備中松山城。地図で確かめると岡山県岡山市の北西に位置する高梁(タカハシ)市に所在する。JR伯備線備中高梁駅が最寄り駅。城はこの駅から北方向にあり、備中高梁駅から遊歩道を歩いて登れば天守までは約90分の距離という。
備中松山藩の先代藩主・板倉勝職の時代に、10万両の借金を累積した。備中松山藩第7代藩主は伊勢桑名松平家から板倉家の婿養子となった勝静(カツキヨ)。勝静は寛政の改革を行った松平定信の孫である。
山田方谷は、板倉勝静により抜擢され、元締兼吟味役となり藩財政の立て直しを担当する。10万両の借金を完済しただけではなく、10万両の蓄財をするところまで藩財政を回復させたそうだ。
この歴史時代小説は、江戸時代末期において、備中松山藩の財政改革に取り組んだ山田方谷を主軸にして、備中松山藩の状況を描きつつ、時代が大きく動いていく姿に光を当てていく。
本作は「山陽新聞」に連載発表された後、大幅に加筆修正され、2024年11月に単行本が刊行された。
「こんな時なればこそ、人は常と同じ暮らしを営まねばならぬのです」(p365)という儒者・山田方谷の信念が本作のテーマになっていると受け止めた。
この一文の直前に次の記述がある。「・・・・たまたま自分たちは時世の推移が緩やかなる日々を送っていただけで、この国は神代の古しえより数々の有為転変を乗り越えてきた。だとすれば国とは、いつ激しい浮沈に見舞われても不思議ではない。そして人は常にその変化を乗り越え、今という日を迎えているのだ」(p365)
方谷の目線は、常にまずこの世に生きる人々に注がれている。武士優先ではない。武士も人々の一部にすぎないという立場である。商家の出ながら儒学を学び、優秀である故に京都に留学し長く学んだ。藩儒に登用され藩校有終館学頭(校長)を務め、私塾「牛麓舎」をも開いた。その山田方谷が、備中松山藩五万石、小藩といえども藩財政を司る元締に大抜擢されたのである。10万両(約160億円)の借財。利子は年1万3000両に達していた。そういう状況の藩財政の改革だから、損な役回りを引き受けたことになる。
一介の儒者に何ができるか。江戸末期における備中松山藩の財政回復プロセスと、山田方谷並びに方谷と関係の深かった人々の生きざまが、史実を踏まえて、鮮やかに織りなされ、描き出されていく。
まず、山田方谷の後半人生での思考と行動が主軸となる。どのような人だったか。藩財政改革のためにどのような方策をとったか。何を成し遂げたか。この時代の動きをどのようにとらえていたか、・・・・。どのような人々との交流があったか。読み進める過程でその全体像がわかってくる。
この小説から、山田方谷という人物を知ることができる。それが一つの眼目となる。手元にある高校生向け日本史学習参考書をチェックしてみたが山田方谷の名は出てこない。一般的にはあまり表に出てこない歴史上の人物。知る人ぞ知る類の偉人と言えよう。
併せて、幾人かの主だった登場人物の生きざまが点描される。小説、フィクションであるが、これらの人々はモデルとなる人物が実在したのではないかと思う。
印象深い幾人かを取り上げてみる。具体的な行動等は本書をお読みいただきたい。
熊田恰(アタカ)
ストーリーの冒頭にまず登場。藩一番の剣豪。君側の奸は排除すべし。そう決断し、元締に抜擢された山田方谷を暗殺しようと付け狙う。山田方谷を観察し、身近に感じるにつれ、己の信念を180度逆転させていく。藩の剣術指南役。武士として生きた人。
藩主・板倉勝静
山田方谷を元締兼吟味役に抜擢し、師も同然に遇する。松平定信の孫として、幕府の老中になることを望んだようだ。山田方谷が財政立て直しの成果を上げたことで、勝静の望みは実現していく。勝静を介して、幕末期の江戸幕府の実状が見えて来る。藩主勝静と方谷との関わりを通じて、勝静の行動と姿が明らかになっていく。
大石隼雄(ハヤオ)
国家老の長男。方谷の門人の一人。近習頭の立場から方谷の政務を助ける。
鳥羽・伏見の戦いの後における備中松山藩のあり様について、藩主不在の中で、国老として隼雄は勇断を迫られる立場になっていく。隼雄の生きざまの正念場となる。
三島貞一郎
師の方谷が、元締兼吟味役としての政務に忙しい中で、私塾「牛麓舎」の学頭の立場を担う。後に、己の学問修行のために、江戸に旅立って行く。その後は方谷や隼雄を助ける立場になる。
塩田虎尾
