お早ようございます。主の平和。使徒言行録の大まかな流れを私なりにまとめる。15章の使徒会議では「使徒たちと長老たち」とが指導している。「使徒」という言葉は16:4で消える。パウロは書簡において自分を「使徒であること」にこだわる。教会から「使徒意識」が失われるとき、教会はアイデンティティを失う。黙示録2:2は強烈である。天神のジュンク堂で開催中の藤城清治版画展を見に行く。PCのバックアップの件で俊樹に問い合わせる。9時から「こんなところに日本人が」を見て10時半に就寝、4時起床。体調快調、チュン、チュン。
野間 悦三さん、村田 多鶴子さん、こーる のりこさん、他21人が「いいね!」と言っています。
萩野 秀子 へりくだり祈る心大切だと思います。雨の予定ですが熱中症に気をつけて水分補給、帽子、傘、サングラスをかけて頑張って下さい。良き日となりますように。お祈り致します。
posted at 04:47:04
今日の名言:RT @wisesaw:
悪の定義は人それぞれに違うし状況で変わってくるけど、“他人を踏み台にする人”、これは絶対に、 誰が何と言おうと悪だと思う 。(荒木 飛呂彦)
<一言>漫画家、代表作は「ジョジョの奇妙な冒険。何か変わった人らしい。でも、この言葉はまともすぎるほどまとも。
野間 悦三さん、望月 克仁さん、富永浩さん、他18人が「いいね!」と言っています。
加藤 佑三 現実は、他人(部下・上司・外注・女性)や物(動植物や生活用品)を犠牲にして、利用して生きて来ました。これも「踏み台」ですね。生きていること自体が悪ですね。悔い改めようとしても、その事実は消えません。特に「女性」・「身障者・高齢者」「年下の者」「外見の良くない人」「お笑い芸人」等に対しては、今でも・・・。
posted at 06:00:47
6月15日
文屋善明@ybunya
「昨日のツイート 06/14」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/ca664806c42f460e926df169699f191…
posted at 06:47:36
日々の聖句2013 06月15日(土)
神よ。あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れる方です。(ネヘミヤ9:17)
わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。(ルカ11:4)
私の黙想:
神をこのように思ってしまうことはよくない。神を「罪を赦す方」と考えてしまうことは正しくない。神は正しい方で悪を赦さない方だと思うことの方が正常である。だから、神に対してこのように呼びかけることは異常なことであり、特別なことなのである。特別なことが、普通のことのように語られると、福音が福音でなくなる。福音主義をあまりにも協調しすぎると福音が普通のこととなり、当たり前のこととなり、神は悪を赦さないという神と人間とのゼロ点が隠れてしまう。罪を赦さないという神の前で、罪を赦された人間は神のように振る舞うことはできない。王から1万タラントンの借金を棒引きにされた家来は、百デナリオンを貸している友人に借金の返済を迫ることはできない(筈である)。
野間 悦三さん、大野 泰男さん、丸山 順子さん、他26人が「いいね!」と言っています。
萩野 秀子 神様は正しい人の味方であり良き方法で罪を分からし導いて下さると思います。
お目覚めの花。「おはよ~!」「お早うございます」「Good morning!」「久しぶりの雨だ。うれしいね」「万物が生きかえるね」「そうだ、人間も元気を出さねば」。
塩谷 常吉さん、野間 悦三さん、松永 健治さん、他30人が「いいね!」と言っています。
細野 清明 Selamat pagi .気品が漂ういい色だぁ~Bagus!\(^o^)/ 今起きました…(^^ゞ今日は、お休みなので、時間を気にすることなくゆっくり過ごしたいと思いってます。
結婚式の「小説教」の準備をしていて、創世記2章25節の「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とい訳語にぶっつかって、ハタと困ってしまいました。なぜ、普通に「恥ずかしいとは思わなかった」と訳さないのだろう。「がりはしなかった」とはどういう意味だろうか。日本語の「がり」とは何か。これでは新共同訳は結婚式では使えないね。
野間 悦三さん、松永 健治さん、野口 富隆さん、他26人が「いいね!」と言っています。
