遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『秋麗 東京湾臨海署安積班』  今野 敏  角川春樹事務所

2023-04-30 16:30:25 | 今野敏
 2022年8月に短編連作集の前作『暮鐘』を読んで以来の東京湾臨海署安積班シリーズである。これが最新刊。今回は長編で、月刊「ランティエ」(2021年9月号~2022年8月号)に連載された後、加筆・訂正を加えて、2022年11月に単行本が刊行された。

 東京ベイエリア分署、神南署、東京湾臨海署とシリーズは変遷を経てきている。安積班シリーズは私が特に気に入っているシリーズの一つ。強行犯係の第一係係長である安積剛志警部補をリーダーとする捜査員チームの人間関係、そのキャラクターの組み合わせが大好きである。この通称「安積班」がどのように事件に取り組み、事件を解決に導くか。それが楽しみなシリーズ。最近は、そこに強行犯係・第二係の係長相楽啓が率いる通称「相楽班」の絡み方がかなり変容しつつあるので、その点もまた興味を加えている。

 さて本作は、朝礼直後に東京湾臨海署の目と鼻の先、青海三丁目付近の海上で遺体が発見されたという無線が流れた事が端緒となる。8時50分竹芝桟橋発神津島行きジェット船の乗組員が発見して無線連絡が入ったのだ。早速「安積班」が現場海上に向かう。
 鑑識係の係長石倉進警部補と安積が遺体を検分したところ頸髓損傷が死因と推測された。安積と石倉は他殺と判断した。宮前検視官の判断を経て、東京湾臨海署に捜査本部が立つ。警視庁第四強行犯捜査管理官の滝口警視が筆頭となり、殺人犯捜査第六係の係長栗原警部の一箇班11人が出向いてくる。所轄では、安積班と相楽班がこの事件を担当する。
 被害者の身元を特定することから捜査が始まって行く。この殺人事件は、海上で発生したのか、陸上で発生して海に被害者が遺棄されたのか。海上から回収された遺体には手がかりになるものは何も発見できなかった。所持品なし。着ていた衣類だけがまずは調べる対象になるだけ。
 栗原係長は、検視官がプロの仕業じゃないかと言っていたと、安積と相楽に伝えた。
 栗原係長はダメ元だと、SSBC(捜査支援分析センター)に遺体の顔写真を送り、顔認証システムを使った科学捜査を依頼した。そこから身元が割れる。氏名は戸沢守雄、74歳、無職、住所は葛飾区新小岩三丁目・・・と判明。特殊詐欺の加害者で、出し子として逮捕されたが結果的に起訴猶予となった記録があった。
 安積は葛飾署に連絡を入れる。生活経済係の広田係長の話を聞くことになる。そして、広田から戸沢が詐欺の常習犯だったかもしれないという見方を聞く。思わぬ見方が被害者の背景を具体的に捜査する契機となる。

 司法解剖の結果、戸沢は海に入る前に死んでいたと判明する。鑑識の石倉の分析から、戸沢の服等はアメリカのアウトドアウエアのブランド品で結構な値段のもの。海につかっていたため血痕その他の体液や毛髪は発見できなかった。
 現場周辺での聞き込み、周辺の防犯カメラ等のビデオ解析等の捜査、戸沢が海上に居た可能性の捜査などが進められる。一方で、戸沢の逮捕記録と広田係長の発言から、安積と水野は特殊詐欺絡みの関連捜査に取り組んで行く。それは逮捕と起訴猶予の事実の再確認から始まっていく。
 
 このストーリーの面白さと特徴を挙げてみよう。
1.マスコミが注目するほど大きな事件ではないので、終始滝口管理官を筆頭とした捜査本部体制で捜査が進行すること。相楽は安積と対抗し力むことがなくなってきているという変化がうかがえて興味深い。だが、正論を述べて対立意見を出すという側面もある。今回は捜査本部に詰める相楽の姿が主に描かれる。流れとして相楽の位置づけが巧みである。

2.被害者の戸沢が海上で発見された。このことから初動捜査がどのように広げられていくか、読者は興味津々となることだろう。聞き込み捜査で情報が入手しがたい状況がどのように突破されていくのか。何事にも捜査の糸口は発見できるという展開になる。
 防犯カメラ等のビデオ解析がどのように捜査に役立つかがわかってくる。その分析に交機隊の速水と彼の部下が一枚噛んでいくところがおもしろい。
 防犯カメラは一方で監視カメラの機能を担っている実態を感じる。結果的に監視社会になっているというわけだ。

3.戸沢に逮捕歴があり起訴猶予になった事実と広田係長が抱く問題意識が安積を引きつけた。捜査本部詰めの安積が捜査本部の了解をとり、この側面を追ってみる捜査に乗りだす。安積は水野とともに行動する。迂遠に見える聞き込みと後付け捜査。安積の捜査が、殺人事件とどのように関係していくのか。その経緯が読ませどころとなって行く。
 広田係長のキャラクターもおもしろい。事件が終結した事案に対する刑事のこだわり。所轄署刑事のプロ意識が鮮やかに描かれていく。

4.滝口管理官の捜査本部運用判断が大きな要素になる。事件解決のため柔軟な対応力が有効に発揮されていく。捜査本部として交機隊の速水や葛飾署の広田係長の協力を柔軟に受け入れていく姿勢。一味違う捜査本部が描かれていく。

5.聞き込み捜査から、犯罪の背景の一端がわかる。事件の犯罪性をどのレベルで判断するか。その線引きの境界はある意味でグレーゾーンを常に含む。そこでの判断がはっきりと描き込まれていく点も興味深い。これ以上はネタばれに繋がるので触れない。

6.安積班の須田刑事は、人物として私の好きな一人。彼が途中から、捜査一課の刑事とペアを組む捜査行動から外れ、捜査本部に居てパソコンを駆使しネットやSNSの領域から情報を収集する役割を担っていく。安積の捜査を側面から強力にサポートする立場に徹する。須田の情報収集が有効に機能していくところが楽しい。

