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断想:復活節第2主日の福音書

2016-04-02 10:59:18 | 説教
断想:復活節第2主日の福音書
十字架、復活、その後で  ヨハネ20:19~31

1. イースターの経験
復活節第2主日の福音書のテキストは毎年、この個所が読まれる。何故だろうかと、考えてみると福音書の中でイースターの次の日曜日の記事はここしかない。その意味で、ここは意味深い。
先主日、わたしたちはイースターを祝った。一般に言えることであるが、私たちが驚くべき経験をした場合、その経験はその場では「どういう事が起こっているのか」、その当事者には分からないものである。ただ右往左往するだけである。大災害、交通事故、人間関係でも同じことである。むしろ、その出来事や経験は「後になって、ぞーとする」、あるいは「心の奥底から、喜びがわきあがって来る」。これが本当に「驚くべき経験」である。このテキストはイースター後の弟子たちのイースター経験が述べられている。イースターとは、弟子たちにとってどういう経験であったのか。

2. 経験ということ
経験とは、ただそれを見たとか聞いたということではない。それは感覚の次元のことである。経験するということは、見たり聞いたりした人が、それは何かということを認識するということによって成立する。ただ見たり,聞いたりするだけでは意識の中に留まらない。「純粋経験」という言葉がある。日本を代表する西田哲学のキイワードでもある。 西田哲学の出発点となった『善の研究』の冒頭で、次のように述べられている。
<経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。>(岩波文庫版、13頁)
純粋経験とは事柄を主観的な操作とか前提をすべて排除して、その事柄そのものを直接に知るということである。例えば、色を見てもそれが何色であるとか、音を聞いてもそれが何の音かなどという判断を加える前の経験、さらにはその経験が外から来るものなのか、私はそれを感じているとかという判断さえしないということを意味している。その意味では純粋経験とは直接経験と同じことを意味している。そこにはそれを見ているという主観も、あるいは主観の対象になっている客観もないし、知っているということと知られているということとが完全に一体化している。それが純粋経験である。
その意味では西田先生のいう「純粋経験」とは現実にはあり得ない事柄で、重要なことは西田哲学においては「純粋経験」を探求することではなく、「純粋経験」を作業仮説として措定し、それを踏み台にして主観とか客観という認識の構造を探求することにある。
さて、一般に経験するということは直接経験とそれについての反省とが結びついて成立する。あの経験は何だったのかということを思い出し、いろいろな知識や今までに経験したことを総合した上であの経験とは、どういうものであったのかという認識が成り立つ。とくに、その経験が今まで経験したことがないような場合、あるいは主観の想像を絶するような場合には、経験したときからそれを認識するまでにかなりの時間を要する。
イエスの復活という出来事において弟子たちが直接に経験したことがどういうことであったのかということについては、もはや私たちには知り得ない。ただ、私たちが知ることができるのは弟子たちがその経験をどういうことであったのかという報告ないしは証言である。福音書に描かれているイエスの顕現物語はそのようにして語られたものである。

3. 弟子たちの見たもの
復活したイエスとの出会いにおいて弟子たちが経験したことをルカとヨハネとは3つあげている。1つは復活のイエスが弟子たちの真ん中に立たれたこと。第2は復活のイエスは「あなた方に平和があるように」と言われたということ。第3は、ルカは「手と足」、ヨハネは「手と脇腹」という違いはあるが、ご自分の身体を「お見せになったこと」である。これら3つの経験を通して、ヨハネは「弟子たちは、主を見て喜んだ」(Jh.20:20)といい、ルカは「喜びのあまり信じられなかった」(Lk.24:41)と逆説的な表現をする。これらのことが復活のイエスの顕現に関する弟子たちの証言である。残念ながら、マルコおよびマタイにはこの種の経験は述べられず、マタイは墓からの帰路、婦人たちが復活のイエスにであったという記録があるが、信憑性は低い。もっと後になると、これにイエスが魚を食べるという要素も加わる(Lk.24:42、Jh.21:13)がかなり神話的である。同様に、ヨハネだけが伝えるマグダラのマリアへの顕現物語(Jh.20:11~18)、およびルカだけが伝えるエマオへの途上でのイエスの顕現物語(Lk.24:13~35)もそれぞれ重要な記事ではあるが、神話的要素がかなり強い。
ここではルカとヨハネが語るイエスの顕現物語を中心にして弟子たちが語る復活という出来事にもう少し迫りたいと思う。ただ、ここで1つ言い添えておきたいことは、パウロは復活ということについて語る際に、「ケファに現れ」から始まり「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(1Cor.15:5~8)と同じ復活経験として語っているが、そこには大きなギャップがある。にもかかわらずパウロはペトロに対する復活のイエスの顕現と同列に語っている。

