神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鈴之宮稲荷神社(茨城県石岡市)

2023-10-28 23:31:46 | 神社
鈴之宮稲荷神社(すずのみやいなりじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市国府2-1。国道355号線「国府三丁目」交差点から南に約90mで左折(東へ)、茨城県道138号線(石岡つくば線)・通称「金丸通り」を約220m。「金丸通り」は西から東への一方通行(7~20時)なので注意。駐車スペースあり。
「稲荷神社」としての創建は江戸時代中期頃とされるが、江戸時代初期の寛永2年(1625年)の文書に「すゝの宮」という記載があり、前身の神社があったらしい。「鈴之宮」というのは、律令制下、官吏の公務出張の際に朝廷より支給された鈴を「駅鈴」というが、駅制が廃絶した後に「駅鈴」を神社に奉祀したため、その名があるという。即ち、当神社の西、約650m(直線距離)のところに「常陸国府(跡)」(現・茨城県石岡市総社、2018年1月6日記事参照)があり、古代東海道の終点でもあった。「延喜式」等の史料に「常陸国府」付近の駅名は見えないが、1つ手前が「曾禰」駅で、ピンポイントの場所は不明であるものの、現・茨城県石岡市(上・下)高津付近が通説となっている(2022年3月26日記事)。また、「常陸国府」の先(北へ)、陸奥国に向かう古代東山道への連絡路があり、次の駅は「安侯」駅で、現・茨城県笠間市の「東平遺跡」(2020年7月4日記事)がその場所と考えられている。武部健一著「完全踏破 古代の道」によれば、「曾禰」駅から常陸国府まで15.6km、常陸国府から「安侯」駅まで13.2kmの距離としている。駅家は30里(約16km)毎に置くととされているから、奈良時代には「常陸国府」付近に駅家があったが、「延喜式」(平安時代中期)の頃には駅家は廃止されて国府が代行機能を果たしていたのだろうとされている。「駅鈴」を神社に祀る、というのは大袈裟な気もするが、「駅鈴」は中央政権の権威の象徴であり、延暦11年(792年)の太政官符によれば、「鈴蔵」を建てて「駅鈴」を納め、「健児(こんでい。地方軍団又はその兵士)」に守衛させることとしていた。ということで、当地に「常陸国府」付属の駅家(機能)があり、「駅鈴」を納めた「鈴蔵」が「鈴之宮」になったのかもしれない。因みに、現在の町名は国府2丁目だが、元は金丸町といった。金丸という呼称は、中世軍事貴族・(常陸)大掾氏の家臣団である「府中六名家」(税所、健児所、香丸、金丸、中宮部、弓削)の1つ、金丸氏の居住地であったことが由来という。そうすると、金丸氏が元は駅長だった可能性も考えられる。
さて、伝承によれば、当神社(の前身)は、常陸大掾・平国香が守護神として尊崇したという。神体は白狐に騎った神像で、高さ4寸5分。天明年間(1781~1789年)に本殿建替え、大正15年に修理竣工遷宮式挙行した。祭神は宇迦魂命(ウカノミタマ)。
蛇足:当神社は、元治元年(1864年)、尊皇攘夷の旗印のもと、天狗党の田丸稲右衛門ら63名が勢揃いして筑波山に向けて出立した由緒ある地であるという。実は、当神社の右隣(現在は月極駐車場)には「新地八軒」と呼ばれる遊郭があり、天狗党の面々はそこを定宿としていたとのこと。


写真1:「鈴之宮稲荷神社」鳥居


写真2:社殿


写真3:境内入口端にある「旧町名 金丸町」石碑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道鏡法王祠と孝謙天皇宮(茨城県小美玉市)

2023-10-21 23:36:50 | 神社
道鏡法王祠(どうきょうほうおうし)。通称:道鏡様。
場所:茨城県小美玉市竹原1125(「椿山稲荷神社」境内)。国道6号線「竹原」交差点から南東へ約220m。竹原小学校の西側。駐車場なし。

