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遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『狛犬学事始』    ねずてつや   ナカニシヤ出版

2025-04-01 21:16:37 | 歴史関連
 史跡探訪の一環で寺社を訪れるようになった頃、参道の狛犬にバリエーションがかなりあることに気づいた。それがきっかけで、狛犬像の写真を撮るようになった。
 かなり以前に、小寺慶昭著『京都狛犬巡り』(ナカニシヤ出版)を読んだ。『狛犬学事始』の書名はある時に知ったが未読のままだった。後はインターネット情報からの知識。そこから先に踏み込むことはなかった。

 先日、U1さんのブログで本書についての感想記事を読み、本書への関心が湧いた。
 理由は単純。本書が宇治市の狛犬を中核にして狛犬を論じているということを読んだから。私は、京都市生まれだが、宇治市に引っ越してこちらに住む期間の方がはるかに長くなった。宇治市が今の地元、たぶん終の棲家になるだろう。宇治市の狛犬をどのように取り上げているのだろうかという関心が高まった次第。

 地元図書館の蔵書にあったので、図書館本を読んでみた。「はじめに」を読み、図書館の蔵書になる必然性がわかった。本書は「第一部 狛犬学事始」「第二部 狛犬一族の歴史」という二部構成になっている。著者は、当初『狛犬学事始ーーー宇治市・南山城編ーーー』をまとめた。これが平成4年(1992)度に宇治市「紫式部市民文化賞」を受賞したそうだ。受賞後に著者は、その後に調査等でわかったことを第二部としてまとめたと記す。

 本書は、1994年1月に、単行本として刊行された。

 うかつにも、これをまとめ始めて気づいた! 本書の著者略歴を読むと,<ねづてつや>はペンネームで、その後に、<本名・小坂慶昭>と明記されている!
 略歴には『京都狛犬巡り』が明記されていないので、これは本書刊行後に出版された本だったのだ。

 タイトルに「狛犬学」とある通り、著者は狛犬を研究対象として本書を書いている。
 だが、その研究のスタンスは明確に限定されている。
 「神社等の参道をはさみ、その両側に設置された一対の狛犬」の範囲で研究すると。

 著者は<狛犬学>を始めるにあたり、立ち位置を明確にしている。<研究>という観点で、なるほどと思う。まず上記の通り、対象範囲を一旦確定した上でいくつかの点を論じていく。思考プロセスを文章にされているので、著者自身が記すように「随筆的かつ冗漫的」(p10)なスタイルが所々にみられる。それは、まどろっこしい面もあるけれど、「事始」の一歩として、私のような素人読者には、研究の始まりの雰囲気も楽しめ、おもしろさにつながっている。

 最初に著者が対象・目的として論じている考え方の要は次の諸点と受け止めた。
*「神社の参道」にあり、参道を「はさみ、両側に設置」されていて「一対」ということが条件となる。なので、単独で置かれた狛犬は対象外。参道と関わらないところの設置も対象外。
*狛犬はご神体を両脇から守るという役割を持つ脇侍的存在。だから一対は不可欠条件。
*参道の狛犬は、民衆の信仰に裏打ちされ、「民衆の願い」を感じさせる対象という点を著者は重視する。
 つまり、狛犬が、宮中御座所の御帳の重し・魔除けとして活用されたこと。「神社の神殿内にある木の狛犬」として存在していたことは認識しながら、対象外とする。勿論、手軽に観察や測定できる対象ではないことにもよるが「民衆の願い」とは隔絶するからとする。
*神社に「神使」として設置される動物にはいろいろあるが「狛犬」以外は対象外。
 「神使」の問題の複雑性、民間民話レベルまでの掘り下る必要性等を回避するため。

 その上で、著者は独自に狛犬分類法を編みだしていく。

 本書刊行時点で、「宇治市に現存する狛犬は22対」(p30)、神社の所在地を数えると、18社(p31)となる。
 研究結果である「南山城地方の狛犬の分布表」(p42)によれば、宇治市を含め、南山城地方には、平成3年(1991)5月1日現在、150対の狛犬が125社寺に設置されているという。
 狛犬の設置年代、狛犬の大きさ、狛犬の姿形など、様々な視点から分析され、詳細に論じられている。素人眼からは、おもしろい面とちょっとうんざりの面、両面があるが、研究となるとそういうものだろう。好事家の知的遊び、趣味と蘊蓄の側面があるのだから。踏み込んで基礎的な知識を蓄えないと、おもしろみを感じにくい側面があるから。
 狛犬好きにとっては、南山城という限定された地域のことながら、一歩踏み込みおもしろみを感じる事始書になることだろう。学ぶこと多しである。
 
 地元の宇治市の神社が第一の対象になっているのだが、私は、一覧表を見て未だ半数弱しか探訪していないことがわかった。この一覧表の残りの神社と狛犬の探訪が、遅ればせながらこの春以降の課題にもなった。運動を兼ねて順次巡って現地現物確認をしてみたい。

