戦後はじめての名古屋場所〔昭和
初期に3度ほど「大場所」として興
行していた〕となった昭和三十三年
七月場所、初日から七日目までの星取
表を真っ黒に塗り潰したのは元小結
清水川明於だった。
翌八日目、腰の重い出羽錦を上手投
で破り連敗脱出━幕内全敗が消えている。
当時名古屋…は「南洋場所」と呼ばれ、
「酸素の放出」なんてやっていたんだよ。
ほんと隔世の感がありますな。
清水川の話に戻る。彼は「小部屋の悲哀」
を味わった。或るとき彦山翁の私製版で
関脇にあげられたのに、協会は冷たく…。
出羽海か時津風所属ならば、元関脇に
なっていたはず。
引退後も、“冷や飯”組へ…。土俵下に
坐る頃「50の手習い」と云っていたね。
元大関の…元吉師匠から独立したけど、
弟子運に恵まれず、関取を輩出ならず…。
その弟子に本姓「幕内」と名乗るやつが
…。でも、たしか三段目で終ったな。
初期に3度ほど「大場所」として興
行していた〕となった昭和三十三年
七月場所、初日から七日目までの星取
表を真っ黒に塗り潰したのは元小結
清水川明於だった。
翌八日目、腰の重い出羽錦を上手投
で破り連敗脱出━幕内全敗が消えている。
当時名古屋…は「南洋場所」と呼ばれ、
「酸素の放出」なんてやっていたんだよ。
ほんと隔世の感がありますな。
清水川の話に戻る。彼は「小部屋の悲哀」
を味わった。或るとき彦山翁の私製版で
関脇にあげられたのに、協会は冷たく…。
出羽海か時津風所属ならば、元関脇に
なっていたはず。
引退後も、“冷や飯”組へ…。土俵下に
坐る頃「50の手習い」と云っていたね。
元大関の…元吉師匠から独立したけど、
弟子運に恵まれず、関取を輩出ならず…。
その弟子に本姓「幕内」と名乗るやつが
…。でも、たしか三段目で終ったな。