7.東京湾臨海署を担当する東邦新聞の山口友紀子記者が、安積班の水野真帆巡査部長に、自身がセクハラを受けているという問題について、相談を持ちかける。それがこのストーリーの冒頭に出てくる。この件がこのストーリーのサイド・ストーリーとなっている。今風のテーマであり、読者にとってもちょっと気になるところである。山口記者がセクハラを受けていると言うその当事者の髙岡という記者が、要所要所で安積に接触してくるという絡み方がおもしろい。
 
 捜査活動が広がり、情報が累積され、試行錯誤の一方で着眼視点が交差し、累積情報が繋がっていく。事件の筋が読め、事件の解明へと収束していく。ストーリーは場面展開とテンポが良く読みやすい。所々に安積の思いを織り込みながら、安積の行動を中軸に据え、安積班全体を描き込んでいくところはさすが手慣れたものである。
 
 最後に、印象深い文をいくつか引用しておこう。
*警察官は、悔いが残る仕事をしてはいけないと思う。 
 悔いが残るということは、信じていたことを全うできなかったということだ。つまり、正義を果たせなかったわけだ。  p123 ⇒安積の言
*まあ、たしかに戸沢は捕まって、事案は片づいたんですけどねえ、その件が別の事件に飛び火したってことでしょう。なら、捜査すべきだと、俺は思うんですよねえ。
 あくまでも、殺人は、警視庁本部主導の捜査本部の仕事です。でもねえ、北原は戸沢が常習犯なのではないかと疑った。だから、私らにとっちゃ、この事案はまだ終わってはいないんですよお。  p160  ⇒広田係長の言
*知る権利という言葉を、軽々しく使うべきではないと思います。国によっては、その言葉に、文字通り命を懸けなければならないジャーナリストたちがいるんですよ。 p167
 ⇒ 安積の言
*老兵は死なず、ただ消えるのみってね・・・・。そうは思っても、老兵だって何か残したいんですよ。 p346  ⇒髙岡記者の言

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                  2022年12月現在 97冊

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『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』 松岡圭祐 角川文庫

2023-04-27 23:44:50 | 松岡圭祐
 新人作家・杉浦李奈の推論シリーズの巻Ⅶを先に読んでしまった。そこで巻Ⅵに戻って先日読み終えた本書は書き下ろしとして令和4年(2022)8月に文庫が刊行されている。

 巻Ⅵのタイトルは「見立て殺人は芥川」。このタイトルから、2つのことが推測できる。今回も李奈が殺人事件に絡んで警察署の協力を求められて捜査に協力する立場になること。その殺人事件は、芥川龍之介のいずれかの作品に見立てた側面を表していることである。それは、犯人が何等かのメッセージを発信しているのか、捜査に攪乱要素を加えただけなのか。李奈がその謎解きを迫られるということである。

 さて、本書の構成のおもしろさをまずご紹介する。
 ストーリーのメインは、李奈が見立て殺人事件に関わり、その謎解きをするという話である。ここに、サブ・ストーリーが絡んでいく。李奈の故郷三重県から母親の愛美(あいみ)が上京してきた。しばらく李奈の兄・航輝の許に滞在し、二人が李奈のアパートに頻繁に訪ねてくる。三人で夕食を一緒にとるということになる。母の狙いは李奈を実家に帰郷させることにある。李奈は作家として本当にひとり立ちできるまで東京を離れないと主張する。読者にとっては、李奈が母親に屈伏するか、母親が李奈の主張を受け入れるか、その成り行きに関心が向かうことに・・・・。

 メイン・ストーリーの発端は、品川署刑事組織犯罪対策課の瀬尾刑事が、中目黒の蔦屋書店内のスターバックスコーヒーに李奈が居ることを確認し、そこに現れて捜査協力を依頼するところから始まる。李奈と一緒に居た優佳も同行し、二人は品川署に出向く。李奈は捜査に協力することを承知する。李奈には母と顔を合わせる煩わしさをできるだけ回避したいという気持ちもあった。

 品川署内で瀬尾刑事は李奈と優佳に協力を依頼したい殺人事件の概要をまず伝えた。
・事件の発生場所 南品川七丁目の住宅街。
・被害者1:舘野良純、53歳。野菜卸売の関連会社勤務。経理担当。
      戸建て住宅の自宅で殺害された。当日は有給休暇で自宅に居た。
 被害者2:宇戸部幸之助、76歳。一人暮らし。舘野宅の三軒隣り。第一印象は猿顔。
 その他 :舘野宅の隣家の犬とスズメが殺されていた。
・現場状況:被害者舘野良純と宇戸部幸之助、動物は改造スタンガンで殺されていた。
      舘野の死因は首を撃たれたことによる出血多量
      被害者舘野の胸の上に文庫本から切り出した芥川龍之介の短編「桃太郎」
      が置かれていた。
      宇戸部は自宅の和室で死亡。遺留品なし。
・関連状況:舘野の妻と女子大生の娘は沖縄旅行中だった。
      凶器はアメリカ製の輸入品でデトニクス45を模した拳銃と判明(全長178mm)
 舘野の胸上に置かれた「桃太郎」との関連で、舘野が桃太郎、そして犬と猿(宇戸部)、キジの変わりのスズメという見立てがまず連想された。だが、それが何を意味するかは不明。
 短編「桃太郎」以外に手がかりが無く、マスコミの取材要請を抑え切れなくなっているところから、「桃太郎」の持つ意味を考えてほしいということが李奈への要請だった。

 李奈は、刑事たちの聞き込み捜査に同行して状況を直に知り、情報を収集する行動をとる一方で、改めて芥川の「桃太郎」を読み込み始める。仮に見立て殺人であるにしてもこれが何を意味するのか・・・・・。暗中模索のスタートとなる。

