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聖研:マタイ福音書(12)受難と復活(26~28)

2014-11-10 15:13:13 | 聖研
聖研:マタイ福音書(12)
受難と復活(26~28)


昨年12月から始めたマタイ福音書の研究、今回が最終回である。この研究会では、日本聖公会の主日礼拝において取り上げられていないテキストを拾い、取り上げて学んできた。そしていかに重要なテキストが主日礼拝で読まれていないか、その意味も考えた。最も礼拝の場で読まれるのに相応しくないテキストも多々ある。例えば、イエス殺害の計画(26:1~5)とか、墓場の番人がイエスの遺体を弟子たちが盗んだのだというような記事(28:11~15)などは重要ではあるが、礼拝で読むには一寸まずいんじゃないかと思われる。礼拝ではもっと建徳的なテキストが読まれる。その結果、模範的なキリスト者が生まれる。今回の聖書研究ではその意味では非常に「毒を含んだ」ものになったように思う。第12回でカバーされる聖書の箇所は26章から28章までである。
主日礼拝で取り上げられているテキストは以下のとおりである。

(1) 27:01~54 復活前主日
(2) 28:01~10 復活日
(3) 28:16~20 三位一体主日

驚くべきこと、マタイ26章、マルコ14章、ルカ22章が、聖餐式の主日日課から外されている。26:36~74は復活前主日の日課に括弧付きで含まれ、聖水曜日の第2選択として26:1~5,14~25が取り上げられている。ヨハネによる福音書における並行記事もない。ということは、ここにしか出てこない「イエスを殺す計画」(1~5)、「ベタニアで香油を注がれる記事」(6~13)、「ユダの裏切り行為」(14~16)、「過ぎ越の食事」(17~25)、「主の晩餐」(26~30)、「ペトロ離反の予告」(31~35)、「ゲッセマネの祈り」(36~46)、「イエス逮捕の記事」(47~56)、「最高法院での裁判」(57~68)、「ペトロのイエス拒否の記事」(69~75)の記事等は主日聖餐式で読まれない(見落としているかもしれません)。

それで、本日はマタイだけが記録している次の2つの記事を取り上げる。
(1)「ユダの裏切りと自殺」(26:14-16,27:3-10)
(2)「墓を見張る番兵」(27:62-66、28:11-15)


1.福音書における「受難物語」の位置付けについて
「受難物語」については、最初の福音書(マルコ)の執筆動機から始まる大きな問題がある。明らかにマルコ福音書においては14章から物語の流れが変わる。13章の「終末についての話」でひとまず完結し、14章から別の話が始まったという印象が強い。
とくにそれが顕著なことは「群衆」の描写である。13章までのイエスと群衆との関係は「良き友」であるが、14章以下では群衆は「イエスの敵」となっている(14:43、15:7以下)。それで14章、15章を「受難物語」として独立したものと考える考え方がある。とくにドイツの学会などではこの部分を一つのまとまりとして流布していたものをマルコはあまり手を加えず彼の自身の福音書の後編として引っ付けたという説が主流となっている。ただし、既に流布していたとされる文書がどのようなものであったのかは明瞭ではない。田川建三氏はこの部分はマルコ福音書本体(13章まで)に対する「付録的文書」(442頁)であろうという。マルコにとって重要だったのはイエスの生き方であって、イエスの生き方を無視して「死」だけを救済信仰的に崇め奉る態度に対して、イエスの死はあの生き方の結果である。

2.この構造はマタイにおいても引き継がれているが、マタイでは26:1に25章までの説教の終わりの定型句を挿入したため、その印象がかなり薄れているが、取り上げられている出来事の順序、言葉使いもほとんどそのままである。ただその中でマタイだけが挿入している記事が、上に述べた2箇所である。

(1)ユダの裏切り(26:14~16)
ここではユダがかなり悪者として描かれている。「銀30枚」というのはここでだけ述べられている。これについては、ゼカリア11:12~13、(1724頁)との影響がかなりはっきりしている。

