遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『一夜 隠蔽捜査10』   今野敏   新潮社

2024-07-20 23:33:17 | 今野敏
 竜崎伸也を主人公とする隠蔽捜査シリーズは、著者の手がけるシリーズ物の中では特に好きな愛読シリーズである。このシリーズ、3.5、5.5、9.5という番号づけが途中に組み込まれているので、タイトルは隠蔽捜査10であるが、このシリーズとしては第13弾の長編小説となる。「小説新潮」(2022年10月号~2023年9月号)に連載された後、2024年1月に単行本が刊行された。

 余談であるが、このシリーズには2つの受賞歴がある。2006年に『隠蔽捜査』が吉川英治文学新人賞となる。2017年に「隠蔽捜査」シリーズが吉川英治文庫賞を受賞している。シリーズ物としては定評を得ていることがうかがえる。

 さて、竜崎伸也は現在神奈川県警本部に異動し、部長官舎のマンション暮らしで、公用車通勤し、刑事部長の要職についている。原理原則論と論理的思考、現場主義を基盤とする竜崎の信条は微動だにしない。読者としてはそこが実に魅力的なのだ。

 このストーリー、小田原署に行方不明届が出されたと、竜崎が阿久津重人参事官から報告を受けるところから始まる。行方不明届はよくあることなので、なぜ阿久津がわざわざ報告するのか竜崎は不審に思う。この行方不明者が大問題となっていく。
 最近また大きな文学賞を受賞した小説家の北上輝記が行方不明の当人だった。小説を読まない竜崎はこの時、この作家の名前すら知らなかった。
 小田原署の副署長がたまたま届けの記録を見て、署長に報告。それが県警本部に上り竜崎が報告を受けることになった。副署長はこの小説家のファンだった。竜崎はまず箝口令を敷けと指示を出す。その直後、竜崎は本部長から呼び出しを受けた。
 佐藤実県警本部長にこの行方不明届が伝えられていた。佐藤本部長は北上輝記の大ファンだった。佐藤は伝手を頼って北上と横浜の中華街で食事を共にしたことがあるという。佐藤は竜崎に特殊班(SIS)を動かそうと思うのだが、と投げかける。捜査においてSISを動かすかどうかは、竜崎刑事部長の専権事項だろうと言う。ここでの会話が楽しい。そこに竜崎のスタンスが即座に出ている。
「そんなことはありません。板橋捜査一課長が(SISの)出動を命じることもできます」
「あ、そうなの?」
「はい」
「でも、捜査一課長にその気がなくても、部長が言えば、誰でも逆らえないよね?」
「考えろというのは、つまり、特別扱いしろということですか?」
「いやあ、強要はできないよ。だから、相談してるんだ。俺、ファンなんだよね」
「北上輝記のですか?」
竜崎は、「相手によって捜査に力を入れたり手を抜いたりという差をつけることはできません。それは、さきほども申しました」と。    (p10)
 竜崎の真骨頂が直ちに本部長に対しても出ている。これがスタート地点になるのだから、おもしろい。どこかの高級官僚群のように、忖度などしないのだ。
 さてどうなる。

 竜崎流が早速発揮される。午後10時半頃に、竜崎は小田原警察署に到着た。捜査本部の準備がされていた。竜崎は副署長と板橋課長の話を聞く。北上が車で連れ去られるところを目撃した者がいると言う。特殊班中隊(SIS)が既に小田原署に来ていると板橋課長が竜崎に告げる。竜崎と板橋課長との会話が一段落した時点で、「今からここは捜査本部だ」と竜崎が承認した。

 ここから捜査本部の有り様が面白味を加えることになる。なぜか?
 普通、捜査本部が立つと、本部の刑事部長はポイントとなる場面、捜査会議に列席するだけである。竜崎は捜査本部の設置された小田原署に、ほぼ詰めるという行動を取り始める。最前線の現場の状況、情報を己自身で知り、的確な判断と指示をするという信念である。勿論、これは板橋課長並びに小田原署の署長・副署長にとっては、いわば異例の状況に近い。捜査本部がどのように進展するのか。つまり、竜崎がどのような立ち位置で捜査本部に詰めるかが、読者にとっての興味となる。まずは板橋課長と竜崎との間で捜査の進め方についての判断等の関係が重要にならざるを得ない。板橋課長にとって本部運営のやりづらさがまず障害にならないかである。

 一つ大きな変動要素が加わってくる。小説家の梅林賢と名乗る男が誘拐捜査にボランティアとして協力できると小田原署に来たのだ。本部が誘拐事件としての公式発表をしていない時点での申し出である。小田原署の内海副署長はこの小説家を知っていた。北上輝記と親交があったはずで、北上と同じくらい有名だと言う。梅林に応対した者は、本人が誘拐されたことは推理すれば誰でもわかる、自分なら捜査の手伝いができると語っていると報告した。
 板橋課長は追い返せと言う。竜崎は興味があるので自分が応対すると引き受ける。竜崎の判断理由は明確である。1.現場の仕事に、俺は必要ではない。板橋課長が現場のトップであることを明確にした。2.梅林がどのように誘拐と推理したかを知りたい。また、小説家同士にしかわからないことがあるはずだ。それが捜査のヒントになるかもしれない。
 捜査本部とは切り離した小田原署内の部屋にて竜崎が梅林に対応していくことになる。勿論、進行中の捜査情報は一切梅林には語れないという制約、大前提で、竜崎が梅林に応対するというサブ・ストーリーが捜査プロセスのストーリーとパラレルに進行していく。通常の捜査にはありえないこのサブ・ストーリーの進展がおもしろい。そこには小説家の世界を内側から眺めた話も登場するので、読書好きには興味が持てるだろう。竜崎がどのように梅林に対応するかが読ませどころとなる。

