神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

下谷貝長者池遺跡

2024-05-25 23:32:38 | 史跡・文化財
下谷貝長者池遺跡(しもやがいちょうじゃいけいせき)。通称:谷貝廃寺跡。
場所:茨城県桜川市真壁町下谷貝2434。茨城県道7号線(石岡筑西線)と同148号線(奥山田岩瀬線)の「細芝」交差点から7号線を東へ約550mで左折(北へ)すると、「長者池」に突き当たるので左折して(右折でも同じ。)、「長者池揚水機場」の北側に回り込む。狭い道路を北へ約110m進んで丁字路の突き当りになるが、未舗装の道が北に続いており、その先の左側一帯と思われる。駐車場なし。
旧・真壁町内において古代瓦の散布がみられる場所として、「谷貝廃寺跡」、「源法寺廃寺跡」、「山尾権現山廃寺跡」などがある。このうち、「山尾権現山廃寺跡」は、真壁町山尾の「権現山」(標高396m)の中腹にあって、金堂・塔跡の基壇や礎石なども発見されており、古代(平安時代)の山岳寺院跡であることがほぼ確実とされる。一方、「谷貝廃寺跡」と「源法寺廃寺跡」は平地にあって、いずれかが古代の「白壁(真壁)郡家」に付属する郡寺であるとみられている。「常陸国風土記」(奈良時代初期)には白壁郡に関する記述が失われているが、新治郡の条に「南に白壁郡がある」(現代語訳)とあり、「和名類聚抄」(平安時代中期)の郡名に「真壁」、読みが「万加倍(まかべ)」とある。白壁郡から真壁郡への変更は、「続日本紀」の延暦4年(785年)の記事によれば、第49代・光仁天皇の諱・白壁王に遠慮して変更したものとされる。白壁郡の建郡時期は不明だが、7世紀後半頃に新治郡から独立したものとみられている(以下、「真壁郡」で統一して記述する。)。真壁郡の郡家の場所は未確定だが、「谷貝廃寺跡」を郡寺とみて、その付近に郡家もあっただろうと考えられている(そのために、「谷貝廃寺跡」のみではなく、より広く「下谷貝長者池遺跡」という呼称が使われるようになったようだ。)。「谷貝廃寺跡」で採取された瓦には、新治郡の郡寺とされる「新治廃寺跡」(2018年8月11日記事)の瓦と同笵(同じ型で製作)や同文のものがあり、あるいは「新治廃寺跡」と同じ製瓦所から供給されたものかもしれないという。真壁郡が新治郡から分離・独立したとされることから、新治郡の強い影響下にあり(郡司が同族?)、新治郡家と新治(廃)寺の関係に倣って真壁郡でも郡家・郡寺が建てられたと考えるのが自然だろう。また、「谷貝廃寺跡」の東に「小栗道」という中世街道(いわゆる鎌倉街道)が現・筑西市小栗から南(やや南東)に向かって走っており、これが古代の「伝路」(郡家の間を結ぶ古代官道)だったとみられている。因みに、その「伝路」は桜川の渡河地点付近で二手に分かれ、①南東に進む道は、現・石岡市小幡へ出て、そこから東に進めば「常陸国府」(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)・「茨城郡家」(「外城遺跡」(2023年12月2日記事))に至る、②南に進む道は、筑波山の南麓の「筑波郡家」(「平沢官衙遺跡」(2020年12月12日記事))、更に南に進めば「河内郡家」(「金田官衙遺跡」(2021年4月17日記事))に至る、というものだったと考えられる。そして、「谷貝廃寺跡」付近は、「駅伝長者」という長者の屋敷跡であったとの伝承がある。長者屋敷は広さ1万数千坪といい、「長者池」は屋敷の池だったので、その名があるという。また、かつては、松林の中に深さ6尺(約1.8m)くらいある長い堀跡が残っていたとされる。時期不明だが、長者は足利時代頃の人で、名は谷貝入道範助であったとも伝えられている(仲田安夫編著「真壁町の昔ばなし」ほかによる。)。ちょっと時代が下るので、この長者が古代の郡司や駅長の後裔かどうかはわからないが、他の郡家・駅家の推定地で長者伝説が多いのも確かである。
一方、「谷貝廃寺跡」から南に約2km(直線距離)のところにある「源法寺廃寺跡」を「真壁郡家跡」とする説もある。こちらは、桜川の右岸(北岸)、台地の端に位置しているところから、古代の税の中心である米の集散を行うのに桜川の水運を利用したとすれば、川岸に官衙施設(特に正倉など)を設置するのが便利であるとする。そして、「源法寺廃寺跡」と称しているが、古代瓦の採取が比較的少ないことから、廃寺跡ではなく、官衙跡ではないか、というものである。なお、こちらも「小栗道」が東側に通っている。因みに、「源法寺廃寺跡」で採取された古代瓦には、「谷貝廃寺跡」と同笵のものもある。ただし、それは、蓮華文が複弁から単弁になるなど簡略化されていて、同じ8世紀頃のものではあるが、「谷貝廃寺跡」より後のもので、あるいは真壁郡内で製作された瓦かもしれないとされている。このことをどう解釈するか難しいところで、いずれにせよ、発掘調査等を行ってみないことには結論が出せない、ということのようである。


