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断想:降臨節第2主日(2018.12.9)

2018-12-07 09:14:31 | 説教
断想:降臨節第2主日(2018.12.9)

荒野の預言者ヨハネ  ルカ3:1~6

<テキスト>
1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
5 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、
6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
<以上>


1.イエスの時代はいつから始まるのか
イエスによる救いの業はイエスの生涯のうちでどの時点から始まるのかということは原始教団、とくに福音書記者たちにとって一つのテーマであった。最初の福音書を書いたマルコは洗礼者ヨハネの活動を「福音の初め」(1:1)とする。マタイはイエスの誕生、厳密にはマリアの聖霊による受胎から物語を始める(1:18)。ルカは洗礼者ヨハネの奇跡的な誕生から物語を始めるが、ヨハネ自身は旧約聖書の時代に属する預言者であるとする。言い換えると、旧約聖書の預言の時代は洗礼者ヨハネで終わると考えているようである(16:16)。だからイエスが公に活動を始めるのは洗礼者ヨハネの投獄の後である(3:20)。
歴史家としてのルカにとってイエスの時代は非常に重要である。ルカ福音書全体を通して明らかになる点ではあるが、先取りしておくとルカにとって救済史(人類の救済に関する神の計画)は、
(1) 旧約聖書の時代から始まり、
(2) イエスの時代を中心として、
(3) 使徒時代を経て、
(4) 現代(ルカにとっての「今」)に至り、
(5) やがて終末を迎える。
この時代区分は時間(期間)の配分という点から見ると非常にアンバランスである。(1) の時代は数千年を単位とする期間であり、(2) はイエスの誕生から数えるとしてもせいぜい30年程度、厳密にはイエスの活動の期間として3年足らずである。更にイエスの復活から昇天までの40日プラスペンテコステ前の10日が移行期で、(3) の使徒時代となりおよそ30年から40年程度、(4) 紀元70年のエルサレムの陥落以後現代に至る。最後の期間はまだ終わっていないがもう既に2000年を経ている。
ルカの頭の中にある時代区分は以上のようなものと思われる。これを確かめながらルカの救済史を学ぶ。この救済史観の中心はイエスの時代であり、この期間では悪魔はイエスを離れる(4:13~22:3)。

2.非ユダヤ人キリスト者の視点
洗礼者ヨハネについて論じる前に著者自身の視点について確認しておきたい。考えてみると新約聖書の著者たちの中で明らかに非ユダヤ人はルカだけである。「異邦人への使徒」と自ら規定するパウロも典型的ユダヤ人であるし、ヨハネ文書の著者群にせよ、ヘブライ書の著者にせよ、ヤコブにせよ、第2次パウロ書簡群の著者たちについては非ユダヤ人かユダヤ人かは不明であるが、少なくともルカだけは明らかに非ユダヤ人である。その意味では原始教団におけるユダヤ人との確執や洗礼者ヨハネの集団との関係等ユダヤ人特有の議論にはルカは加わらないだけではなくむしろ冷ややかに見ているように思われる。この点については結論を急ぐ必要はないであろうが、ここでは問題だけを指摘しておく。なぜなら洗礼者ヨハネに対するルカの姿勢の中にそれを感じるからである。
その意味からルカはマルコ1:5の「ユダヤの」という地理的制限を削除する。ヨハネの元に集まってきた人々は地理的限定のない「群衆」(3:7)である

3.洗礼者ヨハネの風貌
洗礼者ヨハネについてルカ福音書における取り扱いの著しい点は、あの特徴ある風貌がほとんど取り上げられていない点である。マルコは次のように描く。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(1:6)。マタイもそれをそのまま継承している(3:4)。ところがルカはそのことについて一切触れない。その理由ははっきりしない。この風貌については列王記下1:8のエリヤの特徴をそのまま写している。その意味ではユダヤ人にとってはそれこそが預言者の典型的なイメージであるが、ルカはそのことに関心を寄せない。異邦人が対象である文書にとってはそれはほとんど無意味であると思ったのだろうか。

4.時代背景
歴史家ルカはこれから描こうとするイエスの活動舞台である地域の年代と政治的宗教的状況をさりげなく「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(3:1,2)あとと述べる。これは紀元でいうと28~29年で、ローマの総督ピラトのもとで、ガリラヤ地方、トラコン地方、アビレネ地方の3地域に分割され、複雑な政治的状況を示す。また本来一人であるべき大祭司が2人いたこという事実も無視できない。
この地域の住民の大半を占めていたユダヤ人の日常生活にとって大祭司の権力は絶大で、いわば「王的存在」であった。大祭司アンナスは紀元6年から15年まで大祭司として権力をふるっていたが退職後も5人の息子と孫を次々と大祭司職につけて背後から彼らを操っていた。洗礼者ヨハネとイエスが活動した時期はカイアファ(アンナスの娘婿)が大祭司職に就いていた(在任18~36年)。
ルカは「神の言葉が荒れ野でヨハネに降った」と言う。1:80によるとヨハネは「人々の前に現れるまで荒れ野にいた」と述べられている。なぜその時ヨハネは荒れ野にいたのか。あたかも荒れ野がヨハネの住まいであったような表現で、荒れ野で神の言葉を聞き、「ヨルダン川の沿岸」地方に出てきたとされる(3:3)。

