相撲史に関心・興味のある方どうぞ

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『相撲史発掘』第84号 堂々完成 !

2017-01-31 20:52:17 | 日記
 非売品&定期刊行物たる拙作『相撲史発掘』
第84号が出来ました。内容は━

◯しこ名の文字数<中>
幕末→明治初期の田子ノ浦
3文字“不変”が14例
3→4の常陸山→出羽ノ海
武者ヶ﨑→手柄山→武隈
入幕2場所めの改名

◯天保四年冬場所
阿武松が初めて“連敗”
引分けばかりの横綱…
●幕内関係勝負&星取表

◯なんで東・西が“逆”なのか?

◯大正二年の合併相撲
“筒抜け”はなかった…?

◯昭和戦前の軽量力士

◯酉年生れ入幕力士一覧

◯古今平幕最優秀力士星取表
安政五年~元治元年春

◯山方香峰の人物像わかる
●あとがき

 頒布を御希望の方は92円切手を同封
して…〔120円切手の場合は定形外郵便
にて折らずに発送〕下記へ
〒852-8113 長崎市上野町14-11
       田   中       健
 お問合せは jhisa104@ybb.ne.jp     
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当ブログ 新記録更新成らず!

2017-01-31 12:59:46 | 日記
 平成二十九年をむかえてから
当プログ訪問者数が200の大台
に達した日を列記してみたい。

一月五日(木曜)
 閲覧1,036PV 訪問…207IP

一月十六日(月曜)
 閲覧 393  訪問…204

一月二十一日(土曜)
 閲覧1,100  訪問…208
同 二十二日(日曜)
 閲覧1,064  訪問…240
同 二十三日(月曜)
 閲覧 962  訪問…227

一月二十五日(水曜)
 閲覧 699  訪問…222

一月三十日(月曜)
 閲覧 790  訪問…235

 一番惜しかったのは、二十四日(火曜)で、
174IPの訪問者が200の大台ならば、5日
連続の記録となるところだったのに……。
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加筆・訂正して「春日山」

2017-01-30 20:47:38 | 日記
 江戸時代、享和元(1801)年から
黒船来航の嘉永六(1853)年までの
全力士の取組順序がわかる『相撲起顯』
に“脱落”があるとは…想定外だった。
 天保四年冬場所二日目中入り前の
前一◯鷲ヶ濱─瀬戸﨑●前六 である。

 その翌場所の同五(1834)年春場所の
分にも脱落じゃぁないが、誤謬が……。

 即ち、初日中入り前おしまいから2番め

逐 乎 風  荒??━その下部に小文字で
「春日山」と書いてある。

 『起顯』出版直後にミスに気づいて、加筆・
訂正したのかも知れない。

 或いは、当方所蔵のものは、解散した「…友の
会」でコピーしてもらった複製品だから、原本
は、ひょっとしたら間違いの侭かも…?
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監察委員の眼が光って引分けも

2017-01-30 13:14:38 | 日記
※昨日までのトータル訪問者数
   368,517IP

 昭和四十九年秋場所における
8勝7敗の幕内力士→九州の地位
検証。

大関 貴ノ花→論外
 〃 大麒麟→ 〃
関脇 大 受→据置き
前五 栃 東→前二
 〃 若ノ海→前三 
同八 富士櫻→前六
 〃 天 龍→前七
同十一 琉 王→前十
同十三 玉ノ富士→前十一

 当場所、惜しくも負越しの7勝…は
関脇魁傑、小結旭國のほか平幕に5人
も記録。
 十一日目、二子岳─三重ノ海が水入り
取直しの末ついに引分けた。但し、『大相
撲』誌「観戦記」に拠れば、内容的には
評価されなかった。
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アンチ彦山派が「権道」を改竄して…

2017-01-29 20:42:25 | 日記
【前稿のつづき】

 不知火諾…→太刀山→羽黒山→と踏襲
されてきた「不知火型手数入」だった。
昭和十六年夏場所後、横綱免許の羽黒山
の型は太刀山がみせた「下の構え」で両掌
を拡げる。アンチ彦山派は、このときから
雲龍・不知火の両“型”があべこべで、現
今云われる不知火型が実は雲龍型で、雲龍型
とされるのが本当は不知火型だとする説。

 昭和三十年頃、羽黒山から踏襲した吉葉山
の型をめぐって『横綱傳』の彦山光三翁と、
『日本相撲史』の酒井忠正もと伯爵との間で
大論争を展開した。但し、酒井伯は「雲龍型」・
「不知火型」は明瞭じゃないから、梅ヶ谷型・
常陸山型・太刀山型…などと呼んだ方がいい
━と主張した。

 戦時中、当時協会嘱託の彦山翁が関脇の
笠置山(後秀の山理事)に質したらしい。
「下の構え」等の表現するものは…? すると
両掌を拡げるのは“攻め”を意味して、脇腹
辺りにおくのは“守り”を意味する云々。
 
 そして昭和三十年代後半、或るアンチ彦山派
が「彦山が不知火型を「邪道」と云うのは
けしからん…。

 これは一種の改竄であって、彦山翁は「権道」
と書いている。
 邪道と意味が相当乖離しているのである。
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