相撲史に関心・興味のある方どうぞ

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『…相撲史』で不掲載の幕下全勝2例

2010-07-31 20:27:01 | 日記
『日本相撲史』上巻星取表に当然掲載されていなければ
ならない幕下(現十両)力士のなかで、“全勝”者が2人━
寶暦十三(1763)年四月場所の東幕下八枚目、甲山の8戦
全勝と、明和八(1771)年三月場所の西幕下八枚目、荒飛
も8戦全勝を記録しております。前者は、過日ご紹介済み
なので…荒飛の星を掲げてみたい。

初 日 ○瀧ノ尾(幕下八枚目)
二日目 ○谷 川( 〃九枚目)
三日目 ○秋ノ浦(三段目3)
四日目 ○金 碇( 〃 1)
五日目 ○陣 幕( 〃 4)
六日目 ○甲 山(幕下五枚目)
七日目 ○須摩浦(三段目6)
八日目 ○浦 風( ? )

 浦風の地位については、『江戸時代 相撲名鑑』でも
調べてみたけれど…わかりませんでした。
 尚、荒飛甚太夫は伊勢海部屋の出世名だとされていて、
この荒飛は甚太夫ではなく里右エ門という名前なのに、
伊勢海の所属らしい…。
 当時の取組編成も工夫が足りないみたい。好調力士は
三段目ではなく、幕内と対戦させるべきでしょう。
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土曜を開幕日に…

2010-07-31 13:07:17 | 日記
 国技大相撲を真に大衆のものとするためには…発想の
転換が必要でしょう。たとえば、ナイター興行━既に、
大正末乃至昭和初期の相撲雑誌を瞥見すると、一般の
サラリーマンに配慮して…夜間興行を提唱している。
 それが、昭和三十年秋場所に実現したのであります。
たしか、打出しが午後八時前後じゃぁなかったか…。
 しかし、残念ながら、当の力士連中や報道関係に不評
で、一場所かぎりでとりやめになってしまった。その後
協会内部から夜間制復活の話が出たことはあるまい。

 興行形態に関しては色々ありますよ。かつて小島貞二氏が
おもしろい提案をされていた。日曜が初日で千秋楽も日曜
━このワンパターンは古い考え方だ。週休二日制普及という
情勢に無関心ではいけません。土曜を初日として…翌々日曜
までに九日目まで興行して…その翌日=月曜を力士の休業日
とする〔勿論稽古してはいけないなんてことはない〕火曜を
十日目…で、千秋楽は従来どおり日曜。
 但し、今月の如く18日曜・19祝日だから智慧をしぼって…
12月曜・13火曜と興行を休んで…14水曜を十日目として18日
が十四日目、千秋楽を19祝日とすれば理想的でしょう…。
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秋の私製版…

2010-07-30 20:41:02 | 日記
 恒例の…秋場所「番附」の私製版を御披露いたします。

横綱 白鵬 3場所完全制覇お見事、文句なしの独り…
大関 3場所が32勝13敗の把瑠都。もう一人が問題…
  日馬富士と琴欧洲が29勝16敗の同点でならびました。
  欧洲が光喜と同門だった利点および初場所成績が上
  だった日馬富士を西大関とする。
関脇 琴欧洲は文句なし。もう一人は27勝18敗の栃煌山
小結 23勝18敗の魁皇━もう引退しても結構だが…。もう
  一人は、稀勢の里か阿覧が24勝21敗の同点だが、最近
  2場所にかぎれば露国出身の阿覧ということになります。
前頭筆頭は東に稀勢の里。西は鶴竜をもってくるわけです。

 かつて、昭和四年一月場所番附は…三年三月(於名古屋)・
同五月・同十月(於広島)─の3場所通算成績を基準にして
編成されている。1場所だけの成績で番附編成を行うから
無気力相撲がやりやすくなるのではないかなぁ…と思う。

 画像は、明和七(1770)年三月場所番附。このときから現在
に至るまで「五段番附」が定着したのであります。
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無差別殺戮兵器にも…無事だった…!

2010-07-30 13:41:28 | 日記
間もなく八月九日…長崎原爆投下は昭和二十年八月…。
数年前、当地を訪ねられた…史蹟研究会代表世話役の
竹ヶ戸梅右エ門関に「原爆の日はどこに…」「未だ生れて
いませんよ」と応えるほかはございませんでした。
 その爆心地から…およそ4kmほどの距離に位置する
鍛冶屋町に大音寺がある。慶長十九(1614)年創立という。
原爆では本堂・伽藍に被害をうけたそうであるが、相撲
関係━横綱小野川が寛政四(1792)年に寄進した石燈籠は
運よく無事でありました。これが発見されたのが戦時下の
昭和十七年で…甚だ失礼なことを申しあげれば、当時の
住職が所謂“生臭坊主”だったことも一因で、“中央”へ
伝達されなかった。相撲協会嘱託〔当時〕の彦山光三は
昭和十四年十月に当長崎を訪ねており、もう3年ばかり
当該史蹟発見が早かったら……と思うのである。
 掲げた画像で判読できるでしょうか? 「寛政四歳在
壬子十一月吉祥日」・「施主 小野川」と刻まれており
ます。
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建前では駄目

2010-07-29 20:21:17 | 日記
 本協會は本邦固有の國技たる相撲道の深遠なる研究に
勉め、之が維持興隆を期すると共に武士道の精神に則り、
質實剛健なる國民の養成と體育の向上とを圖るを以て目的
とす。

 上記は、旧大日本相撲協會寄附行爲の「目的及事業」の
なかで“目的”を謳った条文でありました。昭和三十二年、
国会で問題になるまで…武士道の精神…なんて大時代的な
一種のアナクロニズムみたいな表現を管轄の文部省〔当時〕
が…ほったらかしにしていたわけですよね。
 現行の寄附行為「目的…」の条文は以下のとおり。

 この法人は、わが国固有の国技である相撲道を研究し、相撲
の技術を練磨し、その指導普及を図るとともに、これに必要な
施設を経営し、もって相撲道の維持発展と国民の心身の向上に
寄与することを目的とする。

 “建前”だけではいけませんよ。現代力士は概してプロとして
恥しくないように「…の技術を練磨」していますか。現協会は、
「国民の心身の向上に寄与」しているでしょうか。もうひとつ、
「…に必要な施設」は両国國技館だけで充分でありましょうか。
 “公益性”が問われている日本相撲協会の現状であります。
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