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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

境の明神(白河の関・その3)

2025-07-30 23:33:57 | 神社

境の明神(さかいのみょうじん)。
場所:(関東側)栃木県那須郡那須町寄居2242-1、(奥州側)福島県白河市白坂明神80。国道294号線「芦野駐在所前」交差点から北へ約10km。どちらの神社にも駐車場あり。
「境の明神」は、近世「奥州街道(奥州道中)」の現・栃木県と福島県の境の峠に2つの神社が並んでいるもので、通称として現・栃木県側を「関東明神」、現・福島県側を「奥州明神」ともいう。「関東明神」は、正式には「玉津島神社」で、天喜元年(1053年)に紀州和歌浦の「玉津島神社」(現・和歌山県和歌山市)の分霊を勧請したのが創祀という。主祭神は衣通姫命だが、明治時代になって大己貴命と木花開耶姫命を合祀している。延享元年(1744年)に黒羽藩主・大関氏により真言宗「宝珠院 聖観寺」が別当寺院として建立され、社殿も修復されたが、天保3年(1832年)に野火により焼失、天保年間後半に再建、明治39年に民家の火事に類焼して炎上、明治41年再建。現在の社殿は平成3年に新築されたもの。なお、「関東明神」側では、「奥州明神」を「住吉神社」であるとしている。一方、「奥州明神」は、延暦8年(789年)、紀伊国和歌浦から勧請して玉津島衣通姫命を祀ったとされる。現在の社殿は3つの神殿が並んでいるが、中央が主祭神の衣通姫命で、右が天満大自在天神(菅原道真)、左側が正一位稲荷大明神であるという。よって、「奥州明神」も「玉津島神社」であって、「関東明神」のことを「住吉神社」であるとしている。なお、こちらには別当寺院として天台宗「和光山 松林院 豊神寺」があった。会津の領主・蒲生氏により造営され、白河藩主・本多能登守が改修されたとされるが、こちらも天保3年の火事で焼失、現存する社殿は弘化元年(1844年)に再建されたものという。なお、別当寺院は、明治初年の神仏分離により、関東側・奥州側ともに廃絶した。
さて、互いに、自らを「玉津島神社」といい、他方を「住吉神社」であるというのは変な話だが、古代、国境を挟んで「玉津島神社」(衣通姫命)と「住吉神社」(中筒男命)を守護神として祀るのが習わしであったが、女神が内(国)を守り、男神が外(敵)を防ぐという信仰があったため、それぞれが内側を「玉津島神社」、外側を「住吉神社」と称したということらしい。
ところで、「境の明神」は、「関の明神」ともいわれ、江戸時代には「歌枕」としての「白河関」は当地であるとの認識が一般的だったらしい。俳人・松尾芭蕉も現・白河市旗宿の「白河関跡」(2025年7月26日記事参照)より先に当地を「白河関」跡だと思って訪れているし、同じく俳人・大伴大江丸の「能因に くさめさせたる 秋はここ」という句は、平安時代の歌人・能員法師の「都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」という有名な歌が、「白河関」に行った振りをして実は想像で作ったということを風刺したものである。古代の「白河関」であれば、古代官道「東山道」にあるのが当然と思われるし、「奥州街道」が開かれたのは16世紀以降だから、当地に「白河関」はなかっただろうと思う。因みに、徳川幕府は「武家諸法度」で私関の設置を禁じていて、「奥州街道(現・栃木県宇都宮までは「日光街道」と重複)」の関所は利根川渡河地点の「房川渡中田関所(通称:栗橋関所)」しかなく、当地の国境でも、特に出入りを制限されたということはなかったらしい(もちろん、国境警備のための検問所として「口留番所」はあったようだが。)。とはいえ、関の守護神として「境の明神」の2つ並立した神社は「二所ノ関」と呼ばれ、有名だった。「奥州明神」の道路向かいに「南部屋七兵衛」という茶屋があり(この茶屋のことは芭蕉に随行した曾良の日記にも出てくる。)、その主人は元南部藩士だが訳あって白河関の関守になったとされるが、その子孫・石井氏が当地にこそ「白河関」があったとの研究を行っていた。そして、東京学芸大学の岩田幸三名誉教授が考証を行い、「奥州明神」前の道路脇から「関屋跡」が発見されたとして、昭和57年、石井氏の庭に「白河二所之関跡」碑が建てられた。なお、大相撲の「二所ノ関部屋」は、元は南部藩お抱えの相撲部屋で、「境の明神」の通称「二所ノ関」がその名の由来であるとのこと。
江戸時代には「奥州街道」が本街道だったので往来も多かったが、近代になると更に西に新道が開かれ、「陸羽街道」と称した。現在の国道4号線であり、東北自動車道・JR東北本線・東北新幹線もそちらを通るようになり、当地は衰退していくことになった。