 本書の研究対象地域は限定されているが、その研究の比較対象事例として、京都市はじめ全国各地の狛犬その他の事例写真が掲載されている。この比較分析も狛犬について広く知る上で役に立つ。

 勿論、著者は狛犬そのものの概念についても、先行書を参照しつつ所見を論じている。私の理解した要点を覚書を兼ねて列挙しておこう。論議の詳細は第一部の後半をお読みいただきたい。  (p97~)
*広義では一対を総称して「狛犬」。狭義では「狛犬」と「獅子」がある。
*口の開け方には「阿形」と「吽形」がある。
 狛犬の姿は「狛犬阿形」「狛犬吽形」「獅子阿形」「獅子吽形」の4種類。
*研究の原点として、「角のあるのが狛犬・角のないのが獅子」とわりきる。
*狛犬は、「オリエント・インドのライオン像」を原型として、「中国や朝鮮を経て日本に来て狛犬・獅子になった」という点はほぼ識者共通の認識である。
 →なぜ伝わる過程で「狛犬」(高麗犬)と「獅子」(唐獅子)に分裂したのか。
  本当に分裂しているのか。単に経路の違いだけではないか。これが課題として残る。
 この概念整理の上で、著者は宇治市の実例を整理分析し、「昭和に入り、特に戦後では『獅子・狛犬』の姿がはやらず、『獅子・獅子』になっていこうとしているようだ」とその傾向を読み取っている。(p104)  
 統計的なデータとして整理し分析しているからこそ言えることなのだと思う。
 著者は、昭和30年代以降、狛犬の姿が画一化し、没個性的となり、類型的になってきていると指摘する。そういう視点で新しく奉納された狛犬を見比べてみるのも一興かなと思う。これも楽しみ。著者がこれらの狛犬を「こまやん」と呼んでいるのもおもしろい。

 第一部の最後に、印象的な1項:狛犬は雑食性か肉食性か? をご紹介しておこう。
 著者は狛犬の歯に言及する。阿形の狛犬の歯は見える。石の彫刻家がおろそかに歯を彫るはずがない。そこには意図が込められているとみる。歯の形状には、門歯・犬歯・臼歯がある。門歯と臼歯に形態上の違いはない。そこで、狛犬の上の歯の形状を犬歯(肉食性)、臼歯(雑食性)と捉えて、その数を観察記録しているのだ。こんなことを意識して狛犬を眺めたことがなかった・・・・・。
 著者は記す。「もともと狛犬は雑食性であった。ところが、明治28年、急に肉食性の狛犬が発生し、中心種となる。ところが戦争とともに絶滅し、戦後は再び雑食性の狛犬の世の中になった。少なくとも宇治市内ではそう言えそうであるが、果たして南山城地方全体ではどうだろうか」(p127) 全国的にみたらどうなのだろう・・・・ふと思う。

 第二部は、第一部の未解決課題等について、その後の調査・研究の進展結果を物語風にまとめている。第一部よりはるかに読みやすい。次の諸点が語られている。
 *狛犬が参道に出たのはいつか
 *獅子・狛犬の形式の起源はいつ、どこに。
 *日本に現存する最古の狛犬は?
 *北京・紫禁城(故宮)の狛犬
 *沖縄のシーサーとは何ものか。
 *さらにルーツを探す旅に出かければ・・・・。
という視点で、話がまとめられていく。楽しく読める。

 ご一読ありがとうございます。


補遺  私が見つけた狛犬関連ネット情報源
狛犬     :ウィキペディア
狛犬について :「神社本庁」
狛犬(こまいぬ) 資料調査室 伊東  199.2.11 :「京都国立博物館」
狛犬  :「京都御所」
奈良の狛犬と丹波佐吉  :「いかす・なら  奈良県歴史文化資源データベース」
狛犬ネット ホームページ  by たくみ よしみつ
   狛犬史における重要な狛犬たち
   狛犬の精神史(1)
まあ、そのう。。。。こまけん 日本参道狛健犬研究会  綾瀬稲荷神社の私設HP
  最新版中国の狛犬  町田茂
全国参道狛犬図鑑  ホームページ
  京都府狛犬図鑑.pdf
長野県狛犬図鑑.pdf
東京狛犬倶楽部  ホームページ
狛犬について   :「神社人」
神社にいる「狛犬」の役割は? 長い歴史や人々の暮らしとの関わり:「animal lab アニラボ」
獅子と狛犬の違いは口にあり? 古代オリエントから辿る狛犬5000年の歴史:「和楽web」
実は犬じゃなかった! 神社の狛犬にまつわる「3つの謎」  :「サライ.jp」
神社の狛犬  地域散歩  :「広島市文化財団」
神社の入口を守る「狛犬」のルーツと霊力 :「京都の摩訶異探訪」(Leaf KYOTO)

