遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』 松岡圭祐 角川文庫

2023-10-05 14:51:32 | 松岡圭祐
 「作家太宰治、五通目の遺書発見か」という新聞報道記事から始まる。この五通目の遺書の鑑定を有名な筆跡鑑定家、南雲亮介氏が進める。この五通目の遺書は、南雲氏の筆跡鑑定の報告書が仕上がるまでは誰にも開示されないことに。その南雲氏は、筆跡鑑定を進めている途中で、重要な関係者の一部には本物に間違いないと洩らしていた。水曜日に報告書を仕上げるという直前に、有数の週刊誌の記者たちが渋谷区松濤にある南雲邸に駆けつけ、第一報を確保しようと1階の遊戯室で待機する事態になる。
 南雲亮介氏の仕事部屋は2階にあり、そこはピアノ室と同じ仕様の防音室で、ドアには鍵穴がなく、内側から施錠すると外からは開けられない。ドアの上には換気用の小さな孔が横一列にならんでいるだけ。南雲の仕事場でボヤが発生した。記者たちは、ドアのわきの壁面を一部壊して、ドアを開き、総動員で消火を行う騒ぎになった。
 南雲亮介氏は一酸化炭素中毒で死亡。五通目の遺書は焼かれてしまった。仕事場の机の上には、日本近代文学館から借りた資料は焼失せずに残っていた。仕事場のパソコンのHDDのデータは隅々まで無関係のデータでストレージが上書きされて、データは何も残っていない状態の復旧不可にされていた。密室での不審死事件が発生したのである。
 鑑定結果の報告書を仕上げ、脚光を浴びようとしていた南雲亮介が五通目の遺書を自ら焼き、自殺するとは考えられない。ならば、密室殺害事件なのか?

 少し以前に杉浦李奈のサイン会を扇田陽輔が訪れていた。彼は渋谷署の刑事で、この事件を担当した。李奈はKADOKAWAの担当編集者菊池に緊急だと急かされて、渋谷区松濤にある南雲邸に連れて行かれる。扇田刑事の要請でもあった。李奈はその事件の解明に捲き込まれて行く。扇田刑事に案内されて李奈は事件現場を観察する。当日南雲邸にいた南雲の妻の聡美、週刊誌の記者たちとも面談する。李奈は太宰治の遺書が絡んだ事件として、事件と太宰治にのめりこんでいくことに・・・・・。

 発見された五通目の遺書は焼失してしまった。太宰治作品の愛読家である李奈は、ここで改めて太宰治が愛人山崎豊栄と一緒に玉川上水で入水自殺するまでに至る一連の太宰治の過去の経緯を考え直し始める。五通目の遺書とみなされているものが焼失した以上、南雲亮介が本物だと口頭で告げていた記載内容は一切わからないのだから。

 この時点で、李奈はもう一つ気がかりなことを抱えていた。小説家柊日和麗(ヒイラギヒカリ)のことである。顔を出すと約束してくれていた李奈のサイン会に来てくれなかったし、何度かラインのメッセージを送っているのに既読がつかず、連絡がとれないのだった。彼は李奈と同時に本屋大賞にノミネートされた作家で共に大賞からは外れた。柊日和麗は、太宰とはまるで異なるが、繊細な純文学系の私小説を書く作家なのだ。
 
 「太宰はなくなるまでに、何度となく自殺未遂を繰り返している。心中相手のみ死亡という事態もあった。それらの苦い経験にも触れた『人間失格』は、捨て鉢な告白文学という印象に満ち、まさに遺書代わりとみなせるほどだった。
 ところがそのあとに連載した『グッド・バイ』は、いきなり軽快で笑える感じの落語調に転じている。いったいどういう心境の変化なのだろう」(p66)
 
 『グッド・バイ』は太宰治の遺作であり、連載の13回分を書いたところで絶筆となった。尻切れトンボで、突然ぶつっと切れている。短編程度の約30ページに留まる未完作品となった。
 本書の実質的なタイトル「太宰治にグッド・バイ」は、一つはこの『グッド・バイ』に由来するのだろう。もう一つは、この事件の解明に関わって行く李奈が、そのプロセスで太宰治の死への動機について考え抜いた結果として、太宰治論に区切りをつけるという意味でのグッド・バイでもあるのだと思う。
 
