神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

柴又八幡神社古墳

2013-05-25 23:55:48 | 古墳
柴又八幡神社古墳(しばまたはちまんじんじゃこふん)。
場所:東京都葛飾区柴又3-30-24(「八幡神社」境内)。京成電鉄金町線「柴又」駅の北、約200m。都道307号線(王子金町江戸川線)「柴又帝釈天前」交差点を西へ、踏切を渡ると直ぐ。駐車場なし。
葛飾区柴又3丁目に鎮座する「八幡神社」(通称:「柴又八幡神社」)は旧・柴又村の鎮守社で、祭神は誉田別命ほか。創建時期は不明。
参拝客で賑わう「柴又帝釈天」(日蓮宗「経栄山 題経寺」)の西、僅か300m程しか離れていないが、当神社の参拝者は少ない。当神社が有名なのは寧ろ、東京低地に現存する数少ない古墳の場所としてではないだろうか。
当神社のある場所は、露出した石組みや伝世されていた埴輪などから、元々古墳ではないかと言われてきたが、昭和40年の社殿改築に伴う調査で房州石を用いた横穴式石室と副葬品の馬具、埴輪片等が検出され、古墳であることが確認された。最初は円墳と考えられてきたが、その後の調査では周溝が円形ではなくて墳丘が北西方向に延びていることから、少なくとも円墳ではなく、前方後円墳である可能性があるとのこと。出土した須恵器はTK43型式相当とされ、古墳の築造時期は6世紀後半頃のものと推定されているようである。この石室は、社殿の下に保存されているが、非公開となっている。
ところで、「正倉院文書」の中に「養老五年下総国葛飾郡大島郷戸籍」がある(養老5年は西暦721年)が、大島郷には甲和里(こうわり)・仲村里(なかむらり)・嶋俣里(しままたり)という三つの里(邑・村)があったことがわかる。このうち、甲和里が小岩、仲村里は(遺称地はないが)水元、嶋俣里は柴又ではないかと言われている(異説あり。)。面白いのは、この戸籍の中に「刀良(とら)」という男性と「佐久良賣(さくらめ)」という女性が記載されていることで、映画「男はつらいよ」シリーズの主人公である「寅さん」とその妹の「さくら」と同じ名前であるとして話題になった。因みに、平成13年の調査では、「柴又八幡神社古墳」から帽子を被った首長像と思われる人物埴輪が出土し、その風貌が「寅さん」に似ているとして「寅さん埴輪」と通称されているとのこと(「葛飾区郷土と天文の博物館」にて展示。「寅さん記念館」にレプリカがある。)。


葛飾区観光サイト「かつしかまるごとガイド」のHPから(柴又八幡神社)

「寅さんのいる町」のHPから(「寅さん」の埴輪?)


写真1:「柴又八幡神社」境内入口


写真2:正面鳥居


写真3:社殿


写真4:社殿の背後にあるステンレスの扉。この奥に石室が保存されているらしい。


写真5:境内の「島俣塚」。古墳から出土した人骨を集めて埋め、その上に塚を築いたもの。
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熊野神社(東京都葛飾区立石8丁目)

2013-05-18 23:48:59 | 神社
熊野神社(くまのじんじゃ)。通称:五方山熊野神社または立石熊野神社。
場所:東京都葛飾区立石8-44-31。中川に架かる奥戸橋西詰から西へ、約240mで参道入口。駐車場なし。
社伝によれば、長保年間(999~1003年)に陰陽師・阿部(安倍)晴明の勧請によって創建したという。社地は、五行説(万物は木・火・土・金・水の5つの要素から成るという説)に従って五角形にしたといい、現在も「熊野幼稚園」などの敷地を含めてみると五角形を保っているようだ。神体は長さ2尺余(約60cm)の石剣(おそらく縄文時代のもの)で、「立石」という地名もこの石剣に由来するともいう。祭神は、伊邪那岐命・速玉男命・事解雄命。
この「熊野神社」前の道路を隔てた南側に、元は別当寺であった真言宗豊山派「五方山 立石寺 南蔵院」がある。寺伝によれば、長保年間に創建され、「熊野神社」を勧請したという。神社と寺のどちらが先か、どちらが主かという問題ではなく、「熊野神社」信仰自体が特に神仏混淆が色濃かったことを考えれば、多分、不可分な形で同時に創建されたのだろう。永享元年(1427年)、行基菩薩が創建したという「青松山 金剛院 正福寺」(現・葛飾区東新小岩)の第5世法印賢寛が中興したという。本尊は、大日如来。
この「熊野神社」と「南蔵院」付近には、それぞれ「立石熊野神社古墳」・「南蔵院裏古墳」という円墳があったが、明治時代に墳丘は削平されてしまったらしい。「立石熊野神社古墳」は、神社敷地南側の発掘調査で内径約12m、外径約18mの周溝が検出され、須恵器と土師器が出土した。この調査結果から、7世紀後半頃に築造された円墳であるとされた。「江戸名所図会」では周囲より一段高いところに社殿が建てられているように描かれているところから、五角形の古墳の上にあった可能性をいう説もある。また、「南蔵院裏古墳」は、寺の北西側にあったといわれ、人型の埴輪の頭部が出土したことから、6世紀後半頃の古墳と考えられているという。こうしたことから、古代にあっても、かなり古くから人が多く住む地域であったということが明らかになっている。