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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『新版図解 江戸の間取り 百万都市を俯瞰する』  安藤優一郎  彩画社

2025-02-17 16:25:18 | 歴史関連
 坂岡真の鬼役シリーズを読み継いでいる。その中に江戸城本丸の間取り図の一部が掲載されている。江戸城全体の間取り図・縄張り図に関心を持ち始めていた。一方、NHKの大河ドラマ「べらぼう」が蔦重を題材にしているので見始めて、遊郭吉原の間取り図にも関心を持つようになってきた。
 タイミングよく、本書のタイトルが目に止まった次第。パラパラと眺めると、「第一章 江戸城の間取り」。「第三章 町人地の間取り」の末尾には、吉原の項もある。ということで、本書を読んでみた。

 各章には基本的な最小限度の知識の説明があり、代表例となる間取り図を載せて、その間取りについて説明がなされている。図解を中心に据えた解説本。江戸時代を扱う時代小説を読むのに便利な参照資料となる。

 本書は、2024年5月に単行本が刊行されている。
 奥書によれば、本書は『百万都市を俯瞰する 江戸の間取り』『図解 江戸の間取り』を元に、作成されたという。故に「新版」を冠している。(先行書については知らない。)

 江戸について、本書で最も基本的なことを学んだ。
 今、拙文を読んでいただいている方は次の諸点をご存じだっただろうか。
*江戸は武家地が約70%、町人地と寺社地がそれぞれ約15%ずつだった。
*江戸が百万都市に成長する転機は明暦の大火(1657年)。この時から防火対策として都市の拡張事業が始まった。
*1713(正徳3)年に町数が江戸八百八町を超える。
*1745(延享2)年に人口50万人を超えた。
 私には、江戸時代について、一歩踏み込む参照本になった。

 本書は間取り図を主軸に、背景となる基礎知識は最小限に抑えつつ、解説されているので、まず読みやすい。感想を含めつつ、どのような間取り図が掲載されているか、全体構成とともに、列挙してご紹介しよう。

< 第一章 江戸城の間取り >
江戸城が皇居となった明治の時点では、江戸城内部の面積は堀を含めて、306,760坪。東京ドーム21個分以上にあたるとか。それは、家康が幕府を開いた後、江戸城を「天下普請」と称して、拡張工事を進めて行った結果である。
 江戸城内郭図。江戸城天守の間取り図(1607~1609頃)。本丸御殿表【将軍の応接間】の間取り図(1844)。本丸御殿・中奥の間取り図(1844)。江戸城本丸の全体図。本丸御殿大奥の間取り。御年寄の部屋の間取り図(1845)。
 面白いと思ったのは、将軍が政務を行うのは本丸中奥の「御座之間」が主体。中奥に入れたのは側用人、御側衆、御小姓衆、御小納戸衆、奥医師位に限定されていた。老中等幕府の政務を執る官僚群は本丸表が仕事場。老中でさえ、中奥には入れない。お側衆をして案件を取り次がせたのだという。側用人が実質的な権力を握れたことにナルホド!である。本丸中奥と大奥の間には、「銅塀(あかがねべい)」という仕切り塀があったとか。
 大奥に出入りするのは、原則として将軍だけ。
 とは言えど、大奥には、「広敷向」という区域があり、そこは実務上、事務・警護の男性役人が職務時間中に詰める空間だった。そこは逆に女人禁制となっていた。
 大奥の三分の二の面積を占める「長局向」が側室も含めた奥女中たちの住居で、多い時は奥女中が1000人近く居住し、住み込み勤務の奥女中たちは部屋ごとに自炊していたという。煮炊き・給仕・水汲みなどの下働きの女性も住み込みで働くことになるので、大奥に居住する女性の数が多くなるのもうなずける。
 
< 第二章 武家地の間取り >
 武家地の過半は「大名屋敷」で、その土地は幕府が大名の在府中の居住場所として下賜した。大名に土地所有権はなく、幕府の命令で予告なく取り上げられることもあったそうである。だから、明治政府は諸大名屋敷の土地の接収がしやすかったのだろうなと思った。
 この下賜も当初は大盤振る舞い、後には土地不足で拝領地に一定の基準-「高坪」(石高による基準)、「格坪/並坪」(役職による基準)-を設定するようになったとか。
 「幕臣屋敷」には「旗本」と「御家人」の区分があり、その格差はかなり大きい。それと、「幕府の用地」(官有地)がある。
 福井藩上屋敷の間取り図。尾張藩麹町中屋敷の間取り図(1716~1736)。尾張藩戸山屋敷の間取り図(1751~1764)。浜御庭【将軍の庭】の間取り図。六義園【大和郡山藩の庭園】の間取り図。後楽園【水戸藩の庭園】の間取り図。吉良上野介(上級旗本)の屋敷の間取り図。武井善八郎(中級旗本)の屋敷の間取り図。山本政恒(御家人)の屋敷の間取り図。与力谷村猪十郎の屋敷の間取り図(1837)。南町奉行所の間取り図(1810)。小伝馬町牢屋敷の間取り図(江戸時代後期)。人足寄場の間取り図(1790)。小石川養生所の間取り図(1835)。医学館の間取り図。
 おもしろいと思ったのは、旗本・御家人は、下賜された屋敷内に貸家を設け、町人などに貸すという土地活用が普通の経済活動として公認されていたという点である。
 禄高400石の旗本で「鬼平」こと、火付盗賊改の長谷川平蔵の本所の屋敷でも、屋敷内に町人などを住まわせ地代収入を得ていたという。

