神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

七天王塚

2013-11-30 23:06:14 | 史跡・文化財
七天王塚(しちてんのうづか)。
場所:千葉県千葉市亥鼻1。千葉大学医学部構内ほか。駐車場なし。
「七天王塚」は、千葉氏宗家の居館跡とされる「亥鼻城跡」の東の台地上にある7つの塚で、千葉市の指定史跡になっているが、その性格は古墳なのか、経塚なのか、土塁なのか、単なる土の高まりなのか、未調査のままとなっている。一般には、ここも亥鼻城域であって、大手口に当たり、千葉氏の守護神である牛頭天王を祀ったものといわれる。塚が7つあるのは、北斗七星の形に配置したためであるという。また、一説には、千葉氏の7人の兄弟を祀ったものであるとも、平将門の7騎将の墓であるともいわれている。
「牛頭天王(ごずてんのう)」は神仏混淆の神で、平安時代から疫病の神として信仰され、京都の現・「八坂神社」(旧・祇園社)の祭神として「祇園祭」の起源となった。また、陰陽道では、吉神である「天道神」ともされる。こうしたことから、この「七天王塚」もパワースポット、というよりは、祟りのある心霊スポットとして紹介されることもある。塚に生えている木の枝を切るだけでも怪我をするともいわれており、「七天王塚」がきちんと調査されないのは、祟りを怖れるせいだろうか。


写真1:「七天王塚」。千葉大学医学部の南側の道路沿いに2ヵ所あるうちの1つ。ちゃんと石祠がある。


写真2:同上


写真3:同上。千葉大学医学部構内にある5つのうちの1つ。


写真4:同上


写真5:同上
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下総国の古代東海道(その7・河曲駅)

2013-11-23 23:07:06 | 古道
古代東海道の、下総国で最も南の駅家は「河曲(かわわ)」駅となる。実は、古代東海道には、伊勢国にも「河曲」駅があり、現・三重県鈴鹿市木田町付近と推定されている。伊勢国には河曲郡があり、郡名を取って名づけられたものと思われる。なお、推定地の近くには白鳳寺院の「南浦廃寺跡」、「伊勢国分寺跡」、河曲郡衙跡とみられる「狐塚遺跡」(いずれも鈴鹿市国分町)があり、最寄の駅はJR東海の関西本線「河曲」駅である(ただし、駅名は「かわの」と読む。)。
一方、下総国の「河曲」駅には、対応する郡名や遺称地はない。所在地については、かつては諸説あり、現在も発掘調査等による証憑はないが、千葉県千葉市の市街地中心部付近(千葉県庁を中心とする地域)と考えられるようになっている。古代東海道のルートは、幕張・検見川付近までは国道14号線に沿って進んできたものとみられるが、その先は北側にずれていたと思われるものの、直線的な道路痕跡もなく、よくわからない。にも関わらず、千葉市市街地中心部に推定されるのは、他の駅家との距離のほか、千葉市市街地を流れる都川が古代には大きく北に曲流していたとみられることによる。「河曲」駅の所在地をピンポイントで指し示すことは困難であるが、木下良氏(古代交通史研究会長)は、千葉県庁の東側にある現・「亥鼻公園」(住所:千葉市中央区亥鼻1-6-1)の台地上を「河曲」駅の所在地と推定している。ここは千葉氏宗家の本拠地であり、俗に「千葉城」と称することもあるようだが、歴史上では中世の城(館)であり、現在ある鉄筋コンクリート製の「亥鼻城」のような近世風の城ではない(誤解されるとして、歴史ファンからは不評を買っているらしい。)。「亥鼻公園」の北端の台地下には、千葉氏の祖・平良文の子忠頼が生まれた時に湧き出し、以来千葉氏の産湯の水として使われたと伝わる「お茶の水」の湧水跡がある。その名は、源頼朝が当地に来たとき、千葉常胤がこの水でお茶を立てて接待したという伝承によるが、もし、ずっと古くから湧き出していたとすれば、旅人のオアシスだったかもしれない。
ところで、千葉都市モノレール1号線「県庁前」駅の東側(千葉県議会棟の南側)にある羽衣公園内には「羽衣の松」がある。かつて、この辺りに蓮の花が多く咲く、美しい池があり、「池田の池」と呼ばれていた。夜になると、天女が舞い降りて蓮の花を眺めるといわれた。時の千葉介・平常将(1010年~1076年)は、天女の羽衣を隠して地上に留め、妻とした。この話に感激した天皇の仰せにより、千葉の蓮花に因んで「千葉」と名乗るようになったという(このため、千葉氏の系図では常将を初代当主とすることが多いとされる。)。「池田の池」というのはちょっと変な名前だが、かつてこの辺りが池田郷という里であったからで、菅原孝標女の「更級日記」では寛仁4年(1020年)旧暦9月15日に下総国の「いかた」という所に泊まった、と記している。この「いかた」というのが、池田郷のことだとされる。「野中に岡だちたる所に、ただ木ぞ三つたてる」とも描写しているが、この岡(丘)が現・「亥鼻公園」の丘かもしれない。


