埴生神社(はぶじんじゃ)。通称:三ノ宮様、三ノ宮埴生明神。
場所:千葉県成田市郷部994。千葉県道18号線(成田安食線)「郷部」交差点から県道(通称「西参道三の宮通り」を南東へ約500m。駐車場あり。なお、有名な「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)の西、約700m(直線距離)のところにある。
創建時期は不明だが、平安時代前期、土師器製作を行う土師部(はじべ)の一族が当地に集落を形成し、祖神として土の神・埴山姫命(ハニヤマヒメ)を祀ったのが最初とされる。古代より当地は埴生郡と称し、特に「郷部」という地名(大字)は「郷府」が転訛したものともいい、当地方の中心部であったとみられている。その中でも、当神社は旧市内の最も高い場所にあり、社殿は古墳の上に建てられているという。通称の「三ノ宮」というのは、土師部など職業部の集団が移住してきて、現・利根川(古代には「香取海」)方面から南下し内陸に進んだ順に、現・千葉県栄町矢口に「一ノ宮神社」(2022年1月29日記事)、現・成田市松崎に「二宮神社」(旧「二ノ宮埴生神社」)、当神社(三ノ宮)が祀られたのではないかとする説がある。また、社伝等によれば、仁安3年(1168年)、当地の領主・成田五郎頼重が鉱石を奉納したといい、現在も続く当神社の例大祭(神輿渡御)は寛元2年(1244年)に当地の領主・埴生次郎平時常が神輿を寄進したことから始まったとされる(なお、江戸時代までは、「お浜降り」として蓮沼海岸(現・千葉県山武市)まで渡御していたとのこと。)。旧社格は郷社で、現在の祭神は埴山姫命。成田総鎮守と称している。
二宮神社(にのみやじんじゃ)。
場所:千葉県成田市松崎1。「成田西陵高校」正門前から南へ約200m。駐車場あり(ただし、狭いので出入りに注意。)。
社伝等によれば、斉衡3年(856年)以前の創建。古くは「二ノ宮埴生大明神」と称し、松崎・大竹・宝田・上福田・下福田の5ヵ村の鎮守であった。明治元年に「埴生神社」、その後「二宮神社」と改称した。現在の祭神は経津主命。
埴生神社のHP
写真1:「埴生神社」鳥居と社号標
写真2:同上、拝殿。なお、社殿は西向きで、栄町矢口「一ノ宮神社」・成田市松崎「二宮神社」の方を向いているという。
写真3:同上、本殿
写真4:同上、神木の椎
写真5:同上、社殿の背後にある境内社「浅間神社」
写真6:同上、社殿前の境内社
写真7:「二宮神社」鳥居と社号標
写真8:同上、拝殿
写真9:同上、本殿
大鷲神社(おおわしじんじゃ)。通称:お鷲様。
場所:千葉県印旛郡栄町安食3620。国道356号線・千葉県道18号線(成田安食線)の「安食交差点」から東に約50m。駐車場あり。
社伝等によれば、景行天皇40年(110年?)、日本武尊が東征の折、錦旗を立てて仮の野立所とし、祖神を奉斎したのが創祀。元は現在地の北東側、旧・安食町木塚にいったん鎮座したが、現在地(日本武尊の故事に因み「錦旗山」と称する。)に飛来したともいう。下総国の「総」は布(麻)のことを意味し、麻の生産あるいは紡績を業としていた人々が麻植神(おえのかみ)ともいわれる天乃日鷲尊を主祭神として祀ったとされている。江戸時代前期、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母・春日局の崇敬が非常に篤く、家光の将軍就任を祝い、将軍の御座船「天地丸」の舳先に魔除けとして飾ってあった金の大鷲が奉納され、出世開運の御利益があるといわれるようになった。江戸時代後期、文化文政の頃(1804〜1830年)には「鷲宮」あるいは「鷲賀岡神社」と称していたが、明治26年頃から「大鷲神社」と称するようになったという。現在の祭神は天乃日鷲尊で、相殿に大己貴命・小名彦命を祀る。当神社の「酉の市」は、毎年12月の初酉の日から3日間行われる。
なお、境内社として「魂生大明神」(「魂生神社」)があり、その御神体は石造の男根像で、高さ2.5m・周囲2.3mあり、日本一の大きさという。五穀豊穣・子孫繁栄の御利益があるとして、こちらを目的とした参拝者も多いらしい(独自の御朱印あり。)。
