遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『百の旅千の旅』 五木寛之  小学館

2023-01-30 12:45:54 | 五木寛之
 題に惹かれて手に取った。著者のエッセイ集である。目次を見ると、「蓮如からみた親鸞」「長谷川等伯の原風景」「『千所千泊』と『百寺巡礼』」という題のエッセイが含まれている。それで更に読んでみる気になった。2004年1月に単行本が刊行されている。
 ネット検索してみると、このエッセイ集は未だ文庫化はされていないようだ。

 著者の小説と縁ができたのは、『親鸞』(上・下)を読んでから。読んだのは遅くなるが、『親鸞』(上・下)は2010年に刊行されている。著者の親鸞シリーズを読んでいたので、「蓮如からみた親鸞」という題に関心を抱いた。長谷川等伯については、他の作家の等伯に関わる小説を読んでいたこと、『百寺巡礼』シリーズは文庫を買い揃えていること、そこからの関心による。

 さて、このエッセイ集、「ぼくはこんな旅をしてきた」という前文から始まり、「第1部 日常の旅」と「第2部 思索の旅」の2部構成になっている。著者は「日刊ゲンダイ」に四半世紀以上にわたり「流されゆく日々」という連載を続けてきたそうだ。第1部はその連載からの抜粋だという。1996年~2003年の期間中に連載されたエッセイからの抽出。第2部は、語り下ろしによるエッセイ。著者は、「あとがき」に「エディターを前にしての、『語り下ろし』の文章をそえたのはライブ感覚のなかに生きた感情のゆらぎが感じられることを意図したからだ。構成者の感覚とのコラボレーションがおもしろかった」と記している。語り下ろしがその後どのようにして本書に載る文として結実したのかは知らないが、読みやすいエッセイとなっている。

 各エッセイの読後印象について触れていこう。併せて、*を付けて文を引用する。

第1部 日常の旅
<わが「移動図書館」の記>
 著者は少年時代、通学の往復に歩きながら本を読んだ経験を語る。1996年の時点では旅行の車中で読書をするという。東京から盛岡に行く車中の読書がエッセイになっている。著者流読書法が具体的に記されていておもしろい。特にエッセイの末尾文にエッ!
*語り部は騙部(かたりべ)であるというのが、年来のぼくの立場だ。作家はだますためにウソをつく。だからそのウソは評論家のように巧みに見えてはならないのである。p27

<日常感覚と歴史感覚>
 日常感覚と歴史感覚のそれぞれにだまされた著者の体験が題材。その根っ子に少年時代に国がつぶれる体験があると記す。1997年のこのエッセイの末尾に「そしていま、ふたたび無気味な余震を体が感じはじめているのだが」(p35)の一節がある。著者はこの時何を予感しはじめたのだろう・・・・。

<カルナーの明け暮れ>
 「なぜ涙と笑い、悲しみと歓びとを、両方とも人間的なものだと自然に受け止められないのだろうか」(p36)という問題提起から始まるエッセイ。ため息の出る日々のふりかえりから、仏教の基本思想にある中国語訳<慈悲>の<悲>について考えを深めていく。<カルナー>の訳が<悲>だという。「思わず知らず心と体の奥底よりもれてくるため息のような感情」(p40)を表現した言葉だとか。<カルナー>を受けとめ直す材料になる。

<あと十年という感覚>
 1997年時点で、著者は「あと十年という感覚」を感じている事実を語る。それでふと、思った。著者の年齢を意識していなかったことを。奥書を見ると、1932年9月の生まれ。つまり、今年(2023年)満91歳を迎えられることになる。このエッセイは65歳の頃の執筆。「65歳あたりからは、少しずつ自分の残り時間がリアリティーをおびて感じられるようになってくるらしい」(p50)と記す。その上で、著者は「少しずつ勇気が湧いてくる」ことと、「大河の一滴」という感覚を語っていく。著者はこの2023年現在、何を思っているのだろうか。

<日本人とフット・ギア>
 靴を語るエッセイ。著者の靴へのこだわりがわかる。靴に対する国による考え方の違いを論じている。フット・ギアという言葉をこのエッセイで初めて知った。「靴という道具」という意味らしい。靴から眺めた文化論が展開されていく。彼我の相違を論じていておもしろい。夏目漱石の言った<猿真似>への思いに回帰しているように受けとめた。
*もし、体型が十分だったとしても、精神がアジア人である以上、イタリアの服はその着手を裏切らずにはおかない。ファッションが文化であるとすれば、当然、ものの考え方、感じかた、すべてが服と人間のあいだにかかわりあうからである。p67

<蓮如から見た親鸞>
 「蓮如と親鸞のちがいのひとつに、寺に生まれたかどうかという問題がある」(p72)という一文から始まる。こういう視点から考えたことがなかった。結局、この一文をキーにして、親鸞は貴族的な家系を出自とすることと、流罪にされた親鸞の怒りとの関係をベースに論じていく。この読み解き方が興味深い。「ここで親鸞は少しの迷いもなく、上皇・天皇と同じ目線で向き合っている」(p81)という著者の着眼点は、考える糧として記憶しておきたいと思う。
*ぼくはもともと「記録よりも記憶」という立場である。表現されたものはかならずなんらかの目的をもつものなのだ。編集・制作者がいかに客観性を重んじ、中立の立場を保とうとしても、表現はすでに創作の世界に踏みこんでいる。主観を極力おさえることは可能であったとしても、主観をまじえない創作物などつくられる意味がない。 p76