写真1:「長者池」。奥の赤い建物が「長者池揚水機場」。平成4年度から利用開始となり、農業用水のほか、防火用水としても使われているとのこと。
写真

写真2:「下谷貝長者池遺跡(谷貝廃寺跡)」。範囲がよくわからないが、この未舗装道路の左側(西側)の奥の一帯と思われる。なお、右側(東側)は低くなっていて、堀跡? 又は池の一部だったような感じである。


写真3:現状、畑の土塁や石積みもあるが、これは最近のものだろう。


写真4:同上


写真5:「源法寺廃寺跡」(場所:桜川市真壁町源法寺1016。茨城県道131号線(下妻真壁線)「塙世」交差点から南西へ約1.7km。「筑波滝の山共同墓地」という墓地があるが、その北東辺り。ただし、その墓地からは道はなく、手前の自動車整備工場の向かい側から入る道がある。)。今も石造物(石仏、石塔など)があり、そこが中心のようである。なお、奥に筑波山が見える。


写真6:同上、現在ある小さな墓地。石仏など。


写真7:同上、無縫塔(卵塔)など。


写真8:同上、ある資料によれば、廃寺の礎石らしきものがあるとのことだが、これがそうだろうか?
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宮山石倉遺跡

2024-05-18 23:34:23 | 磐座
宮山石倉遺跡(みややまいしくらいせき)。
場所:茨城県筑西市宮山496。「宮山ふるさとふれあい公園」内にあり、宮山観音古墳(前項)の括れ部分を切断して通る参道を北西約160m進むと「鹿島神社」があり、その背後(北側)にある。
「宮山石倉遺跡」は、南北70m×東西30mの範囲内に巨大な岩が積み上げられたような状態となっているもので、標高48mは旧・明野町で最も高いところという。ただし、「いばらきデジタルまっぷ」に「遺跡」として掲載されているものの、遺物の散布はなく、性格・時代とも不明とされている。したがって、これを「磐座」(岩を祭祀対象または祭祀の場所とするもの)というのにはやや躊躇するところがあるのだが、「鹿島神社」の背後(北側)にある、ということは、社殿を通してこの岩山を拝礼していたと考えられるのではないか、と思う。また、頂上にある平らな石は「弘法の硯石」と称して、弘法大師(空海)が墨を擦ったという謂れがあり、いかなる渇水期でも水が涸れず、この水で墨を擦って習字をすれば字がうまくなるという伝説がある。何より、この遺跡の威容をみれば、「磐座」認定しても良いという気持ちになる。因みに、「石倉」というのは当地の地名(小字)である。
なお、「鹿島神社」の創立は、社伝では不明としているが、伝承によれば、第33代・推古天皇20年、中臣御食子(中臣(藤原)鎌足の父)が東国下向の折、常陸国一宮「鹿島神宮」に参拝し、夢告により当地に勧請したという。そして、弘法大師(空海)が当地で7日7晩の護摩行を行ったところ、1人の翁が現れたが、それが鹿島明神であった。また、現・筑西市猫島が平安時代の陰陽師・安倍晴明の生誕地であるとの伝承を踏まえ(「宮山観音堂」(前々項)参照)、阿倍仲麻呂が当地に居住していた頃、当神社を尊崇し、晴明が後年出世したのも当神社の神徳による、とされる。晴明は移動に舟を利用しており、当神社の近くに「晴明船繋ぎの柳」というものがあったともいう。等々、他にも色々と面白い話があるのだが、これらはどうやら「鹿島神社」及び「宮山観音堂」の別当だった「宝宮山 無量寺」の権威付けのために作られた話のようである。