江戸に遊学し、江川太郎左衛門の江戸分塾(縄武館)で西洋流砲術を学ぶが、相性が悪いのか身が入らない。航海術に関心を向けていく。縄武館で知己となるのが新島七五三太(後の新島譲)である。備中松山藩が、後に西洋帆船を購入する決断をした時には、快風丸と名づけられた藩船の船長として活躍する立場になっていく。
虎尾を介して、幕府側の西洋砲術や航海術の導入状況などが具体的に見えて来る。
川田竹次郎
備中松山藩江戸屋敷の藩儒。学問所篤学(塾頭)になる。時世の推移を洞察し、西洋船購入を献策した。西洋船の購入に対し、方谷は賛成だったという。川田は虎尾の航海術への関心を鼓舞する。
山田耕三
方谷の弟・医師山田平人の子であるが、方谷の養子となる。このストーリーでは、主に養父方谷を見つめる立場から己の考えを語る。読者にとっては方谷という人物を客観的に見極める上で役にたつ。一方で、耕三という人を知ることにもつながる。
この歴史時代小説、上記の一群の人々が、備中松山藩という小藩の立場で、どのようにあの時代を生き抜いて行ったかを知ることになる。また彼らの視点から、江戸時代末期の全体状況が見えて来るというストーリーである。
幕末期をイメージしやすくする一書がここに加えられたと感じている。
最後に、覚書を兼ね、印象深い箇所を引用しておきたい。
*やはり人を僻目(ヒガメ)で眺める者は、当人自身もまた同じ僻事に手を染めていたわけか。 p74
*人は誰しも年齢を重ねるにつれ、要るものと要らぬものを的確に見分ける術を学ぶのだろう。しかしだからといってそれを年少者に押し付けることは、日々、未知の経験に向き合う年若い者のあらかじめ狭める行為でしかない。 p120
*世が大きく様変わりした後、新たなる明日を切り開くのもまた、我ら人なのですから。 p262
*政も国も、幕府も朝廷も、すべては一人一人の人がより良く生きるための仕組みにすぎません。そして人とはすべからく心を鏡の如く磨き、私利私欲を捨てて天の理を受け、世を、他者を禅へと導く存在であるべきなのです。 p263
*人と人の縁とは、流れゆく川に似ているな。一見するといつまでも変わらぬと映るが、はたと気付けば二度と取り返しのつかぬものが、手の届かぬ遠くに流れ去っていることも珍しくない。後になって、ああしておけばこうしておけばと悔やむのは、もう懲り懲りだ。 p341
*思えば養父である方谷は常に、目に見える分かりやすい結果ではなく、それを支える人の魂を重んじ続けた。 p395
*自分たちはただ世々不変に在り続ける国の上を吹き過ぎるひと時の風に過ぎない。そして真の勝者とは、国の重みを知り、己ではなく国のために生きられる者、世々不変なるこの地を守ることを、第一に考えられる者なのだ。 p403
*変わり続ける世であればこそ、人々の歩みを支えるものは、個々人の裡にしか存在しないのだ。 p457
自らの境涯に心くじけかねぬ今だからこそ、人は懸命に顔を上げ、明日からの日々を迎えねばならぬはずだ。 p466
このストーリーは、方谷と耕三の短い会話で終わる。その後に、
世は移ろい、孤城は春にして、人は変わらぬ今日を迎える
という一文が記されている。本書のタイトルはここに由来するようだ。
ご一読ありがとうございます。
補遺
天空の山城 備中松山城 ホームページ
高梁歴史人物辞典 ホームページ
山田方谷記念館 高梁市公式ホームページ 高梁市
山田方谷(新見市 山田方谷記念館)
山田方谷 :ウィキペディア
山田方谷マニアックス ホームページ
山田方谷の功績 :「山田方谷のキセキを巡る旅」(倉敷観光WEB)
「方谷の道」十二碑 :「高梁市観光ガイド」
山田方谷の生涯第1章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第2章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第3章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第4章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第5章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第6章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷が見た時を越えて 岡山県倉敷市観光課 YouTube