蛇足:「酉の市」は、関東地方の鳥に因む社寺で行われる祭で、元は農具などを売る露店が出ていたが、現在は縁起物として熊手や福助人形・招き猫などの縁起物が売られている。江戸の「酉の市」は、武蔵国南足立郡花又村(現・東京都足立区花畑)にある「大鷲神社(鷲大明神)」が発祥(「本酉」と称する。)とされるが、その後、「浅草の酉の市」として、現・東京都台東区の「鷲神社(おおとりじんじゃ)」と「鷲在山 長国寺(じゅざいさん ちょうこくじ」)のものが最も有名になった(「新酉」と称する。)。「酉の市」で売られる福助人形や招き猫は、浅草に近い現・東京都台東区今戸などで作られていた今戸焼人形であるが、これについて檜山良昭著「江戸の発明 現代の常識」に次のような話が書かれている。桃花園三千麿という江戸時代後期の戯作者・狂歌師が花又村の「鷲大明神」に由来を尋ねたが、祭神不明と言われた。ただ、言い伝えによれば、昔、大鷲が飛んできて下総の安飯(あじき)というところに留まり人々の幸福を守ったということから、ここでも祀ることにしたとのことだった。そこで、本社であるという下総国安食の「大鷲神社」に尋ねたところ、その祭神は野見宿禰であることがわかった。野見宿禰は天津神・天穂日命の子孫で、相撲で当麻蹴速に勝って、後に相撲の神とされる人物であるが、第11代・垂仁天皇が亡くなったときに、殉死の風習に反対して人間の代わりに埴輪を埋葬するようにした。これにより、土師臣(はじのおみ)という称号を得て、埴輪製作集団の長となった。その後裔氏族が「土師氏」である。つまり、「酉の市」の福助人形などの土人形は埴輪にルーツがあるのだということになる、と(一部、当ブログ管理人が補記・修正。なお、野見宿禰が埴輪を発明して土師臣の称号を得たことは「日本書紀」にあるが、考古学的には埴輪の起源は吉備国(現・岡山県)の古墳の特殊器台にあるとされている。)。因みに、「関東最古の大社」を称する現・埼玉県久喜市の「大鷲神社」(2024年10月12日記事)は現在の主祭神を天穂日命とし、別名を「土師の宮(はにしのみや)」ともいうとされている。
写真1:「大鷲神社」表参道鳥居
写真2:正面に急な石段(男坂)があるが、すぐ横に緩やかな女坂がある。
写真3:境内社「魂生大明神(魂生神社)」社殿。こちらのほうが、本社よりも有名かも。
写真4:「魂生大明神」の御神体。隣の木製のものは「酉の市」に町内を練り歩くという。男根像を神として祀ることは各地で行われ、金精様・金勢様などと称することも多い。
写真5:「子授け乃大樹」。魂生明神が鎮座されてから徐々に出現した自然の神霊の御陰(みほと)である、という。
写真6:「縁むすび合体椎の木」
写真7:「大鷲神社」拝殿。額は「大鷲宮」となっている。
写真8:賽銭箱の大鷲像。社宝の金の大鷲像を模したものという。
写真9:本殿。説明板によれば、「琴を奏する彫刻」があり、毎年行われる「酉の市」の境内特設舞台で歌った当時無名に近い歌手達が翌年のNHK紅白歌合戦に出場を果たしたとして、幾人もの歌手名が挙げられている。天保2年(1831年)の建立で、栄町指定有形文化財。
写真10:同上。
写真11:「日本武尊お手植えの松」。日本武尊が東征のとき、この松に熊手を立てかけて戦勝祈願したが、それが酉の日であり、例大祭の日としたことが「酉の市」の起源であるという。それにしても、この松の木はいったい何代目になるのだろう?
写真12:裏参道鳥居
場所:千葉県柏市塚崎1460。国道16号線と千葉県道8号線(船橋我孫子線)の「大島田」交差点から南西へ約1.6km。駐車場あり。
社伝によれば鎌倉時代末期の嘉元~徳治年間(1303~1307年)の創建とされるが、当地一帯は「伊勢神宮」の荘園である「相馬御厨」に含まれ、平安時代末期頃に「伊勢神宮」に度々寄進されていることから、その頃には既に「伊勢神宮」の分霊が勧請されていた可能性が指摘されている。下総国式内社「意富比神社」に比定する説もあったようだが、流石に支持する意見は殆どなかったようである(式内社「意富比神社」は、現・千葉県船橋市の「意富比神社」(通称:「船橋大神宮」)に比定するのが通説。2012年12月1日記事参照)。天正19年(1591年)、徳川家康から社領10石を受けた。享保18年(1733年)、現在の三社殿が再建され、宝暦7年(1757年)には老中で駿河国田中藩主・本多伯耆守正珍が石鳥居を奉納した(田中藩は現・静岡県藤枝市を本拠とする四万石の大名で、下総国42ヵ村に1万石の飛地領地を持っていた。因みに、巨人「ダイダラボッチ」の足跡が池になったという伝説が同藩領の谷津に多く、現・柏市周辺でも同藩による流布があったのではないかという説がある。)。風早・土・手賀・鎌ケ谷の4ヵ村17集落の総鎮守で、明治39年には村社に列格。社殿はいわゆる「三社神明」で、中央:大神宮(祭神:天照皇大神)、向かって左:春日社(祭神:武甕槌命)、同右:八幡社(祭神:應神天皇)。
なお、昭和10年に県の天然記念物に指定された大榊(サカキ)は、当時の県の鑑定で樹齢約1300年とされたというが、現在では主幹が枯死し、若木を育生中とのこと。
写真1:「神明社」社号標と表参道石段