<老いはつねに無残である>
 著者は身体的、日常的なことに関する実感として<老いはつねに無残である>と持論を展開している。その上で、「そのマイナスに比例するようなプラスを見つけ出す道はないものだろうか」と問いかける。ある婦人との視点の違いよる会話のズレがおもしろい。
 著者は妄想だ言いながら、21世紀という時代は<宗教ルネサンス>の時代と予想する。
*来たるべき宗教の目的とは何か。それは「人生には意味がある」ことを、人びとにはっきりと指し示すことではないだろうか。 p92

<長谷川等伯の原風景>
 等伯の『松林図屏風』の原イメージをさぐるために、能登半島の海岸線ぞいを歩いた体験を語るエッセイだ。そして、等伯の『松林図』の構図そのものの心象風景となる原風景を目の前で見たと記す。一度、見てみたいな、と思う。
 羽咋には日蓮宗の本山「能登滝谷・妙成寺」があり、その寺に等伯作『涅槃図』が蔵されていることを紹介している。普段でも拝観できるのだろうか・・・・。

<英語とPCの時代に>
 英語が日常生活に強引に入り込んで来ている状況を体験例で語りながら、英語を使うことの二つの様相を切り出して見せる。そして、「どのように使おうと、相互理解の具として英語を世界に流通させることは、言語における帝国主義としか言いようがない」と論じている。この点、共感する側面がある。英語とPCを語り、「きたるべき超格差社会」に警鐘を発しているエッセイ。
 このエッセイに、著者は「『五木』はれっきとした戸籍上の本名であって筆名ではない」(p108)と記す。知らなかった。「早大中退」という経歴が世に流布している点についても、その経緯と晴れて「早大中退」となったエピソードを併せて記している。この経緯がおもしろい。著者はインターネットから得られる情報の質について、自己の経歴の扱われ方を例にしつつ「そのなかには少なからず不正確で、事実とちがう情報も含まれているのだ」(p113)と警鐘を発している。これはネット情報を利用していて痛感するとことでもある。このエッセイでも最後は少し、宗教問題を取り上げている。
*本当のことは、人間とナマで接してこそ見えてくる。 p113

<身近な生死を考える>
 生死についてのキリスト教文化における二元論的思考、人間がもつ自己確認の行為、ふっと死を感じる瞬間に心が萎えるということ・・・・が生死を考える話材になっている。
 読者にとっては、考える材料になる。

<ちらっとニューヨーク>
 題名の通り、ニューヨークの一面を体感した著者の雑感。実際の体験をしないと、そういうものかという理解と感想に留まる。

<演歌は21世紀こそおもしろい>
 「社会諷刺、世相戯評のバックボーンが一本通っていないと、やはり『演歌』という言葉は、いまひとつしっくりこない」(p157)と考える著者の演歌論が展開されている。
*批評がほとんどない、というのは、そのジャンルが停滞している現状を示す。 p162
*イメージは、ものが変わればたちまちにして変わるものなのだ。 p169
*広く深い日本人の歌謡世界は、すべて<演歌・歌謡曲>の世界に流れ込んでいるというのが、一貫したぼくの考えかただ。 p173
*システムの根には、「魂」がある。・・・根のない花はない。「才」はかならず「魂」を核として成立する。 p175

<寺と日本人のこころ>
 2002年4月に、寺に関係する催しにずいぶん参加したという事実を踏まえて、日本人のこころの原風景といえる景観は、いまや寺や神社にしか残されていないのではないかと語っている。
 裏返せば、日本全国で日本的景色の喪失が進んでいることへの問題意識といえる。

<「千所千泊」と「百寺巡礼」>
 「千所千泊」と「百寺巡礼」という2つの計画がどういう経緯で生まれたか、その背景について書かれたエッセイ。「百寺巡礼」は文庫本を購入しているのでその背景が分かって興味深い。
 「百寺巡礼」は、2023年現在時点で、文庫本でシリーズとして10巻にまとめられて刊行されている。「千所千泊」の方は知らなかったので、ネット検索してみると、「みみずくの夜メール」というシリーズのエッセイ集として作品化されているようである。

第2部 思索の旅
<限りある命のなかで>
 著者71歳のときの語り下ろしである。老いていくことは苦痛でもあるが、「老いていくことのなかで、若いときには見えなかったものが見えてくる」(p204)と言う。21世紀になり、「大人の知恵と、経験と、寛容の精神が求められるようになってきつつある感じがしてきた」(p205)と語る。20年前のこの発言、まさに世界も日本も、今、その状況下にあるのではないかと思う。
*われわれが生きてゆく時代相をよく見ることも大切なことだ。 p206
*医学の常識は、きょうの常識であって、明日の非常識かもしれない。
 もっともっと自分の体が発する声なき声に、素直に耳を傾ける必要があるのではないか。 p209-210
*少しでも長く生きて、この時代の変転を眺めてみたいのだ。 p212

<「寛容」ということ>
 「セファルディの音楽」の広がりの背景、一神教世界における「宗教の衝突」、日本人の宗教的曖昧さをまず語る。そして、「曖昧さとして否定されてきたシンクレティシズム(神仏習合)や多神教的な寛容の精神こそ」(p220)が、現在の世界の情勢にもっとも有効な思想ではないかと論じている。そのために「日本人の曖昧さのなかに流れているものを、きちんと思想化していくことが必要」(p223)と語る。著者はそこに寛容の精神の存在を読み取っている。さらに、免疫システムが「寛容」の働きをもつ側面にも着目する。 「寛容」が21世紀の社会を動かすキーワードだと論じる。
 現状はまさにその「寛容」が欠落した状況に陥っていると痛感する。
*日本人の宗教的曖昧さは、私は、むしろそれぞれの宗派の背後にある絶対者というか、宇宙の根源の光というか、そういうものを大事にすることの結果なのだと思う。p219