辻 学 「がる」には、そのように振舞う、そのようなふりをする、という意味があるので、心の中では恥ずかしいと思っていたかもしれないが、素振りには出さなかった、というニュアンスが込められているのかもしれません。つまり翻訳者は、裸は恥ずかしいという前提を自分が持っているので、「人と妻」も心の中では恥ずかしいと思っていたはずだと(意識的にか無意識的にか)考えて、こういう訳にしたんじゃないかと推測したくなります。また、月本昭男先生(『創世記Ⅰ』)も書いているように、ヘブライ語では「裸であって」であり、「裸であったが」とはなっていません。つまり翻訳者には、裸は恥ずかしいはずだという前提がやはりあるわけです。ヘブライ語文は、「裸」の状態を性的恥辱と結びつけてはおらず、隠し事のない本来の姿として肯定的に描いているように読めます。
文屋 善明 辻さん、ありがとう。「がる」を広辞苑で調べると、第1の説明として「~のように思う」、第2の意味として「~のふりをする」と説明されています。ヘブライ語のニュアンスは分かりませんが、事実として夫と妻とは「裸であった」が「恥ずかしくなかった」ということであり、その意味では「振りをする」とか「そのように振る舞う」という意味は込められていません。つまり、夫婦という関係において、他の関係とは全く異なる驚き、親にたいしても、兄弟に対しても、本来なら恥ずかしいはずなのに、夫婦においては恥ずかしくなかったという関係。さらに突っ込むなら、ここに初めて裸になっても恥ずかしくない相手と出会ったという驚きが込められていると思う。従って、その事実だけを言葉にすればいいのに、わざわざ「振りをした」とか「振る舞った」という意味を含む訳語にしたのかということが問題なのです。もし、ヘブライ語にそういう意味が込められているとしたら、口語訳も、フランシスコ訳も訳し不足であるし、逆ににヘブライ語にそういう意味がないのにそれを含めたとしてら新共同訳の訳者は、ご自分の経験ないしは価値観を持ち込んでいるということになります。
福岡工業大学付属城東高校のバザー (写真22枚)
福岡の孫息子の高校のバザーに出かけてきました。とても賑やかで老人には堪えました。とりあえず、校内を少し歩いて、孫息子が焼いた「福島県浪江町の特製お好み焼きを買って来ました。キャベツともやしをふんだんに使用し、浪江焼きそばのソースを使った3年7組のオリジナルなお好み焼きとのことです。
大野 泰男さん、金丸 勝彦さん、野間 悦三さん、他28人が「いいね!」と言っています。
木下 海龍 おじい様はお元気ですね!!!
<補遺>
特になし。
野間 悦三さん、村田 多鶴子さん、こーる のりこさん、他21人が「いいね!」と言っています。
萩野 秀子 へりくだり祈る心大切だと思います。雨の予定ですが熱中症に気をつけて水分補給、帽子、傘、サングラスをかけて頑張って下さい。良き日となりますように。お祈り致します。
posted at 04:47:04
今日の名言:RT @wisesaw:
悪の定義は人それぞれに違うし状況で変わってくるけど、“他人を踏み台にする人”、これは絶対に、 誰が何と言おうと悪だと思う 。(荒木 飛呂彦)
<一言>漫画家、代表作は「ジョジョの奇妙な冒険。何か変わった人らしい。でも、この言葉はまともすぎるほどまとも。
野間 悦三さん、望月 克仁さん、富永浩さん、他18人が「いいね!」と言っています。
加藤 佑三 現実は、他人(部下・上司・外注・女性)や物(動植物や生活用品)を犠牲にして、利用して生きて来ました。これも「踏み台」ですね。生きていること自体が悪ですね。悔い改めようとしても、その事実は消えません。特に「女性」・「身障者・高齢者」「年下の者」「外見の良くない人」「お笑い芸人」等に対しては、今でも・・・。
posted at 06:00:47
6月15日
文屋善明@ybunya
「昨日のツイート 06/14」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/ca664806c42f460e926df169699f191…
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日々の聖句2013 06月15日(土)
神よ。あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れる方です。(ネヘミヤ9:17)
わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。(ルカ11:4)
私の黙想:
