断想:降臨節第1主日(2018.12.2)
「時」ということ ルカ21:25~31
<テキスト>
25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。
31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
<以上>
1.教会暦の最初の主日
教会暦に基づく礼拝においては3年周期で旧約聖書、使徒書、福音書が定められている。そして福音書を中心に、A年(マタイ)、B年(マルコ)、今年はC年で主にルカによる福音書が取り上げられている。この福音書の一つの特徴はイエスの言葉や出来事を叙述するに際して、時の流れを意識して順序を整えている。
もっとも、その時間感覚というものは現代における物理的時間というよりは意味を重視する実存的な(自己という視点から遠近や順序を考える)時間感覚に基づいている。ルカの場合は自己を中心とした時の流れというよりも『キリストの時』(O.クルマン『キリストと時〜〜原始キリスト教の時間観及び歴史観』(岩波書店、1954年)を中心として考えている。言い換えるとルカは時間というものを神の救済の計画という設計図(救済史)に基づく順序と考えている。すべての出来事が神の計画に従って「順序正しく」(1:3)起こる。イエスの出来事は神の救済計画における「特別な時間帯」で歴史全体に対して特別な意味を持っているとされる。
教会暦の最初の主日の課題は「時ということ」を自覚することにある。時を自覚するということは一定の長さの時間を前提とする。「何時か分からない」とか、「次の瞬間」というような状況では時間を考える余裕もない。私たちの日常生活においても、待たされて時計を見、時間を意識する。どこかで読んだ記憶があるが、ベルグソンは時間というものは紅茶に入れた砂糖が溶けるのを待つときに意識すると言う。最初期の教会においてはイエスの来臨は「何時か分からないこと」であり、「次の瞬間」かも知れない時であり、その意味では非常に緊迫した状況であり、現在と終末とが限りなく接近しており、その意味において現在は未来に吸収されていた。しかし再臨の遅延という現実の中で再臨に向かっての「今」とイエスの出来事からの「今」とを考え始めた。つまり過去から見た現在と未来から見た現在との関係がルカ福音書の中心的な課題であった。その視点からルカは先行するマルコ福音書を書き直している。
2.資料分析
本日取り上げられているテキスト(21:25~31)はいわゆるルカの終末論(21:7~36)の一部分である。この部分の資料はマルコの終末論(マルコ13:3~37)をほとんどそのまま引き継いでいる。ただマルコとルカとではエルサレムの神殿の崩壊という歴史的出来事との時間的差が大きく、その点でルカはかなりの部分で独自の視点から変更を加えている。とくに本日のテキストに関する部分だけを以下で取り上げる。その前に参考までに今日のテキストに該当するマルコのテキストを取り出しておく。
【それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい(マルコ13:24~29)。】
(1)「それらの日には、このような苦難の後」という語句が「それから」という一言にまとめられている。明らかにマルコはエルサレムの滅亡から終末までを連続的に捉えているが、ルカではそれぞれを別な出来事として語る。
(2)「太陽は暗くなり」以降、天体の異変についての詳細な描写が簡単に「太陽と月と星に徴が現れる」という一言にまとめられている。
(3)ルカは天体の異変に加え地上での異変に触れる。「地上では海がどよめき荒れ狂う」。
(4)さらに、この天変異変に対する人々の不安な状況が付け加えられる。この部分はかなり詳細である。人々の不安ということについてはマルコは言及していない。
(5)「人の子」の来臨については変更なし。ただし、「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」という語句は完全に省略され、それに代わる言葉として28節の警告の言葉が語られる。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」。
(6)「いちじくの木のたとえ」の導入の言葉と意味づけとが変更されている。マルコでは「人の子が戸口に近づいた」徴であるが、ルカでは「神の国が近づいていると悟りなさい」とされる。(7)ルカはいちじくの木だけではなく「ほかのすべての木」を書き加えることによって、いちじくの木がもつ特別な意味(「地方性」)を消去する。
