断想:聖霊降臨後第14主日(特定18)の旧約聖書(2017.9.10)
警告の預言者 エゼキエル33:1~11
<テキスト>
1 主の言葉がわたしに臨んだ。
2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。
3 彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。
4 角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。
5 彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。
6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。
7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。
8 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。
9 しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。
10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。
11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
<以上>
1.特定18の福音書はマタイ18:15b~20である。ここでは罪を犯した友人、多分、同信の友キリスト者であろう。そのことを知った友人は、どうすべきかということが述べられている。先ず、二人だけで話し合って、彼に忠告する。それを受け入れられなければ、次に複数の友人を誘って彼に忠告をする。つまり、少し公になる。それでも聞き入れられなければ、今度は最後の手段として教会に報告する。これだ完全に公のこととなる。それでも、聞き入れられなければ、教会から追放する。なかなか厳しい処分である。要するに、ここでの主題は「警告」ということであろう。それで旧約聖書でも「警告」を主題にしているテキストが選らばれている。
2. 警報の発令
今日のテキストは実にわかりやすい。警告ということについて、警告するものと警告されるものとの関係が明解である。2節から6節までは、警告についてのいわば法律的な規定が述べられている。外国から攻撃される危険性が明らかになったら、先ず「見張り」を立てる。その見張りは、攻撃される徴候を見たら直ちに、「角笛を吹き鳴らし」それを国民に伝えなければならない。角笛の音を聞いたら、直ちに武装し防衛体制に入らなければならない。もし、角笛を聞いても防衛体制に入らなかったら、その被害の責任は、警報を無視した者にある。しかし、見張りが敵の攻撃を知りながら警報を発しなければ、その被害の全責任は見張りにある。たとえ、見張り自身が死んだとしても、その責任からは免れることはできない。6節までに書かれていることは、そのことである。非常に明快で疑問の余地はない。それだけ「見張り役」の責任は大きいということがここで述べられている趣旨であろう。
さて、この日のテキストは、6節までは「読んでもいいが、読まなくてもいい」部分で、いわば7節以下の前提、あるいは予備的部分である。
3.警報を発する人の責任
7節冒頭の「人の子」とは、特別に神話的な「人の子」ではなく、ここでは普通の人間、ただその人間は「見張り」に選ばれたひとで、ここでは預言者を指している。この預言者は神の「警告」を聞いたら、直ちにそれを国民に伝える責任がある(7節)。耳で聞いたことを口で伝えればいい。それ自体何も難しいことではない。問題は伝えるべき「警告」の内容である。ここでは、一つの例として「悪人への警告」が取り上げられている。ここで「悪人」と述べられているということは普通の人、あるいは悪人になる危険性がある人ではなく、既に「悪人」である。その悪も「死刑」になるようなレベルの悪人である。彼等に神の「警告」を語るということは並大抵のことではない。しかも、語るべき「警告」は「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」という内容である。高速道路を走っている車に「警告」が発せられるのは、その車が既にスピード違反をしていることで、そのままの状態では事故を起こす危険性があるから「警告」が発せられるのであり、この警告を受けた者は直ちにスピードを落とさなければならない。預言者が語るべき警告は、このまま悪を続けていると「死ぬよ」という警告である。
しかし、状況を考えると、悪人にこの警告を告げることは非常に勇気が要る。しかし、この警告を発しなければ、その悪人の罪は預言者自身が負わなければならないという。預言者にはそれだけの責任がある。
4.預言者への警告
その意味では、今日のテキストはイスラエルの民全体への警告であるが、もっと重要なことは、預言者への「警告」だということである。神から語られたことを民に伝えるという預言者の役割、その責任の重さが主題である。
先日、東京以北の県において「Jアラート」が鳴ったという。このJアラートが適当だったか不当だったかということがかなり議論になっているし、それが鳴ったときの対応の仕方に妥当性があるのかどうかということも議論になっている。それだけ「警報」を発するということには責任がある。あまりにも不当な警報が繰り返されると、「オオカミが来た」と叫ぶ少年のように信じられなくなってしまう。現在の日本ではまさにそのような「見張り」に対する不信感が生じている。
5.教会の役割
今や、日本社会は、そして同時にアメリカも、急速に危険な方向に進んでいる。その危険性は外国からの攻撃というより、国内の情勢による危険である。戦前復帰というか、今の日本は「いつか来た道」を歩んでいるような気がする。あの時、教会は何もすることができなかった。というよりも、教会がそのことに気付いたときには、もう既に後戻りすることができない情勢になっていた。それまでにも、いろいろ徴候は見えていた。一部キリスト者の間ではそれを感じていた人たちもいたが、大勢はそれを見ぬふりをしていた。エゼキエル書が語る「預言者」の役割は、まさに現在の教会の役割ではないだろうか。
