ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:降臨節第3主日 2017.12.17

2017-12-15 06:00:11 | 説教
断想:降臨節第3主日 2017.12.17

知らない人   ヨハネ1:6~8、19~28

<テキスト、私訳>
ヨハネ1:6~8
ヨハネという人が証言者として神から派遣されました。彼は光について証言しそのことによって、すベての人が信じるためです。彼は光ではありません。光について証言するために神によって派遣されたのです。

ヨハネ1:19~28 第1日目 ユダヤ人たちとの対話 <1:19~28>

語り手:それでは早速、ヨハネの証言の実際を紹介いたしましょう。ある日のことエルサレムから祭司たちやレビ人たちがヨハネの所にやって来ました。どうやら、彼らはエルサレムのお偉方たち、その中心はファリサイ派の人々ですが、彼らから派遣されてきた調査員のようです。

調査員:あなたはキリストだという噂がありますが、そうなんですか。
ヨハネ:とんでもない。はっきり申し上げておきますが、私はキリストではありません。
調査員:それじゃ一体、あなたは何者なんですか。エリアの再来か、それとも「あの預言者」なんですか。
ヨハネ:いや違います。
調査員:それでは返事になりません。私たちは上司に報告しなければならないんです。ちゃんと報告できるような答えを頂けませんかね。
ヨハネ:そうですね。何と言ったら分かって貰えるかな。そうだ、私は預言者イザヤが言っているようなキリストの道を準備する荒れ野の声とでも言ったら分かって貰えますかね。
調査員:うーん、成る程。それが答えなんですね。そうだとすると少し変ですね。あなたはキリストでもない、エリヤでもない、あの預言者でもないのなら、なんで洗礼など施しているんでしょうかね。
ヨハネ:そんなことが問題なんですか。私は水で洗礼を授けていますが、これはキリストが来られたときに授けられる聖霊による洗礼の準備なんですよ。あなたが方はお気づきになっていないかも知れませんが、その方はもう既にあなた方の間に来ておられるんですよ。私はその方の靴の紐をほどく値打ちがないほど、その方は偉い方なんです。

語り手:彼らはそれで納得したのか、納得していないのか、帰って行きました。

<以上>

1.マルコ福音書とヨハネ福音書
B年の主日日課は主にマルコ福音書である(通常それで「マルコの年」と呼ばれる)が、年間で約3分の1回はヨハネ福音書から読まれる。
福音書は4つあるのに、3年周期ということで第4福音書、つまり「ヨハネ福音書の年」がないことになるが、実はヨハネ福音書と共観福音書とで扱われ方が異なるのである。
1年の主日日課はその年のカレンダーにより多少前後するので56回分が用意されている。それよよると、A年はマタイ福音書が43回、ヨハネ福音書が12回、ルカ福音書が1回で、B年はマルコ福音書が35回、ヨハネ福音書が18回、ルカ福音書が3回、C年はルカ福音書が45回、ヨハネ福音が10回、マタイ福音書が1回である。
B年の降臨節第3主日ではヨハネ福音書が読まれる。この主日はA年ではマタイ11:2~11、C年ではルカ3:7~18が読まれる。いずれも洗礼者ヨハネの記事であるが、マルコでは洗礼者ヨハネの記事が他の福音書と比較すると非常に短いのでヨハネ福音書が読まれるのであろう。
この主日は「主のための働き人」ということが主題であり、伝統的には「教役者の主日」と呼ばれ、この週の後半は冬期聖職按手節でこの期間に聖職按手式が行われる。

2. 洗礼者ヨハネ
本日の福音書のなかに、「あなたが方はお気づきになっていないかも知れませんが、その方はもう既にあなた方の間に来ておられるんですよ。私はその方の靴の紐をほどく値打ちがないほど、その方は偉い方なんです」という言葉がある。この言葉は、洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が、イエスを世間に初めて紹介したときの言葉であるとされている。ヨハネ福音書は洗礼者ヨハネがどういう人物で、何をしていたのかということについてほとんど何も語ろうとしていない。むしろ、語る必要がないほど、よく知られていたということであろう。ともかく、当時、多くの人々は洗礼者ヨハネこそが「来るべき救い主」であると思っていたようである。

2. 奇妙な紹介の言葉
ところで、この言葉は誰かを紹介する言葉としては、かなり奇妙である。「あなたが方はお気づきになっていないかも知れませんが、その方はもう既にあなた方の間に来ておられるんですよ」というのであるから、人々が驚いたのは当然である。自分たちの間に、自分たちが知らない人物がおり、それがキリストだ、というのである。今のこの瞬間まで、しかもこの場で、洗礼者ヨハネに熱い目を注いでいたその目を、今度は自分たちの方に向けなければならない。
私たちの間にいて、私たちの知らない人とは誰か。人々は周りを見回したことであろう。改めて、周りの人を見るとき、しかも私はこの人のことを知っているのか、と問いかけて見るとき、周りの人たちは、よく知っている様で、全く知らない。しかし、まさか彼がキリストとは思えない。その中には、大工のイエスも居たに違いない。彼のことならよく知ってる。彼の母親はマリアで、父親はヨセフ、ヨセフは大工でしたが、早く死に、息子イエスは父親の家業を継ぎ、母親と兄弟たちの面倒をよく見ている孝行息子である。しかし、まさか彼がキリストであるとは思えない。この言葉を聞いたときの人々の動揺は相当のものであったものと思われる。問題は、もはや他人事ではない。私自身の問題である。

