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ヨハネ福音書における「遣わす、送る(アポステロー、ペンポー)」

2016-02-19 13:20:28 | 聖研
ヨハネ福音書における「遣わす、送る(アポステロー、ペンポー)」

遣わす、送る(apostello、pempo)
ほとんど同意義、ペンポーの原意は「送る」、使い走りの人間を送るというニュアンス。ただし、ヨハネ福音書では原著者も第2ヨハネもほとんど同意語として使っている。
13:16ではこの両者を使い分けることによって使徒批判をしている。アポステローを名詞化したのが「使徒」(アポストロス、apostolos。使徒は彼を遣わし者より大きくはない。(Jh.13:16)
「遣わされた者」、完了受動分詞、アポスタルメノス(apostalmenos) 3:28

ヨハネ福音書におけるこれら2つの単語の使用状況を見ると、全部で60回、その内、洗礼者ヨハネについて3回、聖霊について3回、その他9回、イエスについて45回。

まず最初に登場するのが洗礼者ヨハネが神から遣わされた者として、3回現れる。
1:6、1:33、3:28 1:33がペンポーで他の二つはアポステロー

次ぎに、とくに限定されない9例を見ておく。

(1) 何かの目的で人を使いに出す5例(1:19、1:22、1:24、7:32、11:3)、ここでもアポストレートペンポーの区別は見られない。
(2) イエスの裁判の場面で、アンナス邸から「大祭司カイアファ邸のもとに送った」という文章でアポステローが用いられている。(18:24)
(3) おもしろい例としてはシロアムの池の原語が「遣わされた者」という意味だとされる。(9:7)
(4) 特別な使用例として13:16がある。これは一般的な格言じみた用例であるが、13:16。
「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」。前の方の「遣わされた者」はアポステローの名詞形でアポストロス、後の方の「遣わした者」の原語は「彼を遣わした者」でペンポーのアオリスト(未完了過去)の分詞形である。これにより過去の何時かに遣わした者を意味する。この場合本来ならば、前の遣わされた者と「遣わした者」とは同じ言葉が用いられるべきであるし、もしアポステローを用いるならば、完了受動分詞「アポスタルメノス」を用いるべきであるが、敢えてアポストロスを用いたのはこれが「使徒」を意味する言葉だからであろう。使徒が遣わした者よりも偉いはずがない。遣わした者が弟子たちの足を洗ったのであるならば、使徒たちもそれに見倣うべきだというニュアンスが込められている。

(A) 父から遣わされた御子
父なる神、子なるキリスト、弟子たちとの関係において45回用いられている。その内、少なくとも10回は父から遣わされた御子という意味で用いられている。ヨハネ福音書は一貫してイエスを父なる神から遣わされた者として描く。<3:17、3:34、5:36、5:37、6:57、7:29、7:33、8:42、10:36、16:5>
とくに6:57は注目すべきであろう。
「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」。これは例のパンの奇跡の後、「わたしは命のパンである」(6:48)と言う驚くべき宣言をした後に述べられたキリスト教信仰の真髄ともいうべき言葉である。
また、7:33と16:5も注意を引く。これらはイエスがわたしを「お遣わしになった方のもとへ帰る」と述べられている言葉で、イエスは父なる神の元からこの世に来られ、使命を終えたら元の元に帰るという。

(B) イエスの使命
次ぎに取り上げるカテゴリーは、「遣わされる」のには何らかの目的、使命があるからで、次の8個所がそれに当たる。<4:34、5:30、6:38、6:39、7:16、9:4、12:49>
このうち、4:34、5:30、6:38では遣わした方の「御心を行うため」と明記され、6:39では「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と記されている。
7:16、12:49、14:24では、イエスの語る言葉、イエスの教えはすべて「わたしをお遣わしになった方」から出ていると主張されている。そして9:4ではその使命を達成する期限があることを暗示している。

(C) 父が共にいる
次の4個所では、イエスの活動はイエス単独でなされるのではなく「わたしをお遣わしになった父と共にいる」と述べられている。<8:16、8:18、8:26、8:29>これは重要である。もっとも、神が為さる仕事を人間に比較するわけにはいかないが、どうしても一人ではできないことがある。たとえば「証言」と「保証」は単独ではできない。そういう場合に「父である神」がサポートする。

(D) イエスを信じること
ヨハネ福音書ではここが最も重要なことである。信仰とは何を信じることなのか。大雑把な答えとしては「イエスを信じる」という。弟子たちにとっても、また当時の人々にとっても、さらに私たちにとっても「イエスを信じる」とはどういうことか。親を信じるとか、子供を信じるとか、友人を信じるとかとイエスを信じるとはどう違うのだろうか。共観福音書ではこの点が曖昧であるが、ヨハネ福音書ではそれが実に明瞭である。イエスを信じるとは、イエスを神から遣わされた者として信じるということである、というのがヨハネの信仰論である。以下、8個所でそのことが述べられている。
<5:38、6:29、11:42、17:3、17:8、17:21、17:23、17:25>
ここで注意すべきことはイエス・キリストを知るということと信じるということがほとんど同意語になっていうということである。

(E) 御子を知ることは父を知ること
「遣わされた者」を信じるということは、ほとんど同時に「遣わした者」を信じることでもある。御子を知ること(信じること)と父なる神を信じること(知ること)とはほとんど一体化している。5:23では「敬う」、12:45では「見る」、13:20では「受け入れる」という言葉が使われているが、同じ意味である。ここには7個所が含まれている。
<5:23、5:24、7:28、12:44、12:45、13:20、15:21>

(F) 弟子の派遣
この「父と子」の関係が、次の6個所で、そのまま「イエスと弟子たち」との関係に移し替えられる。
従って、13:20,17:18,2021では「遣わす」という言葉がパラレルになっている。4:38では使徒たちが「私たちは主から派遣された」ということを権威付けにしている言葉である。

(G) その他のケース
その他、6:44と7:18の2個所はイエス自身が父なる神について「わたしをお遣わしになった」ということを述べている言葉である。

(H) 聖霊(助け手)の派遣
最後に、次の三個所で聖霊について「遣わす」という言葉が用いられているケースである。
<14:26、15:26、16:7>

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