ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第3主日の福音書

2016-02-27 08:31:53 | 説教
断想:大斎節第3主日
悔い改めについて ルカ13:1~9

1. 大斎節第3主日について
テキストは二つの部分に分かれている。1節から5節まではエルサレムで起こったピラトによるガリラヤ人弾圧事件とシロアムの塔が倒れエルサレムの住人18人が命を失ったという事件とが取り上げられている。これらの事件についてイエスが「あなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる」という言葉で閉じられている。6節から9節では「実のならないいちじくの木」の譬えで、ここでも「悔い改めを待つ者の忍耐」がテーマとなっている。つまりこの日のテキストは「悔い改め」ということで、これこそが大斎節の中心的なテーマである。

2.二つの出来事
イエスが町の中で群衆に向かって話をしていた(Lk.12:54~59)。そこでの話題はいわば時代を見分けるということであったらしい。「今という時」がどういう時であるのか、イエスが群衆に向かって、明日の天気を判断することができるのに「時代の状況」を判断することができないことについて、また何かの問題で誰かと争うことになった時、裁判所に訴えてもろくな判決は出ない。それよりも当事者同士でよく話しあって解決をした方がいいに決まっている。それなのに「どうして自分で判断できないのか」、というようなことを話しておられた。つまり、社会問題であれ、個人的な問題であれ「自分で判断する」ということが主題であったようである。
まさに、「ちょうどそのとき」、聴衆の中から質問が飛んできた。この「ちょうどそのとき」というのは面白い。まさに、グット・タイミング である。このグットタイミングだと思っているのは著者ルカである。提出された問題は「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」事件である。おそらく、当時ユダヤ人の間では問題にされたのであろう。これが事実だとすると、これは確かに大事件である。
神殿を汚し、ユダヤ教で最も大切している犠牲の祭を汚すということである。暴動が起きても不思議ではない。ユダヤ人の歴史を見れば、神殿の祭儀を汚したということでマカビー一族の大反乱(168~141)が起こり、一時的にせよシラ軍を破り独立を勝ち取ったこともある。そのときの指導者一族(ハスモン家)の末裔がイエスの時代の大祭司一族である。
今、それに匹敵するような大事件が起こっている。ガリラヤ人が処刑されて、その血が犠牲にまぜられたという。まさに血祭りにされた。ピラトならそれぐらいのことはしかねないのであろう。ところが、現在の大祭司たちは何も反応しない。それどころか、何か情報を隠しているようである。民衆はそのことについてイエスの意見を求めている。イエスはこのことをどう考えているのか。イエスの口からピラトへの厳しい批判、あるいは大祭司等指導者たちへの弾劾の言葉を期待したのかも知れない。
ところがイエスの批判は彼らに向かずに、むしろ民衆の方に向かった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」。民衆は殺されたガリラヤ人たちが特別に悪いことをしたのだから殺されても当然だと思っていたのであろう。だからイエスはここではそういう人たちの問題を指摘しているのである。イエスの答えから考えるとそうに違いない。
ここでイエスが問題にしているのは殺されたガリラヤ人の罪云々ではなく、殺されたのは彼ら自身の罪の結果であると考え、自分たちには罪はないと思っている一般のガリラヤ人にも問題である。殺したピラトも悪い。それを隠蔽しているユダヤ人社会の指導者たちも悪い。しかし、それを傍観者のように善人面をして見ているあなたたちには罪はないのか。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。

3. シロアムの塔の倒壊事故
続いて今度はイエスの方から最近のもう一つの事件が取り上げられた。エルサレムの市内にあるシロアムの塔が倒れて18人の人が死んだという事故が起こった。恐らくこれはガリラヤ人による報復テロであったと予想される。しかし、このテロによって亡くなった人々は一般の人々であった。この災難に遇った人々に何か特別な理由があったわけではない。いわば「とばっちり」であった。
私たちはこのようなニュースを聞くとき、そのことを私たちの生活とは無関係な出来事、あるいは、そういう災害に巻き込まれなかったことで「よかった」と胸をなで下ろす程度の反応しかしない。しかしイエスは問う。あの事件の犠牲者「18人」はエルサレムに住んでいる他の人々よりも罪深かったのだろうか。そうではない。イエスがこのように問うとき、「災害」を「神の罰」と考える当時の人々の発想を批判している。この発想においては、事件に遭遇した人々と、事件と無関係の自分とを切り離し、災害を免れた自分は「神の罰」と無関係であると安心する。イエスはそのような考えを批判する。災害を受けなかったということは、災害を受けた人よりも罪が少ないというのではなく、強いて言うなら、たまたま免れたというだけのことである。重要なことは災害を受けた人と災害を免れた人とを分ける考え方を否定し、むしろ災害そのものを「時の徴」として受け止めることである。