4. 弟子たちの真ん中に立つイエス
鍵が掛けられた部屋の中で、弟子たちは彼らの「真ん中に立つ」イエスを見た。先ず、どのようにしてイエスはその部屋に入ったのかということを弟子たちは問題にしていない。また「真ん中」とはどういう位置なのかということも語られない。これはいったいどういうことか。つまり、この「真ん中」とは具体的、物理的な位置関係ではない。その時の弟子たちがかかえている深刻な問題の真ん中、不安の真ん中、敗れそうな弟子たちの真ん中を意味する。復活のイエスが立つ位置とは、まさにそういう位置である。そして「平和があるように」と語る者として弟子たちの間に存在する。

5. 平和があるように
復活のイエスは不安の中にある弟子たちの真ん中に立ち「平和があるように」と語る。そこがイエスの立つべき位置であり、そこから語るメッセージが「平安」である。この「平和があるように」といういわばありふれた挨拶の言葉を軽く考えないで欲しい。ユダヤ人の通常の挨拶の言葉「シャローム」と同レベルに考えないで欲しい。
ここで思い出して欲しい。十字架にかかる直前、イエスと弟子たちとの最後の晩餐におけるイエスの最後の言葉はこうであった。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(Jh.16:33)。ここに、この世におけるイエスと復活のイエスとの連続性がある。

6. 復活の身体
第3に注目すべきことは、その時イエスは手とわき腹とを「お見せになった」ということである。しかも弟子たちはそれを「見て喜んだ」とある。一体これはどういうことであろう。イエスの「手とわき腹」とは、イエスの苦しみそのものを象徴する。弟子たちはそれを見て喜んだということは異常である。そんなものを見て喜ぶことは出来ない。まさに、それはイエスの苦しみが意味することぬきでは、グロテスク以外の何ものでもない。その苦しみが「わたしたちの救い」の根拠として信じることなしに、他人の苦しみを喜ぶということは異常である。従って、「手とわき腹とをお見せになった」という証言(叙述)は、十字架を復活に結びつける理解(神学的理解)が成立していなければ言えないことである。
さらに、これに関連して「復活の身体」というかなりややこしい問題がある。もちろん、この問題は生物学的身体という視点からは解けない。この原始教会における「身体の復活という思想」には非常に難しい問題が横たわっている。復活信仰を最も難しくしていると言ってもいいであろう。
田川建三さんが『キリスト教思想への招待』(勁草書房)の「創造信仰」について論じる章で、「肉体の復活」について面白いことを論じている。「実は、古代のキリスト教が復活信仰をその信仰箇条の中に書き込んだ時に、特に注意して「肉の」という語を付け加えたのは、「グノーシス主義」をはじめとする二元論の思想に対する批判の姿勢があったからである。確かに、終末時には我々はそれぞれこの肉体をもって復活するのだ、なんぞと言われれば、現代の読者はちゃちな迷信だとお思いになるだろうが、それが、いま生きている我々の生を考える時に、この肉体、この物質的存在、この物質世界、この自然世界の全体を良きものとして肯定する姿勢の延長線上にある、という点は認識しておく必要がある」(63頁)。
つまり、身体の復活という主張の背後にはグノーシス主義に対する批判があった。逆に言うと、キリスト教における復活信仰に対してグノーシス主義者からの強い批判があったのであろう。批判というよりも、グノーシス主義者側においてイエスの復活について一種の合理的説明がなされたのであろう。原始教会における神学思想の発展はグノーシスとの論争を抜きには論じられない。