 誘拐事件捜査という本筋のストーリーと並行していくつかの傍流が組み込まれていくところが、本書の構成として興味深い。3つの流れが上記2つの流れに併存していく。読者にとっては、それらの傍流が本流にどのように絡むのかが楽しみになる。
1. 竜崎の息子の邦彦が、ポーランド留学から帰国してくることになった。竜崎が結果的に、小田原署に赴いた日である。帰国した邦彦は留学経験を踏まえて、東大を退学すると母親に考えを告げたのだ。竜崎は妻から、邦彦の東大退学の意思についての対応と対話の下駄を預けられる。さて、竜崎どうする? が始まる。

2. 八島圭介が新任の警務部長として異動してきた。八島は竜崎の同期である。竜崎は相手にしていないのだが、八島は竜崎をライバル視している。本部長と竜崎の関係を常に注視しているのだ。北上誘拐事件についても、いち早くそれを知ると、竜崎に絡んでくるようになる。いわば竜崎の失点ねらいというところでの関心である。要所要所で竜崎は対応を迫られる立場になる。こういう類いの人物はどこの世界にも居るのではないかと思う。こういう傍流の組み込みは、俗っぽさをリアルに反映させてストーリーに面白さを加える要素となる。
 一例だが、八島警務部長は、竜崎と連絡がとれないと、捜査本部の板橋課長に「くれぐれもヘタを打つな」と連絡をいれたのだ。勿論、竜崎は板橋に「警務部長が言ったことなど、気にしなくていい。俺が電話しておく」と即座に応え、対処したのだが。

3. 阿久津参事官が竜崎に警電で、東京の杉並区久我山で発生した殺人事件の概要を報告してくる。竜崎の同期である伊丹刑事部長が扱う事件である。
 竜崎が梅林との面談を繰り返し、対話を重ねていると、東京でのこの殺人事件の被害者の名前に聞き覚えがあると梅林が、全く関係がない話なのだがとふと漏らした。
 竜崎は伊丹に連絡を入れてみる。伊丹は梅林に直接話を聞けないかと言い出す。伊丹は梅林のファンの一人だった。梅林のふと漏らしたことがどう展開するのか。興味津々とならざるを得ない。

 SISのメンバーは北上輝記宅に詰めているが、誘拐犯からは一向に要求事項の連絡が入らない。誘拐については箝口令を敷いた状態で、報道媒体には情報が流れてはいない。SISは誘拐犯の考えがつかめない。そんな最中に、SNSに北上が誘拐に遭ったという書き込みが発生し、拡散された。ここから動きが出始める。
 犯人から被害者宅に誘拐を公表しろという電話連絡が入る。普通の誘拐事件とは様相の異なる事態へとさらに一歩踏み出していくことに・・・・・。
 誘拐されて72時間を超えると、被害者の生存率が格段に下がるという経験則がある。
 読者にとってはおもしろい展開となってくる。

 タイトルの「一夜」は、小説家の梅林賢が竜崎の息子邦彦に語る次の一文に出てくる。「人生なんて、一夜もあればすかり変わってしまうこともあるということだ」(p329)に由来する。

 最後に、本作に出てくる竜崎の信条や観察による思考に現れるフレーズをご紹介しておこう。竜崎のキャラクターをイメージしやすくなるのに役立つだろう。
*捜査情報を漏らしたら、俺はクビになる。  p12
*キャリア同士は親しくなる必要などないのだ。どうせ、みんな二年ほどで異動になるのだ。  p13
*東大には再興の教授陣と研究機関がある。教育機関としてこれ以上の環境はない。
 豊かな文脈もある。  p49
*大学は職業専門学校じゃないんだ。  p82
*本部長が心配したからといって、捜査が進むわけじゃない。  p89
*約束すると、嘘をつくことになりかねません。  p112
*事件に派手も地味もない。  p127
*追い詰められたら、人間はリスクのことなど忘れて犯罪に走ることがあります。p130
*捜査情報を守ろうとするあまり、亀のように甲羅の中に閉じ籠もってはいけない。p131
*「理屈が通っている」などとわざわざ考えるときはたいてい理屈が通っていないのだ。p152
*強くなければ謙虚にはなれない。  p159
*間違ってはいけないのはネットやSNSが悪いわけじゃない。悪いのはそれを利用する犯罪者だ。 p189
*そもそも俺は、自分が警察官であることを前提で物事を考えている。だから、他の職業のことなど、考えたこともない。  p244
*自分の人生に、そういうものは必要だろうか。
 そして、必要ではないという結論に至った。
 読みたければ読めばいいし、観たければ観ればいい。それだけのことだ。  p335