< 第三章 町人地の間取り >
 江戸の町内の俯瞰図。三井越後屋江戸本店の間取り図。裏長屋の間取り図。表店と裏長屋の俯瞰図。割長屋と棟割長屋の違い。木戸番・自身番の間取り図。自身番拡大図。湯屋の間取り図。堺町の芝居町の間取り図。元吉原の間取り図。新吉原の間取り図。
 これだけの間取り図と引用されている浮世絵を参考にすると、江戸庶民どのような住まい事情の下で日常生活をしていたがかなりイメージしやすくなる。時代劇映画に登場する裏長屋のシーンがなるほどとなる。かなり時代考証はちゃんとされているのだ。

< 第四章 寺社地の間取り >
 増上寺・寛永寺が徳川将軍家の二大霊廟になった背景話がさらりと述べられている箇所もあり興味深い。天台宗と浄土宗にまたがっている。その例外は徳川慶喜。本人の意志で神式葬儀を望んだので、両寺とは無縁。江戸時代に「葬儀のみならず法事の際に香典料や回向料などの名目で莫大な金が落ち続けたから」(p113)という説明が納得でき、かつ面白い。
 増上寺の鳥瞰図。増上寺の将軍家霊廟。寛永寺の境内図。浅草寺の間取り図。日枝神社(山王権現)周辺の俯瞰図。成田山新勝寺の開帳小屋の間取り図(1806)。
 江戸時代に出開帳ということがかなり行われていたということは知っていたが、開帳小屋が設けられていたことやその間取り図などを初めて知った。江戸の庶民は本格的なイベント会場の出現に、手軽に行ける場所として、信仰がらみもあり詰めかけたのだろうなと感じる。
 浅草寺の雷門や仲見世通りは、テレビの報道などで比較的目にしているが、「境内全体で何と169体もの神仏が祀られていた」(p114)という説明を読み、びっくり。これは知らなかった。「境内に祀られている多数の神仏は、浅草寺の図抜けた集客力の源泉となっていた」(p115-116)という説明にうなずける。これなら、毎日が縁日になっても不思議ではなさそう・・・・・。

< 第五章 江戸郊外地の間取り >
 江戸郊外地の代表例は、江戸四宿と呼ばれた宿場町。東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・欧州道中千住宿である。
 品川宿本陣の間取り図。品川宿の街並み。千人同心組頭の屋敷の間取り図。豪農・吉野家の屋敷の間取り図。
 歌川広重筆「東海道五十三次 品川宿」の錦絵は幾度も見ているが、その街並みが具体的にどうだったのか、その街並み図が部分図として載っていて興味深い。ある時点で、品川宿には、「品川宿などは飯盛女と呼ばれた女性が働く飯盛旅籠が93軒、飯盛女が置かれていなかった旅籠屋も19軒あった」(p132)、「水茶屋64軒、煮売り屋44軒、餅菓子屋16軒、蕎麦屋9軒」(p133)を含んでいたそうだ。
 江戸から約40km離れた甲州道中八王子宿周辺に「八王子千人同心」という江戸の警護役が居たということを本書で初めて知った。普段は上層農民として働く武士が存在したという。北海道の屯田兵を連想した。

 江戸時代について、間取りという観点から、人々の生活実態に想像を広げられる一冊である。間取り図を知ることで、江戸時時代小説を読むとき、描写場面に連なる空間環境の奥行きを具体的に広げる一助となるように思う。本書は気軽に楽しめ、江戸を知れる一冊である。

 ご一読ありがとうございます。
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『禁断の国史』  宮崎正弘   ハート出版

2025-01-17 20:39:45 | 歴史関連
 新聞広告で本書を知った。書名の「禁断」という冠言葉に興味を抱いたためである。
 「禁断」という語句は「絶対にしてはならぬと堅く禁じられていること(行為)」(『新明解国語辞典 第五版』三省堂)という意味だから、日本史を語るのに、敢えてこの語句を付けるのはなぜか? 何か思い切った見解でも述べるのだろうか・・・・。まあ、そういう好奇心から。地元の図書館の蔵書本を借りて読んだ。
 本書は、2024年8月に単行本が刊行された。