ゼカリア11:4~14のコンテキスト
文章の筋がよくわからないが、枝葉を切り落として整理をすると、以下のようになる。
先ず全体としてイスラエル民族の指導者たちに対する裁きの言葉であると思われる。ここでは彼らは羊飼いとして表徴されている。
ヤハウエは羊飼いたちに特別の任務を課す。「葬るための羊」を飼え。葬るための羊とはヤハウエに捧げられる羊を意味し、それを飼うということは非常な名誉である。当然、羊飼いたちは高い報酬を期待する。しかし同時に「葬るための羊」を飼うということには、いろいろ面倒な手続きがありる。それで、高い報酬に過度な期待を寄せていた連中は、その面倒さに耐えられないで出て行く。そのため、ヤハウエは羊を飼うことができなくなり、廃業を決める。ここからが少々ややこしい。今まで主役はヤハウエであったが、ここで主役は預言者ゼカリアにスイッチする。ゼカリアは、業者たちと交渉に、彼らの言い値で羊を処分する。その時、業者たちが付けた値段が銀30シュケルであった。この金額は奴隷一人の値段(出エジプト21:32)で、ゼカリアはイスラエルの民も随分馬鹿にされたものだということで、その全額を「主の神殿の鋳物師たちに投げ与えた」、という。つまり、ここでの銀30シェケルとはイスラエルの民の金額を意味する。それが諸国民たちのイスラエルに対する評価を意味している。

(2)イエス逮捕の場面(26:47~56)
最後の晩餐でのユダに対するイエス「友よ、しようとしていることをするがよい」という言葉は何を意味しているのか。この言葉はヨハネ福音書では最後の晩餐の席で語られた言葉とされ、弟子たちはこの言葉の意味を理解していないことが述べられている(ヨハネ13:27)。

イエス逮捕の場面を各福音書がどのように叙述しているか比較してみる。特に、ここでのユダとイエスとの「接吻」の意味とユダに対するイエスの言葉をどう理解するか。

マルコ14:43~50、マタイ26:47~56、ルカ22:47~53、ヨハネ18:1~11

全体としていろいろ問題点はあるが、今日はユダの行動だけを焦点にしてみる。
ユダの最初の行動とセリフ
マルコ:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。(イエスは沈黙)
マタイ:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。
ルカ:49 マタイと完全に一致。
ヨハネ:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。

ヨハネの叙述だけがかなり異なっていることは明白である。ヨハネはユダについて完全沈黙。行動もしていない。接吻もない。ヨハネの目からはユダは完全に無視されている。ここから何が読み取れるか。逆に、このことから共観福音書の叙述の意味が露わになる。

(3)ユダの自殺(27:3~10)
これは福音書では完全にマタイのみ。(参照:使徒言行録1:17~20)
ユダは後悔し、銀貨30枚を神殿に投げ込んで、首をつって死んだ。「血の畑」
「エレミヤの預言」というのはマタイの勘違いであろう。推測されるのはゼカリア11:13。「陶器職人の畑」の代金、ゼカリアでは「鋳物師」の賃金。よく似ている。
使徒言行録ではユダは「不正を働いた報酬」で土地を買い、そこに転落死した。それでその土地は「血の土地」と言われる。これは詩編の成就(詩69:26、109:8)だという。
つまりこの件については、似ているような似ていないような、2つの記事がある。こういう場合は、2つとも信憑性は薄れる。つまり、「事実」というより著者の「解釈」である。

ユダの「裏切り」とは一体何か。これは私の若き日からの疑問であった。これに対する答えはあるのか。
ワルター・イェンス『ユダの弁護人』の紹介する(別紙参照)。

(4)墓を見張る番兵(27:62~66)
墓番のことについて触れているのはマタイだけである。

(5)番兵たちの報告(28:11~15)
マルコ福音書によると、婦人たちは空っぽの墓の中で、「若者」と出会い、イエスの復活を弟子たちに知らせよ、と命じられたが、震え上がり、正気を失って、弟子たちに報告しなかった、という。
マタイは、婦人たちは「天使」からイエス復活の知らせを聞き、「恐れながらも、大いに喜び、急いで弟子たちに知らせるために走っていった」と書き改める。信仰的な改編である。ということは、まだ誰も復活のイエスを見たものはいない。はっきりしているのは「墓が空っぽ」ということだけである。とすると、墓番をしていた「番兵たち」にとって、その報告が市内に伝達される前に、ユダヤ教当局に伝えられなければ責任問題になるおそれがある。「婦人たちが行き着かないうちに」報告し、対策を煉る必要がある。この物語を成立させるための「予備線」が(4)のストーリーである。おそらくマタイの頃には、ユダヤ教側の対イエス集団への宣伝は既になされていたのであろう。

ブログ参照:読書記録:ワルター・イェンス『ユダの弁護人』より抜粋。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/8b9c3115bc041ecac844f99ef28a37ea


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