ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第11主日(特定13)(2018.8.5)

2018-08-03 16:14:10 | 説教
断想:聖霊降臨後第11主日(特定13)(2018.8.5)

永遠の生命に至る食べ物 ヨハネ6:24~35

<テキスト>
◆パンの奇跡、その後、(6:24~29)
語り手:それでまだイエスはこちら側におられるに違いないということで、昨日のパンの奇跡が行われた場所からさらに細かく探索がなされましたが、手がかりはまったくありません。それで結局、イエスは対岸の町カファルナウムに行かれたのだろうということになり、数艘の小舟に分乗してカファルナウムに向かいました。やはりイエスはカファルナウムにおられました。そこで人々が先ずイエスに尋ねました。

人々:先生、いつ、どのようにして、ここにおいでになったのですか。

イエス:なぜ、そんなつまらないことが問題なのかね。 もっと大切なことがあるでしょう。本当のことを言うと、あなた方が私を捜しているのは、私が行った奇跡を見たからではなく、不思議なパンを食べて満腹したからであろう。大切なことは、いくら食べても、またすぐに空腹になるような食べ物のためにあくせくするのではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べもののために働いたらどうですか。それこそ、私があなた方に与えるものなのです。それが父が私にせよと命じ、承認されたことなんです。
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(教会的編集者の挿入:6:28~29)

◆カファルナウムの会堂にて <6:30~35>
人々:なるほど、永遠に至る食べ物、いいですね。ところで、そのためにあなたはどんな奇跡をしてくれるのですか。私たちはそれを見たら、あなたを信じることにします。いったい、あなたはどんなことが出来るんですか。私たちの先祖は荒野でマナを食ベました。神は天からのパンを彼らに食べさせた、と書いてありますね。

イエス:その通りです。しかしよく考えてみましょう。あの時の天からのパンはモーセがあなた方の先祖に与えたのではありませんね。天からの本当のパンをあの人たちに与えたのは私の父です。神のパンは天から下ってくるもので、世に生命を与えるものなのです。

人々:先生、ではそのパンをいつでも食べられるように私たちにも与えてください。

イエス:私が生命のパンなのです。私のもとに来る人は飢えることがなく、私を信じる人は常に渇くことがありません。

<以上>

1.パンの奇跡の意味
イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人を満腹させたという出来事は人々を驚かせた。ある人々はイエスをリーダーとして反政府運動を起こそうとした。ともかく、いろいろな思惑からイエスを追いかけた。今日のテキストの前半は人々が大騒ぎしている様子が描かれている。それに対するイエスの態度はクール(冷静沈着)である。たかがパンのことではないか、という姿勢まで感じる。「本当のことを言うと、あなた方が私を捜しているのは、私が行った奇跡を見たからではなく、不思議なパンを食べて満腹したからであろう」(26)。このイエスのセリフはわかりにくい。イエスを追いかけた人々には2種類いたようである。一つのグループは、奇跡者イエスに興味を抱いた人々、その他にパンを食べて満足した人たちである。前者、つまりイエスに関心を持ったグループと、パンに魅力を感じた人々、ガリラヤ湖を舟で渡って追いかけてきた人たちのほとんどは後者であったらしい。イエスはイエスの異常な能力を認めイエスを持ち上げようとした連中(仮にインテリ・グループ)からは身を引き山に逃げた(6:15)。しかしイエスはパンに満足した単純な人々(仮に食いしん坊グループ)とは会話を続行する。だから会話の主題は食べモノのことである。
「大切なことは、いくら食べても、またすぐに空腹になるような食べ物のためにあくせくするのではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べもののために働いたらどうですか」と語り、「それこそ、私があなた方に与えるものなのです。それが父が私にせよと命じ、承認されたことなんです」(27)という。
28~29節の「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」は、編集者の挿入でありスムーズな会話を断絶している。むしろ27節から30節の「なるほど、永遠に至る食べ物、いいですね」につなげるとスムーズである。