3. 兄弟への忠告
さて、本日の福音書では教会における兄弟間の忠告の問題が取り上げられている。ここでは二段階の忠告が述べられている。まず、兄弟間の忠告、次ぎに教会が介入する忠告である。これら二段階の忠告が受け入れられなかったならば、最終的には「破門」ということになる。
この教会内部の忠告のシステムが、教会外の世界に対して、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:19) という言葉に展開する。この言葉の意味は、教会はこの世界に対して「見張り人」であるということを意味する。旧約聖書において預言者が果たした「見張る者」の役割を新約聖書においては教会が果たしている。
エゼキエル書において預言者に語られた11節の言葉は、現代の教会にも与えられている言葉である。教会は今も、この言葉を世界に対して語らなければならない。「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って、生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」。
4. 「お前たちの悪しき道」
私は、そこでふと立ち止まる。果たして教会は「お前たちの悪しき道」を知っているのだろうか。教会は世界に対して「悪しき道」から「立ち帰れ」と語る。しかし、本当に教会はこの世の「悪しき道」を知っているのか。言葉を変えると、教会はこの世に対して警告者として警告を発する使命がある。しかし、教会は何を警告するのだろうか。
私自身のことを反省してみる。私自身「警告」の内容を自覚しているのだろうか。警告すべき事柄がなければ、何も無理に警告する必要はない。ゆっくり休んでいればよい。本当に警告すべき内容はないのだろうか。預言者エゼキエルは民衆の声を先ず聞いている。「我々の背きと過ちは我々の上にある。我々はやせ衰える。どうしていきることが出来ようか」(33:10)。これはエゼキエルが聞いた民衆の声である。その民衆の声に対して、神は「わたしは生きている」、「悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と語る。ここでのキイワードは「生きる」ということである。民衆は生きることを求めている。裏返して言えば、生きていない現実を知っている。ただ、それが言葉として出てこないだけである。時間つぶしの快楽、楽しみは町に溢れている。しかし、本当に生きているという喜びを与えてくれるものはない。
ヨハネはイエスの到来を次のように語る。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞くときが来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる(ヨハネ5:25)」。何とすごい言葉であろう。キリスト者はその声を聞いた。そして生きる者となった。そして、神の子の声を世界に響かせる者となった。
警告の預言者 エゼキエル33:1~11
<テキスト>
1 主の言葉がわたしに臨んだ。
2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。
3 彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。
4 角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。
5 彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。
6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。
7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。
8 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。
9 しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。
10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。
11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
<以上>
1.特定18の福音書はマタイ18:15b~20である。ここでは罪を犯した友人、多分、同信の友キリスト者であろう。そのことを知った友人は、どうすべきかということが述べられている。先ず、二人だけで話し合って、彼に忠告する。それを受け入れられなければ、次に複数の友人を誘って彼に忠告をする。つまり、少し公になる。それでも聞き入れられなければ、今度は最後の手段として教会に報告する。これだ完全に公のこととなる。それでも、聞き入れられなければ、教会から追放する。なかなか厳しい処分である。要するに、ここでの主題は「警告」ということであろう。それで旧約聖書でも「警告」を主題にしているテキストが選らばれている。
2. 警報の発令
今日のテキストは実にわかりやすい。警告ということについて、警告するものと警告されるものとの関係が明解である。2節から6節までは、警告についてのいわば法律的な規定が述べられている。外国から攻撃される危険性が明らかになったら、先ず「見張り」を立てる。その見張りは、攻撃される徴候を見たら直ちに、「角笛を吹き鳴らし」それを国民に伝えなければならない。角笛の音を聞いたら、直ちに武装し防衛体制に入らなければならない。もし、角笛を聞いても防衛体制に入らなかったら、その被害の責任は、警報を無視した者にある。しかし、見張りが敵の攻撃を知りながら警報を発しなければ、その被害の全責任は見張りにある。たとえ、見張り自身が死んだとしても、その責任からは免れることはできない。6節までに書かれていることは、そのことである。非常に明快で疑問の余地はない。それだけ「見張り役」の責任は大きいということがここで述べられている趣旨であろう。
