設サイト  :「報知新聞」
なぜ研究室を出禁に? 牧野富太郎を絶望させた「恩師・矢田部良吉との確執」 歴史街道                  :「YAHOO! ニュース」
神戸を知る 牧野富太郎  :「KOBE」
牧野富太郎ってどんな人?  :「絵本ナビ」

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『朝星夜星』  朝井まかて  PHP

2023-05-22 16:43:16 | 朝井まかて
 大阪の中之島に、かつて「自由亭ホテル」があったということを、本書を読み初めて知った。1881(明治14)年に開業し、1895(明治28)年に改築し「大阪ホテル」と改称された。明治・大正時代に、大阪の最高級の格式を誇り、当初は外国人が大阪市内で唯一宿泊できるホテルだったそうだ。この小説は、「自由亭」を運営した草野丈吉・おゆき夫妻の物語である。調べてみると、「自由亭ホテル(大阪ホテル)」の跡地は、現在「大阪市立東洋陶磁美術館」が建っているところだった。大阪市立東洋陶磁美術館は幾度も展覧会の鑑賞に出かけているが、その近くに「自由亭跡」の説明板が建てられていることには気づかなかった。
 本書は、月刊文庫「文蔵」(2019年9月号~2022年4月号、2021年3月号・4月号を除く)に連載された後、加筆・修正され、2023年2月に単行本が刊行された。本文が502ページという長編である。

 ストーリーはおゆきが丈吉のもとに嫁ぐ時点から始まる。
 おゆきは、肥後の百姓の家に生まれで、12歳の時から長崎の円山町にある有名な傾城屋「引田屋」の奥女中として25歳まで13年間奉公していた。読み書き算盤も怪しい、肝心なところでぼうとして気働きがなく、図体の大きな女である。そのおゆきが丈吉に見初められたという。
 丈吉は、長崎の出島に奉公していた阿蘭陀料理の料理人である。家は伊良林の、若宮稲荷の袂にあり、両親、妹のよしと一緒に住んでいる。丈吉もまた、読み書きはできないが、出島で奉公する間に、生活経験の中で阿蘭陀語、英語などを覚えて使えるようになっていた。阿蘭陀の軍艦に乗り込んで下働きから料理人の道に進んだのだ。阿蘭陀料理をベースにして仏蘭西料理もできる西洋料理人となる。
 いつ、なぜ、丈吉がおゆきを見初めたのか? 引田屋で通詞の宴が催されたとき、阿蘭陀料理人の丈吉が料理を任されたのだ。丈吉が鍋や皿を洗っている時に、奥に夜食を運んだ後、おゆきが他の女中等と食事をしている姿を見た。それがきっかけだと言う。祝言の後に、丈吉がおゆきに告げた。「お前はほんに旨そうに食べとったたい。頬や顎を動かすさまは、気持ちよかほど元気で」「料理人の作るもんはぜんぶ胃袋の中に入って、何も残らんたい。一日がかりで仕込んで卓の上にいかほど皿を並べても、一刻ほどで消えてしまう。いや、残されたら料理人の恥、きれいさっぱり余さず消し去ってもらう稼業たい。故におれらの甲斐はほんのつかのま、食べとる人の仕合わせそうな様子に尽きる。その一瞬の賑わいが嬉しゅうて、料理人は朝は朝星、夜は夜星をいただくまで立ち働くったい」(p24)
 おゆきの食べっぷりのよさが丈吉を惹きつけたというのだからおもしろい。そして、この丈吉の言葉の中に、本書のタイトルの由来がある。さらに、朝星夜星は、まさに丈吉おゆき夫妻の生き方そのものでもあった。このストーリーは、二人がどのような人生を歩んだかを描き出す。

 このストーリーの面白さと興味深さを列挙してご紹介しよう。
1.おゆきは祝言後、おゆきの無様な庖丁さばきを見られて丈吉に言い渡される。
 「台所はおよし、お前に任せる。おゆきは掃除と洗濯、縫い物。以上」(p27)と。
 つまり、おゆきは料理の才なしとみなされたのだ。
 一方で、丈吉は出島から、乗組員たちの洗濯物を引き受けてくる。西洋式の洗濯法をおゆきに教える。西洋式洗濯屋がまずおゆきの仕事になる。家計の一助となることで、おゆきの居場所ができる。そのおゆきも、少しずつ料理になれて、それなりに料理の腕をあげていくのだから、おもしろい。
 このストーリー、一貫しておゆきの視点から描かれていくところが興味深い。

2.丈吉は薩摩の家中、五代才助(友厚)に料理の腕を贔屓される。そして、五代の勧めもあって、丈吉は突然に西洋料理屋をまず、自宅の一部を使って開くという行動に出る。それは、冒頭に記した「自由亭ホテル」開業に至る道を歩み始める端緒となる。
 このストーリーの中軸は、丈吉が西洋料理屋を己の人生を賭けて拡大して行く事業達成物語である。そしておゆきと義妹よしが陰で如何に支えたかの経緯物語でもある。
 
