神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

愛宕神社(秋田県湯沢市上院内)

2016-07-30 23:27:12 | 神社
愛宕神社(あたごじんじゃ)。通称:院内愛宕神社。
場所:秋田県湯沢市上院内字町後95。JR奥羽本線「院内」駅入口付近から西へ約400m。駐車スペースあり。
社伝によれば、弘仁2年(871年)、現社地の東側にある「館山」(「法領館」ともいい、中世に「院内城」があったところ)の山上に創建、貞永2年(1232年)に現在地に遷座したという。江戸時代には、久保田(秋田)藩主・佐竹氏から「秋田十二社」の1つに指定され、藩主の参勤交代の際には藩主又は代人の参拝があったという。江戸時代中期頃、当神社の別当・阿闍梨渕清は、参拝の人々が中風など悪病に冒されることがないように願い、読経を自ら生き埋めとなり竹の筒より読経を続けて即身成仏を遂げたとされる。その徳を偲んで、当地に「コロリ地蔵尊」が建立されたという。
江戸時代に藩主から尊崇された理由は不明だが、国境の守護神とした、ということが考えられる。また、当神社の現在の祭神は火産霊大神(ホムスビ)であるが、神仏混淆の時代には、一般に「愛宕権現」はイザナミ又はカグツチ、ホムスビを祭神として、勝軍(将軍)地蔵を本地仏としていた。そして、「愛宕権現」は徳川家康の信仰が厚く、例えば、現・東京都港区に鎮座する「愛宕神社」は、江戸の防火・防災の守護神として京都の「愛宕神社」から勧請されたものである。佐竹氏は、「関ヶ原の戦い」の際に中立的な態度であったため、出羽国に転封させられたとされることから、徳川幕府に気兼ねしたのかもしれない。
ところで、当神社の別当寺というのが、真言宗「延命山 長安寺」だったとされる。伝承によれば、貞観9年(867年)に慈覚大師の創建という。しかし、慈覚大師(円仁)は、第三代天台座主で、貞観6年(864年)には亡くなっている。よって、この伝承は当てにはならないのだが、一説に、これが出羽国定額寺の「長安寺」の後身ではなかったか、ともされる。「日本三代実録」によれば、貞観9年に出羽国「長安寺」が定額寺になったとされ、暗示的である。この「長安寺」は江戸時代までは存在していたらしく、「コロリ地蔵尊」だけでなく、秋田県指定有形文化財の木造十一面観世音菩薩立像始め多くの仏像等のほか、「愛宕神社」の社殿の左手には墓地も残っている(本郷洋治著「出羽山北の古代史を歩く」による。)。


秋田県神社庁のHPから(愛宕神社)


写真1:「愛宕神社」境内入口、社号標。奥(東側)に見えるのが「館山」。


写真2:同上、鳥居


写真3:同上、社殿。左手に墓地がある。


写真4:「コロリ地蔵尊」。「愛宕神社」境内入口の左側。


写真5:「館山」入口。「愛宕神社」の旧社地で、現在は「神明社」が鎮座している(場所:湯沢市下院内字館山4)。


写真6:石段を上ると、右手に「神明社」、左手に境内社の「山神社」がある。「神明社」の創建は不明で、元は湯沢市下院内字常盤町にあったが、元禄14年(1701年)の水害により町内の大水により、現在地に遷座したとのこと。
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経塚(金光明王尊)(山形県鮭川村)

2016-07-27 23:42:40 | 史跡・文化財
経塚(きょうづか)。「金光明王尊」を祀る堂祠がある。
場所:山形県最上郡鮭川村京塚。山形県道35号線(真室川鮭川線)沿いの「京塚郵便局」の南、約50mのところ(「高橋酒店」の角)を東に入り、約660m進むと舗装路が途絶える。そこから遊歩道(「東北自然歩道」)を約10分歩く。駐車場なし。
かつて「庭月観音」(前項「庭月山 月蔵院」参照)と「新庄城」城下を結ぶ道として「猿鼻街道」があった。そのうち、現・鮭川村の京塚と上絵馬河の間は遊歩道として整備されていて、カタクリの群生地などもあるハイキング・コースとなっている。その道沿いに「経塚」がある。「経塚」は、仏教の経文を記したものを埋納して塚を造り、その上に石塔などを建てるのが一般的で、中世を中心に流行した。当所の「経塚」は、小石に1字ずつ経文を記した「一字一石経」と呼ばれるものを埋納し、塚の上に経文を神格化したものと思われる「金光明王尊」の堂祠が建てられている。当地の地名である「京塚」は、「経塚」が転化したものとされており、古くから大事にされてきたものだろう。「猿鼻街道」自体は正徳年間(1711~1715年)頃から盛んに利用されたというが、街道沿いに「応永2年の板碑」というものもあり、応永2年というと室町時代、西暦では1395年に当たる。だから、道自体はもっと古くからあったのだろう。
因みに、古代官道の「東山道」に「佐芸(さき? さけ?)」という駅家(うまや)があったことが「延喜式」に記されているが、その場所については諸説ある。ただ、その名が「鮭川」に因むものではないかとの説は、かなり有力とされていると思われる。また、この「経塚」が「金光明王尊」を祀っているところから、この付近に「出羽国分寺」(国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」)があったのではないか、という説も一部にあるらしい。「経塚」の西、鮭川左岸に「上野遺跡(うわのいせき)」があり、この付近に「金光寺」という地名もあった。「上野遺跡」は平成16年に発掘調査され、掘立柱建物跡78棟のほか、青銅製の鏡や懸仏などが出土したが、遺構の存続年代は15~16世紀初め頃とされ、古代の寺院跡は発見されなかったようである。