写真2:弁財天社(祭神:宗像三女神)

写真3:表参道の灯篭群

写真4:鳥居。宝暦7年(1757年)に田中藩第7代藩主・本多伯耆守正珍の寄進によるもの。外宮鳥居に似ているが、柱に転び(角度)がついているなど、独自の形である。手洗鉢とともに柏市指定文化財。

写真5:拝殿。神額は「神明宮」となっている。

写真6:本殿

写真7:神楽殿。例年10月17日の大祭に奉納される「十二座神楽」は柏市指定無形民俗文化財。

写真8:樹齢約1300年といわれた大榊は枯死してしまったが、「千葉県指定天然記念物 神明神社の榊」碑はそのままで、若木育成中。

写真9:境内社が多いが、これは? (地元の建具屋さんが奉納したもので、家内安全・商売繁盛の御利益があるとか。)

写真10:裏参道(西側)入口の鳥居と社号標

写真11:裏参道入口にある境内社「一ノ宮社」。当神社の氏子らは表参道を歩くのは恐れ多いとし、裏参道から入り、まず最初に「一ノ宮社」で祈りを捧げた後、本社殿に進んだという。

柴崎神社(しばさきじんじゃ)。
場所:千葉県我孫子市柴崎174。国道6号線「柴崎」交差点から南西に約550m。駐車場は、手前約55mの「曹洞宗 東漸寺→」という案内板のところから西へ入る(道路が狭いので注意。)。
社伝によれば、日本武尊が東征のとき当地で武運長久を祈って幣立てをしたといい、現・我孫子市天王台という地名(当神社の南東、徒歩7~8分のところにJR常磐線「天王台」駅がある。)は日本武尊に因むという。神社としての創建は天慶元年(938年)とされ、平将門の祈願所であったともいうが、天慶2年(939年)には将門が常陸・下野・上野の国府を攻撃・占領して新皇と名乗った(「天慶の乱」)ものの、翌年、将門は討たれ、反乱は鎮圧されている。そのために、以後は社勢が衰えたとされるが、境内で永仁6年(1298年)銘の板碑の断片が発見されており(我孫子市内で最も古い年号の板碑という。)、当地における祭祀は続いていたようである。その後、将門直系の子孫と自称する相馬氏一門の守護神とされて崇敬を受け、永禄4年(1561年)には相馬氏家臣の柴崎城主・荒木三河守が社殿を修復したという。近世には、「羽黒・妙見社」として柴崎村の鎮守となり、明治元年に「北星神社」、明治13年に「柴崎神社」と改称して、村社に列格した。現在は、我孫子市の総鎮守と称し、祭神は天御中主命、日本武尊、蒼稲魂命、素盞鳴尊ほか。
蛇足:創建当初の祭神は不明だが、近世には「妙見社」であり、現在の祭神が天御中主神であれば、明治時代より前は妙見菩薩だった可能性もある(「妙見本宮」を称する「千葉神社」(2012年5月5日記事)も同様。)。将門の子孫を自称する千葉氏・相馬氏が妙見菩薩を信仰していたことは確実だが、将門自身もそうだったかは不明。小説やブログなどで将門自身が妙見菩薩を信仰していたことを当然のように書いてある記述もあるが、それを裏付ける資料はない。軍記物語「将門記」には、将門が八幡大菩薩から新皇位を授けるとの神託を受けたという記事はあるが、妙見菩薩の名は出てこない。また、将門所縁の寺院で、将門の守り本尊だったという仏像の伝承があるケースでも、観世音菩薩、薬師如来、不動明王など様々である。妙見信仰自体は、わが国には7世紀頃に伝来したとされており、将門が信仰していた可能性もないとは言えないが、「将門記」以後の将門と妙見信仰を結びつける文書等はいずれも千葉氏・相馬氏の関係者が絡んでいるようである。このように考えると、将門自身には妙見信仰はなかったのでないかと思われる(あくまでも私見です。)。
