某書〔平成元年刊〕では「象ヶ鼻
倉之助」となっていた後Ⅵ音羽山の
十万ノ海剛右エ門を描いた一人立ち
化粧廻し姿の絵は全然存在しないら
しい。
『相撲浮世絵』(昭和五十年刊)や、
『江戸相撲錦絵』(同六十一年刊)の
どこをさがしても彼をモデルにした
絵画を発見できなかった。
勿論、幕内中堅力士で大した活躍
もなく、所謂「名力士」の範疇には
入らないかも知れないが…。
でも、彼は年寄音羽山からⅧ雷(いか
ずち)を襲名し、明治二年64歳で歿する
まで江戸相撲會所(現協会)の幹部として
幕末の角界リーダーだったのに……。
尚、取組数3桁で「引分け相撲」皆無
の異色力士だったことは既述のとおり。
倉之助」となっていた後Ⅵ音羽山の
十万ノ海剛右エ門を描いた一人立ち
化粧廻し姿の絵は全然存在しないら
しい。
『相撲浮世絵』(昭和五十年刊)や、
『江戸相撲錦絵』(同六十一年刊)の
どこをさがしても彼をモデルにした
絵画を発見できなかった。
勿論、幕内中堅力士で大した活躍
もなく、所謂「名力士」の範疇には
入らないかも知れないが…。
でも、彼は年寄音羽山からⅧ雷(いか
ずち)を襲名し、明治二年64歳で歿する
まで江戸相撲會所(現協会)の幹部として
幕末の角界リーダーだったのに……。
尚、取組数3桁で「引分け相撲」皆無
の異色力士だったことは既述のとおり。