 巻Ⅵにはいくつかの特徴がある。
1.本当に見立て殺人なのかどうか。芥川の「桃太郎」が使われた意味は何なのか。
 刑事から求められた推論(所見)を築こうと、李奈は聞き込み捜査に同行し、一歩踏み込んで捜査に関わらざるを得なくなっていく。そのプロセスにさまざまな伏線が敷かれている。後で見直すとナルホドと思う。
2.李奈が芥川の短編「桃太郎」を読み込んでいくプロセスが進展するにつれて、この短編自体がストーリーの中に、全文引用として提示されていく。私は、芥川龍之介が短編「桃太郎」を書いていることを遅ればせながら初めて知った。そして、副次的にその全文を読むことができた。
 文学作品そのものがズバリとストーリーに組み込まれている。まさに、エクリチュール/ビブリオミステリーである。
3.李奈と友人かつ小説家である那覇優佳との間で文学作品に関わる会話しばしばなされる。彼女たちには日常の一部なのだが、それは李奈が推論を築いて行く上での重要なヒントにも転じて行くというおもしろさがある。いわば、伏線が会話の中にも織り込まれている。
4.ストーリーの最終ステージでは、李奈の兄・航輝も事件解決に一働きすることになり、併せて李奈の母愛美もまた事件解決への一助を果たすという展開がおもしろい。
5.今回も、万能鑑定士Qこと小笠原莉子がちょこっと登場する。ちょっと楽しい。
6.昔話の「桃太郎」と芥川龍之介著「桃太郎」との差異は何か。なぜ、芥川が「桃太郎」を書いたのか。芥川はこの短編で何を言いたかったのか。見立て殺人を分析的に考えて行く推論過程の副産物として、仮説が語られていく。このこと自体がエクリチュールであると思う。
 併せて、猿かに合戦も出てくる。芥川は短編「猿蟹合戦」も書いていることを知った。こちらは本文引用はないけれど。さらに「蜘蛛の糸」も出てくる。これは知っていた。他にも芥川の作品名が織り込まれている。
7.本書には、芥川龍之介以外に、文学作品名を初め数多くの書籍名が頻出する。そして、そこにはなにがしかのコメントが併記されていて興味深い。初めて知る書名も結構ある。まさにエクリチュールである。

 p242に次の文が記されている。李奈の思いとして記される地の文である。
「万能鑑定士Qこと小笠原莉子の教えを思い出した。物理的証拠ばかりにとらわれ、心理面を疎かにしてはならない。すべての発端は人だ。人の行動は内面がきめる」
 このストーリー、この箇所が重要な意味を持つ。お楽しみいただくとよい。

 文庫本の帯のメッセージを紹介しておこう。東京大学クイズ研究会(TQC)が推薦!という形で、「読み進めるうちピースが繋がっていく--パズルのような面白さ!」
 確かにそう思う。このメッセージ、このシリーズ全体にもあてはまるという気がする。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
桃太郎 芥川龍之介  :「青空文庫」
猿蟹合戦 芥川龍之介  :「青空文庫」
猿蟹合戦 (芥川龍之介)  :ウィキペディア
桃太郎         :ウィキペディア
桃太郎 楠山正雄    :「青空文庫」
桃太郎 -ももたろう(日本語版)アニメ日本の昔ばなし/日本語学習/PEACH BOY - MOMOTARO (JAPANESE)  YouTube
猿かに合戦 楠山正雄 :「青空文庫」
さるかに合戦(日本の昔話/動く絵本)  YouTube
バルサスの要塞  :ウィキペディア
デトニクス コンバットマスター / Detonics CombatMaster 【自動拳銃】:「MEDIAGUN DATABESE」
デトニクス.45 コンバットマスター  :「TOKYO MARUI」
アンソニー・ギデンズ  :ウィキペディア
スーザン・フォワード 著者プロフィール  :「新潮社」
エクリチュール :「コトバンク」

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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
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その点、ご寛恕ください。)

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊


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『書楼弔堂 炎昼』  京極夏彦  集英社文庫

2023-04-25 21:40:12 | 京極夏彦
 このシリーズの『待宵』を最初に読み、そこから遡って本書を読んだ。連作短編集である。『破暁』に引き続き、本書にも6編の短編が収録されている。「小説すばる」(2014年9月号~2016年6月号)に掲載されたものが、2016年11月に単行本として刊行され、文庫の字組みに合わせ加筆修正されて、2019年11月に文庫化された。

 前著『破暁』と比べ、この『炎昼』に少し変化が現れる。短編6編に連なっていくサイド・ストーリー的位置づけで、いわば凖主役として「塔子」と称する女性が登場する。彼女がこの短編連作の狂言回し的な役割を担っていく。塔子が見聞したものとして、塔子の視点から描き出されていく。塔子は『破暁』の「高遠」に似た役回りである。『破暁』では最後に高遠の名前が初めて明かされた。今回はこの女性は名前でずっと記述され、その姓が明かされるのは本書最後の短編においてである。

 短編一作の構成パターンは一貫している。今回は前半に塔子が胸中に不満・鬱屈を秘めつつ行動するとともに塔子自身と家族関係についても少しずつ明らかになっていく。なので、サイド・ストーリーと上記した。塔子自身のプロフィールに対する興味が徐々に読者に形成されていく。これがまず一つの特徴と言える。
 この塔子が自然な成り行きで人々を弔堂に案内する立場になる。塔子に案内された人物が弔堂で主人公になる。弔堂の主とその人物との対話でストーリーが展開する。その話の中に時折塔子の思いや発言が織り込まれていく。

 本書の短編連作でおもしろいと思った第2の特徴は、短編の末尾が定型化されたことである。それは、塔子の言として「いえ、それはまた、別のお話なのでございます」と締めくくられる。
 本書の最後「探書拾弐 常世」の末尾では塔子の姓が明かされる。ここでもまた、
 「その後、私ー□□塔子がどのような人生を送ったのかといえば、
  それはまた、別の話なのでございます」(p541) □□の姓が何かはお楽しみに。

 塔子について、短編6作を読み重ねていくと、かなりイメージができる。だが、姓を明かされても煙に巻かれたままの余韻が残る。これがまたおもしろい。

 短編の後半に出てくる人物は、歴史に名を残す人々ばかり。人からの口コミで弔堂の存在を知り、書を求めて弔堂に来る。弔堂の主との対話を通して、その人物のある側面に焦点があてられ、人物像の一面が明らかになる。この対話プロセスが読ませどころである。史実を踏まえたフィクション化のおもしろさが鮮やかに発揮される。ここに第3の特徴がある。そこに明記される史実の該博さに驚かされる。事実を踏まえたフィクションを介して人物への興味が深まっていくという次第。