 サブタイトルがおもしろい。「英雄100人で綴る教科書が隠した日本通史」。
 「序章 日本の英雄たちの光と影」で著者は記す。「歴史とは物語である。英雄の活躍が基軸なのである」と。そこで、著者は一人の英雄(時折、複数)を取り上げて、その人物が日本の歴史にどのように関わったのか。人物のプロフィールと行動を描く形で、歴史年表の項目になっている史実に触れていく。英雄たちをつないでいく形で、日本通史の語りを試みる。私にとっては、今まで読んだことのないスタイルの通史本の面白さとともに、視点の異なる史実解釈に接する機会となった。

 序章の3ページを読むだけで、著者が現在の歴史学者の見解を批判する歴史観のもとに本書を記していることの一端がわかる。
 要約すると、著者はまずこの序章で次の観点を指摘する。
*歴史の始まりにある神話を現在の歴史教育は無視する。日本人は自らの先祖の物語を忘れ、神々を信じなくなった。神話の実在性を裏付ける地名、遺跡の存在に歴史学者は知らん顔である。
*今の歴史書には自虐史観の拡大と外国文献の記録を事実視し正史とする誤断がある。
*史実については、後世の史家の主観の産物(見解)が押し付けられているところがある。

 そして、序章の次のパラグラフで、本書の意図を述べている。
”この小冊が試みるのは、「歴史をホントに動かした」英傑たち、「旧制度を変革し、国益を重んじた」愛国的な政治家、「日本史に大きな影響をもった」人たちと「独自の日本文化を高めた」アーティストらの再評価である。時系列的に歴史的事件を基軸にするのではなく、何を考えて何を為したかを人物を中軸に通史を眺め直した。従来の通説・俗説を排しつつ神話の時代からの日本通史を試みた。”と。(p3)

 本書の構成とその章で取り上げられた英雄たちの人数を丸括弧で付記しておこう。
   第1章 神話時代の神々           ( 8)
   第2章 神武肇国からヤマト王権統一まで   (13)
   第3章 飛鳥時代から壬申の乱         (12)
   第4章 奈良・平安の崇仏鎮護国家      (24)
   第5章 武家社会の勃興から戦国時代     (20)
   第6章 徳川三百年の平和          (21)
   第7章 幕末動乱から維新へ         (19)

 例えば、第2章と第5章で、著者が誰を英雄たちとして取り上げているか。その人名だけ列挙してみる。この時代の通史として、あなたのイメージにこれらの人々が想起されるだろうか。
【第2章】 神武天皇/ 崇神天皇/ 日本武尊/ 神功皇后/ 応神天皇/ 雄略天皇/
      顕宗天皇/仁賢天皇/ 継体天皇/ 筑紫君磐井/ 稗田阿礼・太安万呂

【第5章】 平清盛/ 木曽義仲/ 源頼朝/ 後鳥羽上皇/ 亀山天皇/ 親鸞/ 後醍醐天皇
  足利尊氏/ 光厳天皇/ 楠木正成/ 北畠親房・北畠顕家/ 日野富子
ザビエル/ 織田信長/ 明智光秀/ 正親町天皇/ 豊臣秀吉/ 石川数正
黒田官兵衛
 私の場合、第2章では、想起できる人名が数名、第5章では想起できない人名が数名いた。
 
 本書に登場する英雄たちの中に、今までまったく意識していなかった人物が居る。また、過去の読書や見聞から、多少は知識として知っていても、本書で知らなかった側面を知らされる機会になった。ほとんどが2ページという枠に納めて日本通史に絡める論述なので、かなり断定的な記述にもなっている。そのため、そういう側面や事実があるのか・・・・という受け止め方になりがちだった。本書により問題意識を喚起されたというのが、本書のメリットと感じる。
 例えば、豊臣秀吉が行った朝鮮への二度にわたる出兵は、ポルトガル、スペインによる日本侵略に対する先制予防戦争の原型(p159)。秀吉によるキリシタン追放の意図は背景に宣教の陰に隠れた闇商売の問題事象がからむ(p177)。勝海舟が蘭学修行中に、辞書を1年かけて2冊筆写した(p235)。など、他にもいろいろと知的刺激を受けた。つまり、「そういう側面や説明」の指摘については、一歩踏み込んで史資料で確認するというステップを踏んで、理解を深めるステップがいるなという思いである。歴史認識への刺激剤。

 一方で、筆者の筆の滑りなのか、編集・校正ミスなのかと思う箇所もある。例えば、紫式部の項の「夫の越前赴任により現在の越前市に住んだことがある」(p118)は明らかに父の越前赴任のはず。「光る君へ」でもそうだった。親鸞の項目の「『歎異抄』『教行信証』などは親鸞の弟子たちがまとめた」(p136)。この箇所、『歎異抄』は弟子の唯円がまとめたと言われているが、『教行信証』は親鸞自身が晩年まで本文の推敲を重ね続けたと見聞する。引用文の形では意味が変化するように思うのだが・・・・。