写真1:「鹿島神社」拝殿


写真2:同上、本殿(覆屋)。祭神:武甕槌命


写真3:境内社「駒形神社」


写真4:「宮山石倉遺跡」。「鹿島神社」の背後(北側)にある。


写真5:同上


写真6:同上


写真7:同上、頂上にある平らな「弘法の硯石」。写真左手に尖った立石が見えるが、これが人工的に立てたものなら、全体が「磐座」らしい感じに近づく。


写真8:同上。東側は崖になっている。かなり高低差があり、見学時には注意が必要。


写真9:同上
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宮山観音古墳(茨城県筑西市)

2024-05-11 23:33:10 | 古墳
宮山観音古墳(みややまかんのんこふん)。
場所:「宮山ふるさとふれあい公園」内、「宮山観音堂」(前項)の背後(北側)に後円部がある。
旧・茨城県明野町の「宮山古墳群」は1基の前方後円墳と5基の円墳からなるが、そのうち前方後円墳は「宮山観音古墳」と称され、桜川支流・観音川の左岸(東岸)の台地上にある復元墳丘長約92m、後円部径約45m・高さ約6m、前方部長約47m・幅約40m・高さ約3.7mという大型古墳で、旧・明野町で発見された前方後円墳3基のうち最大のものとみられる。前方部は南西向きだが、中央の括れ部は北側にある「鹿島神社」の参道によって切り通され、前方部と後円部が分かれてしまっている。また、後円部の南側の一部が「宮山観音堂」のために一部削平されているが、それ以外は比較的良好に保存されている。発掘調査等が行われていないため詳細は不明だが、古墳の形状等から、5世紀後半頃の築造と推定されている。葺石・埴輪等は発見されておらず、かつて古墳付近で武人の土偶が出土したと伝わるが、現物は残っていないようである。ただし、古墳が存在する台地の北・西・南側は水田(古くは湖沼や低湿地?)で、古墳の周囲からは縄文時代から平安時代までの土器・土師器・須恵器などが多く見つかっているとのことで、台地上に縄文時代から集落が営まれていたようである。


写真1:「宮山観音古墳」の中央、括れ部分は「鹿島神社」参道のため切り通され、参道入口に鳥居が建てられている。


写真2:鳥居の向かって右側、後円部の南側の一部が「宮山観音堂」のため削られている。


写真3;鳥居の向かって左側が前方部南側。


写真4:後円部から前方部を見る。


写真5:前方部から後円部を見る。


写真6:前方部北側


写真7:後円部北側


写真8:後円部墳頂に祠堂がある(「駒形神社」?)。
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宮山観音堂(茨城県筑西市)