4. ぶどう園のいちじくの木の譬の意味

後半の譬えはマルコ福音書11:12~14(Mt.21:18~22)を土台にしてルカが書き改めたものと思われる。マルコ福音書ではこの記事はイエスがエルサレム入りをした後のベタニア付近での出来事とされているが、ルカはあえて時と場所とを特定しない。マルコおよびマタイ福音書ではいちじくの木を呪い、枯らしてしまう奇跡的行為として描かれ、信仰をもって祈ればこういうことも可能なのだと教えられている。しかしルカはそのような奇跡的行為という物語を、「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように亡びる」(Lk13:5)の譬えとして書き改める。
実のならないイチジクの木は切り倒すしか仕方がない。畑の持ち主は切り倒すという。しかし畑の世話をしている園丁は何とかして実らせるので「今年もこのままにしておいてください。そうすれば来年は実がなるかも知れません」という。原文にはこの「かもしれない」というような言葉はない。口語訳では「それで来年実がなりましたら結構です」、フランシスコ会訳では「そうすれば、来年は実を結ぶでしょう」。なかなかニュアンスのある言葉である。もしそれでもダメなら諦めます。ここでの比喩はではぶどう園の持ち主は神で、園丁はキリスト、イチジクの木は信徒を意味していると思われる。ポイントは、このイチジクの木はいつ切り倒されても当然であるという状態である。しかし、主の憐れみにより、執行が猶予されている。これが今、キリスト教徒がおかれている状況であるという。いや、「今」ではなく何時の時代でも、どこでも、時と場所は限定されていないということが重要である。何時でも悔い改めることはできるし、何時でも悔い改めなければならない。誰一人、ぶどう園の主人を喜ばせるほどに実を実らせていない。

5. このテキストで説教をすること
さて、以上3つの物語を読んで、今、私たちは何を考えるのか。この3つの物語を並べてそこにどんなメッセージを読み取るべきか。人災ともいうべき権力による弾圧という虐殺、それらとの関係で罪と悔い改めということについての当時の人々の理解と反応、それらに対して現代的視点から批判することは簡単である。あるいは天災による被害、そこでの生命の分岐点、それに畳み掛けるような悔い改めの勧告。そこから何を聞くのか。時代と文化を異にする文書の理解にはそれは必要な作業でもあろう。また、その批判作業を通して反面教師的に説教を試みることもできるであろう。しかし、それではイエスがここで語ろうとしてメッセージを聞いたことにはならない。
前半(1~5節)から私たちは「これは人ごとじゃないよ」というメッセージを聞く。ほとんどの場合、私たちはこういう出来事を「他人事」として聞き、受け止め、処理している。自分のこととなっていない。ピラトによる殺戮もシロアムの塔における災害もイエスは「ひとごとじゃない」と言う。
その上で、後半(6~9節)は「悔い改め」ということを考える。いったい、悔い改めとはどういうことか。多くの場合、心の中で神さまに「ごめんなさい」ということだと考えている。この譬えで語っている「悔い改め」とはそういうことだろうか。少し違うように思う。譬えの核心は「実を実らす」ということである。「人ごと」ではない苦しみを前にしたときに、私たちがなすすべき、本当の「悔い改め」とは、「覚悟を決めて、自分のすべきことをする」ということである。苦しみは決して「人ごとじゃない」と覚悟を決めて、苦しみに対して自分のすべきことをする。それは苦しんでいる人を助けることでもあるだろうし、また二度と同じような事件が起きないように社会全体を良くしていくことでもあるだろう。様々な方法がある。私たちはその場に立って、私達がなすべきことを見定めて覚悟する。決っして他人事としない。それがここでいう悔い改めである。

6. 最近の若者たち
「最近の若者たち」という言葉でひとくくりにはできない。しかし少し離れて観察すると、漠然とではあるが一つの特徴が見えてくる。それは人間と人間との距離感覚がかなり離れている。言い換えるとお互いに相互干渉が控えめである。お互いに人格の深みに立ち入ろうとしない。外から見ているとどれほど親しそうに見えても、それは外面だけのことである。それでは昔はどうだったのかと聞かれると正直なところはっきりしない。だが、もう少しお互いの人格的距離感覚は違っていたように思う。私は教会の弱体化の根本原因はここにあると思っている。教会というところは人間と人間との人格的相互干渉が少ないところでは成長しない。易しい言葉で言い換えると、お互いに干渉し合う関係が教会における「交わり」の本質である。牧師が信徒との関係の中で行う仕事を「牧会」というが、牧会の本質は「魂への配慮(Seelsorge)」であり、それは牧師と信徒との関係に留まらずすべての交わりに関わることである。現代人はお互いに傷付くことを恐れて深く関わることに非常に臆病になっている。その反面、「濃い」人間関係を求めている。その意味で教会にとって「人ごとじゃない」というメッセージは非常に本質的なものである。
     
      

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