<趣味を通じて自分に出会う>
 21世紀は「個」の確立の時代だと冒頭で語り、「個人として人間らしくこころ豊かに生きるにはどうすればいいかを模索する時代だ」(p232)と言い換えている。情報化時代であるが、自分の直感を磨けと説く。そして、趣味をもてと語り、著者自身の趣味についてふれていく。さらに、自分は雑芸を通しての表現者だとしての自分に出会ったと語る。
*趣味は何かと聞かれれば、自分の心身の働きを正確に知ること。それを探索すること。それをコントロールすること。これが本当は、私のいちばんの趣味だと思っている。p242
<旅人として>
 直感を大事にするには、「あちこち歩き回ることが必要だ」(p244)と語り、それが「旅」であると言う。著者自身の「旅」のモチーフが年々変化してきた事実を語る。「千所千泊」は日本的原風景-その風土とそこに住むひとたちのこころーを求めてという。著者は己を「デラシネ」(根無し草)と位置づけている。
*国家というものが民草に対していかに酷い仕打ちをするシステムであるかということを若いときに思い知らされた者は、国家のいうことを額面通りに受け取るほどお気楽にはなれない。  p247
*旅というのは空間の旅だけでなく、時間の旅、歳月の旅であることは言うまでもない。 p249
*ひとつのことを長く続けていくのは、時間を超えて生きていくことにつながっていく、という考え方が私の基本にある。できるだけ長く持続するということもまた、ひとつの旅のありかたではないか。  p250
*「続けること」それ自体に「時を超えていく」という意味があるような気がしてならない。 p250

 <趣味を通じて自分に出会う>の末節に、「最近、私のつれあいが趣味ではじめた絵が、だんだん本格的になって、いまでは完全に画家とよんでいい域にまで達してしまった」という一文が含まれる。本書の装画は「五木玲子」と記されている。「私のつれあい」つまり著者の配偶者だろう。

 著者五木寛之を知り学ぶうえで役立つエッセイ集だと思う。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
【旅の記憶】五木寛之さん  :「たびよみ」
あたまのサプリ みみずくの夜メールⅢ  :「幻冬舎」
五木寛之 著者プロフィール :「新潮社」
五木寛之 受賞作家の群像 :「直木賞のすべて」
五木寛之 兵庫ゆかりの作家 :「ネットミュージアム兵庫文学館」
五木寛之  :ウィキペディア
五木玲子 リトグラフ ダリア :「日経アート」

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ブログ「遊心逍遙記」に載せた読後印象記です。
『親鸞』上・下      講談社
『親鸞 激動篇』上・下  講談社
『親鸞 完結篇』上・下  講談社
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『空を駆ける』  梶よう子  集英社

2023-01-27 12:51:35 | 梶よう子
 昨年8月に、著者の『広重ぶるう』を読んだことがきっかけで、作品を読み継いでいきたい作家の一人となった。本書のタイトルを目にしたことで興味を抱き先に読むことにした。この作品は「小説すばる」に2018年5月号~2021年8月号にほぼ隔月で連載された後、大幅に加筆・修正されて2022年7月に単行本として刊行されている。

 「本作品は史実をもとにしたフィクションです」と末尾に明記してある。一言でいえば、伝記風小説。誰についての? 第一章の冒頭部分に出てくる大川カシについて。後に、若松賤子というペンネームで翻訳小説を出版する女性である。巌本善治と結婚した人。
 これだけでわかる人がどれだけいるだろうか。私は知らなかった。
  手許に国語と日本史について高校生向けの学習参考書がある。それを調べてみたが、明治前期の明治文学の解説、明治文化の解説の中に、若松賤子と巌本善治の名前は出ていない。だが、時代の風潮には屈せず、明治時代前期に女性の地位向上、女子教育の必要性について、出版と教育という分野を通じて活動していた二人だった。私にとっては二人の人物を知る機会になった。

 大川カシは成人したのち、島田姓を名乗り母校で教師の道を歩み始める。
 カシは、海軍将校と一旦婚約し、周りの人々から祝福される。だが、その婚約を破棄するという選択をする。当時の社会風潮は「良妻賢母」志向であり、夫につくし家庭を守ることを当然視していた。カシは「良妻賢母」の型にはめられることから独立した自らの道を歩み出していく。そして後に、『女学雑誌』の編集長であり、東京府の麹町にある明治女学校の教頭をしている巌本善治と出会い、巌本善治と考え方の上で意気投合できる部分を感じ始める。巌本と結婚し家庭を築きながら、女性の自立した活動と社会への参画をめざすカシは、作家としての道を歩む選択をとる。まず『女学雑誌』に作品を発表しつづけることが作家への契機となる。
 カシは若松賤子の名でバアネットの作品を翻訳し『小公子』と題して世に問う。二葉亭四迷が『浮雲』を言文一致の作品として世に問うた。若松賤子は『小公子』で原文一致の翻訳にチャレンジした。『小公子』は現在、岩波文庫の一冊になっている。
 つまり、ここで描き出されるのは、大川カシ=島田カシ=巌本カシ=若松賤子の生き様であり、併せて巌本善治の生き様である。

 この作品、基本的には、カシの視点からストーリーが綴られていく。
 読み始めて、<第二章 会津の記憶>で、カシの元の姓は実は松川であることがわかる。カシは幼少期からある意味で特異な経験をした人だった。
 カシは元治元年(1864)3月1日に京の都にある会津藩屋敷で生まれた。京の都でカシの父は島田姓を名乗っていた。1868年に鳥羽伏見の戦いが起こる。カシは身籠もっている母に連れられ会津若松に帰郷する。会津で妹のミヤが生まれる。だが、官軍の東征により、会津で戦争が始まる。その渦中での体験と戦後の父母と一緒の生活がカシの幼少期の原体験となる。だが、数え8つで、カシは大川の養女に出される。大川は横浜の生糸問屋の番頭をしていた人である。カシにとり、会津は家族一緒に過ごせた思い出の時期であるとともに悲惨な記憶が残る時期でもあった。カシの人生の第1ステージは、前半が実父母との生活、後半が養父母との生活である。

