庭のヤマボウシの花が4月下旬から咲いています。緑の葉の中で爽やかな感じの花です。その花びらの上にとても小さなカマキリの子供が来ていました。以前にもこのようなとても小さなカマキリの子供が花の上に乗っかっているのを見ましたが、どのようにして上って来たのか、虫たちも健気です。
今日はヤマボウシの花にカマキリの子供とピンクのバラを紹介致します。
庭の「ヤマボウシの花にカマキリの子供」
庭に咲いている「バラ」
庭のヤマボウシの花が4月下旬から咲いています。緑の葉の中で爽やかな感じの花です。その花びらの上にとても小さなカマキリの子供が来ていました。以前にもこのようなとても小さなカマキリの子供が花の上に乗っかっているのを見ましたが、どのようにして上って来たのか、虫たちも健気です。
今日はヤマボウシの花にカマキリの子供とピンクのバラを紹介致します。
庭の「ヤマボウシの花にカマキリの子供」
庭に咲いている「バラ」
皆様方も毎日鏡の前に立ち、ご自分のお顔を観察されてこられたに違いありません。ご年配の方であれな、幼い時、青春時代、働き盛りの時代、子育て時代の顔がどのようであったかを思い起こすこともあるでしょう。あるいは、あと何年かするとどのように見えるだろうか、女性の方であれば化粧をすればどうなるだろうか、と思い浮かべることがあるかも知れません。このような考えは、ほとんど無意識にできているように思いますが、実に特別な事、どんな動物も経験出来ないような事柄が生じているのです。み言葉・聖書は日ごとにみ言葉を学び、その教えを守り行うように勧めています(ヨシュア1:8.詩編1:2,3.マタイ7:24,25)。神エホバの教えを熟考し、生活に適用するには、その教えを自分自身の心の座にしっかり留める必要があります(箴言4:23。私たちのくすしい脳はそのような働きをします。脳はくすしく造られた記憶装置、いやそれ以上のもでもあるのです。今日は「脳が比類のない記憶装置、いや、それ以上のもの!」であることを紹介致します。
もっぱらその場の必要に応じて生活したり行動したりする動物とは違い、人間は過去を思い返し、将来の物事を計画することが出来ます(ローマ15:4)。そのように行うことが出来る鍵となるのは、脳の持つほとんど無限の記憶容量です。確かに、動物にもある程度の記憶力があって、自分の巣に戻る道を見つけたり、食べ物のありかを思い起こしたり、飼い主がだれであるかを覚えています。しかし、人間の記憶力は、動物たちよりはるかに大きいのです。ある科学者は、わたしたちの脳は、「およそ2,000万冊、すなわち世界最大の図書館に収められているものに匹敵する数の本を満たすほどの」情報を収納することができる、と見積もっています。私たちの脳がそれほどの大容量の記憶装置であっても、脳は人間が行動するのに程よい大きさに造られていることに驚嘆されるに違いありません。平均的な寿命の間に人は脳の潜在的容量の1%の100分の1(0.0001)しか使っていない、と見積もっている神経科学者もいます。「普通の生涯中にごくわずかしか用いないのに、どうしてそれほど大きな容量の脳を持っているのだろうか」と思われることでしょう。その答えは聖書にあります。神エホバは私たちが永遠の命を楽しむようにくすしく創造されているのです(詩編139:14.ヨハネ3:16;17:3.啓示21:4;22:1,2)。
わたしたちの脳は、膨大量の情報をスーパーコンピューターのようにして蓄えられるというだけのことではありません。生物学の教授ロバート・オースティン氏とリチャード・F・トムソン氏はこう書いています。「人間の脳の学習能力、つまり情報を蓄えて、それをまた取り出せるということは、生物学の世界で最も注目すべき現象である。言語、思考、知識、文化など、我々を人間たらしめているものはいずれも、このずば抜けた能力による」。わたしたちの脳は、大容量の記憶装置、それ以上のものなのです。
人間には意識があります。このとことについて当然のこととお考えだったでしょうか。しかし、このことの中には、人間を間違いなく他とはっきり異なる存在しているものが集約されているものが集約されているのです。頭脳は、「知能、判断力、知覚、認識、自意識などの宿る、とらえ難い存在物」と呼ばれて来ました。大小の水路や河川が海に注ぎ込むように、多くの記憶、概念、映像、音響、感情が絶えず頭脳の中に流れ込み、あるいはそこを通過しています。ある定義で、意識とは、「人の心的内面を経過するものについての知覚」です。
今日の研究者たちは、人体内の脳の構造やその中で起きている電気化学的な過程をある程度理解する面で、進歩を遂げて来ました。研究者たちはまた、新鋭のコンピューターの電子回路やその機能を説明できます。しかし、人間の脳とコンピューターとの間には大きな隔たりがあります。あなたは脳によって自分についての意識を持ち、自分の存在に気付いています。コンピューターは決してそれを行いません。どこに違いがあるのでしょうか。