写真1:「応永2年の板碑」。猿鼻街道沿い、鮭川村京塚側の人家が途絶える辺りにある。


写真2:猿鼻街道。現在は遊歩道として整備されている。


写真3:「経塚」


写真4:「経塚」の「金光明王尊」堂


写真5:猿鼻街道沿いにある「尼壇」。「経塚」の東、約700m。どういうものか、不明。
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庭月山 月蔵院

2016-07-23 23:26:39 | 寺院
庭月山 月蔵院(ていげつさん がつぞういん)。通称:庭月観音(にわつきかんのん)。
場所:山形県最上郡鮭川村大字庭月2829。山形県道35号線(真室川鮭川線)と同308号線(曲川新庄線)の交差点から、県道308号線を西へ、約1.4km。駐車場有り。
寺伝によれば、鎌倉幕府の武将・佐々木(六角)頼綱は近江国守護であったが、仏教に深く帰依していた。あるとき奥方が病床につき命も危うくなったおり、清らかな僧が夢枕に立ち薬草を置いて去った。この薬草により、奥方は快癒した。これを不思議に思い、山中を彷徨うなか、現在の本尊である聖観世音菩薩像を得た。これこそ、慈覚大師(円仁。天台宗第3代座主)自刻の観音像であり、以来、佐々木家の守り本尊として代々伝えられた。後に、佐々木新太郎綱村が出羽国に下って仙北地域の領主・小野寺氏の客将となり、天文4年(1535年)に「真室城」(「鮭延城」)を居城として姓も「鮭延」と改め、最上地方を治めた。城内に近江国から運んだ聖観音像を安置したが、家臣の庭月利左衛門広綱から、広く一般に礼拝させるべきとの進言を受けて天文15年(1546年)に鮭川沿いの地に観音堂を建てた。それ以来、「庭月観音」と呼ばれるようになり、多くの信者を集めるようになったが、寛永10年(1633年)に鮭延氏が下総国古河(現・茨城県)に移されると、観音堂は一時荒廃した。そこで、新たな領主・戸沢氏により寛文11年(1671年)、現在地に移され、延宝4年(1676年)に盛大な落慶法要が営まれたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は聖観世音菩薩立像であるが、これは戸沢氏が寄進した2代目のものとされてきた。ところが、最近の調査によれば、平安時代のものという結果が出たとのこと。「最上三十三観音霊場」の33番目、打止めの寺となっている。また、毎年8月18日に送り盆の行事として行われる鮭川での「灯ろう流し」は、仏式としては東日本方最大級の規模であるという。


庭月観音のHP

最上三十三観音のHPから(庭月)


写真1:「月蔵院」(庭月観音)入口の「おかげさま門」。「おかげさま」の心で潜ってほしいとのこと。すぐ傍に「鮭川」が流れている。


写真2:本堂(笈摺堂)。「笈摺(おいずり)」は巡礼者が白衣装束の上に羽織る袖のない薄い衣のことで、当寺が「最上三十三観音霊場」の打止めとなっているところから、巡礼の結願として笈摺を納めたことに由来するという。


写真3:仁王門


写真4:阿弥陀堂(千体仏)。当寺で最も古く、室町時代の建物とされる。


写真5:境内にあるストーンサークル(環状列石)。縄文時代中期のものと推定されている。


写真6:観音堂
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雨滴岩

2016-07-20 23:55:37 | 名石・奇岩・怪岩
雨滴岩(あまだれいわ)。
場所:山形県天童市川原子字谷地中。ゴルフ場「天童カントリークラブ」の手前、約500mのところ(案内板あり)を北へ入り、約100m。駐車場なし。
山形県天童市と東根市の境にある「水晶山」は、中世には修験の山であり、「日本三大実録」の記事にある出羽国定額寺「霊山寺」跡、また、山頂に鎮座する「水晶山神社」が出羽国式外社「利神」の後身ではないかという説もある信仰の山である(前項「水晶山神社」参照)。山中、あるいはその周辺にも、奇岩が多いが、その代表的なものが「雨滴岩」である。これは、石英粗面岩(流紋岩)で、高さ17m、周囲60m、地上部分の重さ推定6000トン(現地説明板による)という巨石。雨垂れで削られたような紋様があるため「雨滴岩」という名がついたというが、弁慶の馬の蹄の痕であるという伝説もあるらしい。
とはいえ、「水晶山」近くにある割りには、あまり神秘的な伝説はないようで、ちょっと拍子抜けかも。


写真1:「雨滴岩」。木々に同化してわかりにくいが...