 このストーリーは、横浜山手178番地に新たに開校された寄宿舎のある学び舎、フェリス・セミナリーから始まる。開校の推進者はキダー先生とその夫・宣教師のローセイ先生である。カシは、この学校の給費生という立場で先生の手伝いをしつつ、寄宿生の一員として、またこの学び舎をわがホームとして成長していく。つまり、カシの人生の第2ステージの始まりとなる。このプロセスで、上記したカシの会津での記憶、大川の養女となっての横浜での生活など-第1ステージ-が回想されて行く。
 この第2ステージではフェリス・セミナリーをホームとする境遇のカシとその成長が描き出される。これは、時代背景として、現在のフェリス女学院の建学時期の状況を描くことにもなっていく。その建学の精神と学び舎の状況などが描き込まれていく。明治時代前期に始まったキリスト教伝道者の設立したミッション・スクールの始まりの一事例と言えるだろう。
 キダー先生を親のように慕いながら、この学び舎でカシが何を考え、どのように行動するかに読者は興味津々となっていくことと思う。寄宿舎で同室の季子と一緒に、カシは己の意志で受洗し、キリスト者となる。山内季子はカシより6歳上で入学した時に教師も兼ねている女性だった。
 1882(明治15)年6月、カシは正式な卒業生、それもフェリス・セミナリーの初めての卒業生となる。

 この後、カシの人生の第3ステージがこの学び舎で始まる。寄宿学校に残り、和文教師として採用され、教師としての生活が始まる。「フェリス・セミナリーは、女性が世に出て、男性と同等に、互いに尊敬をもって接することができる教養と知識を身につけさせることを旨としている。無学無知が、女性を貶める要因のひとつであるならば、まず女性自身が意識をし、自らを高める必要がある」(p146)カシは己に課せられた責任を強く感じ始める。
 この第3ステージにおいて、上記したカシの婚約と破棄に到るプロセスがカシの人生にとって選択の岐路になる。一方で、カシは1885(明治18)年7月に創刊された『女学雑誌』に翌年から若松しづの名で投稿を始める。
 その後に、巌本との出会いが生まれる。おもしろい出会いと二人の関係の発展は、読者にとってもおもしろい。その一方で、カシが労咳と診断される事態が発生する。入院生活もする。

 カシの人生の第4ステージは、巌本善治との結婚である。巌本はカシに労咳の持病があることを承知の上で、カシに巌本流のプロポーズをした。
 巌本自身もキリスト者である。『女学雑誌』の編集長であり、明治女学校の教頭を兼ねていた。明治女学校は日本人でキリスト教の牧師となった木村熊二と妻の鐙子が設立した。日本のキリスト者により、日本人の資金・寄付金で創設された学校である。
 この第4ステージは、カシの人生において、彼女が主体的に選び取った己の生き方を推し進めて行く時期となる。巌本との家庭、ホームを築く一方、作家として生きる道に入って行く。
 カシがどのような生き方をするか。また巌本善治がどのような生き方をするか。
 本書でお楽しみいただきたい。例えば、新婚旅行で行く大宮の宿で、カシは善治に対し、アメリカの女性文学者アリス・ケアリーの書いた「花嫁のベール」という詩を英文のままで贈るのだ。その内容がふるっている。カシらしい選択である。お楽しみに。

 カシの人生の結末にだけふれておこう。1896(明治29)年2月10日、カシは4人目の子を身籠もったままで、死を迎える。
 本文は日付の続きに、「カシは澄み渡る青空に翼を広げていた。ああ、わたしはいま、空を駆けている」(p390)が出てくる。本書のタイトルはこの一文に由来するようだ。
 その後に、善治とカシの交わす言葉が記されていく。ラスト・シーンは涙を禁じ得ない。
 
 一つ補足しておきたい。妹のみやがカシをサポートしたということ。桜井章一郎が『小公子』の後編の刊行に尽力したことである。当時、桜井は明治女学校の教師をしていた。

 明治初期に、女性の教育と女性の活躍について、その活動の一端を担い行動する一方で、自らの生き方として実践した人が居たことを本書で知る機会となった。

 単行本の表紙につづく裏表紙には、横浜山手178番地に開校されたフェリス・セミナリーの校舎のイラストが描かれている。当時の雰囲気が感じられる図である。

 ご一読ありがとうございます。

補遺  本書を読み、ネット検索してみた。調べるといろいろと学ぶことができる。
若松賤子 近代日本人の肖像  :「国立国会図書館」
若松賤子  :ウィキペディア
若松賤子の略歴 偉人伝  :「会津への夢街道」
若松賤子訳 『小公子』本文 『小公子』の部屋  :「ことばへの窓」(岐阜大学)
忘れ形見 若松賤子 :「青空文庫」
忘れかた美 若松賤子訳 桜井鴎村編  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
巌本善治 :ウィキペディア
女学雑誌 :ウィキペディア
桜井彦一郎 ⇒ 桜井鴎村 :ウィキペディア
フェリスの原点 建学の精神 :「フェリス女学院大学」
明治女学校  :ウィキペディア
明治女学校跡 :「東京豊島区の歴史」
明治女学校の世界 藤田美実 :「松岡正剛の千夜千冊」
染井霊園  :ウィキペディア