 さて、各短編について、読後印象を交えて簡略にご紹介しよう。
<探書漆 事件>
 ある思いを抱き芙蓉の木を眺めて佇む塔子の前に、松岡君、録さんと互いに呼び合う二人の男が現れる。弔堂への道に迷ったのだ。それが何かとは知らなかったが、塔子は陸燈台様の建物のある場所を知っていた。そこで案内役となる。塔子自身も初めて書楼弔堂の内部に入る。これが契機で、塔子は時折、人を案内し弔堂を訪れることになっていく。
 この連作では、単に狂言回しの案内役に留まらず、塔子自身も書を購う客の一人になっていく。そこに明治中期の女性の自我意識や自覚の高まりの先端部分が描き込まれていくことになる。明治時代の雰囲気が感じ取れておもしろい。
 弔堂では、松岡、田山(録さん)、弔堂の主という3人の会話になる。そして、録さんこと、田山花袋の求める書に関連した話に焦点が絞られていく。
 印象深い弔堂の主の言がある。
 「ええ。事実を事実として書くには、事実に見せ掛ける小細工をするのではなく、読む者の内面に事実を生成させるような工夫をしなければならないのではありませんでしょうか」(p85)
 ここでは、松岡國男の一書は決まらない。本書の短編連作では幾度か松岡が弔堂に現れることになる。松岡のことが少しずつストーリーに織り込まれて行く。これがこの『炎昼』の第4特徴といえる。

<探書捌 普遍>
 祖父と喧嘩した塔子は、反抗心にかられ行先も告げず家を出る。そして、弔堂に向かう坂の下に辿り着く。そこで偶然に松岡と出会う。松岡に背中を押されるような気持ちで弔堂に同行することに・・・・。二人は弔堂の前で不思議な人物に気づく。先客が居た。
 その人物は添田平吉、演歌師と名乗った。演歌は元は演説歌のこととか。そのことを本書で初めて知った。演歌師としての生き方を模索する様子が吐露されるストーリー。
 演歌師として活動した添田唖蝉坊が描き出される。  
 この時、塔子は弔堂で小説を初めて購入するというエンディングに・・・・。

<探書玖 隠秘(オカルト)>
 前作で「それはまた、別の話」となったことの話から始まる。塔子は明治女学校の英語教師・若松賤子著『小公子』を密かに自宅に持ち込んで読み始めるという冒険かつ経験をする。小説を知り、塔子はその感動を誰かと共有したくなる。相手として選んだ菅沼美音子との対話がストーリーになっていく。
 その後、塔子の足は弔堂に向く。弔堂には、先客として勝安芳枢密顧問官(勝海舟)が居た。弔堂の主との対話の話材は催眠術関連だった。おもしろいのは、塔子が美音子から聞かされた話題にリンクする点。勝と入れ替わりに、松岡が東京帝国大学哲学科の福來友吉を同行して弔堂を訪ねて来る。
 松岡が所望していたゼームズ・フレイザー著『The Golden Bough』二冊組みが入手できたことから、その内容へと話材が広がり、そこから福來の関心事へと転じて行く。福來友吉に焦点があたる。一方で、松岡についての関心事への広がりが加わることに。ストーリーの構成が実に巧みである。

 禅僧から還俗した弔堂の主の言が印象に残る。
「真理は、実は目の前にございます。しかし多くの人はそれに気づきません。気づかないからこそ、それは隠されていると考えるのです。隠されているなら暴こうとする。しかし隠されている真理など、実はないのでございます。隠すのは、何もないからでございますよ。ならば暴いても詮方なきこと」(p267)
 
<探書拾 変節>
 塔子は下女のおきねさんから聞いた垣根の花を見にでかけ、気味の悪い花という印象を抱く。なぜそう感じるかの描写から始まる。そこでハルと名乗る少女に出会い、時計草だと教えられる。ハルは修身学の授業を抜け出して来たのだと塔子に語る。塔子はハルを伴って、弔堂を訪れる。そこで再び、松岡と出会うことに。塔子は高等女学校に通うハルさんと松岡に紹介する。彼女は平塚明と名乗った。
 松岡が注文していた全国から集めた新聞の内容に話が転じて行く。そこから松岡とハルの間で「正しいこと」とは何かという論議に発展する。ハルの考え、ハルの父親の変節についての話へとその場での対話が進展していく。
 ハルは松岡から高山樗牛の翻訳小説の載る『山形日報』を譲られることになる。
 ハルとは後の平塚らいてうである。

 弔堂の主の言が印象深い。
「変節自体は問題にすべきではなく、寧ろ何故変節したのか、そして変節しても変わらぬものは何なのかこそ考えるべきではございませぬでしょうか」(p346)

<探書拾壱 無常>
 塔子の祖父が病気になる。その状況描写から始まる。祖父に接してきた塔子の愛憎が省察されていく。母親との会話に腹を立てた塔子はその場から逃げ出してしまう。
 いつもの坂道から、弔堂へと至る径を通り過ぎて行った先で、石に腰掛ける疲れた様子の老人に出会う。塔子は、その老人を一旦弔堂に誘い、そこで俥の手配をすることを提案する。老人は自身は軍人だが、泣き虫、弱虫のなきとだと名乗る。
 弔堂の主は、老人に会うなり「源三様」と呼びかけた。「あ、あんたは龍典さんか」(p404)。二人は三十年来の知り合いだった。
 二人の対話の最後に、龍典は、源三様と呼びかけた人、乃木希典に三宅観瀾著『中興鑑言』を進呈した。
 乃木希典がどのような人物だったのか、さらに知りたくなる短編である。

<探書拾弐 常世>
 年明けの状況が塔子の祖父の様子を描くことから始まる。塔子は美音子が嫁ぐという話を聞き、お祝いを持参する。その帰路、堀沿いのところで塔子は弔堂の主と丁稚のしほるに遭遇する。勝安芳(海舟)が亡くなったと聞く。梅が桜に変わる頃、塔子の祖父が死ぬ。祖父の一周忌が過ぎ、桜が散り舞う中、塔子は弔堂を訪ねる。途中で、塔子は1年半ぶり位に、松岡國男と出会うことに・・・。二人は弔堂を訪れる。
 この短編では、松岡國男自身のことが、弔堂の主と松岡の対話の中心になって行く。つまり、読者にとっては、遂に松岡が誰かがはっきりとする。
 最後に、主は松岡に言う。貴方さまの一冊は、貴方様がお書きになるものと推察致します(p538)と。
 一方、塔子は弔堂の主から奇妙な本、教則本のような本を薦められることに。
 この短編連作を通して、松岡國男のプロフィールが徐々に明らかになり、この「常世」でなるほどということになる。そこがおもしろい全体構成になっている。今回の6連作で落とし所が用意されていたという感じである。おさまりが良い。
 さらに、□□塔子の「それはまた、・・・」というエンディングは、いずれつづきが語られるという期待をポンと投げかけているようでおもしろい。