神をこのように思ってしまうことはよくない。神を「罪を赦す方」と考えてしまうことは正しくない。神は正しい方で悪を赦さない方だと思うことの方が正常である。だから、神に対してこのように呼びかけることは異常なことであり、特別なことなのである。特別なことが、普通のことのように語られると、福音が福音でなくなる。福音主義をあまりにも協調しすぎると福音が普通のこととなり、当たり前のこととなり、神は悪を赦さないという神と人間とのゼロ点が隠れてしまう。罪を赦さないという神の前で、罪を赦された人間は神のように振る舞うことはできない。王から1万タラントンの借金を棒引きにされた家来は、百デナリオンを貸している友人に借金の返済を迫ることはできない(筈である)。
野間 悦三さん、大野 泰男さん、丸山 順子さん、他26人が「いいね!」と言っています。
萩野 秀子 神様は正しい人の味方であり良き方法で罪を分からし導いて下さると思います。
お目覚めの花。「おはよ~!」「お早うございます」「Good morning!」「久しぶりの雨だ。うれしいね」「万物が生きかえるね」「そうだ、人間も元気を出さねば」。
塩谷 常吉さん、野間 悦三さん、松永 健治さん、他30人が「いいね!」と言っています。
細野 清明 Selamat pagi .気品が漂ういい色だぁ~Bagus!\(^o^)/ 今起きました…(^^ゞ今日は、お休みなので、時間を気にすることなくゆっくり過ごしたいと思いってます。
結婚式の「小説教」の準備をしていて、創世記2章25節の「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とい訳語にぶっつかって、ハタと困ってしまいました。なぜ、普通に「恥ずかしいとは思わなかった」と訳さないのだろう。「がりはしなかった」とはどういう意味だろうか。日本語の「がり」とは何か。これでは新共同訳は結婚式では使えないね。
野間 悦三さん、松永 健治さん、野口 富隆さん、他26人が「いいね!」と言っています。
辻 学 「がる」には、そのように振舞う、そのようなふりをする、という意味があるので、心の中では恥ずかしいと思っていたかもしれないが、素振りには出さなかった、というニュアンスが込められているのかもしれません。つまり翻訳者は、裸は恥ずかしいという前提を自分が持っているので、「人と妻」も心の中では恥ずかしいと思っていたはずだと(意識的にか無意識的にか)考えて、こういう訳にしたんじゃないかと推測したくなります。また、月本昭男先生(『創世記Ⅰ』)も書いているように、ヘブライ語では「裸であって」であり、「裸であったが」とはなっていません。つまり翻訳者には、裸は恥ずかしいはずだという前提がやはりあるわけです。ヘブライ語文は、「裸」の状態を性的恥辱と結びつけてはおらず、隠し事のない本来の姿として肯定的に描いているように読めます。
文屋 善明 辻さん、ありがとう。「がる」を広辞苑で調べると、第1の説明として「~のように思う」、第2の意味として「~のふりをする」と説明されています。ヘブライ語のニュアンスは分かりませんが、事実として夫と妻とは「裸であった」が「恥ずかしくなかった」ということであり、その意味では「振りをする」とか「そのように振る舞う」という意味は込められていません。つまり、夫婦という関係において、他の関係とは全く異なる驚き、親にたいしても、兄弟に対しても、本来なら恥ずかしいはずなのに、夫婦においては恥ずかしくなかったという関係。さらに突っ込むなら、ここに初めて裸になっても恥ずかしくない相手と出会ったという驚きが込められていると思う。従って、その事実だけを言葉にすればいいのに、わざわざ「振りをした」とか「振る舞った」という意味を含む訳語にしたのかということが問題なのです。もし、ヘブライ語にそういう意味が込められているとしたら、口語訳も、フランシスコ訳も訳し不足であるし、逆ににヘブライ語にそういう意味がないのにそれを含めたとしてら新共同訳の訳者は、ご自分の経験ないしは価値観を持ち込んでいるということになります。
福岡工業大学付属城東高校のバザー (写真22枚)
福岡の孫息子の高校のバザーに出かけてきました。とても賑やかで老人には堪えました。とりあえず、校内を少し歩いて、孫息子が焼いた「福島県浪江町の特製お好み焼きを買って来ました。キャベツともやしをふんだんに使用し、浪江焼きそばのソースを使った3年7組のオリジナルなお好み焼きとのことです。
大野 泰男さん、金丸 勝彦さん、野間 悦三さん、他28人が「いいね!」と言っています。
木下 海龍 おじい様はお元気ですね!!!
<補遺>
特になし。