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『広重ぶるう』 新潮社
『我、鉄路を拓かん』 PHP
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『茶人物語』 読売新聞社編  中公文庫

2023-01-23 18:31:30 | 茶の世界
 市の図書館で参考資料を探していて、たまたまタイトルが目に止まり、借り出して読んでみた。「あとがき」に編者が日野忠男氏と出ている。その説明によれば、当初、「茶道の人々」として約2年間にわたり読売新聞に連載されたものという。「一冊の本とするに当たって、新たに資料を加え、一部人物も入れかえて書き改め」て、1978年に淡交社から刊行された。さらに再編集されて2012年10月に文庫化されている。
 
 茶の湯は日本文化史の上で大きな影響を与えてきた。日本文化の中の茶の湯の歴史という視点で捉え、茶人たちを絡めて語っていくというアプローチでは以前に谷晃著『茶人たちの日本文化史』(講談社現代新書)を読んでいて、ご紹介している。
 この『茶人物語』は、「あくまでも茶の湯を舞台とした人物史伝」という視点で、茶人について語り継ぐ形で、その人物を知るとともに、茶の湯の歴史の一側面を浮彫にしていくというアプローチになっている。そういう意味ではこの二書は相互補完される形になる。本書は、茶人その人に興味を抱きながら、茶人を通して茶の湯の流れを知るという意味では読みやすい一書である。

 目次の構成とその章に取り上げられている茶人を列挙してご紹介しよう。
 目次には茶人名の後に、短いフレーズで見出しの一部としてその人物を評し紹介している。それは本書を開いてお読みいただきたい。本書には53人の茶人が登場する。

 第一章 喫茶の起こり
   陸羽、永忠、空也、栄西、明恵、叡尊
 第二章 婆娑羅とわび
   佐々木道誉、足利義満、足利義政、村田珠光、古市澄胤、武野紹鴎、
   今井宗久、津田宗及、松永弾正久秀、織田信長
 第三章 利休とその周辺の茶人たち
   豊臣秀吉、上井覚兼、千利休、細川三斎、織田有楽斎、高山右近、
   神谷宗湛、島井宗叱、山上宗二、南坊宗啓、千道安、千少庵、古田織部
 第四章 茶道隆盛への道
   薮内紹智、長闇堂、小堀遠州、松花堂昭乗、本阿弥光悦、片桐石州、沢庵宗彭
   江月宗玩、金森宗和、千宗旦、山田宗徧、杉木普斎、藤村庸軒、吉野太夫
 第五章 近世の茶人
   近衛家煕、鴻池道億、高遊外、如心斎天然、堀内仙鶴、川上不白、松平不昧
   井伊宗観、玄々斎宗室、岡倉天心

 「第一章 喫茶の起こり」は、茶道の古典と言われる『茶経』を書いた中国の茶人から始まっている。永忠から叡尊までは、茶を伝え、広めることに関わった日本の僧侶たちである。
 第二章では具体的な茶の湯の姿が大きく変容していくプロセスになる。人物史伝の中で、茶の湯の姿の変容が人物と絡めて語られる。闘茶から淋汗茶会、そしてわび茶の始まりと町人の間での茶の湯の勃興、そして大名茶の始まり。室町時代は足利義満・義政の関心により茶道具が重視され珍重されていく。果ては信長の「名物狩り」「茶の湯御政道」に結びつく。
 第三章では、まず利休が茶の湯の頂点を究める。だが時代の変化につれて、茶の湯のあり様も変化していく。茶人を語る中から、大きな3つの流れにわかれていくことがわかる。それぞれの領域で茶人たちが活躍していく。
 一つは、政権を担っていく武士、大名たちの間での茶の湯の変遷。それは利休の茶の湯から始まり、古田織部流⇒小堀遠州流⇒片桐石州流へと移っていく。幕府の対極にある宮廷・公家の世界では、金森宗和の茶の湯が宮廷茶として取り入れられて行く。千宗旦が千家を中興し、山田宗?がわび茶の復興をはかるにつれて、経済を担う町人たちの間でわび茶が広がっていく。一方で、町人たちの茶の湯のあり方も変容していく。また、大名たちもわび茶に再び目をむけるように・・・・・

 一茶人あたり、3~10ページくらいにまとめられた人物史伝を読むと、それぞれの茶人のプロフィールが大凡つかめるとともに、上記のような茶の湯の歴史の大きな流れも把握できて行く。

 本著は茶人事典という意味合いでも利用できるメリットがある。ちょっと特定の茶人について知りたいというときに便利。大凡の有名どころはカバーされていると思った。
 また、索引は人物名で構成されている。ここに登場する53人の茶人と関係する人々も載っているので、人間関係の繋がりを知るのにも使える側面がある。例えば、千家の場合、茶人としては利休、道安、少庵、宗旦、玄々斎宗室が人物史伝として登場している。一方、索引には、千宗恩、千宗見、千宗左、千宗室、千宗守、千宗拙の名前が索引に載る。さらにサンプリングしてみると、明智光秀が7カ所、空海(弘法大師)が4カ所、正親町天皇が4カ所、徳川家光が6カ所・・・という具合である。
 
 最後に、「吉野太夫 -島原の名妓」の項でおもしろいことを学んだのでご紹介しておこう。
 吉野太夫は豪商灰屋紹益との大ロマンスで有名な京都・島原の遊郭で二代目の太夫である。灰屋紹益は本阿弥光悦とも交流のあった茶人であり諸芸に秀でていた人。
「遊女と茶の湯が深い関係にあったので、いつしか待合のことをお茶屋と呼ぶようになり、また客のない遊女が暇つぶしに茶の葉を臼で挽いたことから『お茶を挽く』という言葉が生まれた。遊郭が茶の湯と離れて、ほんとうの悪所になるのは、江戸中期以後のことである」(p213)
 「お茶屋」の言葉の由来を知った。