写真1:千葉県庁(住所:千葉市中央区市場町1-1)。すぐ横を都川が流れている。この水路は、ショートカットのための人工河川とみられている。川を隔てた北側の現・千葉地方裁判所がある辺りが「御殿跡」と呼ばれる場所で、千葉氏の館があった場所ともいう。


写真2:「羽衣の松」


写真3:「亥鼻城」(千葉市立郷土資料館)。写真左下に見えるのは千葉常胤の銅像。


写真4:「御茶の水」。既に湧水は涸れている。なお、徳川光圀(水戸黄門)が通ったときには「東照公御茶ノ水」と呼ばれていたという。
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検見川神社

2013-11-16 23:05:00 | 神社
検見川神社(けみがわじんじゃ)。
場所:千葉県千葉市花見川区検見川町1-1。京成電鉄千葉線「検見川」駅の北、約100m。駐車場有り。
社伝によれば、創建は貞観11年(869年)。全国で流行した疫病を鎮めるため、京都・神泉宛で矛を66本立てて御霊会(現在の祇園祭)を行い、その後、「祇園社」(現・「八坂神社」)の祭神・素盞嗚尊の分霊として矛を全国で祀らせた。そのとき下総国で祀られた場所が「葛飾原」の「嵯峨」と呼ばれた地で、それが当神社の創始という。その後、兵部少輔平春靖が土着して当地の開墾を始めたところ、素盞嗚尊の祟りにより疫病が流行したことから、承平4年(934年)に社殿を建立した。嵯峨は現在地の北隣で、現在の花輪台という地には文禄年間(1592~1596年)に遷座したという。また、元和2年(1616年)には稲荷神社を、寛永年間(1624~1644年)に熊野神社(応永16年(1409年)創建)を合わせ祀ったことから、現在は、中神殿に素盞嗚尊を、東神殿に宇迦之御魂神を、西神殿に伊弉冉尊を祀っていて、この3柱の神を総称して「神祇三社検見川大明神」と称している。
さて、上記の「嵯峨」という地名は、嵯峨天皇(在位:大同4年(809年)~弘仁14年(823年))に因むと伝えられる。いや、それより、当神社の北には縄文時代の落合遺跡(現・東京大学検見川総合運動場内)があり、古代の「大賀ハス」の種子が発見されたことで有名だが、複数の丸木舟も出土して、この地が縄文時代に既に舟溜まりがあったとみられている。また、中世、連歌師の柴屋軒宗長の旅行記「東路の津登」によれば、永正6年(1509年)10月22日の条に「はまのむらをたちて、気見川といふ所に浦風余り烈しかりしかば、一宿して・・・」という件があり、当時、検見川に宿と湊があったものと思われる。こうしたことから、検見川も、古代東海道の「浮嶋」駅の候補地の1つに挙げられているようだ。


検見川神社のHP


写真1:「検見川神社」正面(南側)鳥居。


写真2:台地上の社号標は「下総之国神祇三社 検見川神社」となっている。


写真3:社殿
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大須賀山塚(伝・馬加康胤の首塚)