とちぎ いにしえの回廊のHPから(境の明神)

白河市のHPから(境の明神)


写真1:「境の明神」(関東明神)。標柱には「那須町指定史跡 境の明神(玉津島神社)」とある。


写真2:同上、社殿


写真3:石造大日如来像


写真4:明治41年再建の記念碑


写真5:「従是北白川領」石柱。2つの神社の間、道路の向かい側にある。


写真6:「境の明神」(奥州明神)


写真7:同上、社号標(「境神社」)


写真8:同上、社殿。額は「鎮国社」となっている。


写真9:同上、境内の句碑。右側が大伴大江丸の句碑「能因に くさめさせたる 秋はここ」。


写真10:同上、最も奥の大きな石が松尾芭蕉の句碑「風流の はじめや奥の 田うへ唄」。「おくのほそ道」で、現・福島県須賀川市に着いてから詠んだもの。


写真11:「境の明神」(奥州明神)の道路向かい側にある「白河二所之関址」碑

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追分の明神(白河の関・その2)

2025-07-28 23:32:44 | 神社

追分の明神(おいわけのみょうじん)。住吉玉津島神社。
場所:栃木県那須郡那須町蓑沢1352栃木県道60号線(黒石棚倉線)から同76号線(伊王野白河線)への分岐点から北東へ約6.9km。駐車場なし。なお、「白河関跡」からは南に約2.7km。
社伝によれば、延暦10年(791年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中、当地で休息したとき、白髪の翁が現れ、田村麻呂と問答した。翁の正体は中筒男命で、田村麻呂が祠を建て、峠の神として中筒男命と衣通姫命を祀ったという。
ここは、古代官道「東山道」の関東最北端にあり(「追分」は街道の分岐点によくある地名)、福島県白河市との境となっている峠上にある。かつては、栃木・福島県に跨って2つの神社があったといわれているが、現在は栃木県側だけにあり、そのため「関東宮」ともいう。地元では「住吉玉津島神社」と称しているが、これは「住吉神社」と「玉津島神社」の2社が合併したものとみられ、祭神は中筒男命と衣通姫命。古代には国境に「住吉神社」と「玉津島神社」を祀る習わしがあったが、国境の内側に「玉津島神社」を祀るため、栃木県側の「玉津島神社」に福島県側の神社が吸収されたものだろう(なお「住吉神社」と「玉津島神社」については次項予定「境の明神」で書く予定)。「東山道」は、江戸時代に五街道の1つとして「奥州街道(奥州道中)」が本街道(那須町伊王野からは現・国道294号線のルート)で整備されたため、旧(古代)「東山道」は脇街道となり、当神社は次第に衰退していったものと思われる。


写真1:「追分の明神」


写真2:社号標(「玉津島神社」)


写真3:鳥居、参道石段脇の杉の巨木。この3本の杉は、いずれも樹高40m、幹回りがそれぞれ120cm・240cm・360cmとされ、「那須の名木」に選定されている。


写真4:社殿(覆い屋)


写真5:社殿


写真6:修復記念碑と石祠


写真7:神社の道路向かい側にある「従是北白川領」碑

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八溝嶺神社(陸奥国式内社)