 この本、今後の参照資料として手許に置いておきたくなった。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
「遊心逍遙記」に掲載した<茶の世界>関連本の読後印象記一覧 最終版
                  2022年12月現在 26冊
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『坂本龍馬』 黒鉄ヒロシ  PHP文庫

2023-01-22 12:46:20 | 歴史関連
 以前に何かの記事で本書のことを知った。中古本でたまたま見つけて衝動買いした。
 著者はこの作品を漫画でも劇画でもなく「歴画」と名付けているという。1997年12月にPHP研究所より刊行された。加筆・修正して、2001年2月に文庫化されている。
 私は今まで知らなかったのだが、文庫の裏表紙に「文化庁メディア芸術祭」大賞受賞作と記されている。

 巻末の木村幸比古氏の「解説」を引用すると、「当時の写真資料等を渉猟し、時代の景色として俯瞰的に事象をとらえる黒鉄氏独特の手法」が前著『新選組』につづき、本書にも生かされていると言う。
 確かに、冒頭から坂本龍馬の写真で見た姿が描かれて利用されている。各所に写真を資料にしたコマと説明が現れていて龍馬がどういう人々と写真を一緒に撮っていたのか、その人間関係もうかがえて興味深さが増す。様々な人物像もキャプション付きでコマになっていて、写真資料の存在をうかがわせる。また、地図をコマに描き、龍馬暗殺後現場の近江屋の建物を吹き抜き手法で正確に描く、平面図を描くなどは、小説では難しいが絵では直観的に見てイメージが喚起されていく。描くという利点が生かされている。

 本書は漫画作品である。それを歴画と呼ぶのはナルホドと思う。というのは、漫画のコマを見て読み進めていくと、重要な箇所では、史料の引用が漫画にコトバの部分として利用され、出典も明記されている。「序」に続くストーリーの冒頭は坂本龍馬の暗殺後の現場(近江屋)から始まっている。例えばそこに、龍馬からの手紙を受け取った林謙三が11月15日に大坂を立ち16日未明に京に入り、凶行直後の暗殺現場を目撃する場面が描き込まれている。(p26)その一コマ目には、”林は凶行直後の現場を書き遺している 「処々ニ血痕ノ足跡ヲ認ム。余ハ坂本氏ノ安否ヲ正サント、”というように、コマ漫画と引用史料が融合する形で漫画がビビッドに描かれて行く。ここでは6コマ分に描き分けられてそこに引用文が繋がって行く。文と漫画が一体化していく。「歴画」は歴史漫画の略だろうか。
 本書は、史実、史料を踏まえた漫画ストーリーによる坂本龍馬伝である。末尾に「主な参考文献」の一覧も記載されている。

 この歴画の読者として、たぶん高校生以上の大人が対象となっているのではないかと思う。それほど、史料等の利用がみられ、それを読み通すことが前提に含まれていると思う。逆に言えば、坂本龍馬の波乱万丈といえる一生の根幹を歴画という形で史料を踏まえて読めるということだ。読者は比較的手軽に坂本龍馬の足跡を楽しみながら知ることができる。
 勿論、漫画的要素はふんだんに盛り込まれている。駄洒落的要素、諧謔的要素、ユーモアのあるオチ、お遊び的描写など、おもしろ味もたっぷり含まれているので、読み進める気楽さがある。
 井伊直弼が安政5年(1858)に行った「安政の大獄」頃までは、龍馬は人々から鈍馬とみられていたという。水戸藩士、住谷寅之助、大胡韋蔵が諸藩の動向探索の為に土佐藩境に来たときに、頼られて立川関で面談した時に、己を反省し急に読書を始めたと描いている。鈍馬が駿馬へと変貌する転機を迎えたという。著者はこんな一文をコマの間に挟んでいる。「フカン的に眺めて景色を摑みとる龍馬さんの読書法は、字面を追う近視眼的な読み方より身についたのではなかろうか・・・・」(p168)と。

 おもしろいことの一つは、著者が坂本龍馬を「龍馬さん」という呼称で描いて行くことである。黒鉄ヒロシは土佐の産で、祖母から曾々母が坂本龍馬を目撃した時の話を聞かされて育ったと記す。そんな著者自身の背景が親しみをこめた「龍馬さん」になっているようだ。

 この歴画で初めて知ったことがいくつかある。
*京都にある霊山歴史館に遺された龍馬の紋付から推考すると、身長172cm、体重80kgが最近の数値らしい。著者は70kgとみなしたいと言う。   p9-10
*龍馬は江戸に出た折、千葉周作の弟千葉定吉の道場で3年余の剣術修行を行った。
 北辰一刀流の目録は「長刀兵法目録」であり、剣術の目録ではなかったとか。 p131
*元治元年6月、京で池田屋事件が起きた頃、龍馬は蝦夷地開発案を抱いていたという。
 この北海道開発移住計画は、池田屋事件勃発で消えた。  p331
*勝海舟は、直心影流の達人。身長は約150cmほどだとか。もっと背丈があるようなイメージをもっていた。  p257
*坂本龍馬が長崎に亀山社中を作るのは薩長同盟の仲介に奔走していた時期。
 海援隊は慶応3年(1867)4月、脱藩罪を赦免されて、海援隊長を命じられたことが契機という。海援隊は日本初の蒸気船運輸会社だそうである。 p450-453
他にもあるが略す。

