鈴之宮稲荷神社(すずのみやいなりじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市国府2-1。国道355号線「国府三丁目」交差点から南に約90mで左折(東へ)、茨城県道138号線(石岡つくば線)・通称「金丸通り」を約220m。「金丸通り」は西から東への一方通行(7~20時)なので注意。駐車スペースあり。
「稲荷神社」としての創建は江戸時代中期頃とされるが、江戸時代初期の寛永2年(1625年)の文書に「すゝの宮」という記載があり、前身の神社があったらしい。「鈴之宮」というのは、律令制下、官吏の公務出張の際に朝廷より支給された鈴を「駅鈴」というが、駅制が廃絶した後に「駅鈴」を神社に奉祀したため、その名があるという。即ち、当神社の西、約650m(直線距離)のところに「常陸国府(跡)」(現・茨城県石岡市総社、2018年1月6日記事参照)があり、古代東海道の終点でもあった。「延喜式」等の史料に「常陸国府」付近の駅名は見えないが、1つ手前が「曾禰」駅で、ピンポイントの場所は不明であるものの、現・茨城県石岡市(上・下)高津付近が通説となっている(2022年3月26日記事)。また、「常陸国府」の先(北へ)、陸奥国に向かう古代東山道への連絡路があり、次の駅は「安侯」駅で、現・茨城県笠間市の「東平遺跡」(2020年7月4日記事)がその場所と考えられている。武部健一著「完全踏破 古代の道」によれば、「曾禰」駅から常陸国府まで15.6km、常陸国府から「安侯」駅まで13.2kmの距離としている。駅家は30里(約16km)毎に置くととされているから、奈良時代には「常陸国府」付近に駅家があったが、「延喜式」(平安時代中期)の頃には駅家は廃止されて国府が代行機能を果たしていたのだろうとされている。「駅鈴」を神社に祀る、というのは大袈裟な気もするが、「駅鈴」は中央政権の権威の象徴であり、延暦11年(792年)の太政官符によれば、「鈴蔵」を建てて「駅鈴」を納め、「健児(こんでい。地方軍団又はその兵士)」に守衛させることとしていた。ということで、当地に「常陸国府」付属の駅家(機能)があり、「駅鈴」を納めた「鈴蔵」が「鈴之宮」になったのかもしれない。因みに、現在の町名は国府2丁目だが、元は金丸町といった。金丸という呼称は、中世軍事貴族・(常陸)大掾氏の家臣団である「府中六名家」(税所、健児所、香丸、金丸、中宮部、弓削)の1つ、金丸氏の居住地であったことが由来という。そうすると、金丸氏が元は駅長だった可能性も考えられる。
さて、伝承によれば、当神社(の前身)は、常陸大掾・平国香が守護神として尊崇したという。神体は白狐に騎った神像で、高さ4寸5分。天明年間(1781~1789年)に本殿建替え、大正15年に修理竣工遷宮式挙行した。祭神は宇迦魂命(ウカノミタマ)。
蛇足:当神社は、元治元年(1864年)、尊皇攘夷の旗印のもと、天狗党の田丸稲右衛門ら63名が勢揃いして筑波山に向けて出立した由緒ある地であるという。実は、当神社の右隣(現在は月極駐車場)には「新地八軒」と呼ばれる遊郭があり、天狗党の面々はそこを定宿としていたとのこと。
写真1:「鈴之宮稲荷神社」鳥居
写真2:社殿
写真3:境内入口端にある「旧町名 金丸町」石碑
場所:茨城県石岡市国府2-1。国道355号線「国府三丁目」交差点から南に約90mで左折(東へ)、茨城県道138号線(石岡つくば線)・通称「金丸通り」を約220m。「金丸通り」は西から東への一方通行(7~20時)なので注意。駐車スペースあり。
「稲荷神社」としての創建は江戸時代中期頃とされるが、江戸時代初期の寛永2年(1625年)の文書に「すゝの宮」という記載があり、前身の神社があったらしい。「鈴之宮」というのは、律令制下、官吏の公務出張の際に朝廷より支給された鈴を「駅鈴」というが、駅制が廃絶した後に「駅鈴」を神社に奉祀したため、その名があるという。即ち、当神社の西、約650m(直線距離)のところに「常陸国府(跡)」(現・茨城県石岡市総社、2018年1月6日記事参照)があり、古代東海道の終点でもあった。「延喜式」等の史料に「常陸国府」付近の駅名は見えないが、1つ手前が「曾禰」駅で、ピンポイントの場所は不明であるものの、現・茨城県石岡市(上・下)高津付近が通説となっている(2022年3月26日記事)。また、「常陸国府」の先(北へ)、陸奥国に向かう古代東山道への連絡路があり、次の駅は「安侯」駅で、現・茨城県笠間市の「東平遺跡」(2020年7月4日記事)がその場所と考えられている。武部健一著「完全踏破 古代の道」によれば、「曾禰」駅から常陸国府まで15.6km、常陸国府から「安侯」駅まで13.2kmの距離としている。駅家は30里(約16km)毎に置くととされているから、奈良時代には「常陸国府」付近に駅家があったが、「延喜式」(平安時代中期)の頃には駅家は廃止されて国府が代行機能を果たしていたのだろうとされている。「駅鈴」を神社に祀る、というのは大袈裟な気もするが、「駅鈴」は中央政権の権威の象徴であり、延暦11年(792年)の太政官符によれば、「鈴蔵」を建てて「駅鈴」を納め、「健児(こんでい。地方軍団又はその兵士)」に守衛させることとしていた。ということで、当地に「常陸国府」付属の駅家(機能)があり、「駅鈴」を納めた「鈴蔵」が「鈴之宮」になったのかもしれない。因みに、現在の町名は国府2丁目だが、元は金丸町といった。金丸という呼称は、中世軍事貴族・(常陸)大掾氏の家臣団である「府中六名家」(税所、健児所、香丸、金丸、中宮部、弓削)の1つ、金丸氏の居住地であったことが由来という。そうすると、金丸氏が元は駅長だった可能性も考えられる。
さて、伝承によれば、当神社(の前身)は、常陸大掾・平国香が守護神として尊崇したという。神体は白狐に騎った神像で、高さ4寸5分。天明年間(1781~1789年)に本殿建替え、大正15年に修理竣工遷宮式挙行した。祭神は宇迦魂命(ウカノミタマ)。
蛇足:当神社は、元治元年(1864年)、尊皇攘夷の旗印のもと、天狗党の田丸稲右衛門ら63名が勢揃いして筑波山に向けて出立した由緒ある地であるという。実は、当神社の右隣(現在は月極駐車場)には「新地八軒」と呼ばれる遊郭があり、天狗党の面々はそこを定宿としていたとのこと。
写真1:「鈴之宮稲荷神社」鳥居
写真2:社殿
写真3:境内入口端にある「旧町名 金丸町」石碑