2025-07-16 23:32:23 | 神社

八溝嶺神社(やみぞみねじんじゃ)。
場所:茨城県久慈郡大子町上野宮2129。「八溝山 日輪寺」(前項)入口から、茨城県道248号線(八溝山公園線)を更に登り、北西へ約1.7km。駐車スペースあり。なお、「蛇穴」登山口に素木造の大きな鳥居(一の鳥居)があり、ここからが元々の登山道だったようだ。今では「八溝林道」として舗装もされているため自動車でも行けるが、幅員が4mと狭いので、自動車の場合は県道利用を推奨。
社伝等によれば、「八溝山」は山頂を「日高見岳」といい、第12代・景行天皇40年、日本武尊が東征のとき、「八溝山」の賊を討ち払い、大己貴命・事代主命の2神を祀った。延暦16年(797年)、陸奥国の安倍高麿(悪路王)の謀反のとき、征夷大将軍・坂上田村麻呂が陣地を置き、神助を得たことから宝剣1口を奉納した。大同2年(807年)、弘法大師・空海(真言宗宗祖)が社殿を造営して霊場とした。この年、災害・病気流行に対し、勅により、天下安穏の大祈祷を行った。承和3年(836年)、「八溝山」から産出された砂金を遣唐使派遣の資金として献金を行った功績により、従五位下勲十等の神階と「八溝黄金神」の勅額を賜った(「続日本後紀」に記事あり。)。仁寿3年(853年)、慈覚大師・円仁(第3代天台座主)が社殿を修営した。貞観3年(861年)、神階は従四位下勲五等に進んで、延喜式神明帳登載の式内小社に列格した。天喜5年(1057年)、「前九年の役」中、源頼義が安部頼時の謀反を鎮定する際に参籠し、宝剣を献じて戦勝を祈願した。天治2年(1125年)、鬼賊・岩嶽丸が高笹(「八溝山」北方山腹の「笹岳」というところ)の岩穴に立て籠もって村民を苦しめたので、豪傑として知られた首藤権守貞信が神助を得て討伐し、宝刀を納めた。文治5年(1189年)、源頼朝が藤原泰衡を滅ぼすときに奉幣使を参向させ、平定後に社領1万石を寄進した。永正7年(1510年)、佐竹義舜と結城義親の合戦で社殿炎上するが、佐竹氏が勝利したことにより当地を領有することとなり、社殿を造営した。明治2年、郷社に列格、同17年に拝殿新築した。現在の祭神は、大己貴命と事代主命。

 

茨城県久慈地方神社総代会のHPから(八溝嶺神社)

 

写真1:「八溝嶺神社」境内入口、鳥居


写真2:法華経供養碑


写真3:拝殿。風除けのためか、本殿の周囲は高い土塁に囲まれて、よく見えない。


写真4:「霊峰八溝山」碑


写真5:展望台


写真6:展望台からの景色。生憎、曇り...


写真7:神社の背後にある「八溝山頂」標柱。前の白い杭のところに三角点がある。


参考画像:「八溝嶺神社」一の鳥居(「観光いばらき」HPより)。扁額に「延喜式内 八溝嶺神社」とある。なお、地名の「蛇穴」(じゃけち)というのは、金の採掘坑を「蛇の窪」・「蛇穴」と称したことに由来するようで、これを大蛇の巣として、大蛇退治の伝説も作られたようだ。

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近津神社(茨城県大子町上野宮)