 もう一つこの坂本龍馬伝歴画のおもしろいところを紹介しておこう。伝記という意味では、「龍馬暗殺後現場」をかなり詳細に描写することから始まり、龍馬と石川(中岡)慎太郎が近江屋で暗殺される場面を詳細に描くことで終わる。龍と馬を合体させた像が昇天する絵を描いているところが興味深い。
 歴画としてはそれで終わらせずに、「慶喜の弁解」という章を最後に持って来ている。そこに、徳川家康を登場させるとともに、歴代将軍まで登場させる。さらに龍馬も登場させている。最終ページの絵と一文がおもしろい。多様に解釈できる含みがありそうで、余韻が残る。

 この歴画を読んで楽しんでいただきたい。坂本龍馬はおもしろい男だ。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
坂本龍馬 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」
高知県立坂本龍馬館  ホームペー 
坂本龍馬年表  :「京都霊山護国神社」
坂本龍馬略年表 :「北海道坂本龍馬記念館」
高知県桂浜に立つ「坂本龍馬像」 :「TAISEI Technology&Solution」
坂本龍馬像(高知)  :「RECOTRIP」
坂本龍馬像  :「長崎市公式観光サイト」
日本中にある【坂本龍馬の像】を制覇しよう!全国20選 :「icotto 心みちるたび」
龍馬は日本人の銅像で一番多いぞー(像):「高知面白情報のブログ」

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『愛のぬけがら』 エドヴァルト・ムンク著  原田マハ 翻訳  幻冬舎

2023-01-20 17:49:00 | アート関連
 表紙カバーの絵に目がとまりまず惹きつけられた。やはりムンクの絵。翻訳が原田マハとなっている。内容も確かめずに読み始めた。本書は2022年2月に刊行されている。

 著者はムンク。だが、表紙には「ムンク美術館 原案・テキスト」と併記してある。
 本書の冒頭には「言葉の画家、その調べ」と題し、翻訳をした作家・原田マハの一文が載っている。そこに、ムンクは「私は、呼吸し、感じ、苦悩し、生き生きとした人間を描くのだ」と決意表明したと記されている。それが後に「サン=クルー宣言」と呼ばれるようになったそうだ。原田マハは「彼は、目の画家、手の画家というよりも、感性の画家であり、言葉の画家でもあったのだ」と続けている。
 本書末尾には、オスロにあるムンク美術館が「ムンクのテクストについて」と題して一文を記す。エドヴァルド・ムンクは生涯にわたって文章を書き続けたという。ムンク美術館にはムンクが書いた1万2千点以上の原稿が所蔵されているという。そのすべてのテクストをホームページで公開することが目指されている。一部がすでに英訳されているとあるので、本書はその英訳の一部なのだろう。
 本書は原田マハの翻訳文と、ムンクのテクストの英訳文とがバイリンガルとして併載されている。ここには、ムンクの創作ノート、スケッチブック、手紙文あるいは手紙の下書き、印刷物などの中に記されたムンクの言葉が抽出され、言葉の内容を分類し章立てされて編集されている。

 本書の原題は、「LIKE A GHOST I LEAVE YOU」である。直訳すれば、亡霊のように私はあなたから去るという意味だろう。「愛のぬけがら」とは言い得て妙でおもしろい。
 本書を読むとおわかりいただけるが、「トゥラ・ラーセンへの手紙の下書き 1899」であるムンクの言葉(p148)の後半にあたる。該当ページを御覧いただきたい。絵も併載されている。

 本書は以下の章立てで編集されている。
  アートと自然/ 友人と敵/ ノルウェー/ 健康/ ムンク自身/ 愛/
  ヴィーゲラン、他の芸術家たち/ 人生観/ お金/ 死
 そして、各所にムンクの作品とムンクに関わる様々な写真が併載されている。

 久々に書棚から「ムンク展」の図録を引き出して眺めてみた。前年に国立西洋美術館で開催された後、2008年1~3月に兵庫県立美術館で開催された。2008年3月初旬に出かけていた。本書表紙の「マドンナ」は本書のP159にも載っていて、本書末尾に油彩、1894年作と説明されている。見ている気がしたのだが図録を再見すると、ほぼ同じ構図の「マドンナ」だが、図録の絵は、リトグラフ・墨・スクレイバーによる1895年作だった。類似の構図で異なる作品をいくつか制作していることを、本書に併載の絵と手許の図録で知った。
 手許の図録にはムンク自身の写真は1枚載るだけなのだが、本書には年代の違う自画像と写真がいくつか載っていて、ムンクの言葉を読み、肖像画・写真を併せてみられるのは興味深い。

 ムンクの絵といえば、「叫び」を連想する人が多いと思う。私も真っ先に「叫び」を想起する。ここでは「人生観」の章の後半、p204にその絵が併載され、この絵は19100? と補注にある。図録を見ると、1925年のムンクのアトリエには、左から「不安」「叫び」「絶望」の3点が順に入口の上部に掲げてあった様子を示す写真が載っている。ムンク展では「不安」と「絶望」が出展されていた。余談だが、「叫び」は作品として4バージョンあるようだ。
 本書でこれもおもしろいと思うのは、見開きの左ページに「叫び」の絵が載せられ、右ページにはつぎのムンクの言葉がバイリンガルで載せてあること。
    「なんて幸運なんだ、君たちは。
     君たちには進歩的な両親がいる。
    彼らは、君たちに聖書を教えなかった。
      聖書が君たちの血の中に
     染みつくようにはしなかったのだ。
          ああ!
  歓びと死後の生にまつわるすばらしい夢たちよ。 」  (創作ノート 1890)