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』    幻冬舎
『天を測る』       講談社
『署長シンドローム』   講談社
『白夜街道』       文春文庫
『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
『審議官 隠蔽捜査9.5』   新潮社
『マル暴 ディーヴァ』   実業之日本社
『秋麗 東京湾臨海署安積班』   角川春樹事務所
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                      2022年12月現在 97冊

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『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』  今野敏   幻冬舎

2024-07-04 11:07:27 | 今野敏
 警視庁強行犯係・樋口顕シリーズの第8弾。これも愛読シリーズの1つ。「小説幻冬」(VOL.68~79)に連載された後、加筆、修正され、2023年8月に単行本が刊行された。
 
 このストーリー、氏家譲警部が現在関わっている事件のことについて、樋口が氏家と話をする場面から始まる。氏家は捜査第二課選挙係から、少年事件課・少年事件第九係の係長に異動したばかりである。氏家は少年係の経験が長かったので適任ともいえる。話題になったのは、未成年者略取誘拐の事案だった。この導入部を読み、未成年者略取誘拐事件とはどういうものか、初めて知った次第。これは親告罪とのことで、当事者双方が事件性を否定していても、未成年者の両親が訴えると言えば、法に則った処理をすることになるそうだ。
 さて、この氏家と樋口の会話が、後の殺人事件への伏線になる。樋口の発案で氏家は殺人事件の捜査に加わることになる。

 樋口が氏家の話を聞いてから3日後に事件が発生。天童管理官から樋口班に指示が出る。殺人事件現場は西多摩郡奥多摩町丹三郎。近所の住人で犬と散歩中の高齢者が発見し110番通報。現場は、ホテルなどで使われる業務用シーツに素裸の未成年の少女をくるんで、ここまで来て、車を停めて、放り出していくような感じで遺体を遺棄して行った様子だった。
 初動捜査で車の目撃者が現れ、黒っぽいハッチバッグの車が使われていたことがわかる。だがそこからの追跡調査が難航する。
 遺体の写真を見た渋谷署・少年係の梶田邦雄巡査部長から連絡があった。被害者は梅沢加奈、17歳、高校2年生と思われると。ネット通販などをてがけているファッション系のIT企業「ペイポリ」と連携し、女子高校生だけで運営される「ポム」と称する企画集団があり、梅沢加奈はその企画集団の一員だった。梶田はその企画集団が売春グループの隠れ蓑に使われているという疑いを抱き、ペアの中井塁巡査長と二人だけで内偵を進めていたのだ。現状では伝聞程度の証拠しかなく、西城係長は確証がなければ乗り気ではない状況という。
 樋口と氏家は、梶田の話を聞き、株式会社ペイポリの担当者を訪ねて、梅沢加奈と推定される被害者について、聞き込み捜査をする糸口を見出した。梶田を加えて身元捜査を実行する。ここから身元捜査の輪が少しずつ広がっていく。

 *西田加奈の身元捜査と事件当時の行動確認の追跡捜査
 *ペイポリとポムの関係はファッション関連での企画というビジネス上の連携だけなのか。ブラックな側面が潜むのか。
 *ポムという企画集団は売春グループの隠れ簔なのか。
 *ポムのリーダーが売春グループのリーダーなのか。
 *ポムのメンバーの一部が売春に関わり、梅沢加奈はその一人ということか。
 *黒っぽいハッチバックについての追跡捜査:聞き込み捜査と道路走行記録画像の捜査
 *業務用シーツの取扱会社の究明とそこから使用が推定されるホテルの究明捜査
など、様々な観点からの捜査が遂行されていく。青梅署に捜査本部が立ち、樋口は天童管理官を介して、渋谷署に待機できる場所を拠点として確保した。梶田と彼のペアの中井を樋口の捜査に専従として参加させる根回しも行った。

 殺人事件の捜査本部が立った中で、殺人犯人をストレートに追跡捜査する本流の動き。そこに売春グループの存在という観点から犯人を追跡する樋口班と協力者たち。天童管理官や捜査本部トップの了解のもとでの捜査活動とはいえ、捜査本部内のダイナミズムが軋轢を生み出す。樋口らの行動を白眼視する輩が出てくるのだ。そういう側面もまたリアルに織り込まれて行くところが興味深い。捜査とは何か。
 捜査方針とは何か。命令を受けた事項に取り組み刑事たちの思いはさまざま。そんなことを考えさせられることになる。
 捜査のプロセスで、何事にも慎重な樋口がある意味でトラップに陥りかける局面も織り込まれていて、おもしろい。

 この樋口顕シリーズでいつもおもしろいと思う所は、樋口が内心で思っている自己像と上司を含む周囲の刑事達が捕らえている樋口像との間にギャップがある点だ。この認識ギャップが事件の推進力になっていく側面もあっておもしろい。
 また、樋口には照美という一人娘が居る。娘が中学・高校の頃にはほとんど話をした事が無いという樋口自身の過去の思いが常に、未成年の少女たちの行動を考える上で、樋口の原点となる。娘と己の人間関係や心理を事件捜査の局面で幾度も内省的に振り返り、取り組んでいる事件について考えるという行為を繰り返す。その思考が捜査視点を顧みる推進力となっていく点がおもしろい。