さて、この日のテキストは、6節までは「読んでもいいが、読まなくてもいい」部分で、いわば7節以下の前提、あるいは予備的部分である。
3.警報を発する人の責任
7節冒頭の「人の子」とは、特別に神話的な「人の子」ではなく、ここでは普通の人間、ただその人間は「見張り」に選ばれたひとで、ここでは預言者を指している。この預言者は神の「警告」を聞いたら、直ちにそれを国民に伝える責任がある(7節)。耳で聞いたことを口で伝えればいい。それ自体何も難しいことではない。問題は伝えるべき「警告」の内容である。ここでは、一つの例として「悪人への警告」が取り上げられている。ここで「悪人」と述べられているということは普通の人、あるいは悪人になる危険性がある人ではなく、既に「悪人」である。その悪も「死刑」になるようなレベルの悪人である。彼等に神の「警告」を語るということは並大抵のことではない。しかも、語るべき「警告」は「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」という内容である。高速道路を走っている車に「警告」が発せられるのは、その車が既にスピード違反をしていることで、そのままの状態では事故を起こす危険性があるから「警告」が発せられるのであり、この警告を受けた者は直ちにスピードを落とさなければならない。預言者が語るべき警告は、このまま悪を続けていると「死ぬよ」という警告である。
しかし、状況を考えると、悪人にこの警告を告げることは非常に勇気が要る。しかし、この警告を発しなければ、その悪人の罪は預言者自身が負わなければならないという。預言者にはそれだけの責任がある。
4.預言者への警告
その意味では、今日のテキストはイスラエルの民全体への警告であるが、もっと重要なことは、預言者への「警告」だということである。神から語られたことを民に伝えるという預言者の役割、その責任の重さが主題である。
先日、東京以北の県において「Jアラート」が鳴ったという。このJアラートが適当だったか不当だったかということがかなり議論になっているし、それが鳴ったときの対応の仕方に妥当性があるのかどうかということも議論になっている。それだけ「警報」を発するということには責任がある。あまりにも不当な警報が繰り返されると、「オオカミが来た」と叫ぶ少年のように信じられなくなってしまう。現在の日本ではまさにそのような「見張り」に対する不信感が生じている。
5.教会の役割
今や、日本社会は、そして同時にアメリカも、急速に危険な方向に進んでいる。その危険性は外国からの攻撃というより、国内の情勢による危険である。戦前復帰というか、今の日本は「いつか来た道」を歩んでいるような気がする。あの時、教会は何もすることができなかった。というよりも、教会がそのことに気付いたときには、もう既に後戻りすることができない情勢になっていた。それまでにも、いろいろ徴候は見えていた。一部キリスト者の間ではそれを感じていた人たちもいたが、大勢はそれを見ぬふりをしていた。エゼキエル書が語る「預言者」の役割は、まさに現在の教会の役割ではないだろうか。
3. 兄弟への忠告
さて、本日の福音書では教会における兄弟間の忠告の問題が取り上げられている。ここでは二段階の忠告が述べられている。まず、兄弟間の忠告、次ぎに教会が介入する忠告である。これら二段階の忠告が受け入れられなかったならば、最終的には「破門」ということになる。
この教会内部の忠告のシステムが、教会外の世界に対して、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:19) という言葉に展開する。この言葉の意味は、教会はこの世界に対して「見張り人」であるということを意味する。旧約聖書において預言者が果たした「見張る者」の役割を新約聖書においては教会が果たしている。
エゼキエル書において預言者に語られた11節の言葉は、現代の教会にも与えられている言葉である。教会は今も、この言葉を世界に対して語らなければならない。「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って、生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」。
4. 「お前たちの悪しき道」
私は、そこでふと立ち止まる。果たして教会は「お前たちの悪しき道」を知っているのだろうか。教会は世界に対して「悪しき道」から「立ち帰れ」と語る。しかし、本当に教会はこの世の「悪しき道」を知っているのか。言葉を変えると、教会はこの世に対して警告者として警告を発する使命がある。しかし、教会は何を警告するのだろうか。
私自身のことを反省してみる。私自身「警告」の内容を自覚しているのだろうか。警告すべき事柄がなければ、何も無理に警告する必要はない。ゆっくり休んでいればよい。本当に警告すべき内容はないのだろうか。預言者エゼキエルは民衆の声を先ず聞いている。「我々の背きと過ちは我々の上にある。我々はやせ衰える。どうしていきることが出来ようか」(33:10)。これはエゼキエルが聞いた民衆の声である。その民衆の声に対して、神は「わたしは生きている」、「悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と語る。ここでのキイワードは「生きる」ということである。民衆は生きることを求めている。裏返して言えば、生きていない現実を知っている。ただ、それが言葉として出てこないだけである。時間つぶしの快楽、楽しみは町に溢れている。しかし、本当に生きているという喜びを与えてくれるものはない。
ヨハネはイエスの到来を次のように語る。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞くときが来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる(ヨハネ5:25)」。何とすごい言葉であろう。キリスト者はその声を聞いた。そして生きる者となった。そして、神の子の声を世界に響かせる者となった。