(8)「おのずと分かる」(30)と「おのずと」という語を付加することによって、信仰者なら誰でも分かるということを強調する。この言葉は25、26節の「世界に何が起こるのかとおびえる」人々と対応し、キリスト者は何が起こるのかを知っていることを意味しているものと思われる。
(9)実はこれらの変更以上に重要な問題は、マルコはエルサレムの滅亡と人の子の到来との間に「苦難の期間」があることを予告しているが、ルカでは省略されている点である。この点について、コンツェルマンは「24節と25節の間には鋭い切れ目がある。この句の前と後の出来事は根本的に異なった性質のものである。この前のものは歴史的出来事であり、後のものは超自然的・黙示的性格のものである。(中略)歴史化に黙示的なものの圧縮が対応する」(『時の中心』217頁)。
3.ルカの終末論の一つの特徴
紀元50年代に書かれたと推定されるマルコ福音書(田川建三『マルコ福音書』上巻5頁)においては、エルサレムの滅亡と天変地異を伴う終末とは連続的で一つの出来事であると考えられているが、ルカが福音書を書いた頃には既にエルサレムは滅亡しており両者は切り離されている。つまりエルサレムは滅亡したがまだ終末ではない。ルカも終末の出来事の一つとして「人の子の再臨」を否定はしないが、それ程差し迫ったものとは考えていない。従って終末の徴は将来起こるであろうことであり、今の時代こそ、マルコが予告した「苦難の時代(=迫害の時代)」である。その時代の過ごし方は「忍耐」(21:19)である。従って、この「異邦人の時代(ルカの時代)」(21:24)の終わりの気配、天変地異つまり「このようなことが」(28)起こり始めたら、「身を起こして頭を上げなさい」と勧める。その時こそが苦難から解放されるときである。
この「解放」という言葉の、もともとの意味は「身代金を払って買い戻す」という意味であり、それが「贖い」とか「解放」という言葉に発展したのである。この言葉がこの文脈の中で用いられているのには、多くの説明が必要であろうと思われるが、結論だけを言うと、古代人にとって「天体の崩壊」という終末の出来事で決定的な壊滅を受けるのは「この世の支配者、つまりサタン」であり、サタンが壊滅することによって、それまでサタンに支配されていた「神の子たち」は「解放される」のだということである。
4.問題
そうすると、キリスト者にとって「キリストによる救いあるいは贖い」ということは、「もう既になされたこと」なのか、あるいは「将来に起こること」なのか、ということが問題になる。
福音書を読むときに気を付けなければならないことがある。それは、救いとか解放ということを論じるときに、イエスが生き、活躍し、語っておられる時代、言い換えると「福音書の時代」は、当然イエスの十字架以前であり、十字架による贖い(救済)はまだ成就していないということである。このことから非常に複雑なことであるが、イエスの直接の弟子たちにとって「イエスと共にいる」ということが救いであるということと、イエスの十字架と復活によって救いがもたらされたということとが錯綜しているということである。非常に単純化して言うならば、イエスと共に生きていた当時の弟子たちは救われていたのか。
さらに問題を複雑にしていることは、キリスト者がイエスを信じて救われたと経験を持ったとしても、現実的には社会的には解放されていない、むしろ被抑圧者になったという事実である。そして、その意味での「解放」を終末への期待に先延ばししたということである。
しかし、この複雑さは理屈であって、当時のキリスト者の立場でいうと、イエスという人物と出会い、その人格にふれたとき、確かに解放を経験したに違いない。現実的状況、社会的環境は相変わらずであったにせよ、心、魂の状況は解放されたのである。そういう生き方しかないという非常に堅固な閉塞状況の中で、それとは違う生き方もあるというさわやかさ。たとえば律法というがんじがらめの社会規律に対して自由に解釈し批判できるということは解放である。
現代人でいうならば、経済力がすべてであるという価値観から、それに対して「ノー(否)」という生き方への転換、これは確かに一つの解放である。学歴主義からの解放しかり、他人の目からの解放もある。これらのものを否定し、自由になったからといって、問題がすべて解決したわけではないが、確かに救いは経験している。
ここまでの論点を明白にすると、答は単純である。解放はもう既に起こったこと、私たちは既に解放されていること、私たちはキリストによってこの世の支配から解放されて生きていること、この点については初代のキリスト者も現在の私たちも全く同じ信仰に立っている。そして、この信仰に立って、さらに完全な解放を待ち望む。キリスト者にとっての「今」とは、「既に解放されている」ということと、「さらに完全な解放を待ち望んでいる」ということの「間」である。