 扇田刑事は、南雲亮介の一酸化炭素中毒死と五通目の遺書の焼失について、物的遺品・証拠の分析を基礎にして、捜査を推進する。一方、この事件の相談に乗ることになった李奈は、五通目の遺書の内容を推論するために、太宰治の死への経緯について、彼の生み出した作品を改めて論理的に読み進めて、太宰の死に迫ろうとする。李奈は太宰治についての疑問に関して、縁を頼って識者に会い、己の考えをぶつけていくアプローチを取り始める。
 李奈が手始めに推論材料にするのが『グッド・バイ』という太宰の遺作なのだ。インターネット情報で確認してみると、「行動」と「コールド・ウォー」との間に入る「怪力(一)~(四)」が省略されているが、それを除き、全文が本書に引用されていて、李奈の思考材料となっている。
 ここから、李奈の太宰治論がストーリーの重要な一つの流れとして動き出す。太宰治の作品と太宰の自殺の経緯については、一つの仮説として、太宰ファンには興味深いことと思う。一方、私のように、太宰治の作品にそれほど親しんできていない者には、作家太宰治を知る参考になるところが多い。それが本書を読んだ副産物となった。
 太宰治その人とその作品を論じる上で、作家論とテキスト論という2つのアプローチがあることを知った。本書では太宰治の精神病理学的分析論にまで触れていく。興味深い。

 もちろん、李奈は扇田刑事から捜査の進展結果をその都度入手し、一方、再度、南雲聡美への事情聴取に立ち会い、週刊誌記者たちに再度面談することを断続的に重ねていく。おもしろい点は、殺害事件の捜査という本筋が、副次的な流れの印象になっていることである。いわば、事件解明への伏線を敷く形として、脇役的にストーリーに織り込まれていく印象が強いと私は感じた。

 もう一つのストーリーの流れは、李奈が自宅のマンションに戻って来たとき、エントランス前で、李奈の兄・航輝と30代半ばぐらいの女性が押し問答をしているのを目にするところから始まる。その女性は、鷹揚社の社員で柊日和麗の担当編集をしている小松由起だった。由紀は柊日和麗が失踪したと李奈に告げた。李奈は柊の行方を探すために由紀に協力する。一旦、マンションの李奈の部屋で、由紀から状況を聞く。その後、李奈は鷹揚社内の由紀の席まで行き、話し合いを重ねる。李奈は、鷹揚社の編集部の雰囲気を感じとるとともに、文芸編集長田野瀬抄造のスタンスを具体的に知り感じ取るようになる。田野瀬は、プロモーションではなくて、パブリシティの機会を最大限利用して書籍販売に役立てるという方針を徹底する人物だった。パワハラ、セクハラを意に介しないふるまいをする編集長である。
 由紀の連絡を受けて、李奈は開示された柊日和麗のスマホに記録されたロケーション履歴を知る。その履歴は李奈を三浦半島、城ヶ島へと赴かせることに。その後、三崎港交番から連絡を受け、李奈は柊日和麗が海中に漂う形で発見され死んでいたことを知る。もちろん、李奈と由紀は現地に行き、柊の死を確認する。さらに、ショックで入院した由紀を見舞いに行った李奈は、柊の部屋の本棚の裏に隠してあったという原稿を渡された。一枚目に『珊瑚樹』柊日和麗と記されていた。長編の分量の原稿。原稿を読んだ李奈はあることに気づく・・・・・。

 このストーリー、殆ど関連性が深まらずに進行するストーリーの流れが一つに合流していく。
 「まさかと思うが、関係者が一堂に会して、いまからポアロの謎解きか?」
 「あいにくポアロは来ません。わたしです」「いまから真相をお伝えします」
と、醒めた心の李奈が南雲邸の遊戯室で謎解きを始める。それが最後の大団円となる。

 なかなかおもしろい構想と展開による李奈の推論である。
 いささか、太宰治論の色彩が濃厚。だが、そこがおもしろいところといえる。
 このシリーズ、私にとっては、副産物のゲットが楽しい。

 ご一読ありがとうございます。
 

補遺
太宰治   :ウィキペディア
太宰治  近代日本人の肖像  :「国立国会図書館」
あの人の人生を知ろう~太宰治編  :「ジャンキーパラダイス」
太宰治について :「五所川原市」
太宰治 作家別作品リスト:Mo.35  :「青空文庫」
   人間失格   
   グッド・バイ 
   「グッド・バイ」作者の言葉 
   HUMAN LOST 
   苦悩の年鑑 
        
   道化の華  
   虚構の春  
   狂言の神  
   東京八景  
   姥捨    
   女神    
   親友交歓  
   薄明    
   家庭の幸福 
        
   春の盗賊  
   美男子と煙草 
   十二月八日 
   斜陽    
不良少年とキリスト  坂口安吾  :「青空文庫」

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