 西洋料理屋の開店と事業拡大の節目を簡略にまとめてご紹介する。それがこのストーリーの中軸であり、節目にもなって行く。
 1863年7月2日「良林亭」開業。伊良林郷にある自宅にて。鬱蒼とした山の斜面にて。
   ⇒1862年に生麦事件。1863年7月に薩英戦争。五代は長崎に不在の時期となる。
 1864(元治元)年4月 良林亭改め「自遊亭」の看板を掲げ借地で営業。
   坂を下った中腹で、二つの道に面した三角の角地。二階建て建坪30坪ほどの店。
   ⇒佐賀藩鍋島閑叟が店に同伴した海軍取調方付役佐野の助言で「自由亭」に改称
 過労により丈吉が倒れ、病床に伏す。その間自由亭はおゆきが女将で義妹よしと営業
   ⇒土佐の亀山社中の人々が贔屓客となる関わりが出来る。
 丈吉が健康を回復した後、自由亭に陸奥陽之助が訪れる。
 7月末、初秋に土佐藩の大監察、後藤象二郎の用命を受ける。後藤の面識を得る。
   ⇒後藤の推挙により、土佐藩の接待御用を承る。
 明治に改元の年、丈吉は土佐藩山内容堂に5人扶持で召し抱えられ、草野丈吉と称す
 1869(明治2)年 川口居留地外国人止宿所(大阪の自由亭)を開業。
   ⇒大阪府判事兼外国官権判事五代才助の命を受ける。
    大阪府知事後藤象二郎、摂津県知事になる陸奥陽之助、五代才助、岩崎弥太郎
    等との関わりが深まっていく。
   ⇒大阪での自由亭開業に伴い、丈吉の家族は大阪に移住する。
   ⇒止宿所の運営上、負債面で存続問題が発生。打開策の目途が立つ。
 1871(明治4)年 神戸に長男・孝次郎名義で蒸気船問屋開業。大阪府御用達を拝命
 1875(明治8)年 第1回京都博覧会開催予定を契機に、京都に進出。
   ⇒知恩院宿坊が外国人用ホテルの一つに。丈吉は中村楼と当ホテルの経営を実施
 1876(明治9)年 川口の冨島1丁目(旧大阪府外務局跡地)に自由亭の支店を開業
 1879(明治12)年7月 長崎の本大工町の島屋跡に自由亭を開業。
      同年11月15日 長崎に自由亭馬町支店を開業
 1880(明治13)年 京都自由亭の二階を増築して新規開業
 1881(明治14)年1月 中之島自由亭ホテル開業。大阪府商船取締所跡地(借地)
   ⇒建物は自前の新築。寄棟式の総二階建。外壁は漆喰仕上げの瀟洒な西洋館。

 大阪の中之島に自由亭ホテルが開業されるまでの凄まじい丈吉の事業活動をストーリーの文脈から抽出した。年次を読み違えているところがあるかもしれない点はお断りしておく。文中に年次の明記が無い描写の箇所は文脈から判断したので。
 借金を重ねながらも、一介の阿蘭陀料理人丈吉がこれだけの事業展開をした背景には、出島での奉公という体験と、西洋料理人という仕事を介して、明治初期に活躍した政界・経済界の枢要な人々との交わりがある。枢要な人々に接して得たた丈吉の見識、思いの発露がそこにある。日本人と西洋人が対等な関係で交わりを深められる。日本人による西洋料理を媒介にしてそんな場を作り上げる。そんな気概が丈吉には漲っていたのだ。
 上記の通りおゆきの視点からその経緯が回想風に語られて行く。丈吉の人物像が浮かび上がって行く。

3.丈吉の発言と、丈吉の語ったことからの理解並びにおゆきが見聞したことを背景にして、おゆきの視点で、幕末から明治中期にかけての日本の政治経済、国際関係の状況が枢要な人物を介して描き込まれていく。その一つが、政治の世界から在野に下り、大阪の復興に力を注ぐようになる五代才助(友厚)の行動である。丈吉の活動を支援し、時には料理人の腕を介して丈吉の協力を得る五代の行動がサブストーリーとして織り込まれて行く。
 もう一つサブストーリーが織り込まれる。江戸幕府が開国を迫られて諸外国と締結した不平等条約を如何に解消していくかである。ここでは陸奥陽之助(宗光)と丈吉・おゆきとの関わりは点描される形で、その当時の状況が明らかになっていく。
 このストーリー、当時の政治経済史、国際関係史とは切り離せない。明治時代という状況に思いを馳せるきっかけとなるところがおもしろい。