 この短編の中にも、印象に残る弔堂の主の言がある。引用する。
*それは方便でございます。人を生き易くするための嘘。信仰は、人を生き易くするためにあるのでございます。嘘だろうが間違いだろうが、信じることで生き易くなるのであれば、それで良いのでございます。信心というのは生きている者のためにあるのです。死人のためにあるのではない。  p513
*幽霊を扱った物語が怪談なのではございません。怪談の材料として幽霊という解釈は使い易いというだけのこと。怖くさせようとすすのですから、怖く書きましょう。 p517
*死者を成仏させるもさせぬも、それは生者次第でございます。 p528
*怖いというのなら、そう感じる方に疚(やま)しさがあるからでございます。生者の疚しき心こそが、幽霊を怖いものに仕立てるのでございます。  p530

 ご一読ありがとうございます。

補遺
田山花袋について  :「田山花袋記念文学館」
田山花袋      :ウィキペディア
添田唖蝉坊     :ウィキペディア
添田唖蝉坊・ラッハ゜節 /土取利行 Rappa bushi/Toshi Tsuchitori  YouTube
ラッパ節 「明治38年」 (明治・大正・昭和戦前歌謡)    YouTube
           東海林太郎(しょうじ たろう)唄
添田唖蝉坊:社会党ラッパ節::土取利行(唄・演奏)     YouTube 
女性の自立を求めた文学者 若松賤子  :「あいづ人物伝」(会津若松市)
福来友吉  :ウィキペディア
第13回 千里眼事件とその時代  :「本の万華鏡」(国立国会図書館)
 第1章 千里眼実験を読む 福来友吉と催眠術
平塚 らいてう   :ウィキペディア
平塚らいてう  :「近代日本の肖像」(国立国会図書館)
女性・平和運動のパイオニア 平塚らいてう  :「日本女子大学」
乃木希典    :「コトバンク」
乃木希典    :「近代日本の肖像」(国立国会図書館)
この写真の撮影日に夫婦共に自刃。明治天皇に殉死した乃木希典が神として崇められるまで  :「warakuweb」
三宅観瀾   :ウィキペディア
新体詩  :「HISTORIST」(山川出版社)
新体詩  :ウィキペディア
新体詩抄 初編 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
柳田國男    :ウィキペディア
柳田國男    :「近代日本の肖像」(国立国会図書館)

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『書楼弔堂 破暁』  集英社文庫
『書楼弔堂 待宵』  集英社

[遊心逍遙記]に掲載 : 『ヒトごろし』  新潮社
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『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』 松岡圭祐  角川文庫

2023-04-21 21:38:39 | 松岡圭祐
 杉浦李奈の推論シリーズの書き下ろし第7弾。2022(令和4)年12月に文庫本が刊行された。
 このシリーズ、駆け出しのラノベ作家・杉浦李奈が主人公。彼女は本業の小説を書くこととは直接関係のない事件に巻き込まれ、事件解決の為に警察に協力する羽目になる。李奈は秀でた観察力、分析力、推理力を駆使して、推論を完遂していく。その結果が一冊ごとで完結する形のミステリーになっている。読者にすればどの巻から読み始めても、ほぼ独立した形でその一冊を読める。手にとって通読し、興味を持てばシリーズを遡って読めば良い。シリーズとして最初から読んで行くと、杉浦李奈が小説家としてステップアップしていくプロセスと、事件に巻き込まれる経験を重ねていわば胆力がついていく経過を楽しめるというメリットがある。今回は巻Ⅵを見過ごし本書を先に読んでしまった。

 冒頭に、エクリチュールというフランス語の単語が冠されている。フランス語の辞書を引くと、書いたものとしての文学、文字を意味する言葉だ。本書末の広告ページの一般用語でいえば、ビブリオミステリーと同義で使われているのだろう。「biblio-」は、連結要素となりいくつかの用語がある。bibliography(参考文献一覧、書誌学)、bibliomania(蔵書癖、書籍狂)、bibliophile(愛書家、蔵書家)という形で。つまり、本に関わるミステリーである。
ストーリーに関連する形で、出版業界の舞台裏の一面が描き込まれたり、ストーリーの中に、さまざまな書籍・作家について言及されているところが、読者にとってはおもしろい。

 この第7弾の「レッド・ヘリング」というタイトル。ストーリーの最終ステージで、「いかにも、レッド・ヘリングです」と李奈が発言する。それに対し「レッド・ヘリング・・・・?」李奈の友人で作家の那覇優佳がつぶやいた。「推理小説用語で、意図的な虚偽への誘導、赤いニシンはないけど、塩漬けや燻製の加工で赤くなる。まやかしってこと」と。ここに由来する。このストーリーのモチーフはこの一語にあるようだ。
 『ジーニアス英和辞典』(第5版、大修館書店)を引くと、「red herring (1)燻製ニシン、(2)人の注意を他にそらすもの≪猟犬が獲物を追う訓練ににおいの強い燻製ニシンを使ったことから≫」とある。『新英和中辞典』(第5版、研究社)には、同様に「(1)燻製ニシン、(2)人の注意を他へそらすもの;人をまどわすような情報」と載っている。
 遅ればせながらこの用語を初めて知った。