率直のところ、わたしたちの脳の中での理学的な過程から、なぜ、またどのように意識が生じているのかはなぞとなっています。「どんな科学にせよ、それ(どのようにして意識が生じているのか)をどのように説明できるか、私には分からない」と、ある神経生物学者は述べています。また、ジェームズ・トレフィル教授はこう述べました。「人に意識があることが正確に何を意味するかということ、・・・これは、種々の科学の中で、我々がどのように問い尋ねたらよいかすら分からない唯一の大きな疑問である」。こう言われる理由の一つは、科学者たちは脳を理解するためにその脳を使っている、という点にあります。そして、ただ脳の生理機能を調べるだけでは十分には解決できないでしょう。デービット・チャマーズ博士は、意識は、「存在をめぐる最も深遠ななぞの一つ」であるとし、「脳に関する知識だけでは(科学者たちは)その核心に到達できないであろう」と述べています。
それでも、私たちは自分が意識を持っていることを知っています。例えば、過去の出来事についての鮮明な記憶は、コンピューター上の情報断片集のような、単なる事実の蓄積ではありません。私たちは、自分の経験を回顧し、そこから教訓をくみ取り、それを用いて前途の方向づけをすることが出来ます。将来のためにいくつかの幾つかの筋立てを考え、それぞれについて起きえる結果を見定めることもできます。物事を分析し、創造し、評価し、愛する能力があります。過去、現在、未来について楽しく語り合うことができます。行動に関する倫理上の価値観を持ち、それを当てはめてすぐに、あるいは後に益になる判断をすることもできます。さらに、芸術や徳義上の美しさに引き付けられます。自分の思いの中で考えをまとめ、練り上げ、それを実行した時に他の人がどのように反応するかを推し量ることが出来ます。ですから、み言葉・聖書は学んだ事柄に思いを巡らし、熟考し、ご意志に沿って適用する「思慮深い人」となるように促しています(詩編1:2,3.マタイ7:24,25)。
上に述べた要素が人間各自の持つ自意識を生み出し、地上の他の生物とは異ならせています。人間はくすしく「神の像(かたち)」に創造されています(詩編139:14.創世記1:26,27)。犬や猫や小鳥は、鏡の中をのぞいても、同類のものを見ているように反応します。しかしあなたは、鏡を見る時、ここで述べたような能力を備えた者として、自分自身を意識します。中には、「150年も生きる亀、1,000年以上も生きる樹木もあるのになぜだろう」といぶかったりする人もいらっしゃることでしょう。リチャード・レスタク博士はこう述べています。「人間の脳は、そしてただ人間の脳だけが、振り返って自らの作業を調べなおす能力を持ち、こうしてかなり卓越した事柄を成し遂げもする。事実、自分の台本を自分で書き換え、世界における自分を自ら定義し直すという能力は、世界の他のすべての生き物から我々を明確に区別するものなのである」。
人間の持つ意識は、ある人々を当惑させています。「上がりゆく生命」(Life Ascending)という本は、単なる生物学的な説明を好みながらも、このように説明しています。「負ければ恐ろしい罰則のある運試しゲームにも似た過程(進化)から、美や真実さへの愛、他への思いやり、自律性、なかんずく拡張性の高い人間精神といった特質がどのようにして生じて来たのかを考えると、当惑させられる。我々の精神機能について考察すればするほど、我々の驚異の念は深まる」。その通りです。それで、人間がくすしく創造されているこのとの締めくくりとして、人間の意識関係に関係する二、三の例を明日以降に引き続き紹介致します。多くの心の純粋な人たちは、み言葉を調べ、かつ正確な科学情報を考察し、それらの証拠に基づき、人間のことを深く気遣う理知ある設計者、すなわち偉大な創造者エホバがおられることを確信するようになりました(マタイ5:8)。
私たちの体は「畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られている」のは、理知ある設計者の「あなたの書」・エホバ神の設計書に基づくものであることを簡潔に記している、み言葉の正しさを理解し、唯一まことの神エホバに深く感謝し、栄光と賛美を帰される方々は幸いです(詩編139:14,16.ヨハネ17:3.啓示4:11)。高度で緻密なものが偶然に生じることはなく、まして、愛や公正(義)や知恵や力を調和よく用いる能力は進化論とは180度異なるエホバ神によって備えられたものなのです。
庭に舞う 蝶忙しく 飛び去りぬ 今日の一句
鉢植えの「ひまわり」