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備中松山藩の先代藩主・板倉勝職の時代に、10万両の借金を累積した。備中松山藩第7代藩主は伊勢桑名松平家から板倉家の婿養子となった勝静(カツキヨ)。勝静は寛政の改革を行った松平定信の孫である。
山田方谷は、板倉勝静により抜擢され、元締兼吟味役となり藩財政の立て直しを担当する。10万両の借金を完済しただけではなく、10万両の蓄財をするところまで藩財政を回復させたそうだ。
この歴史時代小説は、江戸時代末期において、備中松山藩の財政改革に取り組んだ山田方谷を主軸にして、備中松山藩の状況を描きつつ、時代が大きく動いていく姿に光を当てていく。
本作は「山陽新聞」に連載発表された後、大幅に加筆修正され、2024年11月に単行本が刊行された。
「こんな時なればこそ、人は常と同じ暮らしを営まねばならぬのです」(p365)という儒者・山田方谷の信念が本作のテーマになっていると受け止めた。
この一文の直前に次の記述がある。「・・・・たまたま自分たちは時世の推移が緩やかなる日々を送っていただけで、この国は神代の古しえより数々の有為転変を乗り越えてきた。だとすれば国とは、いつ激しい浮沈に見舞われても不思議ではない。そして人は常にその変化を乗り越え、今という日を迎えているのだ」(p365)
方谷の目線は、常にまずこの世に生きる人々に注がれている。武士優先ではない。武士も人々の一部にすぎないという立場である。商家の出ながら儒学を学び、優秀である故に京都に留学し長く学んだ。藩儒に登用され藩校有終館学頭(校長)を務め、私塾「牛麓舎」をも開いた。その山田方谷が、備中松山藩五万石、小藩といえども藩財政を司る元締に大抜擢されたのである。10万両(約160億円)の借財。利子は年1万3000両に達していた。そういう状況の藩財政の改革だから、損な役回りを引き受けたことになる。
一介の儒者に何ができるか。江戸末期における備中松山藩の財政回復プロセスと、山田方谷並びに方谷と関係の深かった人々の生きざまが、史実を踏まえて、鮮やかに織りなされ、描き出されていく。
まず、山田方谷の後半人生での思考と行動が主軸となる。どのような人だったか。藩財政改革のためにどのような方策をとったか。何を成し遂げたか。この時代の動きをどのようにとらえていたか、・・・・。どのような人々との交流があったか。読み進める過程でその全体像がわかってくる。
この小説から、山田方谷という人物を知ることができる。それが一つの眼目となる。手元にある高校生向け日本史学習参考書をチェックしてみたが山田方谷の名は出てこない。一般的にはあまり表に出てこない歴史上の人物。知る人ぞ知る類の偉人と言えよう。
併せて、幾人かの主だった登場人物の生きざまが点描される。小説、フィクションであるが、これらの人々はモデルとなる人物が実在したのではないかと思う。
印象深い幾人かを取り上げてみる。具体的な行動等は本書をお読みいただきたい。
熊田恰(アタカ)
ストーリーの冒頭にまず登場。藩一番の剣豪。君側の奸は排除すべし。そう決断し、元締に抜擢された山田方谷を暗殺しようと付け狙う。山田方谷を観察し、身近に感じるにつれ、己の信念を180度逆転させていく。藩の剣術指南役。武士として生きた人。
藩主・板倉勝静
山田方谷を元締兼吟味役に抜擢し、師も同然に遇する。松平定信の孫として、幕府の老中になることを望んだようだ。山田方谷が財政立て直しの成果を上げたことで、勝静の望みは実現していく。勝静を介して、幕末期の江戸幕府の実状が見えて来る。藩主勝静と方谷との関わりを通じて、勝静の行動と姿が明らかになっていく。
大石隼雄(ハヤオ)
国家老の長男。方谷の門人の一人。近習頭の立場から方谷の政務を助ける。
鳥羽・伏見の戦いの後における備中松山藩のあり様について、藩主不在の中で、国老として隼雄は勇断を迫られる立場になっていく。隼雄の生きざまの正念場となる。
三島貞一郎
師の方谷が、元締兼吟味役としての政務に忙しい中で、私塾「牛麓舎」の学頭の立場を担う。後に、己の学問修行のために、江戸に旅立って行く。その後は方谷や隼雄を助ける立場になる。
塩田虎尾