 24歳の李奈が同じ阿佐谷北の地域内で引っ越しする。優佳、兄の航輝などの協力を得て、アパートから鉄筋コンクリート造でオートロックの低層マンションの2階1LDKの部屋へである。今や李奈作『マチベの試金石』初版3000部がなんとか完売できそうで、重版間近の噂もあるところまで来ていた。ラノベ作家として認められそうな段階に近づいてきていた。
 李奈の推論の協力で難解な事件が次々に解決してきたという評判を聞き付け、妙な依頼が頻繁に持ち込まれる。李奈はその点でも困っていた。最近、自費出版費用とギャラを出すから、明治時代に翻訳された新約聖書について詳細に調べた研究本を書いてほしいという依頼を受けた。李奈は気が進まない。
 引っ越しをしている最中に、立て続けに異変が起こる。アマゾンでの李奈の自著の評価がけさまで星4個以上の評価がみな星1個の評価に変じている。ウィキペディアに李奈の引っ越し先住所が開示され、ファンの少年少女がマンション前に出現。新潮社の編集者に李奈が書いていない官能小説の原稿が送付される。アマゾンのKDPの自費出版として櫻木沙友理の小説の一部を変えて、杉浦李奈名義で小説が販売されている。李奈の母親に李奈が預かり知らない内容のDVD動画像が送られていた、など。李奈をターゲットにした嫌がらせが同時多発していた。
 やっと小説家として名前が出て来た李奈にとって、それぞれが些細な事象でも、マイナス面で名前が知られることは、大きな障害になりかねない。嫌がらせについて警察に通報しても、問題の根本的解決にならない。相談している事実自体が伝わることで逆効果になる可能性もある。李奈は精神的に窮地に追い込まれる。そこからこのストーリーが始まる。

 これらの嫌がらせの源は、聖書の件に関わる奇妙な依頼に関係していた。
 KADOKAWAの編集者菊池を介し、聖書の件だとして依頼主が再度連絡を取ってきた。その人物は、株式会社エルネスト代表取締役、鴇巣東造(ときのすとうぞう)と名乗る。鴇巣はそれとなく李奈への嫌がらせをしてきたことをほのめかす。「きみがどんな目に遭っているか知らないといっただろう。私はただ、聖書にまつわる仕事を引き付けることで、平穏な暮らしが戻ってくるかもしれない、そういってるだけだ」(p35)と。
 このストーリー、ここが実質的な出発点になる。

 結果的に、李奈は「週刊新潮」の寺島義昭記者と共同戦線を張って、李奈が独自にこの聖書問題に取り組むことを表明する形をとる。新潮社編集者の草間ば寺島をスクープ系の記者だという。寺島は李奈に協力するが、李奈をうまく利用して記事ネタを得たい意図がある。それを承知で李奈は、己の身を護るための行動に出ていく。小説家として飛躍していきたい李奈にとり、その足を引っ張る障害となるこの壁を突き崩すことは不可避なのだ。それは李奈が小説家としてサバイバルするための行動だ。

 1880(明治13)年に、ヘボンが新約聖書の翻訳版を日本で出版した。これは後に旧約聖書の翻訳と併せて「明治元訳聖書」と称され最古の日本語版聖書である。ところが、同年に、丸善から別に『新約聖書』の翻訳版が限定500部で出版され、全国のプロテスタント教会で販売されたという。だが今はその存在すら忘れられている。この丸善版『新約聖書』を探し出すことから初めて、研究本を書く。「純粋なる学術的興味だけだ。私の信仰心が理由ではないとだけはいっておこう。うちは神道ひとすじだったのでね」(p39)と鴇巣は李奈に言う。だが、鴇巣の狙いは、まず丸善版『新約聖書』の現物を入手することに眼目があるのだと李奈は推測する。聖書の現物を熱望するのはなぜか? 

 李奈が研究本を書くためにこの幻の聖書探しを表明した記事を見た人々から、連絡窓口の新潮社に寄せられた情報のうちの1件が取っかかりになる。丸善版聖書を読んだことがあると、成兼勲と名乗る高齢者からの連絡だ。李奈が優佳の同行で成兼家に訪ねて行くと、その日に成兼勲は亡くなっていた。李奈は死亡事故が発生した現場を訪ねることで、その事故の解明に関わっていくことになる。勲の妻智子の記憶を糸口に、幻の聖書探しのさらに一歩を踏み出していく。

 このストーリー展開には、興味深いところやおもしろいところなど、その特徴がいくつかある。
1.明治以降の日本における聖書の翻訳の経緯の一端が背景情報としてわかること。
 丸善版新約聖書はこのストーリーでフィクションとして組み込まれている。
 それがごく自然に巧みに織り込まれていて、重要な要素となるところがおもしろい。
2.要所要所に、万能鑑定士Qの莉子が、小笠原莉子として登場してくる。
 万能鑑定士Qの愛読者には、楽しめることになる。莉子が脇役で活躍するのだから。
3.徳川慶喜と勝海舟が織り込まれてくる。この二人の人間関係について、一つの仮説がこのストーリーに組み込まれて行く。これがなかなか穿った見方に思えてくる。
 二人の関係性について、史実情報を知らないのでどこまで信憑性があるのかは不詳。
 しかし、改めて、事実としての人間関係を知りたくなる。
4.徳川埋蔵金問題が絡んでくることで、一段とストーリーがおもしろさを増して行く。
 この都市伝説(?)の織り込み方と落とし所。その展開はさすがに巧妙である。
5.冒頭に出てくる李奈に対する様々な嫌がらせ事象を作り出している背景の内幕説明が興味深い。ブックレビュー投稿の処理法。KDP自費出版の仕組み。目の虹彩の輝きが持つ意味と解析。ディープエコー。AIボイスチェンジャー。文学テキストマイニング・・・・など。
6.出版業界を背景にしたビブリオミステリーなので、実際の出版業界絡みの内幕ネタが織り込まれている。編集者と作家の関係、出版社の雰囲気の違いなどがイメージしやすい。さらに背景の一つとして、作家名や作品名、さらには作品に対し、登場人物たちが、寸評的な会話として織り込まれていく。そこでこのフィクションにリアル感が増す。
 このストーリーに登場する現代の作家名と作品名に限定して気づいた範囲で列挙する。どういう文脈でどのように組み込まれているかは本書でお楽しみいただきたい。
 西村賢太『苦役列車』、司馬遼太郎『歳月』、山岡荘八『徳川慶喜』、家近良樹『その後の慶喜』、鯨統一郎『歴史はバーで作られる』『邪馬台国はどこですか』『徳川埋蔵金はここにある』、吉行淳之介、逢坂剛、濱嘉之、朝倉かすみ『にぎやかな落日』、横溝正史、有栖川有栖『孤島パズル』、池波正太郎、角田光代『紙の月』等。
 
 今、推論Ⅵを読んでいる途中なのだが、このⅥまでの各巻では、警察の事件に関わるところからストーリーが動き出すパターンである。李奈の推論の起点、アプローチがこれまでとは違う新機軸がここに生み出され、完結型ストーリーとなっている、一気に読ませるところはさすがに手慣れたものといえる。

 最後の場面は茗荷谷という人物との会話である。李奈が答える。「だからこそ生き甲斐になります。作品を世にだすからには責任が伴いますけど、どんな反応があろうとも、わたしは自分なりの表現を曲げないつもりです。そんな決心がつきました」(p291) 「ひとりはもう怖くありません」(p292) と。茗荷谷とは誰か? それは本書でお楽しみを・・・・・。

 杉浦李奈がまた一層精神的な強さを身につけた。引き続く作品に期待したい。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
ディープフェイクとは?実例や悪用問題・作り方・アプリを徹底解説 :「SEDesign」
音声変換ソフトウェア  :「SEIREN VOICE」
【大ヒット】AIボイスチェンジャーのおすすめ5選!特徴を比較 :「iMyFone」
日本語訳聖書 :ウィキペディア
明治元訳聖書 :ウィキペディア
大正改訳聖書 :ウィキペディア
聖書翻訳の歴史  :「日本聖書協会」
徳川埋蔵金  :ウィキペディア

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『黒い海 船は突然、深海へ消えた』  伊澤理江  講談社

2023-04-19 17:42:52 | 諸作家作品
 寿和丸船団の中核となる網船の第58寿和丸は、千葉県銚子市沖、房総半島の最東端の犬吠埼から東へ350キロの洋上でパラシュート・アンカーによる漂泊(パラ泊)を決めた。寿和丸船団の他の僚船はそれぞれ距離を置き、同様に漂泊する。
 
 調べてみると、日本の領海は、領海の基線(海岸線)から12海里(約22km)の線までの海域。排他的経済的水域は、「領海の基線からその外側200海里(約370km)の線までの海域(領海を除く)」とされている。また公海は「国連海洋法条約上、公海に関する規定は、いずれの国の排他的経済水域、領海若しくは内水又はいずれの群島国の群島水域にも含まれない海洋のすべての部分に適用されます。」(参照資料)という。

 2008年6月23日、午前8時ごろに第58寿和丸は、排他的経済水域内でパラ泊の準備を始め、午前9時頃、メインエンジンを止めた。生存者の証言によると、午後、船体に2度の強い衝撃があった。右舷前方からの「ドスン」という衝撃。7~8秒後に「ドスッ」と「バキッ」という異様な音が重なっての連続的な衝撃。
 「右傾斜した船を海水が一気にのみ込む。左舷側が天高く持ち上がり、・・・激しい2度の衝撃からわずか1~2分ほど。傾きが一気に増してからは、ほんの数秒で船は転覆した」(p20)
 「北緯35度25分、東経144度38分。その太平洋上で第58寿和丸は、船首から沈んだ。突然の衝撃からおよそ40分後、午後1時50分頃と推測される」(p44)
 第58寿和丸は「突然、深海へ消えた」。沈没現場は水深5000m程度もあるという。
 2008年6月24日の朝日新聞朝刊が「漁船転覆4人死亡 千葉沖13人不明3人救助」という見出しで報じた。その報道写真が関連写真、事故現場のイラスト地図とともに最初に載っている。
 この事故報道を全く知らなかった。

 U1さんの「透明タペストリー」のブログ記事で本書を知り、少し後にsoshidodomireshiさんの「読書の記録」ブログで本書を論じられている記事を読んだ。それらが本書を読む動機となり、一気に読んでしまった。

 本書はノンフィクションの作品。調査報道専門ウェブサイト「SlowNews」(2021年2月~4月)に連載されたあと、大幅に加筆・修正されて、2022年12月に単行本が出版された。

 第58寿和丸の異変が他の僚船に伝わると、次々に現場海域に急行した。第6寿和丸が3人の生存者を救出。その後集結した4隻の僚船が懸命に捜索活動を続ける。
 沈没現場付近に至ると、現場目撃者は油に驚いたという。「濃いところの範囲は(直径)100メートルくらいですか。真っ黒いのが印象でした」(p46)
 「第6寿和丸が収容した4人の遺体も油まみれ、ヌルヌルで簡単に引き上げることができず・・・」(p92)という状態だったと言う。
”「遺体はこんくらい真っ黒だった」そういって阿部が指したのは、テーブルに置かれた私の黒革の名刺入れだ。”(p92)
 「黒い海」というタイトルは第一羲的には生存者と目撃者が体験した油の黒さをさしているのだろう。だが、この油が、この事故に関わる重要な論点となっていく。運輸安全委員会が公式に発表した調査報告書の結論は、この油について現場の目撃証言とは大きく乖離した認識の下で処理している。
 インターネットで検索すると、「MA2011-4」の報告書番号で「船舶事故調査報告書」が平成23年(2011)年4月22日付で開示されている。「4.結論」にある「4.2 原因」の記述には、「本件大波を右舷前方の舷側に受けて・・・」(報告書 p54)と転覆原因は、魚具・魚網・ロープなどの積み方に言及しつつ、大波が原因とする。「燃料等の流出が約15~23リットルと推定されたこと」(報告書 p50)と独自の推定を記述している。本書では、p146~147にその要点が説明されている。
 「野崎や第58寿和丸の生存者らにショックを与えたのは、報告書の公表時期の問題だけではなかった。彼らを納得させる内容にはほど遠かった」(p145)
 この報告書、事故発生から3年後、2011年3月11日の東日本大震災の直後、東北全体が大混乱の中での公表というタイミングだった。
 「それでも地元メディアの『いわき民報』は当時、報告書の内容に触れ、『最初から結果ありきではないか』という趣旨の強い疑問を投げ掛けている」(p160)と記す。

 寿和丸船団を所有する「酢屋商店」社長の野崎哲は事故後に独自に情報を収集し、また専門家の意見を聞くとともに独自に実験も委託して、資料を累積していく。己の経験と収集した資料を総合して、報告書の結論に納得がいかないと言う。

 勿論、運輸安全委員会がどういう何時発足した組織で、どういう立場にあり、何を目的とした組織であるかという点も、法規並びに関係者への取材を踏まえて、客観的に記述されている。事故調査の進め方、報告書の作成までの手続きにも触れている。本書でご確認頂くとよい。

 本書の著者は第58寿和丸の沈没事故について、事実資料と当事者関係者・専門家への取材情報、独自に収集した情報等を総合して分析していく。野崎社長の集積した資料が本書の基盤になっているようだ。そして、大きく乖離する事実認識のコントラストを克明に明らかにしていく。
 
 右舷前方から聞こえたという2度の衝撃音。
 パラ泊中だったにもかかわらす、わずか1~2分程度で転覆した船体。
 1時間足らずでの沈没。
 漏れた大量の油。
 誰一人助かっていない前方の船員室にいた乗組員たち。  (p194)

このように要約されている。本書ではこれらの諸点について、諸専門家並びに関係者への取材、さらには情報記事の手続きによる情報入手などを積み上げて行く。情報を総合して、克明に分析しつつ、事故原因を突き止めようと苦戦する。
 深海に沈んだ第58寿和丸自体を観察・調査できれば、物的証拠が一目瞭然となることだろう。だが、それはなされていない。素人考えでは、深海艇で沈没船の外観を調査することができるのではないのか・・・・と思ってしまうのだが。その考えは俎上にものらなかったようだ。その経緯にも触れている。

 著者は、米国の国家運輸安全委員会(NTSB)の公開情報などを利用し、ハワイ近海の太平洋上で発生した愛媛県立宇和島水産高等学校の漁業実習船「えひめ丸」の事故を詳述している。この事故は私の記憶にもある。新聞で大きく継続的に報道された時期があったからだろう。米国の潜水艦との衝突により引き起こされた事故。2001年2月9日に発生した事故である。
 さらに、著者は海外での事例を挙げるとともに、1981年4月9日に発生した貨物船「日昇丸」の衝突事件、1990年10月17日に発生した鮮魚運搬船「第82広丸」の衝突事件という日本船に関わる潜水艦の衝突事例を挙げている。この2件は知らなかった。

 潜水艦の衝突事故に関わる米国と英国での悪しき事例も挙げられている。明確な事実証拠が明らかになるまで、当局は否定を続けたという実例である。
 そんなことを取り上げながらも、アメリカの情報開示の質が、日本における情報開示のレベルより遙かに優れているという側面にも言及している。
 考える材料がいくつも盛り込まれていると言える。
 
 克明な事実の追跡と分析から、著者は論理的な仮説を提起している。潜水艦の衝突という仮説である。現時点では、この説はあくまで仮説にしかすぎない。積み上げられてきた資料・情報と目撃証言等を総合すると、つまり、さまざまな状況証拠を論理的に考えていくと、実に納得できる。
 このノンフィクション作品をあなたが読めば、どのように解釈されるだろうか。

 著者は「それでも私は、17人もの船員が命を落とした大事故について当事者たちの証言に忠実に記録を残したいと考えてきた」(p294)と己のスタンスを明記している。

 「黒い海」というタイトルは、ダブルミーニングになっているのだろうか。簡単には切り開いて光を当てられない暗闇が奥に潜んでいるかもしれないというニュアンスである。その深さもまた底がしれない。初めに結論あり、それに併せて報告書が作成される。そんな動きが背景にあるかもしれない。そんな闇の部分の介在。そんなニュアンス・・・・・。
 このパターン、日本ではかなりくり返されてきているのではないか。福島第一原発事故の報告書にもそんな側面を感じてしまう。
 なし崩しに時が経過していく。事実が風化せしめられていく。

 「野崎の脳裏から、『不条理』という言葉が消えたことはない」(p288)という一行が出てくる。
 まさに、本書で第58寿和丸の沈没事故の経緯を読み進めていくと、読後印象は「不条理」という一語にまず集約される。不条理は「事柄の筋道が立たないこと(様子)。[哲学では、人生に意義を見いだす望みの全く絶えた限界状況をさす]」(『新明解国語辞典』第5版、三省堂)という意味である。
 印象として、もう一語加えるなら、とくに関係者の範疇に入る元高級官僚たちの対処の姿に「理不尽」さを感じてしまうことだ。「記憶にない」「守秘義務がある」を楯にとる姿。理不尽の語義は「万人が納得する論拠をもって説得するのではなく、強い実力をちらつかせながら半ば脅迫的に自分の方の一方的主張を通そうとする様子」(同上)と説明されている。
 
 本書はこれで終りではないようである。著者は「私の取材は今なお続いている」(p296)と記している。
 本書の続編がいつか世にでるかもしれない。「真相」が明らかになることを希求する。
 ご一読ありがとうございます。

参照資料
管轄海域情報~日本の領海~  :「海上保安庁」
房総半島東方向の太平洋の海底の深さ  グーグルマップ
*「MA2011-4 船舶事故調査報告書 運輸安全委員会」平成23年(2011)年4月22日

補遺
日本海溝  :ウィキペディア
JSTB 運輸安全委員会 ホームページ
運輸安全委員会設置法  :「e-GOV」
第17号 平成21年5月8日(金曜日)  :「衆議院」
第171回国会 衆議院 国土交通委員会 第17号 平成21年5月8日 会議録本文
17人が命を失った沈没事故。なぜ国は生存者証言を無視し、情報開示を拒むのか                
                   :「CALL4」
これが国の報告書とは…、突如沈没した「第58寿和丸」に何が起きたのか
                   :「JBpress」
海難事故の一覧  :ウィキペディア
MA2011-4 
えひめ丸事故  :ウィキペディア
Ehime Maru and USS Greeneville collision From Wikipedia, the free encyclopedia
えひめ丸沈没事故 :「NHKアーカイブス」
【現場から、】平成の記憶、えひめ丸事故 課題残されたまま 190207 YouTube
米原潜当て逃げ事件 (日昇丸事件) :ウィキペディア

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