遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下  松岡圭祐  角川文庫

2023-05-05 18:12:12 | 松岡圭祐
 ”<イラクで新たに四邦人拉致 解放条件は自衛隊撤退> 共同通信 十月七日 十六時十八分”という報道見出し文から始まって行くストーリー。
 2005年8月に小学館文庫として発刊後、加筆・修正されて、この完全版が2009年1月に角川文庫で刊行された。

 現地で働くボランティア4人が拉致された。武装グループは一転して人質解放を示唆する。人質にPTSD発症の懸念もあるという。その交渉に外務省職員の成瀬史郎が現地入りする。その際、臨床心理士が同行することになった。アラビア語が流暢に話せる岬美由紀がその任を担う。美由紀が派遣される理由は彼女の過去が大きく考慮されていることに、美由紀自身鬱屈感を抱いていた。
 成瀬はシーア派部族の一つアル=ベベイルと名乗る武装グループのナジム・フッタールと人質解放の交渉に入る。交渉が進展する途中で、クルド人集団の襲撃をうける。美由紀は機敏に行動し、拉致者達と成瀬を自衛隊派遣のヘリに搭乗させた。ヘリを脱出させるために、美由紀は即座に状況判断し襲撃してきた戦車の動きを阻止する行動に出る。ヘリは脱出できた、しかし美由紀は現地に残留する羽目になる。それがこのストーリーの始まりである。
 アル=ベベイルの成瀬との交渉の場をクルド人集団が襲撃し、戦闘状態になり、自衛隊ヘリが危地を脱出するという場面が、言わばストーリーへの導入の最初の山場。読者を惹きつける活劇場面となる。
 それは、美由紀をイラクの戦場に投げ込むための巧みな導入になっている。
 アル=ベベイルと名乗る覆面のアラブ人達とクルド人達の小規模な突発的戦闘。覆面のアラブ人達は容赦なく、投降したクルド人3人を射殺した。やむなく戦車を阻止する行動を起こした美由紀はこの戦闘状況をつぶさに目撃する。
 「トランス・オブ・ウォー。間違いない、彼らはその特殊な心理状態にある。美由紀は思った」(p62)本書のタイトルはここに由来するようだ。

 辞書を引くと、トランス(trance)は「催眠状態」を意味する。この小説では「トランス・オブ・ウォー」の理論を美由紀が語ることになる。マスウード・アブドゥルハミード教授の説をベースに発展させた理論として描かれて行く。
 現実に心理学分野ではこの領域の理論や研究があるのだろうか。少し調べた範囲では、この語句自体を用語としては見つけられなかった。しかし、「軍事心理学」「軍事入門/戦いの精神」などの見出し語、あるいは『戦争における「人殺し」の心理学』と言う邦訳本があるくらいだから、戦争に絡む人間心理は研究されていることだろう。

 ストーリーは、一転して岬美由紀が三等空尉だった5年前を回想する場面に戻って行く。読者はイラクの戦闘から美由紀の過去に引き戻される。それも文庫本上巻がほぼこの回想ストーリーに終始する。読み進めると最初に、イラク戦争とどう関係する?とちょっと戸惑うことになる。だが、美由紀の5年前の状況というサイド・ストーリーに引きこまれて行くことに。いわば美由紀に関する温故知新という側面に通じる。
 この上巻の構成における分量的な事実分析をすると、報道見出しから最初の戦闘終了までが56ページ、美由紀の過去の回想ストーリーが269ページ、イラクでの美由紀の現在描写が69ページ、日本の閣僚の思惑に21ページである。著者が美由紀の過去に比重を置いていることがわかる。美由紀の過去の描写が、この後のイラクにおける美由紀の行動の伏線になっていく。

 最初の戦闘場面の終結後に、ナジム・フッタールと美由紀の会話が記される。
「おまえはいったい何者だ。臨床心理士ではあるまい」(p62)
「わたしは臨床心理士よ。いまわね」(p62)

 アル・ベベイルに捕らわれ、美由紀はナジムから敵愾心を顕わに不信感を持たれた。美由紀の経歴はすぐにナジムに知られてしまう。ナジムから美由紀は処刑は中止とし、ハッサン・アル=ウルームに引き合わせると告げられる。陸路の長距離移動となる。