4.自由亭という西洋料理店・ホテル事業との関わりの中で、草野丈吉一家の一人一人が描写されていく。丈吉の両親和中とふじ。丈吉の妹よし。よしは兄の許で料理人となる。おゆきは、丈吉が病に臥した時期から自由亭の女将になっていくが、中之島自由亭ホテルの開業以降は、女将の位置を降りることに。おゆきは3人の子の母親となる。きん(錦)、ゆう(有)、孝次郎である。3人の子の人生の紆余曲折が織り込まれていく。
 さらに、自由亭の事業拡大の中で、幾人かの従業員が関わりを深めていく。名前だけを挙げておこう。貫太、萬助、米三郎である。

5.事業拡大に東奔西走し家をあけがちの丈吉は、一方、各地で女性関係を広げていた。長崎では玉菊。玉菊と丈吉の縁が切れた後で、おゆきはその事実を引田屋の女将から聞かされる。おゆきの心境如何? 関西では、松子、竹子、梅子という三人の芸妓を丈吉は落籍していた。その三人が自由亭の女将であるおゆきのところに、三人揃って挨拶に来るという場面で、おゆきはその事実を知る。ここから彼女たちとの人間関係が始まる。おゆきの対応がおもしろい。これもまた明治という時代の価値観を背景とするのか。一種、ユーモアすら感じられる関係となる。
 このストーリーの末尾は、齢74歳となり、秋の彼岸のある日に墓参りをするおゆきの姿と行動描写で終わるのだからおもしろい。

6.丈吉は、1886(明治19)年4月12日に肋膜炎が悪化して、入院の2日後に没した。女将修行をしていた長女のきん(錦)が、中之島自由亭ホテル他を引き継ぐ。しかし、自由亭には多額の負債があった。自由亭の再建を試みる。きんに助力したのは、曽て丈吉に手助けされたことがある星丘であり、自由亭の総理人を引き受けた。が、最後は事業から撤退する判断に至る。このストーリーの最終ステージは、この事業撤退までの経緯が描かれる。 
 史実をベースとして、そこにどこまでフィクションが混じえられているのかは知らない。だが、丈吉とおゆき、随所にそれぞれの気概があふれている。一方で、明治期の枢要な人物の一側面が鋭利に描き出されている。おもしろく読めるところが良い。明治時代のある断面を知り学べる小説でもある。

 印象深い文章を2つ引用して終わりたい。
*ゆきは胸中で訊く。お前しゃん、ただの銭儲けではあかんのだすか。
 己で稼いで己が費消するだけでは面白ないがな。商いは、かあっと胸の熱うなる大義こそが帆柱や。  p486
*[五代友厚が51歳で生涯を閉じた。葬送の折、丈吉が五代を偲び問いかける。それに対する五代の返答の思いとしての言]
 小成に安んずることは我が意にあらず、徒に富を成すも欲するところにあらずと、おれは答えたよ。草野君も同意してくれようが、男子ひとたび世に処して無為に終わるは深く恥じるところではないか。おれは生涯、己の安逸愉楽など希望せぬ。そもそも、天下の貨財は私すべきものにあらずと思っている。たとい失敗し、あるいは産を空しゅうすることがあったとしても、国家国民の幸福ならしむることを得れば。おれの望みはそこで成っている。
 本望だ。         p428

 ご一読ありがとうございます。

補遺
大阪の中枢「中之島」 :「三井住友トラスト不動産」
自由亭ホテル  :ウィキペディア
探そう!大阪市の歴史魅力 第3回「大阪のホテル事始め」:「大阪市立図書館」
明治時代に中之島にあった「自由亭」というホテル・・・・・:「レファレンス協同データベース」
5.「自由亭」の進出  :「京都ホテルグループ」
幕末の外交を支えた「西洋料理人」草野丈吉...五代友厚にも認められた手腕とは?
   朝井まかて      :「WEB 歴史街道」
日本初の西洋料理店シェフ 草野丈吉 :「九州偉人 マンガ」
五代友厚  :ウィキペディア
大阪の恩人 五代友厚  :「大阪商工会議所」
陸奥宗光  :ウィキペディア
政治家 陸奥 宗光(むつ むねみつ) :「和歌山県ふるさとアーカイブ」
陸奥宗光・小村寿太郎~条約改正への道のり~  :「NHK for School」

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「遊心逍遙記」に掲載した<朝日まかて>作品の読後印象記一覧 最終版
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「遊心逍遙記」に掲載した<朝日まかて>作品の読後印象記一覧 最終版 2022年12月現在

2022-12-28 23:08:54 | 朝井まかて
ブログ「遊心逍遙記」を開設した以降、読み継いできた作品を一覧にまとめました。
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『洛陽』   祥伝社
『類』   集英社
『グッドバイ』   朝日新聞出版
『落花狼藉』  双葉社
『悪玉伝』  角川書店
『阿蘭陀西鶴』  講談社文庫
『恋歌 れんか』  講談社
『眩 くらら』  新潮社
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