7. 聖霊を受けなさい
この文脈に21節~23節の文章が挿入されているのは非常に重要である。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」。
この文章は復活のイエスの顕現と弟子たちの宣教への派遣とが表裏の関係にあることを述べている。マタイ福音書ではこの出来事こそ復活のイエスの顕現、つまり「ガリラヤで会う」という出来事とされている(Mt.28:16~20)。この出来事において、ペトロたちイエスの直弟子たちの復活経験とパウロの復活経験とは結びつく。非常に重要な文脈であるが、今回は取り上げない。

8. トマスの登場の意味
この文脈において24節のトマス登場の出来事は非常に意味深い。とくに、復活について「見ないで信じる」ということは、生前のイエスを知らない世代のキリスト者たちの復活信仰の根拠となる。その代表がパウロである。パウロのダマスコ途上での出来事(Act.9:1~9)は「見て信じた」のか「見ないで信じた」のか。わたしたち現在の信徒たちはイエスの復活をどのようにして経験しているのか、イエスの十字架後60年を経た、紀元90年代に書かれたヨハネ福音書としては非常に重要なメッセージであったと思われる。

9. 聖餐式の奥義
ここではっきり言いましょう。イエスが弟子たちの「真ん中に立ち」、自らの苦しみをさらけ出し、それを見て弟子たちは喜んだという出来事は、聖餐式以外の何モノでもないということである。聖公会の祈祷書では聖餐式の際の冒頭の言葉は「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現わされたように、わたしたちのうちにもお臨み下さい」という言葉である。聖餐式とはイエスの復活の身体に直接に触れる体験そのもの、厳密に言うと、その追体験である。美しい聖堂と教会によっては美しいステンドグラスと美しい音楽、洗練された司祭の仕草と、物々しい伝統的な祭服によって飾られているが、その中身はイエスの十字架上での苦しみの象徴である肉体そのものに触れるということである。

10. 見ないで信じる
さて、もう少しこの点にこだわって、この物語を読むと、実は弟子たちは触れと言われながら、触っていない。恐れ多くて触れないというのが真相であろうが、これが「見ないで信じる」ということを意味している。復活されたイエスを前にして、弟子たちは見て、触って、信じたのだろうか。おそらく、ここではイエスの圧倒的な存在感により、「見て信じる」ということと、「見ないで信じる」ということの区別がもはや出来ない。私たちは、聖餐式において一枚のウエハーをイエス・キリストの肉として、舌先に触れるワインをイエス・キリストの血としていただく。これは見たことになるのだろうか。「見た」とも言えるし、「見ていない」とも言える。それがサクラメントの秘密(奥義)である。信じていない者にとっては、ただの物質にすぎないものが、信じる者にはキリストの体となり、血となる。
ついでに、もう一言付け加える。トマス以外の弟子たちの経験とトマスの経験との間が丁度1週間であったということは、非常に興味がある。この週日イエス・キリストはどの弟子たちにも現れていないということは注目の価値する。つまり主日ごとの聖餐式がかなり初期の段階から定着していたということの証拠である。弟子たちが復活のイエスとの出会うのは日曜日ごとの礼拝においてであった。否、むしろ弟子たちはごく初期の段階から、復活のイエス・キリストに触れるために日曜日ごとに、そのことを楽しみにして、必ず集まった。そして、その日曜日の経験が、次の言葉のエネルギーとなった。不安におののき、扉を堅く締めて、ひそかに集まっていた弟子たちが、勇ましく世に出て、キリストの福音を語る者となり、今日のキリスト教の礎となったエネルギーは、この聖餐式にあった。

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