2024-05-04 23:32:16 | 寺院
宮山観音堂(みややまかんのんどう)。
場所:茨城県筑西市宮山504(「宮山ふれあいふるさと公園」の住所)。茨城県道45号線(つくば真岡線)と同131号線(下妻真壁線)の「明野中学校東」交差点から131号線を北東へ約2.4km。駐車場有り。「宮山観音堂」は、駐車場の直ぐ西側。
創建年代は不明だが、江戸時代、宮山村の鎮守「鹿島神社」の別当寺院として「宝宮山 無量院」があり、「宮山観音堂」は「鹿島神社」の本地仏である十一面観世音菩薩を祀る観音堂だった。「無量院」は現・茨城県桜川市塙世の「八柱神社」(前項)の別当「金剛院」を本寺とする真言宗の門徒寺院で、その本尊の観音像は、行基菩薩の作を弘法大師が修復したものと伝えられ、往来する牛馬を守護する仏として崇敬されたという。享保8年(1723年)上棟の棟札が残っており、大工棟梁は笠間箱田村(現・茨城県笠間市)の藤田孫平次で、同人の名は「小山寺」(通称「富谷観音」、現・茨城県桜川市))楼門の享保17年(1732年)の棟札に大工棟梁、「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)三重塔の宝永8年(1711年)の心柱墨書に棟梁の次に記されている。屋根は萱葺だったが、大正9年に屋根葺替が行われ、昭和48年に鉄板が被せられたとのこと。明治時代に入って神仏分離により「無量院」が廃寺となると、観音堂のみが「鹿島神社」の末社「駒形神社」社殿とされたため残ったという(現在、「駒形神社」は「鹿島神社」の近くに建立されている。)。
なお、近世には「常陸西国三十三観音」という観音霊場巡礼があった(その後、途絶えていたが、平成11年に再興されたとのこと。)。これは「西国三十三観音」を写したもので、遠い西国まで行かずに同様の御利益が得られるようにしたものである。「宮山観音堂」は、その第一番札所になっていて、御詠歌案内等の版行も行っていたとされるので、詳細は不明だが、中心的な役割を担っていたらしい。「常陸西国三十三観音」は現・茨城県の中・西部にわたり、つくば市・下妻市・かすみがうら市・稲敷市など、かなり広い範囲の寺院が含まれている。因みに、第二番札所は旧・明野町倉持の「倉持観音堂」(十一面観世音菩薩)で、これは常陸国式外社(論社)「雲井宮郷造神社」(2018年8月18日記事)の本地仏だったと思われるが、観音堂は現存しないようである。
蛇足:「宮山ふれあいふるさと公園」内に「展望台」という建物があり、そこに平安時代の陰陽師・安倍晴明に関する展示スペースがある。伝承によれば、晴明は現・筑西市猫島の生まれとされ、旧・明野町は晴明の陰陽師ブームに乗って町起こしを図ったが、伝承は「高松家」という旧家(個人宅)に伝わるもののため、公園に展示室を設けたようである。ところで、「常陸西国三十三観音」では、「宮山観音堂」の山号を「熊野山」としている。これは、本家の「西国三十三観音」の第1番札所が熊野三山の1つ「那智山 青岸渡寺」(現・和歌山県那智勝浦町)に関係があると思われ、当地に晴明の伝承が残るのも熊野修験の影響によることが考えられる(例えば、現・東京都葛飾区の「(五方山)熊野神社」(2013年5月18日記事)は晴明が創建したとされるなど、晴明と熊野三山は関連が深い。)。


筑西市観光協会のHPから(宮山ふれあいふるさと公園)


写真1:「宮山観音堂」


写真2:同上、彫刻。馬が中心に据えられているのは珍しい。


写真3:境内の石碑など。


写真4:「宮山ふれあいふるさと公園」の展望台。安倍晴明に関する当地の伝承の資料が展示されている。


写真5:展望台前にある歌碑「恋しくば 尋ねきて見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」。晴明の母は信太明神の化身で、正体が知られて晴明と別れるときに遺したものとされる。
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