柴崎神社のHP
写真1:「柴崎神社」鳥居と社号標
写真2:鳥居横の青面金剛、庚申塔
写真3:境内の道祖神、青面金剛像、庚申塔(猿田彦大神)
写真4:手水舎と神亀
写真5:狛犬と並ぶ神亀(玄武)石像。玄武は北方の守護神で、妙見菩薩の神使とされる。
写真6:拝殿
写真7:本殿
写真8:境内の黒髪塚。日露戦争のとき、出征する兵士の妻たちが夫の無事を祈って黒髪を捧げたという塚。
写真9:境内の神武天皇遥拝碑。左手には明治天皇遥拝碑もある。
写真10:北側に隣接する「羽黒山 円福寺」本堂。江戸時代初期頃の創建かといわれる。「柴崎神社」の旧別当寺で、現在は真言宗豊山派に属し、本尊は阿弥陀如来。
写真11:同上、大師堂。新四国相馬霊場八十八ヶ所第55番札所となっている。
写真12:同上、上の大師堂の隣に所謂「鯖大師」像を安置した大師堂もある。「鯖大師」伝説の中心地は四国で、関東地方では比較的珍しいのではないだろうか。
場所:茨城県取手市上高井516。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」から南東へ約1.1kmで右折(南西へ。県道を関東鉄道常総線「稲戸井」駅方面へ)、約350m進んで、左に(北へ)カーヴする手前の狭い道路(車1台分の幅、舗装あり)を南東へ約150m。駐車スペースあり。
社伝によれば、長治元年(1104年)、平将門の孫・相馬文国が勧請、天正10年(1582年)、龍太夫が再建したという。龍太夫という人物については不明だが、「伊勢神宮」に属して祈祷や参詣案内などを行う「御師(おんし)」だったのではないかといわれている。明治5年、村社に列格。祭神:天照大神。
下総国相馬郡は、将門の乱後、将門の叔父・平良文の所領として認められた。良文の孫・平忠常は下総国・常陸国・上総国に広く勢力を張り、千葉郡を本拠地として千葉介を称して千葉氏の祖となった。その8代目の子孫である千葉氏当主・常重は千葉郡の郡司に加え、相馬郡の郡司も兼ねたが、大治5年(1130年)、相馬郡布施郷を「伊勢神宮」内宮に寄進した。これが「相馬御厨」の成立で、その範囲は、現・茨城県守谷市・取手市及び千葉県野田市・柏市・流山市・我孫子市に及ぶとされる。当地に「神明神社」が勧請されたのは、この「相馬御厨」の守護神とされたからだろう。社伝を信じるなら、当神社の創建は「相馬御厨」の成立より少し早いことになるが、事前に「伊勢神宮」側から寄進の勧誘活動があったのかもしれない。その後、常重の孫・師常が相馬郡を領有し、相馬氏を名乗った。これが後に現・福島県南相馬市に移り、江戸時代を生き抜いて明治時代に華族となった奥州相馬氏の最初である。その相馬氏は、近世に作られた系図では、平将門の直系であるとしている。それは、将門の死後、将門の次男・将国が常陸国信田(信太)郡に逃れ、信田氏を名乗る。当神社の社伝にいう相馬文国は、将国の長男(=将門の孫)に当たる。その子孫・師国には子がなかったので、相馬師常が養子となったというものである。ただし、これは伝説に過ぎず、いわゆる貴種流離譚の一種で、相馬氏の権威を高めようとする意図で創作された可能性が高いものと思われる。
なお、取手市米ノ井にも「神明神社」(旧村社、祭神:天照大神)があるが、創建時期・由緒とも不明。近世に「神明神社」(上高井)から分社されたものらしいという。
発掘情報いばらきのHPから(神明遺跡)
写真1:「神明神社」(上高井)鳥居