 このストーリーの根っ子にあるのは、実に地道な捜査の積み上げである。奇をてらうことなく、着実に事実を積み上げて、樋口は思考と推理を重ねて行く。今回も。樋口のキャラクターを十分に楽しめる。読ませどころは、捜査方法の王道を踏むところにある。

 サイド・ストーリーとして、娘のリクエストに応えて、捜査の合間に時間を取る局面を織り込んでいく。秋葉議員と会って、女性の貧困というテーマで刑事の体験と意見を語ることを承諾する。これがちょっとおもしろいインターバルとなり、また取り扱っている事件を別の視点から眺める側面を樋口自身に生み出していく。
 樋口と娘の照美との数少ない会話は、樋口の家庭人としての側面を、読者が垣間見る機会となり1つの楽しみともなる。

 このストーリーの最後のシーンに樋口の真骨頂が現れている。梶田と樋口の会話である。一部抜き出しておこう。
 「どうしたら、樋口さんのようになれるでしょう」
 「俺のようになど、なっちゃだめだ」
 「いえ、自分は目指したいです」
 「ならば」「普通にしていることだ」
 「普通・・・・・?」
 「そう。普通の人が迷い、悩み、悲しみ、そして、感動し、笑うように・・・・。そんな
  警察官でいるのは、意外と難しい」
梶田はこのやり取りで、釈然としない顔をしているところで終わるのだ。おもしろい!

 樋口警部の立ち位置を楽しめるのがこのシリーズの醍醐味とも言える。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『天を測る』       講談社
『署長シンドローム』   講談社
『白夜街道』       文春文庫
『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
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『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
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『天を測る』  今野敏   講談社

2024-06-18 16:52:04 | 今野敏
 著者の作品群を長年愛読してきている。本書の出版広告を見た記憶がなく、たまたま地元の図書館で目にとまった。史実が残る人物を主人公にし、本格的な歴史時代小説の領域で著者が小説を書いていたとは知らなかった。
 著者の作品を読みついできた範囲では、時代小説的なのは、サーベル警視庁シリーズくらいの気がする。

 奥書を見ると、初出は「小説現代」2020年11月号で、同年12月に単行本が刊行されている。

 史実の人物と上記したが、私は本作を読むまで主人公の小野友五郎という逸材が存在したことを知らなかった。幕末・明治の時代の転換期について、また1つ新たな視点を知った。そこには「テクノクラート」が存在したということ。歴史年表に名を連ねる一群の人々の背景に、彼らと時代を支える立場のテクノクラートたちが活躍していたという視点である。
 著者は、末尾の「参考文献」で、藤井哲博著『咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 -- 幕末明治のテクノクラート』を参考にしたと述べ、この文献を参考にして初めてこの小説が完成したと記している。

 小野友五郎は、笠間牧野家家臣であり、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の一期生として学んだ。伝習所以来、艦船での経験を積んでいる。友五郎の得意とした領域は算術であり、観測と計算だった。
 安政7年(1860)1月、江戸幕府外国奉行新見豊前守正興が、日米修好通商条約の批准書交換を目的に、米国艦のポーハタン号に乗船して、アメリカに出向く。小栗豊後守忠順が遣米使節目付として乗船し同行する。
 この時、咸臨丸が随伴艦となり、アメリカに赴いた。小野友五郎は咸臨丸の測量方兼運用方となる。上記の参考文献で言えば、航海長。測量方として、長崎海軍伝習所での後輩である松岡磐吉、赤松大三郎、伴鉄太郎がクルーとなる。また蒸気方(今で言う機関長)として肥田浜五郎が加わる。中浜万次郎(通称、ジョン・万次郎)が遣米使節通弁として乗船。友五郎と万次郎の親交はこの航海時に深まったようだ。
 
 本作は、まず咸臨丸の米国往還と米国滞在中の状況描写から始まっていく。咸臨丸の名前と太平洋航海達成は史実として学んではいた、しかし、その状況は本作を読み、初めてイメージできるようになった。アメリカの海軍士官や航海士等が太平洋横断の往路に乗船していたことを初めて知った。事実をベースにフィクションが組み込まれているとはいえ、咸臨丸の状況がリアルに感じられておもしろい。往路、アメリカ側と日本側がそれぞれの天体測量の結果をオープンに開示する測量合戦をしたそうだ。
 この時の咸臨丸の船長は勝海舟。勝は船に弱いというのを以前にどこかで読んだことがある。本作には、咸臨丸渡航以外にも各所で勝海舟が登場する。多少カリカチュアな描写が含まれているかもしれないが、勝海舟の自己顕示欲的な側面が描かれていて興味をそそる。
 咸臨丸の友五郎らクルーは、サンフランシスコ滞在中、港北端のメーア島海軍造船所に用意された宿舎に滞在したという。そこを拠点に何をしたのか。
 友五郎らは、長崎伝習所でオランダの造船技術を学んでいた。友五郎は、日本が自力で蒸気軍艦を造る同等の力はあると確信していて、その上でアメリカの造船技術情報を収集するということに専念したようだ。勿論、造船所の公式の見学許可を取ったうえである。当時は技術情報の開示は大らかだったことが感じられる。産業スパイ的な発想と警戒心はなかったのだろう。彼我の歴然とした技術力格差という見方、偏見、蔑みが根っ子にあったのだと感じる。そういう時代だったのだろう。友五郎らの行動の描写が彼らの問題意識を鮮やかにしている。

