神が宿るところ

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駿河国の古代東海道(その9・蒲原駅)

2011-08-30 23:19:43 | 古道
古代東海道は、安倍川を越えて興津までは静清平野を一直線に横切って進んでいたことが明らかになったが、その先のルートは、実は良く判っていない。ともあれ、薩埵峠(あるいは岫崎)を過ぎて、由比の先に、次の駅家「蒲原」駅があったと考えられる。
「日本三代実録」貞観6年(864年)の条に、「駿河郡には横走、永倉、柏原の3つの駅家があるが、地元民の負担が重いので、申請により柏原駅を廃止して、富士郡の蒲原駅を富士川の東岸に移した。これによって、永倉駅までの駅間の距離が平均化され、地元民の負担が軽くなった。」(意訳)とある。したがって、延喜式(延長5年:927年完成)の「蒲原」駅は、既に移転後のものを指す(延喜式に「柏原」駅の名がないのも同様の理由である。)。
では、移転前の「蒲原」駅家はどこにあったか。現在も静岡市清水区蒲原(旧・庵原郡蒲原町)という遺称地があり、鎌倉時代以降「蒲原宿」として栄えたところである。「蒲原宿」は、元は、現在のJR東海道本線「新蒲原」駅の南側にあったが、富士川の氾濫等により、同駅の北側に移転したとされる。なお、JR東海道本線には「蒲原」駅もあるが、駅設置時の諸事情によって、最初に宿場から離れたところに「蒲原」駅ができ、後から宿場中心部に近い場所に「新蒲原」駅が置かれたもので、少しややこしい。閑話休題、移転前の「蒲原」駅は、①上記の「三代実録」の記事によれば、移転前には富士川の西側にあったと思われること、②「蒲原」という遺称地が今もあること、③「息津」駅の想定地から(原則的な駅間の距離である)約16kmの場所にあることなどから、中世蒲原宿付近が最有力だが、遺跡等は発見されていない。このため、異説も多い。富士川の現在の河口は、江戸時代初期に築造された「雁堤」によって、かなり西側に移されたと考えられること、「和名類聚抄」(平安時代中期)によれば、廬原郡と富士郡の両方に「蒲原郷」があることなどから、中世蒲原宿よりも東に(ひょっとすると、現在の富士川の東岸に)あったと考える人もいるようだ。
一方、移転先の「蒲原」駅がどこにあったか、これも諸説あって一定しない。現在の富士市本市場付近というのが有力だが、これも特に根拠があってのことではないようだ。「吾妻鏡」治承4年(1180年)の条によると、源頼朝軍が「賀嶋」に到達したのに対し、平維盛軍は富士川西岸に陣取ったとされているので、平安時代末には「賀嶋」=旧・加島村、現・富士市本市場が富士川東岸にあり、かつ布陣に適した場所であったものと考えられる。こうしたことから、この辺りに、移転後の「蒲原」駅があったのではないか、と考えられているようである。
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