「時」ということ ルカ21:25~31
<テキスト>
25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。
31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
<以上>
1.教会暦の最初の主日
教会暦に基づく礼拝においては3年周期で旧約聖書、使徒書、福音書が定められている。そして福音書を中心に、A年(マタイ)、B年(マルコ)、今年はC年で主にルカによる福音書が取り上げられている。この福音書の一つの特徴はイエスの言葉や出来事を叙述するに際して、時の流れを意識して順序を整えている。
もっとも、その時間感覚というものは現代における物理的時間というよりは意味を重視する実存的な(自己という視点から遠近や順序を考える)時間感覚に基づいている。ルカの場合は自己を中心とした時の流れというよりも『キリストの時』(O.クルマン『キリストと時〜〜原始キリスト教の時間観及び歴史観』(岩波書店、1954年)を中心として考えている。言い換えるとルカは時間というものを神の救済の計画という設計図(救済史)に基づく順序と考えている。すべての出来事が神の計画に従って「順序正しく」(1:3)起こる。イエスの出来事は神の救済計画における「特別な時間帯」で歴史全体に対して特別な意味を持っているとされる。
教会暦の最初の主日の課題は「時ということ」を自覚することにある。時を自覚するということは一定の長さの時間を前提とする。「何時か分からない」とか、「次の瞬間」というような状況では時間を考える余裕もない。私たちの日常生活においても、待たされて時計を見、時間を意識する。どこかで読んだ記憶があるが、ベルグソンは時間というものは紅茶に入れた砂糖が溶けるのを待つときに意識すると言う。最初期の教会においてはイエスの来臨は「何時か分からないこと」であり、「次の瞬間」かも知れない時であり、その意味では非常に緊迫した状況であり、現在と終末とが限りなく接近しており、その意味において現在は未来に吸収されていた。しかし再臨の遅延という現実の中で再臨に向かっての「今」とイエスの出来事からの「今」とを考え始めた。つまり過去から見た現在と未来から見た現在との関係がルカ福音書の中心的な課題であった。その視点からルカは先行するマルコ福音書を書き直している。
2.資料分析
本日取り上げられているテキスト(21:25~31)はいわゆるルカの終末論(21:7~36)の一部分である。この部分の資料はマルコの終末論(マルコ13:3~37)をほとんどそのまま引き継いでいる。ただマルコとルカとではエルサレムの神殿の崩壊という歴史的出来事との時間的差が大きく、その点でルカはかなりの部分で独自の視点から変更を加えている。とくに本日のテキストに関する部分だけを以下で取り上げる。その前に参考までに今日のテキストに該当するマルコのテキストを取り出しておく。
【それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい(マルコ13:24~29)。】
(1)「それらの日には、このような苦難の後」という語句が「それから」という一言にまとめられている。明らかにマルコはエルサレムの滅亡から終末までを連続的に捉えているが、ルカではそれぞれを別な出来事として語る。
(2)「太陽は暗くなり」以降、天体の異変についての詳細な描写が簡単に「太陽と月と星に徴が現れる」という一言にまとめられている。
(3)ルカは天体の異変に加え地上での異変に触れる。「地上では海がどよめき荒れ狂う」。
(4)さらに、この天変異変に対する人々の不安な状況が付け加えられる。この部分はかなり詳細である。人々の不安ということについてはマルコは言及していない。
(5)「人の子」の来臨については変更なし。ただし、「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」という語句は完全に省略され、それに代わる言葉として28節の警告の言葉が語られる。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」。
(6)「いちじくの木のたとえ」の導入の言葉と意味づけとが変更されている。マルコでは「人の子が戸口に近づいた」徴であるが、ルカでは「神の国が近づいていると悟りなさい」とされる。(7)ルカはいちじくの木だけではなく「ほかのすべての木」を書き加えることによって、いちじくの木がもつ特別な意味(「地方性」)を消去する。