 軍艦奉行木村摂津守喜毅と共に彼の従者という名目で福沢諭吉が咸臨丸に乗船して渡米した。このストーリーではこれを機会に、友五郎と福沢との関わりもできていく。西欧信奉派の立場の福沢と日本の技術力を確信する友五郎とのメーア島での会話が、日本VS西欧の代理対話のように描き込まれるところもおもしろい。

 咸臨丸は帰路にもう1つの任務を持っていたことを本作で初めて知った。無人島の調査。現在の小笠原諸島と称する島々の位置確定と測量である。日本の領土と宣言するための基礎固めという任務。これは咸臨丸の汽罐の蒸気漏れによる出力低下と悪化の懸念から断念され、帰国が優先されたようだ。後に咸臨丸が行う次の仕事になる。
 小笠原諸島の島を拠点に、万次郎が捕鯨をするという夢を抱いていたことも知った。

 咸臨丸での航海を契機に、木村摂津守は友五郎の能力と人柄を大いに評価する。木村摂津守が、幕末の幕府老中の中核で、開国を前提にして欧米の武力干渉に対抗するための政治的な舵取りをする人々と、友五郎とのリンキング・ポイントになっていく。咸臨丸での航海の後、友五郎は幕末の動乱の渦中でテクノクラートとして己の能力を発揮していく。そういう場を与え続けられる。咸臨丸渡航譚は、いわば本作の第一部のようなものである。

 江戸幕府の政事を司るトップの意思を受けて、友五郎がどのような事項に関与して行くことになるのか。それがこのストーリーであり、小野友五郎という逸材の半生を描いていく伝記風小説の側面を持っている。その反面で、テクノクラートの視点から眺めると、幕末期における幕府開国派と尊皇攘夷派との併存と時代の流れが見えてくる。何のための国内戦だったのか。あらためて幕末の動乱期は不可思議な時代だと感じる。

 友五郎がどのような人生を送るかは、本作をお楽しみ頂くとして、友五郎がテクノクラートとして、何に関わり主導的な役割を担う立場に投げこまれたかだけ、時系列的に列挙しておこう。咸臨丸での渡航の後のことである。
 もう一点、先に触れておく必要がある。それは友五郎が抜擢されて、笠間牧野家家臣から、幕臣・旗本に身分が転身するということである。旗本の立場で仕事が始まっていく。勿論、友五郎はもとから日本という視点を思考の中核にしているのだが・・・・。

 *蒸気軍艦建造の建言書の作成と提出 ⇒ 正確な縮尺模型の製作、軍艦建造へ
 *江戸湾の総合的な海防計画 ⇒ 江戸湾測量、砲台位置決定への準備、復命書提出
               ⇒ 『江都海防真論』七巻の完成と建言 ⇒ 実務へ
 *製鉄所付き造船所建設地の選定
 *咸臨丸による小笠原諸島の測量、硫黄島周辺の地形観察
 *公儀の会計事務全般の改革
 *貨幣改革
 *毛利家討伐のための動員計画策定の責任者 第一次、第二次ともに
 *軍艦とその他軍備調達のための渡米
 *兵庫開港の準備

幕臣として上記の様々な課題に携わった友五郎は、明治維新後、民部省への出仕を要請される。54歳のときだそうである。鉄道の測量。たちまち、技師長となり、測量に関わるすべての事柄を掌握していく。
 小野友五郎。テクノクラートとしての役割を担ったすごい逸材が居たのだ!
 違った目で、幕末・明治初期と人物群像をみつめることができる小説である。

 「軍艦とその他軍備調達のための渡米」の課題の遂行プロセスで福沢諭吉が渡米の一員になっていたそうだ。この時の福沢のエピソードが描き込まれている。福沢のいわば身勝手な行動の一側面である。幕末のどさくさでどうも結末はあやふやになったような読後印象をうける。これはネガティブ・エピソードなので、事実を踏まえているのだろうと思う。こんな側面もあったのか・・・と感じる。勝海舟も含め、やはり人は多面的なものの総体なのだと思う。

 最後に、友五郎の発言として記され、印象に残る一文を引用しご紹介しておこう。
*己にないものを自覚し、他者のよさを認めて足し算をしていく。品格というのは、そうして育っていくものでしょう。引き算ばかり考えている連中には、品格が備わることはありません。   p276

*どんなことになろうと、我々は公儀のため、日本のために働かなくてはなりません。
 私はそれに全力を尽くします。     p277

*その理屈は通りません。ご公儀の金で買ったものはご公儀のものです。  p301

*我々は、諸外国に負けない海軍力を培うために、苦労に苦労を重ねて横須賀造船所を造りました。ご公儀とか、薩摩とか、長州とかいう問題ではありません。日本の未来のために、日本人が使うのです。破壊してはいけません。  p313

 それと、元軍艦奉行で、後に勘定奉行として江戸城明け渡しの事務処理を行った木村喜毅が明治維新後に、友五郎を訪れて対話する場面での発言も、印象深い。
*政府は底が浅いので・・・・。公儀で実務を担当していた私から見ると、今の政府は張りぼてです。
 政府の要職に就いた薩摩・長州の連中は。残念ながら、まるで力がない。結局、かつての旗本や大名が実務を担うしかないのです。  p330-331