写真2:近寄ると、雨が垂れたような模様の巨石。


写真3:同上
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水晶山神社(山形県天童市)(出羽国式外社・その9?の2)

2016-07-16 23:59:06 | 神社
水晶山神社(すいしょうざんじんじゃ)。
場所:山形県天童市大字川原子字水晶山1。国道48号線からコンビニ「ローソン川原子本郷店」のところから南東へ(ゴルフ場「天童カントリークラブ」方面へ)、約600mのところに「谷地中の石鳥居」がある(大きな案内板があるが、石鳥居自体は道路から見えず、駐車場もないので通り過ぎやすい。)。更に道なりに進み、「天童カントリークラブ」の入口があるが、その前をそのまま通り過ぎて狭い道路を約500m進むと「水晶山」(川原子コース)登山口。駐車場とトイレがある。舗装路はここから更に約1.2km続いており、終点「六角堂」(休憩所)付近に駐車場もある。登山口から六角堂まで歩いて上ると約20分で、途中にも石像等があり、時間があれば下から登るのが良い。六角堂から山頂までは山道を約40分登る。なお、北麓の東根市側にも登山口がある(猪野沢コース、所要時間約1時間)。
社伝によれば、創建時期は不明ながら、太古、大国主神が蝦夷征伐のために東下した際、「水晶山」を屯営として四方の夷狄を征服したとされ、その神蹟に大国主神の新魂(荒魂)である大國魂命を祀ったという。また、「水晶山」(標高667m)は役小角(役行者)によって開山されたと伝えられ、中世には修験の山として盛況となった。山麓に真言宗「玉虫山 大和寺」(貞観17年:875年創建ともいう。)が建立され、神仏混淆により、蔵王権現と十一面観世音菩薩が合祀された。天正年間(1573~1593年)に最上義光が山形城主となり、当地を支配すると、「摩訶迦羅山(大黒山) 宝珠院 宝幢寺」(明治期に廃寺)が「水晶山」修験の別当寺となり、「大和寺」は廃されたという。なお、詳細は不明ながら、現・天童市川原子側で「大和神社」、現・東根市猪野沢側で「水精山神社」として祀っていたが、昭和28年に合併して「水晶山神社」と改称した。現在の祭神は、大國魂命と大物主命。「水晶山」という名の由来は、この山で水晶が採取できたため、あるいは水の神(水精)として雷神(大物主命)を祀ったためともいう。因みに、大国主神、大國魂神、大物主神は、同神であるともいわれている。
さて、「水晶山」は、鷲が頭を擡げたような姿をしているとして、釈迦が説法をしたという天竺(インド)の「霊鷲山(りょうじゅせん)」、略して「霊山」に因んで「霊山寺」という寺院があったとの伝承がある。実際に、「西ノ堂跡」など寺院跡が発見されており、三堂一院(東堂・中堂・西堂・別院)を備えた大寺院だったとされる。そこで、「日本三大実録」貞観9年(867年)の条に「出羽国最上郡の霊山寺を定額寺とした」という記事があるが、その出羽国定額寺「霊山寺」だったという説がある。更に、同じく「日本三大実録」貞観13年の条に「出羽国の利神に従五位下の神階を授けた」という記事があり、この式外社「利神」が「水晶山神社」の前身であるという説もある。こちらのほうは、比定の根拠がよくわからないのだが...。それほど、往時は修験が隆盛していたということだろうか。


「水晶山に親しむ部会」のHP(水晶山とともに)


写真1:「谷地中の石鳥居」。柱のみで、笠木・島木などは失われている。鎌倉時代頃の造立とされる。


写真2:同上。正面に「水晶山」が見えるはずだが。思ったより小さい、というか、柱の間が狭く、最初からこの場所にあったかどうかについて異説もあるようだ。


写真3:「日輪寺跡」。「天童カントリークラブ」入口手前付近。「日輪寺跡」は平安時代の寺院跡とされ、今は、背後の川の対岸に礎石のみが残るという。ここに「水晶山」の案内板もある。


写真4:同上。奥に「水晶山」が見える。


写真5:「二神仏石碑」。「水晶山」登山道の入口にある。碑面には「水晶山蔵王大権現」と「十一面観世音菩薩」の文字が刻まれている。文化14年(1817年)建立。


写真6:「水晶山神社」社殿


写真7:同上、「奥の院」


写真8:「奥の院」の背後が「水晶山」山頂で、磐座がある。これが「陽神」で、蔵王大権現とされる。


写真9:山頂の左手奥に「御室」がある。水晶の採掘穴ともいわれるが、これが「陰神」で、十一面観世音菩薩とされる。


写真10:同上。上から覗き込んだところ。

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