ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第22主日(特定24)(2018.10.21)

2018-10-19 08:45:00 | 説教
断想:聖霊降臨後第22主日(特定24)(2018.10.21)

仕える人   マルコ10:35~45

<テキスト、超々訳>
◆ヤコブとヨハネの願い(10:35~45)
さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言いました。「先生、私たちの願いを聞いて頂きたいのです」。「私に何をして貰いたいのですか」。「あなたが栄光の座にお着きになられるときに、私たち兄弟をその左右に座らせて頂きたいのです」。「あ〜あ、あなたたちは自分たちが何を求めているのかちっとも分かっていないようですね。あなたがたは私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることが出来ると、本気で思っているのですか」。「はい、出来ます」。するとイエスは言われました。「あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになるでしょう。しかし、私の右、左に座らせることは、私の権限ではありません。ただ、そのために準備されている人々がいるのでしょう」。
10人の弟子たちは、これを聞き、ヤコブとヨハネとのことで憤慨しました。それでイエスは弟子たちを皆集めて話をされました。「あなたたちも知っている通り、異邦人の支配者たちは自分の民を支配し、あるいは権力者と呼ばれている人たちはその民族の上に権力を振るっています。しかし、あなたがたの間ではそうではいけません。むしろ偉くなりたい人は仕える人になりなさい。あなたがたの間で指導者になりたい人は、すべての人たちの奴隷となりなさい。私が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人たちのために私の命さえ捧げるためなのです」。

<以上>

1. 先頭に立って
この個所をより深く理解するためには、まずこの場面をしっかりと押さえておかねばならないだろう。本日のテキストの一寸前にこういう言葉が記されている。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従っている者たちは恐怖を感じた」(32)。彼らの旅の目的地エルサレムを間近にして、イエスは「先頭に立って進んで行かれた」。注意を払わなければ、読み過ごしてしまう言葉である。イエスが弟子たちの先頭を歩くということはそれ程珍しいことではなかったであろう。ところが、ここではわざわざそのことが言葉で語られる。十分に注目するに価する。しかも、その時「それを見て、弟子たちは驚き、従っている者たちは恐怖を感じた」とある。いつも一緒に行動している弟子たちが、その姿を見て驚いたのである。この場面でイエスが「先頭に立って歩く」ということが尋常ではないことを示しているのだろう。例によってマルコはそのことを何も説明をしようとしない。従って、ここからは私自身の妄想に近い想像である。
聖書に慣れ親しんでいるユダヤ人たちにとって「主が先頭に立つ」という姿は、大変なことを意味した。だから彼らは驚いたのである。旧約聖書のミカ書にこういう預言の言葉がある。 「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。打ち破る者が、彼らに先立って上ると、他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる」(ミカ2:12~13)。おそらく、いや間違いなく、弟子たちはこの言葉を思い出していたのだろう。そして預言者ミカの言葉と今彼らが目の前に見ているイエスの姿とを重ね合わせて見ていたのだろう。これがその時の場面である。

2. 栄光をお受けになるとき
何か非常に緊迫した雰囲気がイエスの周りにただよい始めた。弟子たちはそれを身をもって感じていた。いよいよ「その時」が来たのか。弟子たちの間でかなりの動揺が見られる。その中で「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」は他の弟子たちを出し抜いて、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と申し出てきた。恐らく、他の弟子たちの居ない所でやって来たものと思われる。マタイ福音書では、本人たちではなく彼らの母親が頼みに来たことになっている。頼みの内容は「あなたが栄光をお受けになるとき、その右と左とに座らせて欲しい」(マタイ20:20~28)ということであった。これを知った他の弟子たちは腹をたてた。
要するに、このエピソードは弟子たちがすべて「その時」とは、イエスが栄光をお受けになる時であると考えていたことを示している。つまりイエスがメシアであるという意味は、現状を打破し、権力者を転覆させ、「王になる」ことであった。これが彼らの期待であった。それに対してイエスは「あなた方は自分が何を願っているか、分かっていない」と述べられる。そこまで言われても、彼らはなお「できます」と言う。本当に分からないということはこういうことである。分かっていないことが分かっていない。しかし分からなくても、分からないままで彼らはイエスの弟子である。イエスを棄てて弟子であることをやめない限り、彼らはイエスと共に苦難の道を進み、最後には彼らが想像もしていなかった、栄光をイエスと共に受けることとなる。