 ご一読ありがとうございます。


補遺
笠間が生んだ科学技術者 小野友五郎  :「笠間市」 
小野友五郎  :「千葉県富津市」
常陸の国が生んだ幕末明治のテクノクラート 小野友五郎を伝えてゆく会ホームページ
小野友五郎物語  YouTube
福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか? :「blechmusik.xii.jp」
咸臨丸      :ウィキペディア
咸臨丸の歴史   :「木古内町観光協会」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)



こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『署長シンドローム』   講談社
『白夜街道』  文春文庫
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『署長シンドローム』  今野 敏  講談社

2024-04-28 11:54:49 | 今野敏
 これは大森署を舞台とした新しいシリーズの始まりだろうか。
 奥書を見ると、初出は「小説現代」2022年12月号と記されていて、2023年3月に単行本が刊行されている。

 なぜそう思うか。隠蔽捜査シリーズにおいて、竜崎伸也は息子に関わる問題が発生し、左遷されて警視庁大森署の署長となった。大森署はこれまで、竜崎署長の下で登場してきていた。その竜崎が神奈川県警本部の刑事部長に異動となり、竜崎の舞台は神奈川県警に移り、隠蔽捜査シリーズが続いている。
 大森署には、竜崎の異動に伴い、キャリアの藍本小百合が署長として着任した。
 つまり、藍本署長を筆頭とする大森署の組織体制のもとでのストーリーが本作である。この藍本署長がまた特異なキャリアとして登場したのだ。ちょっと天然でユーモラスなところがあり、一方ですごく理知的、判断力も秀でている。一歩引いているが、主導権はちゃんと握っているという感じ。手強さをうまくオブラートに包んでいるという印象をうける。なかなかにおもしろい存在として描きだされているのだ。
 シリーズとして動き出すのかどうか? 本作の読後印象では、竜崎署長時代とは一味異なる形で、藍本署長の独特の采配により貝沼副署長、戸高刑事などが活躍する新シリーズが楽しめそうな感触を掴んだ。読者としてはそうあってほしい。

 本作は、副署長の貝沼悦郎警視の立場と視点からストーリーが進展していく。藍本署長を補佐して、大森署の運営を滞りなく行うという貝沼の思考態度が、まずその中核になっている。貝沼副署長の目を介することにより、警視庁の組織体制に絡まる思考と判断の側面や、竜崎署長時代との対比による思考と行動判断が盛り込まれ、広がりが加わっていく面白さが生まれている。
 刑事組織犯罪対策課(通称、刑事課)の強行犯係・戸高善信刑事は健在である。戸高は不思議なことに藍本署長に信頼されていて両者の相性はよいというのがおもしろい。戸高の活躍場所が確保されていると想像を膨らますことが出来る。関本刑事課長、小松強行犯係長、斎藤警務課長なども従来通りそのまま在籍する。
 このストーリーで、強行犯係に新人、山田太郎巡査長が加わる。小松係長は戸高を山田と組ませて、ペア長とする。貝沼は少し危惧を抱くが様子見をすることに・・・・・。
 この山田、意外な特技を持っていることが明らかになってくる。戸高は捜査活動の中で山田の才能に気づき、彼の能力を引き出していく役回りになる。読者にとっては、この山田のキャラクターがまずおもしろい。どのように成長していくのかを楽しめそうである。

 貝沼副署長の視点から観察した藍本署長と山田刑事のプロフィールを本文から抽出してまずご紹介しよう。
 藍本署長を貝沼は次のように見ている。
  *キャリア。併せて、度を超して圧倒されるばかりの美貌の持ち主
   署長に会った者は必ず再度会いたがる。幹部ほど顕著で「署長詣で」が続く
  *朝礼での話はいつでも短い。人前での話は苦手なのか・・・・とも思う
  *署長が「考える」と発する時は本当に考える。婉曲的な断り表現ではない
  *署長のふんわりとしたほほえみは、大森署にとりとてつもなく強力な武器かも
  *知ったかぶりをしない。わからないことはわからないと言う。竜崎前署長と同じ
  *常に最良の結論を導き出す

 山田刑事を貝沼は次のように観察している
  *言われたことをどう思っているのか、さっぱりわからない。読みとれない
  *応答に気迫が感じられない
  *いつもぼんやりとした表情
  *藍本署長のオーラに影響されることがない。この点、戸高と同じ
  *戸高から山田の特技を聞き、驚く
    「こいつ、一度見たことはすべて記憶してしまうようなんです」
この二人の人物設定が読者を楽しませることに。私は楽しんだ。 