5.<注釈>クムラン集団について
ヨハネが「荒れ野」出身であるということとクムラン共同体(エッセネ派)との関係について一言述べておく。
多くの研究者はこの「荒れ野」とは死海の西北岸のクムランの山岳地帯にあったとされる。エッセネ派の共同体がそこにあったのではないかと推察されている。祭司の子であるヨハネは幼い時からこのクムラン共同体に預けられ、そこで育ったのではないか。ヨハネの宣教と活動の中心であった洗礼という宗教儀式ももともとこの共同体で行われていた「清めの儀式」との関係が濃厚である。クムラン共同体が生み出したいわゆる「死海文書」は、黙示思想的傾向が強く、最後の審判の到来を熱く説いている。この思想はヨハネの「差し迫った神の怒り」(3:7)の説教に示されている。ヨハネはクムラン共同体の一員であったということはほぼ明らかであるが、少なくとも彼は「神の言葉」を受けてクムラン共同体から「出た」のである。イエスとヨハネとの関係を考える場合、この点を無視できない。

6.洗礼者ヨハネの登場
ルカが描く人々の前に登場する前のヨハネ像はマルコ福音書とはかなり異なる。マルコによると洗礼者ヨハネは「荒れ野に現れ」(マルコ1:4)であり、「ヨルダン川で」(同1:5)人々の洗礼を授けたとされる。マルコとルカとの叙述に違いはかなり重要である。この点ではマタイはほぼマルコに従っている。
ヨハネの元に集まってきた人々についての叙述においてもマルコとルカとではかなり異なる。マルコは「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」(マルコ1:5)であるのに対してルカは意識的にその規定を省きただ「群衆」(ルカ3:7)という。つまり、ルカにおいてはヨハネの教えに従って洗礼を受けた人々はユダヤ人とかエルサレムの人たちに限定されない。ただし、洗礼を受けなかった人々についてはわざわざ「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」(ルカ7:29)と明記する。
さらに重要な点はマルコにはないヨハネの説教が詳細に記録されている点であろう(3:7~17)。もう一つ付け加えるならば、ルカ福音書においてはイエスの受洗の場面で洗礼者ヨハネの名前がないということも注意しておく必要がある。

7.ルカ福音書における洗礼者ヨハネの位置づけ
ルカの時代区分によると、洗礼者ヨハネは旧約聖書時代とイエスの時代との間に立っている。というよりもむしろ、旧約聖書時代の最後の預言者として位置づけられている。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ・・・・」(ルカ16:16)。ルカはマルコが引用する預言者イザヤの書は残すが、「見よ、わたしはあなたより先に使者を使わし、あなたの道を準備させよう」という預言者マラキの言葉をカットする。またイエスを紹介するヨハネの言葉から「後から来られる」(マルコ1:7)という言葉をカットする。マルコのこれらの言葉からヨハネはイエスの「先駆者」であるという理解が一般的になっていたが、ルカはあえて「先駆者」というイメージを除去しようとしているように思われる。逆にヨハネ福音書では洗礼者ヨハネの「先駆者」としてのイメージと役割とが非常に強調されている。
以上の点を考えるとルカはヨハネを旧約聖書時代(律法と預言者の時代)を代表し、総括し、次の時代であるイエスの時代へと繋ぐ役割が与えられている。ただしヨハネとイエスとの年齢差を6ヶ月とするのはルカのみで、ルカは厳密にはヨハネとイエスとは同時代人として描く(1:26)。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(ルカ3:2)という言葉はルカにだけしか見られないし、ヨハネが祭司ザカリアとアロン家の娘エリザベトの息子であると記録、さらにはその出生の奇跡物語など、旧約聖書時代を代表する預言者のイメージを備えている。さらにイエスはヨハネのことに関して「預言者、そうだ、言っておく預言者以上の者である」(ルカ7:26)と言い、「女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(7:28)とまで言っている。ルカにとってヨハネはイエスの先駆者であるというよりも旧約時代の預言者という意味で「先に遣わされた使者」(7:27)である。もっとも、この記録はルカのオリジナルではなくQ資料によるものであろう(マタイ11:7~19)。ただし、このQ資料の取り扱い方はマタイとルカとではかなり異なる。この点についてはここでは触れない。