孝謙天皇宮(こうけんてんのうぐう)。通称:天皇様。
場所:茨城県小美玉市竹原1443。国道6号線「竹原」交差点から西へ約700m進んで左折(南へ)、約200m。こちらは社殿の裏側になるが、広めの駐車スペースがある。正面側(鳥居側)へは茨城空港アクセス道路の側道から狭い道路を進むが、駐車スペースもないので、上記のアプローチを推奨。

伝承によれば、第46代・孝謙天皇(重祚して第48代・称徳天皇)に重用された僧・道鏡が太政大臣禅師の頃、当地・竹原郷の村人が訴訟のため京に上ったときに便宜を受けた。神護景雲4年(770年)に道鏡が失脚して「下野薬師寺」(現・栃木県下野市。跡地は国史跡となっている。)の別当に左遷されると、竹原郷民が訴訟の恩義に報いるため当地に迎え、仮庵を結び、その場所を(道鏡の俗姓の)「弓削」と称した。道鏡は孝謙(称徳)天皇のために、庵に観世音菩薩を安置し、御陵を築いて天皇から賜った鏡・玉・剣を納め、「孝謙天皇宮」を建てた、という。御陵というのは、「孝謙天皇宮」の北側(小美玉市竹原1495)にあった「岩窟(岩屋)権現」と通称された古墳で、現在は湮滅しているが、出土した鏡等は「竹原神社」(小美玉市竹原2297)に納められ、石棺は「小美玉市 農村環境改善センター」敷地内に保存されている。道鏡は、一般的には「日本三悪人」の1人(他の2人は平将門と足利尊氏)ともいわれるように、皇国史観からは評判が良くない人物であるが、当地では上記の伝承の通り、左遷されたのは時の権力者に妬まれたからだとしている。この「道鏡法王祠」も、戦前までは婦人病・性病の平癒、安産や商売繁盛に御利益があるとして参拝者が多かったという。
さて、上記伝承では「弓削」という地名が道鏡に因んで名づけられたとするが、実際には逆で、地名が先にあって道鏡伝説に結び付けられたのではないかと思われる。弓削氏というのは古代物部氏の一族で、元は弓を製作する弓削部を統率した氏族とされ、古くから当地にはそうした人々が住んでいたのではないかという説がある。一方、「椿山稲荷神社」の由緒を見ると、永禄2年(1559年)に竹原城主・竹原四郎義国が城の鬼門に当たる当地に城地守護のため建立したとされる。義国は敬神の心情が厚かったので、椿山稲荷の神霊が白狐に姿を変えて主君を守ったといわれ、また椿の木を奉納して境内に植えると病気が治ると言い伝えられている。竹原氏は常陸大掾氏の一族で、常陸国平定を狙う佐竹氏が国府(現・茨城県石岡市府中)に向けて進攻する途上にあり、「弓削砦」という出城が「椿山稲荷神社」南側にあったらしい。城郭研究家・余湖浩一氏によれば、「弓削」は現地では「ゆうげ」というところから、城郭関連地名である「要害(ようがい)」が訛ったものではないか、と推測している。
蛇足:現在の国道6号線(水戸街道)は「竹原」交差点から南西へ真っ直ぐ貫通しているが、かつては丁字路で、交差点から西へ向かうと現・石岡市、北東へ向かうと現・水戸市、園部川沿いに南東に向かうと現・行方市に通じる、交通の要衝であった。だからこそ、常陸大掾氏側も「弓削砦」を築いたのだろうし、江戸時代の竹原は水戸街道の宿場として栄え、元禄年間(1688~1704年)以後には遊女屋も許可されたため、その遊女らが「道鏡法王祠」に多く参拝したという。ということで、「椿山稲荷神社」境内にも道祖神石碑があるが、「ドウキョウ」というのは道祖神の別名である「道饗神(どうきょうじん、みちあえのかみ)」から来ている可能性はないだろうか(個人的な妄想?)。道祖神は本来、疫病や悪霊が村に入ってこないように守る神であるが、後に旅行安全や五穀豊穣・子孫繁栄の神ともされ、石像には男女の神像や男根を象ったものも多い。民間信仰なので、よくわからないことも多いが、民俗学的には面白い例だと思うのだが。