 編集された形であるが、本書にはムンクの言葉-愛、欲望、主張、希求、意志、意欲、叫び、懊悩、憤慨、恨み、絶望、批判など-が様々な視点でまとめられている。その言葉が、英語と日本語に翻訳されているだけである。ムンクの断片的な言葉に対する解説は一切ない。読者がその言葉からどのような思いを抱くかは、読者に任されていることになる。
 ムンクの言葉自体が、ここにポンと投げ出されているとも言える。その解釈と理解、受容は読者の課題となる。ムンクの真意に沿ってこれらの言葉の意味を追体験しようと思うならば、ムンクの人生という文脈について別途背景情報を知る必要がある。それは書架から久しぶりに取りだしてきた図録を再読しての気づきでもある。

 例えば、「アートと自然」の最初に載るムンクの言葉を引用してみる。

    「  その時代の信仰。
    すなわち、その時代の魂というものを
      写さなければならない。
    単に装飾芸術であるだけではだめだ。
      この装飾という言葉は、
    今まで多くのものを台無しにしてきた。  」  (創作ノート 年不詳)

      ” The religion of time - that is,the soul of time
           must be reflected -
      There must not only be ornamental art
       This word has ruined very much     "   (Undated note)

 ムンクはどのような芸術をめざそうとしたのか。
 図録(2007年)の冒頭に「エドヴァルト・ムンク、『装飾』への挑戦」(田中正之、武蔵野美術大学准教授)という論文が載っている。そこには、ムンクが「装飾画家」であったことを論じている。ムンクの一連の作品である<生命のフリーズ>がその一例として語られる。この時のムンク展の第一章は「<生命のフリーズ>:装飾への道」である。そこでの説明にはムンク自身が「全体として生命体のありさまを示すような一連の装飾的な絵画として考えられたもの」と述べていると記されている。
 ムンクに沿ってここの言葉を理解するには、例えばこんな背景情報があると読み方を深められる気がする次第。

 「アートと芸術」から印象深い言葉をいくつかご紹介しよう。本書は上記のようなスタイルで記されて居る。ここでは通常の文章スタイルで引用するにとどめたい。
*1脚の椅子が、ひとりの人間と同くらいおもしろいものだとしよう。
 けれどそのおもしろさは、その椅子が誰かに見られない限り誰にもわからない。
 誰かを感動させる椅子を絵にしたら、その絵を見た者を同じ気持ちにさせなきゃならない。つまり、絵に描かれるべきなのは、椅子そのものではなくて、ひとりの人間の体験なんだ。   p23
*写生をするのではない。自然がいっぱいに盛られた大皿に自由に手を伸ばすのだ。
 見えるものを描くのではない。見たものを描くのだ。   p28
*私のアートは、人生との不和の理由を探って考えあぐねたことに始まっている。
 なぜ私は他人と違うのだ? 頼みもしないのに、どうしてこの世に生を受けたのだ?
 この苦しい思いが、私のアートの根っこにある。
 これがなければ私のアートは違うものになっていただろう。  p30
*アートは、自然の対極にある。アートは、人間の内なる魂から生まれる。
 アートとは、人間の神経、心、頭、脳、目を通して物質化された画のかたちである。
 アートとは、結晶化しようとする人間の渇望である。
 自然は無限の領域であり、アートはそこから糧を得る。    p35
*私は、心をむきだしにしなくてもいいようなアートを信じない。
 文学でも、音楽でも同じだが、あらゆるアートは、心血を注いで創造されるべきだ。
 アートとは、心の血のことだ。  p49

 こんなムンクの言葉もある。
*もしノルウェーでの生活をつづけていたら、才能を無駄にして立ち直れなかっただろう。
 そして恐らく、ソーレンセンやその仲間たちに潰されていただろう。
 この40年の間に、自分たちこそが正しいのだと言い張る数々の芸術グループが誕生してきたが、やつらに対抗することができたのも、外国からの支援があったおかげだ。
                          「ノルウェー」 p90
*人間にとっていちばん恐ろしいふたつの敵を私は受け継いだ。
 肺結核と精神障害の遺伝だ。病と狂気と死は、私のゆりかごの横に立つ、黒い天使だった。
                          「健康」 p112
*結局、僕は君に何もしてやれなかったんじゃないか・・・・・・。
 僕という男は、夢見がちで、まず何よりも仕事。
 愛は二の次にしてしまう、そんなやつだから。    「愛」 p152
*絵を描いているとき、お金のことを考えたことは一度もない。
 私の絵に値がつくようになってはじめて、人々は私の絵に関心をもつようになった。
 45歳になるまでは、私の絵を見ただけで「おお、気味が悪い」と叫んでいたくせに。
                          「お金」 p211

 エドヴァルト・ムンクは1863年に生まれ、1944年に他界した。
 モダニズムにおける重要な芸術家のひとり。1890年代にシンボリスムの芸術家として頭角を現し、20世紀初頭からはエクスプレッショニスムの先駆者となった。これらがプロフィールとして記されている。右のページにはムンクが椅子に坐る姿を左斜めから撮った写真が載っている。彼のその目は何を眺めているのだろうか・・・・・。

 バイリンガルの表記なので、アート小説を数多く書く原田マハさんがどのように訳されているかを楽しみつつ学ぶこともできる。英語学習教材としても役立つのではないかと思う。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
ムンク美術館 英語版ホームページ Edward Munch's Writings in English
エドヴァルド・ムンク :ウィキペディア
ムンクの「叫び」は何を叫んでいる?描かれた理由と鑑賞ポイントを詳しく説明
                          :「This is Media」
エドヴァルド・ムンクの生涯と作品の特徴・代表作・有名絵画を解説
                          :「美術ファン@世界の名画」

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「遊心逍遙記」に掲載した<原田マハ>作品の読後印象記一覧 最終版
                 2022年12月現在 16冊
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