2025-07-12 23:33:57 | 神社

近津神社 (ちかつじんじゃ)。通称:上野宮近津神社。
場所:茨城県久慈郡大子町上野宮3208。茨城県道28号線(大子那須線)「町付橋」交差点から県道を西~北西へ約4.3km(鳥居前)。駐車場なし。なお、鳥居前から東へ約100m(八溝川に架かる橋を渡ってすぐ右側)の狭い道路に入り、東~北東へ進み、突き当り左折(北西へ)すると(約240m)、境内に入れる。
社伝等によれば、慶雲4年(707年)、池田鏡山城主・藤原富得の勧請により創建。征夷大将軍・坂上田村麻呂が八溝山の賊・岩竹丸を討伐する際に参籠した。源義家が奥州征伐の折に参籠祈願し、「依上保」(陸奥国白河郡依上郷の荘園)三千貫文を寄進した。「依上保」は、室町時代の文明年間(1469~1487年)以降、白河結城氏の家臣である深谷氏が町付城(獅子城)の城主として支配しており、永正3年(1506年)にいったん常陸太田城主・佐竹義舜(佐竹氏第15代)に降ったものの、その後再び白河結城氏側について佐竹氏と戦ったが、永正18年(1521年)、佐竹義篤(佐竹氏第16代)に敗れ、その後は佐竹氏の支配地となり、常陸国に組み込まれたという。当神社は、字「本宮」という場所にあったが、永禄13年(1570年)に現社地に遷座した。江戸時代には水戸徳川家の庇護を受けて社領は10石、享和2年(1802年)に社殿を造営。明治40年に村社、大正12年に郷社に列格した。現在の祭神は、面足命・惶根命・級長津彦命。


写真1:「近津神社」参道石段


写真2:社号標


写真3:鳥居


写真4:随身門


写真5:手水舎の水盤。ライオン?がユニーク。


写真6:社殿前のスギの巨木2本。いわゆる「門杉」だが、綺麗に揃っている。


写真7:拝殿


写真8:拝殿・本殿


写真9:境内社「稲荷神社」

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近津神社(茨城県大子町町付)

2025-07-09 23:32:43 | 神社

近津神社 (ちかつじんじゃ)。通称:町付近津神社、中の宮近津神社。
場所:茨城県久慈郡大子町1218。茨城県道28号線(大子那須線)「町付橋」交差点から西に約30mで鳥居前。駐車スペースあり。
社伝等によれば、景雲4年(707年)、池田鏡城を築城した城主・藤原富得により勧請された。以後、その子孫が代々、「近津神社」の神職を務めた。天喜5年(1057年)、源頼義・義家父子が安倍氏を討つに当たり、当神社に参籠し宝刀を納めて祈願した。佐竹氏の庇護の後、江戸時代には水戸藩からも崇敬され、石鳥居(現在の二の鳥居)は水戸藩初代藩主・徳川頼房により、寛永11年(1634年)奉納されている。この鳥居は高さ約29mの花崗岩製で、西柱に「大旦那源朝臣中納言頼房公」銘がある。明治5年、郷社となったが、翌6年に村社、大正12年、再び郷社に列した。現在の祭神は、面足尊・惶根尊・級長津彦命。
蛇足:「池田鏡城」跡は大子町池田にあり、国道118号線「池田中」交差点の東、約600mの「山倉稲荷神社」が登り口で、鏡山(標高221m)に築かれた城跡。現在、山頂に「雷神社」がある。大子町で最も古い城跡ともいわれるが、自然地形を利用した山城で、中世前期頃のものと推定されている。よって、慶雲7年創建というのは、やや信じ難い。近津神社(下野宮)(前項)の社伝では、江戸時代の寛文年間(1661~1672年)に現・大子町上野宮と町付に分霊勧請し、3社を合わせて「近津三所明神」または「近津三社明神」と称するようになり、大晦日から元旦にかけて巡拝する「三社参り」が行われるようになったという。


大子町文化遺産のHPから(近津神社(中宮)の石鳥居)


写真1:「近津神社」一の鳥居、社号標


写真2:二の鳥居。


写真3:社号標。「稻村神社」というのは、「稲村」という地名があったために常陸国久慈郡鎮座の延喜式内社「稻村神社」を称していたことによると思われる。古代には、当地は陸奥国白河郡に属したため、式内社「稻村神社」であることは否定されている。


写真4:随身門


写真5:拝殿


写真6:拝殿・本殿


写真7:本殿


写真8:隣接する「天満宮」鳥居


写真9:同上、社殿(祭神:菅原道真公)

写真10:「近津神社」とは橋で結ばれている(「天満宮」側から見る。)。


写真11:聖徳太子碑

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