江戸に遊学し、江川太郎左衛門の江戸分塾(縄武館)で西洋流砲術を学ぶが、相性が悪いのか身が入らない。航海術に関心を向けていく。縄武館で知己となるのが新島七五三太(後の新島譲)である。備中松山藩が、後に西洋帆船を購入する決断をした時には、快風丸と名づけられた藩船の船長として活躍する立場になっていく。
虎尾を介して、幕府側の西洋砲術や航海術の導入状況などが具体的に見えて来る。
川田竹次郎
備中松山藩江戸屋敷の藩儒。学問所篤学(塾頭)になる。時世の推移を洞察し、西洋船購入を献策した。西洋船の購入に対し、方谷は賛成だったという。川田は虎尾の航海術への関心を鼓舞する。
山田耕三
方谷の弟・医師山田平人の子であるが、方谷の養子となる。このストーリーでは、主に養父方谷を見つめる立場から己の考えを語る。読者にとっては方谷という人物を客観的に見極める上で役にたつ。一方で、耕三という人を知ることにもつながる。
この歴史時代小説、上記の一群の人々が、備中松山藩という小藩の立場で、どのようにあの時代を生き抜いて行ったかを知ることになる。また彼らの視点から、江戸時代末期の全体状況が見えて来るというストーリーである。
幕末期をイメージしやすくする一書がここに加えられたと感じている。
最後に、覚書を兼ね、印象深い箇所を引用しておきたい。
*やはり人を僻目(ヒガメ)で眺める者は、当人自身もまた同じ僻事に手を染めていたわけか。 p74
*人は誰しも年齢を重ねるにつれ、要るものと要らぬものを的確に見分ける術を学ぶのだろう。しかしだからといってそれを年少者に押し付けることは、日々、未知の経験に向き合う年若い者のあらかじめ狭める行為でしかない。 p120
*世が大きく様変わりした後、新たなる明日を切り開くのもまた、我ら人なのですから。 p262
*政も国も、幕府も朝廷も、すべては一人一人の人がより良く生きるための仕組みにすぎません。そして人とはすべからく心を鏡の如く磨き、私利私欲を捨てて天の理を受け、世を、他者を禅へと導く存在であるべきなのです。 p263
*人と人の縁とは、流れゆく川に似ているな。一見するといつまでも変わらぬと映るが、はたと気付けば二度と取り返しのつかぬものが、手の届かぬ遠くに流れ去っていることも珍しくない。後になって、ああしておけばこうしておけばと悔やむのは、もう懲り懲りだ。 p341
*思えば養父である方谷は常に、目に見える分かりやすい結果ではなく、それを支える人の魂を重んじ続けた。 p395
*自分たちはただ世々不変に在り続ける国の上を吹き過ぎるひと時の風に過ぎない。そして真の勝者とは、国の重みを知り、己ではなく国のために生きられる者、世々不変なるこの地を守ることを、第一に考えられる者なのだ。 p403
*変わり続ける世であればこそ、人々の歩みを支えるものは、個々人の裡にしか存在しないのだ。 p457
自らの境涯に心くじけかねぬ今だからこそ、人は懸命に顔を上げ、明日からの日々を迎えねばならぬはずだ。 p466
このストーリーは、方谷と耕三の短い会話で終わる。その後に、
世は移ろい、孤城は春にして、人は変わらぬ今日を迎える
という一文が記されている。本書のタイトルはここに由来するようだ。
ご一読ありがとうございます。
補遺
天空の山城 備中松山城 ホームページ
高梁歴史人物辞典 ホームページ
山田方谷記念館 高梁市公式ホームページ 高梁市
山田方谷(新見市 山田方谷記念館)
山田方谷 :ウィキペディア
山田方谷マニアックス ホームページ
山田方谷の功績 :「山田方谷のキセキを巡る旅」(倉敷観光WEB)
「方谷の道」十二碑 :「高梁市観光ガイド」
山田方谷の生涯第1章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第2章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第3章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第4章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第5章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷の生涯第6章 岡山県倉敷市観光課 YouTube
山田方谷が見た時を越えて 岡山県倉敷市観光課 YouTube
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