 いずれにしても、ここで取り上げられた英雄たちについて、まったく名前すら知らなかった人びととが取り上げられている。名前は見聞したことがあっても、日本通史の中で重要な位置づけとしてとらえていなかった人々がいる。知らなかった側面に光が当てられた人々もいる。
 そういう意味で、知的刺激を結構受けた日本通史本である。

 著者の視点・見解も含めて、我が国の過去の歴史に一歩踏み込んでみたいと思う。

 ご一読ありがとうございます。
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『西行 歌と旅と人生』   寺澤行忠   新潮選書

2024-11-08 17:40:59 | 歴史関連
 若い頃に購入した『山家集 金槐和歌集 日本古典文学大系29』(岩波書店)が手元にある。たぶん西行の歌に関心を高めていたときに入手したのだろう。時折、参照する程度で完読せずに今にいたる。不甲斐ない・・・。もう一つのブログで日々の雲の変化を載せいたとき、2023年5月に西行法師が雲を詠み込んだ歌を抽出して併載する試みをしていた。これが直近で『山家集』を久しぶりに参照した記憶である。
 今までに、断片的な西行についての記事等を読んだことはあるが、西行の人生そのものについてまとめられた書を読んだことがない。昨年、『山家集』を拾い読みしていたせいだろうか、タイトルが目に止まり、サブタイトルの「歌と旅と人生」に惹かれた。
 本書は今年、2024年1月に、新潮選書の一冊として刊行されている。

 本書を手に取り、初めて著者を知った。「おわりに」と著者プロフィールによれば、1942年生まれ。慶應義塾大学名誉教授。文学博士。専攻は日本文学・日本文化論。文献学・書誌学の領域に入り、「私の研究も文献学的なアプローチをとることになった。実際、研究を始めてみると、西行歌集に関する文献の整備がきわめて遅れていることを痛感し、図書館・文庫・個人の所有者などを訪ね歩いて、写本や版元の調査研究をするようになった」(p227)という。現存する写本・版本はほとんどすべて閲覧・調査されたそうだ。その研究は『山家集の校本と研究』『西行集の校本と研究』二書として公刊されている。
 私にとっては本書が西行研究者とのラッキーな出会いとなった。

 本書は読みやすい。教養書という位置づけで執筆されているからだろう。
 「はじめに」の末尾に、本書執筆のスタンスが明記されている。「本書は研究者として長年西行に親しんできた者が、実証に基づきつつ、文化史の大きな流れの中で改めて光を当て、新しい西行像の彫琢を試みたものである」と。
 つまり、実証ベースで西行の歌や旅の軌跡、西行を取り巻く史実としての系譜、人間関係が織り込まれながら、西行の人生が、読者には読みやすい形でまとめられている。
 本書全体は、ほぼ西行の人生の時間軸に沿う形でまとめられている。年代記述ではなく、西行の人生のフェーズを取り上げ、テーマを設定し、そのテーマに関連する形で、西行が詠じた歌を集めて、実在する資料を援用し、西行の思考や心を浮き彫りにしていくというアプローチが試みられている。取り上げられた歌は、原歌と歌意の訳文がセットになっているので、歌の意味がわかりやすい。ここでは個々の歌の鑑賞だけではなく、そこに集合させた歌のまとまりを介して、西行像が実証ベースで描き出される。
 西行の歌と西行が研究者の視点でどのように論じられているかという点にも触れられていて、様々な見解があることもわかる。また、歌の相互関係の分析から西行の意図や心について推論が加えられていて、著者の思いが述べられていく。なるほどと思う論述を楽しめる。

 全体の構成をご紹介しておこう。
 1. 生い立ち 2. 出家   3. 西行と蹴鞠     4. 西行と桜   5. 西行と旅
 6. 山里の西行  7. 自然へのまなざし      8. 大峰修行   9. 江口遊女
10. 四国の旅   11. 地獄絵を見て  12. 平家と西行   13. 海洋詩人・西行
14. 鴫立つ沢   15. 西行の知友   16. 神道と西行   17. 円熟
18. 示寂     19. 西行と定家   20. 西行から芭蕉へ 21. 文化史の巨人・西行