写真2:同上、境内の「道祖神」碑

写真3:同上、社殿

写真4:境内社(「稲荷神社」と思われる。)。左は弁才天。

写真5:同上、社殿背後の石祠。風化のせいか「 宮」の文字しか読めない。「天満宮」か?

写真6:「神明遺跡」標柱。「神明神社」(上高井)の南西、約140m(直線距離)、県道328号線沿いに立てられている。「神明神社」を中心とした200~300mの範囲に縄文時代晩期~終末期頃の集落跡が発見された。これまでに、大型住居跡、大型柱穴(ただし、上部構造は不明)、石鏃・石棒などの石器、製塩土器を含む土器などが出土している。

写真7:「神明神社」(上高井)の別当寺院であった天台宗「若宮山 慈光院 八幡寺」(廃寺)本堂。茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月31日記事)の末寺で、本尊は阿弥陀如来。(「神明神社」(上高井)の北西、約140m(直線距離)。県道328号線沿い。駐車スペースあり)

写真8:同上、境内入口にある観音霊場巡りの記念碑と「叶観音(かなうかんのん)」像

写真9:同上、スダジイの古木と小堂。小堂の中の石像は、智拳印を結んでいるようなので、金剛界大日如来かと思われる。背後のスダジイは結構太い木だと思うのだが、「取手市の巨木と名木」(2010年)には掲載されていない。

写真10:「神明神社」(米ノ井)鳥居(場所:取手市米ノ井386-3。国道294号線に面するコンビニ「ファミリーマート取手米ノ井店」の東側の道路を南西へ約350m。駐車場なし)

写真11:同上、社殿

写真12:同上、境内の小堂(子育地蔵堂)

写真13:同上、庚申塔など

写真14:同上、イチョウの木の下にある石神像や石祠

写真15:同上、ケヤキの巨木。こちらは取手市指定の保存樹木で、樹高22.5m・幹回り5.5m、推定樹齢310年(「取手市の巨木と名木」による。)。なお、同境内には樹高22m・幹回り3mのカヤの木もある。