 閣僚達の会話の中に、次の発言が現れる。
 「外務省の分析では、元自衛官であるという素性が発覚したら、ゲリラに潜入工作員とみなされる危険があるとのことです」(p405-406)
 「もし自衛隊として行動できないということであれば、外務省から現地の大使館を通じ、サマワに情報をつたえます」(p410)

 文庫本の上巻は、イラクにおいて美由紀がサバイバルして帰国を果たすためにどのような行動と経緯を辿るのか、読者の期待感を高める導入部になっている。

 文庫本の下巻は、イラク戦争の状況を背景に、トランス・オブ・ウォーという心理状態が発生している戦争状況で、美由紀がどのように行動するかを描いて行く。

 下巻でストーリーが進展する中での特徴を取り上げておこう。
1.イラク戦争に介入したアメリカ。アメリカ大統領の視点からみた戦争の構図が描かれる。ジョーイ・E・ブッシュ大統領というフィクションで描かれていくところに、皮肉さを織り込んでいる。大統領が心理分析顧問の出向者を側近にしている点が興味深い。アメリカ大統領の狙いは何か。そこにリアル感が出ている。
2.フセイン政権崩壊後のイラク国内での民族間の対立。闘争の複雑さが描かれる。
 ナジムをリーダーとするアル・ベイルは一部族にすぎない。シーア派とスンニー派の対立。シーア派武装勢力、アル=カイーダ、ターリバーン、クルド人の戦闘集団などさまざまな組織集団の存在と割拠。それぞれの立場が入り交じる渾沌の中での主導権争い。そんな側面が描かれる。
3.ナジムから美由紀の監視を任されたライード・ドレイミと美由紀の人間関係が変化していく。美由紀を観察するライードの意識が変化していく。対立的存在から、協調的存在へと転換していくプロセス。美由紀の協力者に転じて行く。
4.美由紀は、アル=べべイルの幹部たちにトランス・オブ・ウォーの可能性を訴えて行く。戦いを止めさせるためである。美由紀の主張は、今は第一線を退いたマスウード・アブドゥルハミード教授が主唱した理屈と同じと受けとめられる。まずは拒否反応から始まって行く。美由紀はそれにどう対処し、行動していくのか。このストーリーは、トランス・オブ・ウォーをリーダーたちに語り、美由紀が行動を通じてそれを実証するプロセスでもある。
5.美由紀は過酷なオムカッスル刑務所に送られる。美由紀がどのようしてサバイバルできるか。地獄からのサバイバル。そこに協力者が現れる。
6.鐘ヶ江琴江と門倉里佳子は自衛官としてサマワに派遣されていた。この二人の登場は、上巻における美由紀の5年前の回想にリンクしていく。サマワで二人は道重一尉から美由紀が行方不明になった事実を知らされることに・・・・。
 彼女たちの立場から何ができるか。どのような関わりが生まれるか。
 この側面では、現地において日本がなしうる限界を暗示しているとも言える。
7.最終ステージは、ナジャフ市街上空においてアメリカ空軍の攻撃との戦闘になる。
 そこで意外な事態が起こることに・・・・。奇想天外さ加わりおもしろい。
 このストーリー展開ならではというところ。小説というフィクションの醍醐味を遺憾なく発揮している。そこが特徴といえようか。
8.史実としてのイラク戦争は、ジョージ・W・ブッシュ大統領の「大規模戦争終結宣言」で一旦終了した形をとっている。このストーリーも大統領による武装解除のセレモニーで終わる。形として整合性はとられている。
 それだけで終わらせないところにこの小説の意図があるようだ。セレモニーの最後に、美由紀を登場させ、美由紀に横笛を吹かせる。「戦乱に明け暮れた砂漠の大地への鎮魂歌」(p415)が響きわたる。そこに未来に向かっての真の平和の希求が読み取れる。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
イラク戦争  :ウィキペディア
イラク共和国 :「外務省」
グラフィック :スンニ派とシーア派ってどういうこと? :「NHK」
シーア派   :ウィキペディア
スンナ派   :ウィキペディア
クルド人   :ウィキペディア
アルカイダ  :「コトバンク」
ターリバーン :ウィキペディア
軍事心理学  :ウィキペディア
軍事入門/戦いの精神  :「WIKIBOOKS」
「戦争」の心理学―人間における戦闘のメカニズム  :「紀伊國屋書店」
戦争の心理学  弁護士会の読書   :「福岡県弁護士会」
『戦争における「人殺し」の心理学』 :「日本赤十字九州国際看護大学」

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