2.2種類の食べもの
「なるほど、永遠に至る食べ物、いいですね」(30)。ここで2種類の食べ物がテーマとなる。食べても直ぐに空腹になる食べ物と永遠に至る食べモノである。「いいですね」、この「いいですね」とは何をいいと言っているのだろうか。民衆は大きな誤解をしている。一度食べたら、もうそれ以上食べる必要のない食べ物を想像している。それだけ彼らは日毎の糧に苦労していた。そんな強力な食べ物があるなら、その秘密を知りたい。それで民衆は「ところで、そのためにあなたはどんな奇跡をしてくれるのですか。私たちはそれを見たら、あなたを信じることにします。いったい、あなたはどんなことが出来るんですか。私たちの先祖は荒野でマナを食ベました。神は天からのパンを彼らに食べさせた、と書いてありますね」(30)という。非常に率直な質問である。
ここでイエスと民衆との会話の主題が微妙に変わる。毎日手に入れなければならない「日毎の糧」と「永遠の命のパン」との対比である。奇跡のパンということからモーセによるマナの奇跡を思い起こす。確かにモーセによるマナもイエスも天からのパンであることには違いないが、前者は毎朝拾い集めなければならない日毎の糧であり、それは額に汗して得るパンと同質のものである。しかしイエスが語る「永遠の命のパン」は、よくわからないが、なかなか魅力的である。ここでの民衆の反応は面白い。「先生、ではそのパンをいつでも食べられるように私たちにも与えてください」という。なにしろ、5つのパンで5000人を満腹させたイエスのこと、何か秘密があるに違いない。この民衆の反応は決して冷やかしではなく素直な反応である。イエスもそれに大まじめに答えている。「私が生命のパンなのです。私のもとに来る人は飢えることがなく、私を信じる人は常に渇くことがありません」という。このイエスのセリフはまさに「謎」である。それはイエスの時代の人々にも、後の時代の人々にも謎であると編集者は考えて28~29節の説明を加える。「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である』。」
この解説をどう思うか。実に適確な解説である。しかし、それは後の時代のことであってイエスを前にして会話している人々とは関係ない。彼らはイエスの口から「永遠の命に至る食べ物」という言葉を聞いて、ある意味で感動したらしい。ほとんど反射的に、その食べ物について「何か秘密」があると感じたらしく、「なるほど、永遠に至る食べ物、いいですね。ところで、そのためにあなたはどんな奇跡をしてくれるのですか。私たちはそれを見たら、あなたを信じることにします」(30)という。この反応を民衆の冷やかしと考えてはならない。彼らの本音であろう。何故なら彼らは事実、「日毎の糧」のために汗水流して働いても足らない生活をしていたのである。

3.「生きること」「食べること」
ここで主題となっている「永遠の命に至る食べもの」について考える前に、「人はパンなしでは生きられない」ということについて考えておく。
神によって創造された人間はエデンの園に置かれ、「園のすべての木から取って食べなさい」と言われている。つまりエデンの園での人間は食べるために働く必要はなかった。しかし神の言葉に背いた結果、エデンの園から追放されることになる。そのときに、一種の罰として「自分で汗を流し、土地を耕し、作物を作り」食べるという生活が命じられる(3:17~19)。つまり生きるための労働は罰である。人間は生きるために働かねばならない。ここに労働と生活との切っても切れない関係がある。土を耕し食べ物を得るということは、生やさしいことではない。人間はその労働の苦しさを少しでも軽くするために頭を使う。道具を作り出す。人口が増えてくれば協力することを学ぶ。
人類が初めに神から命じられた労働は、自然界から直接食べる物を取り出すので、後に「第1次産業」と呼ばれるようになった。第1次産業によって得られた産物を加工してより価値あるモノにするいわゆる加工業を「第2次産業」と呼ばれる。この労働は一種の「分業」と見做すことができる。分業には当然「分配」を含む。
人間にとって労働とは「生きる」こととほとんど同意語である。働くことなしに生きることが成り立たない。働いていないと思われる幼子たちも「潜在的労働者」であるし、もう労働から離れたように見える高齢者たちも労働から自由になっているわけではない。労働の質が変わっただけである。労働を「金を稼ぐこと」としか思えない人は視野が狭すぎる。人間にとって労働とは「愛することであり、愛の変形とさえ言える営みである。「分業」と「分配」をスムーズにするために人類は「お金(マネー)を作り出したが、そのお金が「神に代わる」ものとなり、人間の罪は深まる。
長い話を短縮して結論を取り出すと、人間の罪を深める労働もあれば、労働を通して「創造性(生産)」、「主体性(独創性)」、「社会性(他者との関係)」など、人間性を豊かにする。人間は神からは罰として課せられた「苦しい労働」を「喜びの労働」への転換した。

4.永遠の命に至るために働いたらどうですか
ここでイエスは「永遠の命に至る食べもののために働いたらどうですか。それこそ、私があなた方に与えるものなのです」(27)という。ここでは「食べたらなくなる食べモノ」のために「働く」のではなく、永遠の命に至る「食べもの」のために働けと命じられている。この命令はイエス自身から発せられ、それを命じることこそが、イエスが神から托された使命であると述べられている。
人間は「食べたらなくなる食べモノ」を食べることによって生きている。これが人間の命である。当然この命は食べなければ死ぬ。その命は人間の中にある命である。しかし、人間の中には「永遠の命」はない。永遠の命は人間の外にある。命についての原点であるエデンの園から考えると、人間はエデンの園から追放されて、汗を流して土地を耕し収穫物によって生きる運命とされた。そのとき「永遠の命」はエデンの園に残され、しかも人間が近づくことのないように「ケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(創世記3:24)のである。
ここではイエス自身が「私が生命のパンなのです」という宣言する。そしてイエスを食べることがイエスを信じることだとされる。

5.聖餐式について
ここで「イエスを食べる」というテーマは聖餐式に直結する。しかしここでは、と言うよりこの段階では聖餐式について触れられない。おそらく、この段階では(1世紀の終わり頃)には聖餐式がそれほど普及していなかったのかも知れない。しかし、聖餐式への萌芽がある。

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