写真1:「椿山稲荷神社」鳥居。標柱は「(旧・美野里)町文化財 竹原椿山稲荷神社」


写真2:同上、本殿。祭神:倉稲魂命(ウカノミタマ)。社殿は東向き。


写真3:「道鏡法王祠」。「椿山稲荷神社」本殿の背後に西向き(「孝謙天皇宮」のある方向)に立つ。元は現在地の北西約10mの小美玉市竹原66にあったが、竹原小学校の移転により、児童の通学時に目立たぬよう移転したという。


写真4:同上、正面


写真5:同上、石造男根像(通称:道鏡様)


写真6:「椿山稲荷神社」境内の道祖神石碑


写真7:「孝謙天皇宮」境内入口


写真8:同上、鳥居


写真9:同上、社号標


写真10:同上、社殿


写真11:「岩窟権現古墳」の箱式石棺(場所:茨城県小美玉市中台559。「小美玉市 農村環境改善センター」敷地内の南側遊歩道にある。駐車場有り。)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

耳守神社

2023-10-14 23:34:46 | 神社
耳守神社(みみもりじんじゃ)。通称:みみっちょ様。
場所:茨城県小美玉市栗又四ケ2051。国道355号線「新高浜駅入口」交差点から東に約200mで左折(北へ。ガソリンスタンドの西側の道路に入る。)、道なりに北西へ約800m。駐車スペース有り(鳥居前に2台程度)。
社伝(というか、民話として伝わるところ)によれば、平安時代末期、田余郷飯塚に香丸殿と呼ばれた豪族・飯塚五郎左衛門平兼忠(第2代常陸大掾貞盛の弟・繁盛の5男)がいたが、その娘・千代姫は7歳になるのに耳が聞こえなかった。病の回復を願う両親は21日間の断食をして「熊野権現」に祈願し、その甲斐があって満願の暁に姫の耳は聞こえるようになったが、今度は足が萎えて立てなくなり、ついには33歳のときに「我亡きあとは、1社を祀りたまえ。耳の病から守護するであろう。」と遺言し、薄幸の生涯を閉じた。これにより、千代姫愛用の鏡を御神体として栗又四ケ字上郷に創建された「耳守神社」は、耳の不自由な人たちの信仰の場となった。しかし、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、豊臣方の佐竹氏に攻められて常陸大掾氏が滅亡したことにより、その一族である飯塚氏も没落し、当神社も荒廃することとなった。耳の神様としては日本で1社といい、遠方からも参拝者があったようで、その後も地元集落の人々により維持され、昭和58年に社殿再建された。祭神は、千代姫命。
蛇足:社号標にも「日本一社 耳守神社」とあって、日本で唯一ということが強調されている。そういえば、河童を祀る日本で唯一の神社も小美玉市にある(「手接神社」(2019年2月9日記事)。当神社の東、約6km(直線距離)。)


小美玉観光協会のHPから(耳守神社)


写真1:「耳守神社」境内入口。鳥居と社号標


写真2:拝殿


写真3:拝殿に、願い事を書いた竹筒が結び付けられている。これは、竹筒のように耳がよく通るように、ということらしい。


写真4:本殿


写真5:再建記念碑。碑文は、現・茨城県筑西市出身の元衆議院議員・赤城宗徳氏によるもので、かつて霞ヶ浦高校の校長を務め、平将門の研究家としても有名。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡神社(茨城県小美玉市栗又四ケ)