 さて、このストーリーについてである。本庁の組織犯罪対策部長でノンキャリアの安西正警視長が大森署を訪れ、大森署に前線本部を設置したいと告げたのが始まりとなる。組対部が時間をかけて内偵してきた事案があり、それについて海外からの情報が入った。銃器と麻薬の密輸取引が羽田沖の海上で行われるという。薬物と銃器の出所はアフガニスタンだと安西部長は言う。アフガニスタンからヘロインと武器を持ちだして売りさばくことに中国人が暗躍しており、羽田沖での買い手はチャイニーズマフィアと推定されると言う。
 組対部が主導なのだが、事案の性格上、組対部と公安外事二課、警備部の特殊部隊などの応援が必要かも知れない、テロ対策チームである臨海部初動対応部隊(WRT)も投入すると言う。東京湾臨海署の船を加え、海上保安庁との連携も考えるという大がかりな前線本部構想なのだ。本部を設置される大森署としてはどうするのか・・・・という問題にもなっていく。貝沼は藍本署長を補佐してその矢面に立つことになるという次第。
 前線本部が設置されると、実質的な責任者は組対部の馬淵課長になる。貝沼の目から見ると、この課長はクレーマーの最たる者だった。貝沼は結果的に、藍本署長から振られて、前線本部に詰める羽目になっていく・・・・・。
 そこにさらに、厚生労働省の麻薬取締部の黒沢隆義が大森署に乗り込んでくる。捜査の邪魔をするなと釘をさしにきたのだが、その黒沢が前線本部に居座る形になっていく。黒沢もまた藍本署長の美貌に魅せられた。

 前線本部において、情報収集の捜査活動で戸高が一働きするとだけ述べておこう。
 複雑な寄合所帯の前線本部がどのようにこの事件に取り組んで行くのか。その紆余曲折がおもしろい。
 度肝を抜く意外な展開から、捜査についての捉え方に興味深さと抱き合わせに面白さが加わって行く。どの観点を基軸に捜査をするか、それによりその後の対策と社会への影とリアクションが大きく変化する。そんな側面を含んでいくところがおもしろい。
 藍本署長の観点は実に明解「大きな荷物を持った外国人を捕まえる。それだけのことなの。余計なことは考えなくていい」(p261)、「こいういう形に収めようと言い出したのは私です。ですから、すべて私の責任。そういうことにしましょう」(p306)実に明解なのだ。竜崎と通底するところを感じる。おもしろい!

 藍本署長と貝沼副署長との二人三脚。大森署ストーリーがシリーズとなってほしいものだ。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『白夜街道』  文春文庫
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「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                      2022年12月現在 97冊
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『脈動』  今野 敏   角川書店

2024-01-18 12:09:48 | 今野敏
 ウィキペディアの「今野敏」によると、本書は鬼龍光一シリーズの一冊に分類されている。この分類に従うと、第6弾ということになる。だが、中央文庫刊の『鬼龍』を読んだ読後印象で書いたように、この鬼龍光一の登場するシリーズにはかなりの変遷がある。
 現在は、警察小説と亡者祓い師たちの登場する伝奇小説を融合させた領域にシフトし、事件の捜査とオカルトが渾然と結びつくエンターテインメント小説になっている。
 本書は2023年6月に単行本が刊行された。

 なぜ、警察小説と伝奇小説をハイブリッドに出きるのか。それは、警察官富野輝彦を鬼龍光一とのリンキング・パーソンとして、富野を主人公に登場させていることによる。鬼龍は脇役に回り、富野に協力する形になった。
 富野の警察官としての肩書は、正式に言えば、警視庁生活安全部少年事件課少年事件第三係となる。略して言えば、少年事件係。職位は巡査部長。
 刑事事件(刑法が適用され、処罰されるべき事件)の捜査にあたる巡査や巡査部長、警部などは刑事と称される。少年事件係はそうではないので、警察官、捜査員と呼ぶのだろうか。
 富野には、全く自己認識がないのだが、富野の先祖を遡るとトミ氏、トミノナガスネ彦の系譜なのだと鬼龍は言う。鬼龍は鬼道衆で、鬼道衆は卑弥呼の鬼道に由来するらしい。鬼龍とペアのようにして登場する祓い師の安部孝景は奥州勢という一派に属している。トミ氏は鬼道衆や奥州勢よりも上位の祓い師(術者)だと見做されてきたらしい。この点で、富野はオカルトの領域とのリンキング・パーソンになっている。富野は祓いについては一切知らないが、鬼龍や孝景が亡者祓いをする瞬間に、光が発するのを感じることができる。富野の相棒である有沢英行は、富野の傍にいてその場に立ち会っていても光の発生など感じない。

 このストーリー、警視庁内で、捜査一課の刑事が記者クラブの記者を殴るという事件が6日前に起こったというところから始まる。有沢が何かがおかしいと富野に投げかけたことを契機に、富野はこの状況に関心を持ち始める。
 さらに、庁舎内で男女の淫らな行為が目撃されるという事態が発生。更には少し前に、庁舎6階の鏡が壊されるという破壊行為も発生していた。立て続けに不祥事が発生している。警察用語で言う非違行為が頻発していた。記者を殴った刑事は、富野の同期の警察官だったことが、しばらく後でわかる。
 その矢先に、神田にある私立高校の生徒、池垣亜紀から富野に電話がかかってくる。亜紀は、警視庁内での問題事象をネット情報で知ったと言い、富野にそれは亡者になったやつらの仕業だと告げる。亜紀は富野に強力な術者に相談するよう助言した。亜紀は玄妙道の術者なのだ。富野は亜紀の助言を無視できない。