2013-11-09 23:45:24 | 史跡・文化財
大須賀山塚(おおすがやまつか)。あるいは、伝・馬加康胤の首塚(でん・まくわりやすたねのくびつか)。
場所:千葉県千葉市花見川区幕張町1(堂ノ山)。国道14号線下り車線から「幕張西2丁目緑地」の向かい側付近にある分岐から県道57号線(千葉鎌ヶ谷松戸線)に入って約600m。「大須賀山の自然と文化財」という説明板があるところから徒歩で登る。駐車場なし。
国道14号線は、浜田川の西側辺りで僅かに南にカーヴするが、旧道と思われる直線的な道路が残っている。花見川の右岸(西岸)に小高い場所があり、これが大須賀山または堂ノ山と呼ばれる丘(標高約15m)である。堂ノ山というのは、かつてここに大日堂があったからだが、老朽化のため撤去され、本尊の大日如来座像(鎌倉時代のもの。千葉市文化財)は近くの真言宗豊山派「補陀落山 宝幢寺」に移されている。その大須賀山(堂ノ山)の山頂に室町時代頃とされる方形の塚があって、伝承によれば、室町時代前期の武将・馬加康胤(安永5年(1398年)?~康正2年(1456年))の首塚であるとされる。馬加康胤は、千葉氏宗家に生まれたが、庶子であったために養子に出され、後に千葉に戻って現在の幕張付近に館を構え、地名を取って馬加(まくわり)氏を名乗ったという(「幕張」は「馬加」が変化したもの)。康正2年(1456年)には千葉氏嫡流家を攻め滅ぼしたが、時の将軍・足利義政から康胤追討の御教書が発せられ、上総国八幡(現・千葉県市原市八幡)に追い詰められ、村田川畔で討死した。康胤の首は、村田川の岸辺で獄門に懸けられた後、京都に送られて京都・東寺四塚で晒されたとされるが、伝承では、密かに家臣らにより盗み出され、大須賀山に埋められたということになっている。因みに、「子守神社」(旧称「素加天王社」。住所:千葉市花見川区幕張町2-990)の伝承によれば、寛正4年(1463年)、郷内に火の玉が飛ぶという奇怪な現象が起きたため、念仏堂を建立した。また、応仁2年(1468年)に大須賀山で馬加康胤とその家臣らの霊祭供養を行ったという。
さて、古代東海道との関係で言えば、幕張付近も「浮島」駅の擬定地の1つ。根拠としては、①「馬加」という地名は、駅家で馬の乗り換えをしたことに由来しているのではないか、②東京湾の埋め立て前は、大須賀山は海に面しており(現在もタブノキなどの植生がみられる。)、浮島のように見えたのではないか、③現在の花見川は印旛沼の放水路として整備された人工河川であるが、花見川や浜田川の旧流は印旛沼(当時は「香取海」の一部)と繋がっていて、交通の要衝だったのではないか、などが挙げられている。また、「大須賀山塚」を通り過ぎて先へ進むと、地図上では「道祖神社」とされている小祠(複数)がある。実は祭神等も不明のようだが、「道祖神」を祀っているなら、道路の守護神として建立された可能性もあるとして注目される。


写真1:「大須賀山塚」。高さ3~4m。頂上に石造の大きな五輪塔があるが、これは江戸初期のもので、馬加康胤とは無関係らしい。


写真2:「道祖神社」とされる小祠


写真3:同上

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神之台(千葉県習志野市)

2013-11-02 23:07:58 | 史跡・文化財
神之台(かんのだい、かんのんだい)。
場所:千葉県習志野市津田沼6-7付近。国道14号線沿いの「さぎ沼一郵便局」の西側の狭い道路を約100m北へ(ただし、この道路は一方通行で、国道側が出口になっている。)。駐車場なし。
「神之台」は、「菊田神社」(2013年10月19日記事参照)の由緒にいう藤原師経卿らの左遷伝承における上陸地とされる。同じく東京湾を渡った一族の者たちは時化で上総国に流されたので、「神之台」から師経卿らの上陸地を知らせる狼煙を上げたという。現在は暗渠化されているため分かり難いが、この辺りに菊田川の河口があり、昭和40年代頃までは「神之台」の前(東側)は三角州状の水田となっていたらしい。
ところで、師経卿の左遷伝説であるが、これは史実に反する。藤原師経という名の人物は1人だけではないが、後白河法皇の権臣であった西光(俗名:藤原師光)の子で、加賀国の目代(国司の代官)となった人物を指すものとみられている。彼は、加賀国での「比叡山 延暦寺」の末寺に対する横暴な振る舞いにより、比叡山大衆が神輿を担いで強訴を起こすという事件を発生させたとされる。この事件が「鹿ケ谷の陰謀」の遠因になったとされ、結局、安元3年(1177年)に京都・六条河原で斬首された。
したがって、「神之台」伝承自体が、あくまでも伝説に過ぎないことになる。そもそも、いくら貴族とはいっても、この伝承から「神」を持ち出すのは無理があるのではないだろうか。妄想レベルだが、より前の時代の、駅路を馬を駆けさせるより早い連絡方法であった「烽火(とぶひ)」が行われた場所ではなかったか、とも思う。
なお、近くにある「根神社」は円墳上に社殿が建てられているとされ、また、「八剣神社」は「鷺沼御旅館」のあった場所ともいわれている(「八剣神社」も円墳のような小丘上にあるが、こちらは古墳ではないのだろうか?)。


船橋市のHPから(「平成21年 下総三山の七年祭り」の記録)


写真1:「神之台」入口。周囲より少し高くなっている。奥は鉤型になっていて、左側の家の裏側で神事が行われる。


写真2:「根神社」(場所:習志野市鷺沼1-8付近)。祭神:面足尊ほか


写真3:同上。少し引いて撮影。住宅に囲まれ、写真では円墳であることが分かり難い。


写真4:同上、社殿


写真5:「八剣神社」(場所:習志野市鷺沼3-14付近)。祭神:日本武尊ほか


写真6:同上、社殿。「根神社」の社殿とそっくり。





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