2023-10-07 23:37:25 | 神社
八幡神社(はちまんじんじゃ)。
場所:茨城県小美玉市栗又四ケ987ー1。国道355号線と茨城県道59号線(玉里水戸線)の「田木谷交差点」から国道を北西へ約1.1km。駐車場なし。
創建年代不詳とされるが、「玉里町史」によれば、天喜5年(1057年)に八幡太郎こと源義家が奥州征伐の途中で武運長久を祈願したことにより、延久4年(1072年)創建という。口碑によれば、義家が当地を通過する際、通路が甚だ悪く、石橋を掛けて軍を渡したので、「石橋」という地名(字)になった。後に、平石が発掘され、これを「駒止め石」と称したという。寛永2年(1625年)、領主・皆川大和守が武運長久祈願のため、田一反二畝を寄進した(八幡免)。元禄2年(1689年)、別当・天台宗「西光山 地蔵院 極楽寺」(小美玉市栗又四ケ1241に現存)の住職が社殿建替。昭和3年、村社に列した。祭神は誉田別命で、古来から健康祈願及び運送・海上安全祈願に御利益ありとして著名だったという。
さて、奈良時代の古代東海道の別路として、現・茨城県潮来市から行方台地のほぼ中央(尾根)を通って、常陸国府があった現・石岡市へ向かうルートがあったとみられている(「板来駅」(2022年9月24日記事)、「曽尼駅」(2023年4月1日記事)参照)。現・行方市域では概ね現・茨城県道50号線(水戸神栖線)と同じ道筋と考えられるが、行方市北部では若海~捻木を抜けて、行方市と小美玉市の境界付近を通り、薗部川を渡ると、現・国道355号線と同じ道筋に接続して、現・石岡市内に向かったとする説が有力である。常陸国内では、古代東海道の道筋について、日本武尊または源義家の進軍に関する伝説が残っていることが多い。古代官道は兵部省の管轄であることから知れるように、本来、軍事道路の意味があり、特に古代東海道は現・東北地方の蝦夷征伐や現・九州地方の防備(防人)のための兵力移動の役割も大きかったと思われる。そして、常陸国一宮「鹿島神宮」は武神として、防人・兵士・武士が出発に当たって道中の無事や戦勝を祈願する(「鹿島立ち」)聖地で、古代東海道の別路があったのは、「鹿島神宮」への道路を整備したということだったのだろう。さて、上記の通り、そのルートについて、現・石岡市側から現・国道355号線を東に向かうと、薗部川を渡る手前で南東にカーヴして霞ヶ浦畔を進むことになるが、古代にはそのまま東に進んで、現・茨城県道8号線(小川鉾田線)に繋がる道筋だったとみられる。そうすると、当神社の鎮座地は薗部川の右岸(西岸)に当たり、重要な位置にある。また、当神社の西側に石室が露出した「岩屋古墳」があり、その天井石はまさに「石橋」になるような平石である。伝説はともかくとしても、当地付近から石岡市内に向かう国道355号線の直線の具合からして、古代東海道の道筋と考えて差し支えないものと思われる。

岩屋古墳(いわやこふん)。
場所:茨城県小美玉市栗又四ケ1314-1外。「玉里北小学校」グラウンド南端の西側の丘の上、畑の中にある(ゴミ・ステーションの横に案内板があり、そこから上ったところ。)。
墳丘が消失しているため、もともとの形・大きさは不明。横穴式石室が露出しており、玄室長3.3m・幅1.8m・高さ1.7mとされる。当地の北西約20mのところに箱式石棺が存在したとされ、それを含めて1つの古墳とすると、前方後円墳だった可能性があるという。石室の形状等から築造時期は6世紀代と推定されている。なお、周辺で縄文土器や弥生土器も出土しており、より古くから集落等があったとみられる。因みに、かつては古墳の天井石の上に観音堂が建てられていたが、安置されていた観音像とともに「極楽寺」に移されたという(現在の不動堂とのこと。)。


写真1:「八幡神社」鳥居と社号標(「村社 八幡神社」)


写真2:同上、顕忠碑と護国軍馬碑。これだけ大きな軍馬碑は比較的珍しいと思う。当地は、戦前、馬の産地だったのだろう。


写真3:同上、境内


写真4:同上、拝殿


写真5:同上、拝殿に掛けられた面。何の面だろう?


写真6:同上、本殿


写真7:「岩屋古墳」。


写真8:同上、石室内部。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする