遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』 松岡圭祐  角川文庫

2023-04-21 21:38:39 | 松岡圭祐
 杉浦李奈の推論シリーズの書き下ろし第7弾。2022(令和4)年12月に文庫本が刊行された。
 このシリーズ、駆け出しのラノベ作家・杉浦李奈が主人公。彼女は本業の小説を書くこととは直接関係のない事件に巻き込まれ、事件解決の為に警察に協力する羽目になる。李奈は秀でた観察力、分析力、推理力を駆使して、推論を完遂していく。その結果が一冊ごとで完結する形のミステリーになっている。読者にすればどの巻から読み始めても、ほぼ独立した形でその一冊を読める。手にとって通読し、興味を持てばシリーズを遡って読めば良い。シリーズとして最初から読んで行くと、杉浦李奈が小説家としてステップアップしていくプロセスと、事件に巻き込まれる経験を重ねていわば胆力がついていく経過を楽しめるというメリットがある。今回は巻Ⅵを見過ごし本書を先に読んでしまった。

 冒頭に、エクリチュールというフランス語の単語が冠されている。フランス語の辞書を引くと、書いたものとしての文学、文字を意味する言葉だ。本書末の広告ページの一般用語でいえば、ビブリオミステリーと同義で使われているのだろう。「biblio-」は、連結要素となりいくつかの用語がある。bibliography(参考文献一覧、書誌学)、bibliomania(蔵書癖、書籍狂)、bibliophile(愛書家、蔵書家)という形で。つまり、本に関わるミステリーである。
ストーリーに関連する形で、出版業界の舞台裏の一面が描き込まれたり、ストーリーの中に、さまざまな書籍・作家について言及されているところが、読者にとってはおもしろい。

 この第7弾の「レッド・ヘリング」というタイトル。ストーリーの最終ステージで、「いかにも、レッド・ヘリングです」と李奈が発言する。それに対し「レッド・ヘリング・・・・?」李奈の友人で作家の那覇優佳がつぶやいた。「推理小説用語で、意図的な虚偽への誘導、赤いニシンはないけど、塩漬けや燻製の加工で赤くなる。まやかしってこと」と。ここに由来する。このストーリーのモチーフはこの一語にあるようだ。
 『ジーニアス英和辞典』(第5版、大修館書店)を引くと、「red herring (1)燻製ニシン、(2)人の注意を他にそらすもの≪猟犬が獲物を追う訓練ににおいの強い燻製ニシンを使ったことから≫」とある。『新英和中辞典』(第5版、研究社)には、同様に「(1)燻製ニシン、(2)人の注意を他へそらすもの;人をまどわすような情報」と載っている。
 遅ればせながらこの用語を初めて知った。

 24歳の李奈が同じ阿佐谷北の地域内で引っ越しする。優佳、兄の航輝などの協力を得て、アパートから鉄筋コンクリート造でオートロックの低層マンションの2階1LDKの部屋へである。今や李奈作『マチベの試金石』初版3000部がなんとか完売できそうで、重版間近の噂もあるところまで来ていた。ラノベ作家として認められそうな段階に近づいてきていた。
 李奈の推論の協力で難解な事件が次々に解決してきたという評判を聞き付け、妙な依頼が頻繁に持ち込まれる。李奈はその点でも困っていた。最近、自費出版費用とギャラを出すから、明治時代に翻訳された新約聖書について詳細に調べた研究本を書いてほしいという依頼を受けた。李奈は気が進まない。
 引っ越しをしている最中に、立て続けに異変が起こる。アマゾンでの李奈の自著の評価がけさまで星4個以上の評価がみな星1個の評価に変じている。ウィキペディアに李奈の引っ越し先住所が開示され、ファンの少年少女がマンション前に出現。新潮社の編集者に李奈が書いていない官能小説の原稿が送付される。アマゾンのKDPの自費出版として櫻木沙友理の小説の一部を変えて、杉浦李奈名義で小説が販売されている。李奈の母親に李奈が預かり知らない内容のDVD動画像が送られていた、など。李奈をターゲットにした嫌がらせが同時多発していた。
 やっと小説家として名前が出て来た李奈にとって、それぞれが些細な事象でも、マイナス面で名前が知られることは、大きな障害になりかねない。嫌がらせについて警察に通報しても、問題の根本的解決にならない。相談している事実自体が伝わることで逆効果になる可能性もある。李奈は精神的に窮地に追い込まれる。そこからこのストーリーが始まる。

 これらの嫌がらせの源は、聖書の件に関わる奇妙な依頼に関係していた。
 KADOKAWAの編集者菊池を介し、聖書の件だとして依頼主が再度連絡を取ってきた。その人物は、株式会社エルネスト代表取締役、鴇巣東造(ときのすとうぞう)と名乗る。鴇巣はそれとなく李奈への嫌がらせをしてきたことをほのめかす。「きみがどんな目に遭っているか知らないといっただろう。私はただ、聖書にまつわる仕事を引き付けることで、平穏な暮らしが戻ってくるかもしれない、そういってるだけだ」(p35)と。
 このストーリー、ここが実質的な出発点になる。

 結果的に、李奈は「週刊新潮」の寺島義昭記者と共同戦線を張って、李奈が独自にこの聖書問題に取り組むことを表明する形をとる。新潮社編集者の草間ば寺島をスクープ系の記者だという。寺島は李奈に協力するが、李奈をうまく利用して記事ネタを得たい意図がある。それを承知で李奈は、己の身を護るための行動に出ていく。小説家として飛躍していきたい李奈にとり、その足を引っ張る障害となるこの壁を突き崩すことは不可避なのだ。それは李奈が小説家としてサバイバルするための行動だ。

 1880(明治13)年に、ヘボンが新約聖書の翻訳版を日本で出版した。これは後に旧約聖書の翻訳と併せて「明治元訳聖書」と称され最古の日本語版聖書である。ところが、同年に、丸善から別に『新約聖書』の翻訳版が限定500部で出版され、全国のプロテスタント教会で販売されたという。だが今はその存在すら忘れられている。この丸善版『新約聖書』を探し出すことから初めて、研究本を書く。「純粋なる学術的興味だけだ。私の信仰心が理由ではないとだけはいっておこう。うちは神道ひとすじだったのでね」(p39)と鴇巣は李奈に言う。だが、鴇巣の狙いは、まず丸善版『新約聖書』の現物を入手することに眼目があるのだと李奈は推測する。聖書の現物を熱望するのはなぜか? 

 李奈が研究本を書くためにこの幻の聖書探しを表明した記事を見た人々から、連絡窓口の新潮社に寄せられた情報のうちの1件が取っかかりになる。丸善版聖書を読んだことがあると、成兼勲と名乗る高齢者からの連絡だ。李奈が優佳の同行で成兼家に訪ねて行くと、その日に成兼勲は亡くなっていた。李奈は死亡事故が発生した現場を訪ねることで、その事故の解明に関わっていくことになる。勲の妻智子の記憶を糸口に、幻の聖書探しのさらに一歩を踏み出していく。

 このストーリー展開には、興味深いところやおもしろいところなど、その特徴がいくつかある。
1.明治以降の日本における聖書の翻訳の経緯の一端が背景情報としてわかること。
 丸善版新約聖書はこのストーリーでフィクションとして組み込まれている。
 それがごく自然に巧みに織り込まれていて、重要な要素となるところがおもしろい。
2.要所要所に、万能鑑定士Qの莉子が、小笠原莉子として登場してくる。
 万能鑑定士Qの愛読者には、楽しめることになる。莉子が脇役で活躍するのだから。
3.徳川慶喜と勝海舟が織り込まれてくる。この二人の人間関係について、一つの仮説がこのストーリーに組み込まれて行く。これがなかなか穿った見方に思えてくる。
 二人の関係性について、史実情報を知らないのでどこまで信憑性があるのかは不詳。
 しかし、改めて、事実としての人間関係を知りたくなる。
4.徳川埋蔵金問題が絡んでくることで、一段とストーリーがおもしろさを増して行く。
 この都市伝説(?)の織り込み方と落とし所。その展開はさすがに巧妙である。
5.冒頭に出てくる李奈に対する様々な嫌がらせ事象を作り出している背景の内幕説明が興味深い。ブックレビュー投稿の処理法。KDP自費出版の仕組み。目の虹彩の輝きが持つ意味と解析。ディープエコー。AIボイスチェンジャー。文学テキストマイニング・・・・など。
6.出版業界を背景にしたビブリオミステリーなので、実際の出版業界絡みの内幕ネタが織り込まれている。編集者と作家の関係、出版社の雰囲気の違いなどがイメージしやすい。さらに背景の一つとして、作家名や作品名、さらには作品に対し、登場人物たちが、寸評的な会話として織り込まれていく。そこでこのフィクションにリアル感が増す。
 このストーリーに登場する現代の作家名と作品名に限定して気づいた範囲で列挙する。どういう文脈でどのように組み込まれているかは本書でお楽しみいただきたい。
 西村賢太『苦役列車』、司馬遼太郎『歳月』、山岡荘八『徳川慶喜』、家近良樹『その後の慶喜』、鯨統一郎『歴史はバーで作られる』『邪馬台国はどこですか』『徳川埋蔵金はここにある』、吉行淳之介、逢坂剛、濱嘉之、朝倉かすみ『にぎやかな落日』、横溝正史、有栖川有栖『孤島パズル』、池波正太郎、角田光代『紙の月』等。
 
 今、推論Ⅵを読んでいる途中なのだが、このⅥまでの各巻では、警察の事件に関わるところからストーリーが動き出すパターンである。李奈の推論の起点、アプローチがこれまでとは違う新機軸がここに生み出され、完結型ストーリーとなっている、一気に読ませるところはさすがに手慣れたものといえる。

 最後の場面は茗荷谷という人物との会話である。李奈が答える。「だからこそ生き甲斐になります。作品を世にだすからには責任が伴いますけど、どんな反応があろうとも、わたしは自分なりの表現を曲げないつもりです。そんな決心がつきました」(p291) 「ひとりはもう怖くありません」(p292) と。茗荷谷とは誰か? それは本書でお楽しみを・・・・・。

 杉浦李奈がまた一層精神的な強さを身につけた。引き続く作品に期待したい。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
ディープフェイクとは?実例や悪用問題・作り方・アプリを徹底解説 :「SEDesign」
音声変換ソフトウェア  :「SEIREN VOICE」
【大ヒット】AIボイスチェンジャーのおすすめ5選!特徴を比較 :「iMyFone」
日本語訳聖書 :ウィキペディア
明治元訳聖書 :ウィキペディア
大正改訳聖書 :ウィキペディア
聖書翻訳の歴史  :「日本聖書協会」
徳川埋蔵金  :ウィキペディア

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
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