 詳細は本書をお読みいただくとして、西行像を知るうえで本書から学んだことを覚書として、引用と要約で記してみたい。
*西行の家系は藤原秀郷を祖とし、その子・千常系の子孫。俗名は佐藤義清(ヨシキヨ)
 曾祖父公清から父康清までは、左衛門尉かつ検非違使だった。
*西行生年の記録はない。藤原頼長の日記『台記』の記述から生年が推定できる。
 元永元年(1118)生まれ。平清盛と同年の生まれ。→ 時代をイメージしやすい。
*18歳で任官し、ほどなく鳥羽院の北面武士として出仕。この頃、徳大寺家藤原実能の家人となる。実能の妹が、鳥羽院の妃・待賢門院だった。
*『台記』によれば、西行は在俗時より仏道に関心が深かった。「出家を促す要因が他人から見て少しも見い出されないにもかかわらず、出家という行為を敢然と実行した西行に、人々は称賛を惜しまなかった」(p26)義清、23歳で出家。出家の要因に恋愛問題(?)
 西行には、実家に荘園の経済的バックがあったことを指摘。
*西行が桜を詠んだ歌は、詠出歌全体の1割以上。西行が眺めていたのは山桜。
*出家により仏道修行と作歌修行をめざす。両修行は密接不可分。和歌仏道一如観。
 出家直後は、都の周辺で庵をむずび、修行。
 高野山の真言宗で長期間修行。ここを活動の拠点にした。
 その初期、西行は壮年期に大峰山にて修験道の修行も行う。
 1180年に高野山を去り、伊勢に移住。足かけ7年を過ごす。神道に対する信仰も厚い。
 中世における大日如来本地説の立場を西行は先行していたと思われる。
 西行という法号自体は浄土教のもの。
*「西行自身は、生涯にわたり作歌の道に精進を重ねてきたにも拘わらず、いわゆる歌壇と直接交渉を持とうとはしなかった。当時盛んに行われた歌合の場にも出席しなかった」(p200)
*「人生無常の思いは、西行の歌に流れる通奏低音である」(p220)
*「西行は、日本の思想史を貫く無常の自覚と、それを乗り越える『道』の思想の発展において、きわめて大きな役割を果たしたのである」(p221)
*西行の行動範囲:都、高野山、大峰山、吉野山、伊勢、熊野、二度の奥州行脚、西国・四国への旅

 「おわりに」で、著者は、『山家集』の写本で、京都の陽明文庫所蔵の写本が最善本とされ、その本文がほとんどあらゆる西行歌集のテキストに用いられていることに触れている。その写本自体にも誤写の箇所があることを文献学的見地から事例をあげて指摘されている。「本文が間違っていれば、その解釈も当然おかしなことになる。書物というものは、転写が繰り返されるごとに誤写が拡大していく運命にある。したがって西行が詠んだ歌の本来の姿を見定めることは、極めて重要なのである」(p229)
 なるほどと思うと同時に、最新の研究成果を取り入れて校注された西行歌集にも目を向け、数冊対比的に参照して、読むことが必要だなと思う次第。

 西行の詠んだ歌自体を主軸に鑑賞しながら、西行像に多角的な視点からアプローチしていける。西行の世界へ一歩踏み込みやすくて役立つ書である。
 
 ご一読ありがとうございます。


補遺
吉野山と桜   :「吉野町」
高野山真言宗総本山金剛峯寺 高野山  ホームページ
崇徳天皇白峯陵  :「宮内庁」
崇徳天皇 白峯陵 :「新陵墓探訪記」
悲運の帝『崇徳上皇』 :「坂出市」
世界遺産 大峰 ホームページ :「奈良県吉野郡 天川村」
波乱の人生のひととき、伊勢・二見浦にやすらぎを求めた僧侶 西行  :「お伊勢さんクラブ」
円伍山西行庵  ホームページ
西行は待賢門院璋子と「一夜の契り」を交わしたのか――日本文学史最大の謎を追う :「デイリー新潮」
若くて、お金持ちで、前途有望だった西行はなぜ出家したのか――「潔癖すぎた男」の選択  :「デイリー新潮」
「出家するなんて、許せない」――天才歌人・西行に対して、高名な評論家が言い放った「驚きの評価」 :「デイリー新潮」
天才歌人・西行が見せた源頼朝への「塩対応」――貴重な贈物も門前の子供にポイ :「デイリー新潮」
「清廉な西行」と「貪欲な清盛」はなぜウマが合ったのか――正反対の二人を結びつけた「知られざる縁」 :「デイリー新潮」

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『日本史を暴く 戦国の怪物から幕末の闇まで』  磯田道史  中公新書

2024-09-27 13:58:30 | 歴史関連
 『日本史を暴く』というタイトルはショッキングな印象を与え、読者を惹きつける。それは、「暴く」という言葉から受ける印象にある。これって、広告の原則には則っている。
 「暴く」という語を念のために手元の辞書で引くと、「人が隠しておこうと思うものを、ことさら人目に触れるようにする。ことに、人が意図的に隠そうとしている悪徳・非行や、ともすれば多くの人が見逃しがちな欠陥などを、遠慮なく衆の前にそれと示す。」(『新明解国語辞典 第五版』三省堂)と説明されている。
 タイトルを読めば、誰しもこの語義の意味合いで受け止めていて、興味をそそるに違いない。私もその一人。副題がそれを助長する効果を持っている。