(8)「おのずと分かる」(30)と「おのずと」という語を付加することによって、信仰者なら誰でも分かるということを強調する。この言葉は25、26節の「世界に何が起こるのかとおびえる」人々と対応し、キリスト者は何が起こるのかを知っていることを意味しているものと思われる。
(9)実はこれらの変更以上に重要な問題は、マルコはエルサレムの滅亡と人の子の到来との間に「苦難の期間」があることを予告しているが、ルカでは省略されている点である。この点について、コンツェルマンは「24節と25節の間には鋭い切れ目がある。この句の前と後の出来事は根本的に異なった性質のものである。この前のものは歴史的出来事であり、後のものは超自然的・黙示的性格のものである。(中略)歴史化に黙示的なものの圧縮が対応する」(『時の中心』217頁)。
3.ルカの終末論の一つの特徴
紀元50年代に書かれたと推定されるマルコ福音書(田川建三『マルコ福音書』上巻5頁)においては、エルサレムの滅亡と天変地異を伴う終末とは連続的で一つの出来事であると考えられているが、ルカが福音書を書いた頃には既にエルサレムは滅亡しており両者は切り離されている。つまりエルサレムは滅亡したがまだ終末ではない。ルカも終末の出来事の一つとして「人の子の再臨」を否定はしないが、それ程差し迫ったものとは考えていない。従って終末の徴は将来起こるであろうことであり、今の時代こそ、マルコが予告した「苦難の時代(=迫害の時代)」である。その時代の過ごし方は「忍耐」(21:19)である。従って、この「異邦人の時代(ルカの時代)」(21:24)の終わりの気配、天変地異つまり「このようなことが」(28)起こり始めたら、「身を起こして頭を上げなさい」と勧める。その時こそが苦難から解放されるときである。
この「解放」という言葉の、もともとの意味は「身代金を払って買い戻す」という意味であり、それが「贖い」とか「解放」という言葉に発展したのである。この言葉がこの文脈の中で用いられているのには、多くの説明が必要であろうと思われるが、結論だけを言うと、古代人にとって「天体の崩壊」という終末の出来事で決定的な壊滅を受けるのは「この世の支配者、つまりサタン」であり、サタンが壊滅することによって、それまでサタンに支配されていた「神の子たち」は「解放される」のだということである。
4.問題
そうすると、キリスト者にとって「キリストによる救いあるいは贖い」ということは、「もう既になされたこと」なのか、あるいは「将来に起こること」なのか、ということが問題になる。
福音書を読むときに気を付けなければならないことがある。それは、救いとか解放ということを論じるときに、イエスが生き、活躍し、語っておられる時代、言い換えると「福音書の時代」は、当然イエスの十字架以前であり、十字架による贖い(救済)はまだ成就していないということである。このことから非常に複雑なことであるが、イエスの直接の弟子たちにとって「イエスと共にいる」ということが救いであるということと、イエスの十字架と復活によって救いがもたらされたということとが錯綜しているということである。非常に単純化して言うならば、イエスと共に生きていた当時の弟子たちは救われていたのか。
さらに問題を複雑にしていることは、キリスト者がイエスを信じて救われたと経験を持ったとしても、現実的には社会的には解放されていない、むしろ被抑圧者になったという事実である。そして、その意味での「解放」を終末への期待に先延ばししたということである。
しかし、この複雑さは理屈であって、当時のキリスト者の立場でいうと、イエスという人物と出会い、その人格にふれたとき、確かに解放を経験したに違いない。現実的状況、社会的環境は相変わらずであったにせよ、心、魂の状況は解放されたのである。そういう生き方しかないという非常に堅固な閉塞状況の中で、それとは違う生き方もあるというさわやかさ。たとえば律法というがんじがらめの社会規律に対して自由に解釈し批判できるということは解放である。
現代人でいうならば、経済力がすべてであるという価値観から、それに対して「ノー(否)」という生き方への転換、これは確かに一つの解放である。学歴主義からの解放しかり、他人の目からの解放もある。これらのものを否定し、自由になったからといって、問題がすべて解決したわけではないが、確かに救いは経験している。
ここまでの論点を明白にすると、答は単純である。解放はもう既に起こったこと、私たちは既に解放されていること、私たちはキリストによってこの世の支配から解放されて生きていること、この点については初代のキリスト者も現在の私たちも全く同じ信仰に立っている。そして、この信仰に立って、さらに完全な解放を待ち望む。キリスト者にとっての「今」とは、「既に解放されている」ということと、「さらに完全な解放を待ち望んでいる」ということの「間」である。