3. 一同を呼び寄せて
ここでイエスは座り直して弟子たちに重要なことを語り始める。その情景を福音書はこう表現している。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた」(42)。この「一同を呼び寄せて」という言葉にはその時の弟子たちの気まずい情景が美事に描かれている。彼らは同じ場所にいながら、心はバラバラで、それぞれが自分のことだけを考えている。以前にも同じような場面があった。その時もイエスの方から「何を議論していたのか」(9:33)と声をかけておられる。イエスは一人ひとりの顔を見回しながら、大変なことを語り始めた。
ここでイエスが語ろうとしている話の内容から考えると、この「あなたたちも知っているように」(42)という出だしの言葉は注目すべきである。イエスはここで誰でも知っていること、常識的なことを語ろうとしているのではない。むしろ誰も考えもしないこと、非常識なことを語ろうとしている。しかし出だしは誰でも知っていることから話し始める。弟子たちはイエスが何を話し始めるのか、ドキドキしながら耳を傾けていたに違いない。自分たちのことだろうか。今、彼ら自身が言い争っていてことが気になる。
ところがイエスは「異邦人の支配者たちは」という言葉が続く。自分たちのことではなかった、ということでホッとしたのかも知れない。「自分の民を支配し、あるいは権力者と呼ばれている人たちはその民族の上に権力を振るっています」(42)とイエスは言う。それこそ誰でも知っている事実である。ローマの皇帝カエザルは絶大な武力によってすべての民族を支配し、世界を支配している。カエザルが正しいと言えば、それは正義であり、カエザルが「ならず者国家」と言えば、それはならず者国家である。
しかし改めてそう言われると、それは異邦人の話ではないことに気付く。ユダヤ人社会だって同じことではないか。ユダヤ人社会においても「偉い人たち」が民衆を支配し、民衆を奴隷のように扱っている。「偉い人」とはそういう人たちのことである。支配される者より、支配する者の方が偉い。だからこそ、すべての人たちが偉くなりたいと願っている。チャンスさえあれば、少しぐらい悪いことをしてでも偉くなりたい。それが民衆の願いである。イエスの弟子たちは確かに支配者になったことがなく、常に支配される側に立っている。だからイエスのこの話は自分たちのことではない。世間一般の話しである、と思っていたかも知れない。おそらく、ここでかなり長い沈黙があったものと思われる。

4. 「しかし、あなたがたの間では」
充分間をおいて、イエスは弟子たちの一人ひとりの顔を真っ直ぐに見ながら、「あなたがたの間ではそうではいけません」(43)と言う。口語訳聖書では「そうであってはならない」と訳されている。文法的には新共同訳の「そうではない」の方が正しいが、これは文法的な正しさが問題なのではない。むしろ問題は「そうではない」と言えないような状況に対して、「そうではない」と語ることは「そうではいけません」といういうことを意味している。ここには強烈なアイロニーがある。
ローマを始めユダヤ人社会を含め世間一般では、「偉くなり、他の人たちを支配すること」が人生の目的になっている。ほとんどすべての親たちが子どもが偉くなることを期待している。そのこと自体は決して悪いことではない。子どもも親の期待をバネにして日々勉学に励む。それが人間の向上心のエネルギーである。努力の結果、得られた実力によって、それなりの社会的地位につくことは決して批判されることではない。むしろゼベダイの子ヤコブとヨハネがしたように卑怯な手段によって他人を出し抜いたり、不正なコネを利用して社会的地位を獲得し、自己の利益のために他人を利用することが問題である。
しかし、ここの文脈においては、「あなたがたの間ではそうではいけません」という言葉は、「偉くなり、他の人を支配すること」そのものが否定されている。もっと厳密に言うと「偉くなること」が否定されているのではなく、「他の人を支配すること」が否定されている。もっとも、ここでいう「支配する」という言葉の厳密な意味はホテルの支配人というようなマネージメントを意味するのではなく、他人に対して支配者になること、言い換えると他の人を「奴隷にすること」を意味している。「奴隷」という言葉が大げさすぎるとしたら、「他人を自分のために利用する」と言えば、納得するであろうか。「他人を自分のために利用する」という人間関係がこの世においては一般的である。しかし、あなたがたの間、つまり教会においてはそうあってはならない。教会においては、お互いに仕え合う関係でなければならない。

5. 仕えられるためではなく仕えるため
イエスは、私は「仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」(45)と言う。つまり、これがイエスの人生の目的である。そのために生まれてきた。ここで用いられている「仕える」という言葉は「奴隷になる」という意味である。要するにイエスはこの世のほとんどすべての人たちは「偉い人になって、多くの人々を支配する」ということが人生の目的になっているという事実を確認している。言い換えると、この世においては、他人を自分のために利用する、働かせる、奴隷にすることが人生の目的になっている。それに対して、私は人々に仕えること、他の人々のために働くこと、奴隷になることが人生の目的だと言う。そして、その生き方の極みが十字架の死であった。
イエスの人生は大失敗であったのではないのか。奴隷になることを目標とする人生が魅力的なはずがない。ところが、ここからが本当に不思議なことである。このイエスの生き方に従う者がイエス以後絶えない。むしろ、この生き方こそが人間としての最も崇高な生き方として、それに従う者が後を絶たない。少なくとも、その生き方を自分自身は実現できなくても、その生き方こそ最も賞賛されるべき生き方だと多くの人々は信じている。それがイエスが「あなたがたの間ではそうではない」という意味である。あなたは「仕えられるために」生きるのか、それともイエスと共に「仕えるために」生きるのか、それが問題である。
ここでの「仕える」は通常は英語では「サービス」である。先日テレビを見ていたら、障害者を保護する犬が画面に流れていた。その犬の背中には大きな字で「SERVICE」と書かれた布が両面に貼り付けられていた。これがサービスであり仕えるということである。
私の卒業した関西学院大学のスクール・モットーは「Mastery for Service(マスタリー フォー サービス)」であった。入学したときから、卒業するまで、いろいろな場面で、この言葉が繰り返された。「奉仕のための錬達」という意味で、これが建学の精神であった。これこそがキリスト教精神の真髄である。

最新の画像もっと見る