3. 他人に対する関心
このヨハネのキリスト紹介の言葉は、まず何よりも私たちに、他人に対する、否、他人ではない、隣人に対する関心を呼び起こす。私たちはあまりにも隣人に対して関心が無さすぎるのではないか。どうでもよい様な表面的なことはよく知っているかもしれないが、噂話の種になる様なことにはそば耳を立てるのに、隣人の苦しみ、生きる闘い、心の悩みには気付かない。この様な私たちには、イエス・キリストが目の前にお立ちになっても、気がつかないであろう。キリストは私たちが「これがキリストだ」というように思っている姿・形で、私たちの前に立たれない。
福音書の中に、有名な「最後の審判の情景」(マタイ25:31~46)が記されている。イエスは審判者として、全ての人々を右と左にお分けになり、左にいる人々に向かって、「おまえたちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のときや、獄にいたとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」と、厳しい言葉を述べられた。それに対して、そう言われた人々は「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と反論する。そのとき、主は答えて言うであろう。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)。ここで語られているキリストの姿は、私たちの間に、私たちと共に生きている「最も小さい者」である。

4. 救い主と誰か
話を、もとに戻す。「あなたが方はお気づきになっていないかも知れませんが、その方はもう既にあなた方の間に来ておられるんですよ」と言われた人々は、自分たちの周りにキリスト探しを始めた。キリスト、つまり「救い主」とは、一体どういう方なのか。これはあなた方への問いでもある。「救い主」とはどういう御方なのか。これがはっきりしなければ、探しようがない。問題は、私たちは「救い主」を知らない、ということである。何か救われなければならない不安、虚しさ、問題性を感じながら、今の私の姿が、生き方が、これでいいのか、という問題を含みながら、それではどうなることが「救い」なのかということになると、はっきりしない。救い主がはっきりしないということは、言い換えると、自分自身が分からない、自分自身を知らないということにほかならない。

5. 「キリスト」とは何か、「誰がキリストか」
 さて、「あなたが方はお気づきになっていないかも知れませんが、その方はもう既にあなた方の間に来ておられるんですよ」という言葉を、繰り返し読み、黙想すると、ここから重要なメッセージが聞こえてくる。なぜ、洗礼者ヨハネはこんなにややこしいことを言ったのだろうか。洗礼者ヨハネは、この直後に(福音書では「翌日」ということになっている)、イエスを指さして「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(1:29)と叫んでいる。それなら、ここでそう言えばいいではないか。むしろ、ここでは29節の言葉とは違う意味で「キリスト」について語っているのではないだろうか。「あの人がキリストである」という答えは「誰がキリストなのか」という質問に対する答えである。それに対して、むしろここでは「キリストとは何か」という質問に対する答えが求められているのではなかろうか。

6. 「わたしのうちにいるキリスト」
解釈がかなり専門的になるので、結論だけを述べる。要するに、私の中に、心の中にと言ってもいい、のではないか。私の中に私の知らない人がいる。それが「私のキリスト」である。「キリスト」とは「私の中におられるキリスト」、私の「内なるキリスト」である。キリストを私の外に求めるのではなく、私の内側に求める。私の「内なるキリスト」は、あのナザレのイエスが「キリスト」であるという意味の「キリスト」と同じ「キリスト」である。「キリスト」は私たち一人ひとりの中にいる。イエスの弟子たちはイエスとの出会いの中でイエスの中に「キリスト」を発見した。それがイエスとの第1の出会いである。さらに、イエスとの共同生活を経て、イエスとの交わりの中で、私たちの経験からいうと、教会における交わりにおいて、私の中に「キリスト」を発見した。これが第2の出会いである。イエスの中の「キリスト」と私の中の「キリスト」において、私たちは「一つ」である。
このことについて、ヨハネ自身が残しているイエスの言葉を紹介しよう。
「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(ヨハネ17:21~23)。
キリストはすべての人の心の中におられる。クリスマスを迎えるこの季節、実は私たちは自分自身の「内なるキリスト」を整える季節である。「キリストのもとに来たれ」と語ることが伝道なのではなく、すべての人たちに対して、「あなたが方はお気づきになっていないかも知れませんが、その方はもう既にあなた方の間に来ておられるんですよ」、と語ることが伝道である。

《キリストよあなたはどこにおられるか、私の内にキリストが生く》

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