 富野は、鬼龍と孝景を呼び出し、相談をもちかけることにした。
 鬼龍は話を聞き、非違行為の頻出は、過去に誰かが警視庁に張っていた結界が、何者かによって破られた。このままでは警視庁の警察組織は崩壊する。結界の有り様と破れをまず早急に調べ、結界を張り直さねばならないと言う。どのようにして調べるか。
 警視庁の浄化装置修復作戦は、まず玄妙道の亜紀を捲き込んで相談することから始まる。
 そして、富野が祓い師たちを案内し、まず警視庁内を調べて回ることになるのだから、おもしろい。どう理由づけし、祓い師たちを警視庁内で自由に行動させるか・・・・。
 
 さらには現在の陰陽師本家である萩原家をも捲き込んでいくことに発展していく

 富野・有沢と術者の鬼龍・孝景・亜紀が調べ方を相談した翌日の朝、富永と有沢は、小松川署に行き、少年の傷害事件の送検に立ち会うよう係長に命じられる。それは不良少年たちの荒川の河川敷での乱闘事件だった。
 富野は送検対象となっている少年、村井猛の取り調べをする。村井の知り合いの島田凪という少女が、対立グループに売春をさせられることになった。事件での対立グループは、木戸涼平とその仲間。島田凪の行方がわからない。ということを村井から聞き出した。
 富田と有沢は、小松川署の担当者である田中巡査部長たちに、本部の少年事件係として協力する形に進展していく。木戸涼平の捜査と、島田凪の行方の捜査がここから始まって行く。
 つまり、少年少女の捜査と警視庁の浄化装置修復作戦。全く次元の異なる二つの課題がパラレルに進展していく。

 少年事件係の捜査実務と警視庁の浄化装置修復作戦の接点が生まれてくる。どのようにしてその接点が論理的に推定されていくか。そして、どんなアクションをとるのか。そこがこのストーリーのエンタ-テインメント性の発揮どころとなっている。これまたおもしろいつながりとなっていく。そこに亡者が絡んでくるのだから。
 
 警視庁舎の浄化装置修復について、少し触れておこう。結界に関わるものはまず、三種の神器の剣と鏡と勾玉である。警視庁内におけるそれに相当するものは何か。庁舎の二階には初代大警視・川路利良の愛刀が展示されている。それはちゃんと保管されていた。六階の鏡は破壊されていた。勾玉はどこにあるのか・・・・・。
 さらに、この庁舎に対して、結界がどのように張られているのか。それが破られているとすれば、どこがどのように、・・・・。そこに、陰陽師本家と祓い師たちの活躍の場がある。
 勿論、最後は結界を張り直すという行動が実行されることになる。

 このストーリーの構成の妙味は、神田署の刑事組対課強行犯係の橘川係長に富野がアプローチして、警視庁内の浄化装置修復作戦の協力者に捲き込んでいくところにある。橘川係長はオカルトマニアなのだ。そして、神霊世界について、豊富な知識を持っている。彼は既に、鬼龍と孝景の能力を信じた警察官の一人であった。

 もう一つ、警察小説と伝奇小説を融合するのをスムーズにするために、第2章の初めに、富野が有沢に「亡者」について説明してやるという記述と会話がある。これが融合への自然さを加えている。読者にその概念を伝えることにもなるのだから。その箇所をご紹介しておこう。
 「怨恨、激しい怒り、喪失感、劣等感、自己憐憫、妬み・・・・・。そうした負の想念が濃縮され、一ヵ所に凝り固まると、大きな影響力を持つ『陰の気』となることがある。
 その『陰の気』に取り付かれたのが亡者だ。亡者になると理性が失われる。いや、麻痺すると言うべきか。理性はあるのだが、それがどこかに追いやられるのだ。
 そして、『陰の気』によって情欲がむき出しになる。激しい暴力衝動や性欲に従って行動するようになるのだ」(p17-18)と富野は語る。
 富野「いくら何でもおかしい。そういったのはおまえだ」
 有沢「でも、その理由が亡者だなんて・・・・・・」
 富野「俺だってばかばかしいと思う。だが、原因を知る手がかりになるかもしれない。
    さあ、ごちゃごちゃ言ってないで、鬼龍と孝景に電話しろ」 (p18)

 本作のタイトル「脈動」がどこに由来するか。脈動という語句は一切出て来ない。
 だが、最終段階に亜紀がある場所で鬼龍が唱える祝詞と同じものを唱える場面が描写される。この場面に由来すると受け止めた。どんな場面かお楽しみに。
 その祝詞とは「ひとふたみよいつむゆななやここのたり・・・・・」

 警察小説好きには、気分転換になる一書といえる。少年事件の捜査がパラレルに進展するストーリーであり、それが警視庁の浄化装置修復作戦というオカルト・ストーリーとリンクしていくのだから、小説ならではの面白さがある。ストーリーの進展を楽しみたい人にはお奨め。

 ご一読ありがとうございます。



こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『白夜街道』  文春文庫
『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
『審議官 隠蔽捜査9.5』   新潮社
『マル暴 ディーヴァ』   実業之日本社
『秋麗 東京湾臨海署安積班』   角川春樹事務所
『探花 隠蔽捜査9』  新潮社
「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                      2022年12月現在 97冊

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