 本書は、『読売新聞』(2017年9月~2022年9月)に「古今をちこち」と題して連載されたものを一部改題のうえ、加筆修正を行い、2022年11月に新書として刊行された。
  
 本書の「まえがき」には「歴史には裏がある」という標題がついている。冒頭はこんな書き出し。「歴史には裏がある。歴史は裏でできている。この本に書いてあるのは、歴史の裏ばかりだ」。つまり、著者は歴史教科書はじめ、市販の歴史書などで取り上げられている史実では取り上げられていない側面を本書の話材としている。著者自身が遭遇あるいは発見した古文書を読み解き、さらに歴史研究者の諸論文を援用し、一般に語られる史実の表には見えなかった「裏」の側面をここでオープンにしていく。

 我々が知っているつもりの歴史は、史実の一面である。
 事実はいわば多面体。いろいろな側面があり、証拠資料が発見されれば、史実の内容がより明らかになる。解釈を深めることができる。そんなスタンスで、著者は「裏がある」と語っている。本書を読み、そう受け止めた。読後印象は、史実をより多面的にとらえるために、著者が実際に発見した事実を具体的に列挙してみせた。歴史を「暴く」というスタンスとは少し違うように感じた。
 よく言えば、我々が学び、知る歴史の史実は表層的な事実だけであり、その史実を多面的にとらえ、理解の奥行きを広げ、懐深く史実をとらえ直す一助となる書である。
 我々が知る歴史の史実解釈について、新しい証拠を示して覆そうという類の意図はない。今まで世に出ていなかった古文書の発掘、発見から得た情報を主体にしながら、史実の周辺を補強できる話材を集めた書といえる。ちょっと、人に教えたくなるようなトレビアな知識の集積本という一面を併せもつ。雑多な話材が盛り込まれていて、知的好奇心をかきたてられる書でもある。つまり、公知の史実から一歩踏み込み、その裏にある知られていなかった事実を証拠をもとに語ることで史実の解釈に新しい側面が加わり、理解が深まることに繋がる。

 著者は「おおよそ、表の歴史は、きれいごとの上手くいった話ばかりで出来ている」(pⅳ)と言う。そこに「自分で探した歴史だから、現場の一次情報」(pⅵ)と自信をもって、埋もれていたリアルな話材をこの本で紹介し、そのネタを料理してくれている。史実に絡んだリアルな話の好きな読者は、この料理を味わいたくなるだあろう。

 本書の構成は以下の通り。
   第一章 戦国の怪物たち
   第二章 江戸の殿様・庶民・猫
   第三章 幕末維新の光と闇
   第四章 疫病と災害の歴史に学ぶ

 副題に記された「戦国の怪物」は、第一章の話材として出てくる。松永久秀、織田信長、明智光秀、細川藤孝、豊臣秀吉、徳川家康をさすようだ。比類なき戦国美少年と称された名古屋山三郎を登場させ、淀殿との密通説について触れているのが興味深い。密通説はどこかで見聞したことがあるが、秀吉が「淀殿周辺の男女を淫らな男女関係を理由に大量に処刑している」(p36)という事実を本書で初めて知った。歴史記述の表には出てこない話である。また。「家康の築城思想」(p46-48)はおもしろいと思った。
 第二章では、徳川家と徳川御三家に関わる裏話、忍者の知られざる側面の話、赤穂浪士が「吉良の首切断式」を泉岳寺の尊君墓前で行った話、女性の力で出来た藩が実在した話、江戸時代の猫についての話など、話材が多岐にわたっている。すべて古文書などの資料的裏付けがあるので、興味深く読める。
 副題にある「幕末の闇まで」という記述はちょっと一面的。第三章の標題は、「幕末維新の光と闇」と題して、光の側面も話材にして、バランスがとられている。明るい側面としては、幕末の大名、公家や武士の日常生活の側面を具体例で取り上げている。坂本龍馬が関係する『藩論』の古文書が発見できたことを語る。松平容保と高須四兄弟にも触れている。一方で、西郷隆盛が抱えていた闇の側面、そして、孝明天皇毒殺説という闇の側面に触れている。孝明天皇の公式記録にも掲載されていない病床記録を発見したこととその内容の分析である。興味深い話材ばかりである。
 第四章は、まさに闇に近いだろう。これまでこの側面は大災害や大流行の疫病が歴史に名をとどめても、事実ベースで詳細に語られるというのは表の歴史ではほとんどなかった。具体的に話材としてこの章で取り上げられている。日本における「マスク」の起源を論じているところが興味深い。

 読者に新たな知見を少し加え、話材が豊富で日本の歴史の多岐にわたり、読者を飽きさせない構成になっているのは間違いない。楽しめる一書である。

 ご一読ありがとうございます。
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