8.ルカ福音書の第3章問題
田川建三さんの訳注によると、コンツェルマンは本来のルカ福音書は3章から始まった可能性があると言う。「とすると、イエスの名が最初に出てくるのは洗礼物語である。そこで福音書に初めて出てきたこのイエスという名前の説明として、洗礼物語の直後に家系表が置かれた、ということになる」と解説している。
3:1~2は洗礼者ヨハネの、従ってイエスの登場の歴史的背景を語る。時を示す人名と関係する地域の名称が示されている。コンツェルマンはここに挙げられている地名よりは、挙げられていない地名、例えばサマリヤとペレアの方が問題だというが、その点について詳論をさけ「単に問いとして示しておこう」という。
むしろ、ここで注目すべき点は、ルカがこれから語ろうとするイエスの物語を世界史との関連において位置づけている点である。いかにも歴史家的である。皇帝ティベリウスの治世の第15年は、紀元28年秋から29年秋までの期間に当たる。これが洗礼者ヨハネの活動の開始だとするとイエスの登場は紀元30年頃ということになる。

9.本日のテキスト
さて本日のテキストは3:1~6であり、ヨハネの説教そのもの(3:7~18)についてのテキストは次主日に取り上げられている。従って本日の課題はヨハネという人物についての歴史的な意味と人となりであろう。
ヨハネの歴史的意味づけについては既に論じたので繰り返さない。人柄という点についてはマルコの記録から「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べていた」(マルコ1:6)という叙述をカットしている。なぜルカはこれ程ヨハネの典型的なキャラクターをカットしたのであろうか。
本日のテキストの内容を分析すると、1節と2節の前半は既に述べたとおり、時代と場所とを示す言葉であり、4~6節は旧約聖書からの引用である。つまり本文は2節後半から3節にかけてだけである。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこでヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。既に述べたようにルカはマルコの「荒れ野に現れて」(マルコ1:4)を「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って」(ルカ3:3)に書き改めている。洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ」のと、「荒れ野から出てきて語る」のとではかなり雰囲気が異なる。ヨルダン川のほとりは決して荒れ野ではない。むしろ人々が憩う場所であろう。ヨハネは荒れ野から人々の集まるところに出てきて語る。
「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」という表現は微妙である。口語訳では「罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」とある。宣べ伝えた内容が「悔い改めの洗礼」で、その目的が「罪のゆるしを得させるため」なのか。大して違いはないようであるが、やはり気になる点ではある。その点マタイは明快である。「荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天国は近づいた』と言った(3:2)。それよりも重要な点はマルコもルカも洗礼者ヨハネの口から「神の国」という言葉は発せられていない。 (参照:ルカ24:47)

10.旧約聖書からの引用の仕方
以上のように、ルカはマルコの文章を基本にしながら、洗礼者ヨハネの使命についていろいろな変更を加えている。その中でとくに注目すべき点は旧約聖書の文章の引用の仕方である。4節から6節までをもう一度書き出すと以下の通りである。
3:4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。3:5~6では「 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」。
マルコでは「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』。」(1:2~3)。マルコはイザヤの書(40:3)を引用していると言いながら、それにマラキ書3:1の言葉を付け加えている。それに対してルカはマラキ書の言葉を省き、逆にイザヤ書の続きの部分を書き加えている。要するにルカは洗礼者ヨハネの「先駆者」としてのイメージを消すと同時に「道をまっすぐにする」という意味を明確にする。ルカにとってヨハネの使命は「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」。まっすぐという意味は「でこぼこをなくす」という意味であり、その結果すべての人が神の救いを仰ぎ見るようになるという点が重要である。要するにユダヤ人と異邦人との差別を取り除き、すべての人々への福音を準備する。従って洗礼を授けてもらおうとして出てきたのは「群衆」(3:7)であり、「民衆は皆」(3:21)洗礼を受けたのである。

11.クムラン宗団の「清めのバプテスマ」
当時、エルサレムの神殿の「腐敗した祭儀」を強く批判し、「荒野に出て」、神の律法に厳しく従い、理想的な生活を求めて、共同生活をする集団があった。それがクムラン宗団である。この宗団の生活規律を記した文書によると、「(私たちは)、不義の者どもの集会から離れて荒野に行き、そこで神の道を清めねばならない。『君たちは荒野に神の道を備え、砂漠でわれわれの神のために大道をまっすぐにせよ』と書かれているように」。要するに、彼らは荒野で律法の研究と遵守をすることが、イザヤのいう「神の道を整えること」であると、考えた。恐らく、バプテスマのヨハネはこの宗団の一員であった。バプテスマということは、この宗団で行われていた日常的な宗教行事であった。彼らはそれを「清めのバプテスマ」と称しほとんど毎日繰り返していた。
ここで注目すべき点は、クムラン宗団ではバプテスマは律法を研究し、遵守するためのいわば準備である。体を清めて律法に向かうのである。それに対してヨハネはバプテスマを「罪の赦しのための悔改め」とし、一生で一度限りのものとした。つまりバプテスマそのものが「悔改めの印」であり、それ自体が「神の道」を整えること、としたのである。ここで言う「悔改め」とは、「反省」とか「懺悔」というようなことではなく、「生活の変革」「廻れ右」ということである。「神に反して生きる」ということから「神に向かって生きる」という方向転換、これが悔改めということである。

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