東京都神社庁のHPから(熊野神社)

葛飾区観光サイトのHPから(熊野神社)


写真1:「熊野神社」参道。社号標と石鳥居


写真2:同上、神門。幕には、丸と五角形の中に八咫烏が描かれた神紋


写真3:同上、社殿


写真4:「南蔵院」正面入口。中川堤防上の道路に面している。


写真5:同上、本堂。向って左奥にピンク色のマンションが見えるが、その敷地辺りが「南蔵院裏古墳」の跡地らしい。
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立石様(東京都葛飾区)

2013-05-11 23:59:38 | 名石・奇岩・怪岩
立石様(たていしさま)。
場所:東京都葛飾区立石8-37-17(立石児童遊園内)。葛飾税務署の東、約90m。駐車場なし。因みに、京成電鉄線に「立石」という駅があるが、「青砥」駅のほうが近い(徒歩約10分)。
「立石様」は、当地の地名の由来となった不思議な石で、「要石」と同様に、いくら掘っても根が出ないといわれている。また、むやみに掘ると祟りがあるとか、「中川」が蛇行しているのは、この石を動かせなかったからだ、とかいう話もあるらしい。滝沢馬琴等が書いた奇談集「兎園小説(第10集)」(文政8年(1825年))には、次のように紹介されている。「下総国葛飾郡立石村の元名主・新右衛門の畑の中に昔から高さ1尺ほどの丸い石があった。新右衛門は、さほど根が深いとも思えず、この石がなければ耕作に便利と考え、掘り出そうとした。しかし、掘っても掘っても根が見えず、明日また掘ろうとして、翌日来てみれば、石は穴の中に沈み、底から1尺ほど出ていた。これは都合がよいと思い、上から土を被せて埋めた。ところが、翌日、見に行くと、石は地上に出ていた。ここに至って、これはただの石ではないと悟り、祠を建て稲荷として祀った。(要旨)」。ほかにも、冬には痩せて細くなるが、夏には回復するとして「活蘇石」とも呼ばれたともいう。
「立石様」は、現在では地表に僅かに出ているだけだが(写真3)、その名のとおり、かつては地上に細長く突き出ていたようだ。文献的には、室町時代の応永5年(1398年)の「下総国葛西御厨田数注文写」という文書に「立石」という地名が見られるとされ、下って江戸時代の文政13年(1830年)完成の「新編武蔵風土記稿」では「直径2尺許(約60cm)、高さ1尺程(約30cm)」とされ、天保7年(1836年)刊行の「江戸名所図会」巻七では大人の膝上くらいの高さに描かれている。
さて、この石の正体だが、石自体はいわゆる「房州石」といわれる、上総国の鋸山で産出する凝灰岩であることがわかっている。「房州石」は「法皇塚古墳」(2013年2月2日記事)の石室など、この付近の古墳築造に使われた石材である。「立石児童遊園」内から埴輪片が発見されたという話もあり、ここに古墳があった可能性がある。これが「立石様」と呼ばれるようになったのは、古墳の石材を流用して、この付近を通る古代東海道の道標として石を立てたからではないかという説が有力である。ただし、「立石様」の位置は、厳密に言うと、東京低地に残る古代東海道の痕跡とされる直線道路沿いではない。それは、「立石様」の南、約100mの中川の中になる。当時は周りに何もなかったかもしれないので、それでも目印になったのだろうか。


葛飾区観光ガイドのHPから(立石様)


写真1:公園入口にある鳥居と「立石祠」という社号標?。東向き。


写真2:小さな鳥居と説明板。鳥居の後ろに玉垣、更に後ろに石祠がある。


写真3:玉垣の中に「立石」が地上に僅かに出ている。


写真4:石祠。「立石稲荷大明神」と刻されているのが見える。文化2年(1805年)に、立石村名主・島田新右衛門が中心となって石祠を建て、「立石稲荷大明神」として祀ったという。
コメント (2)
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吾嬬神社(東京都墨田区)

2013-05-04 23:19:04 | 神社
吾嬬神社(あづまじんじゃ)。
場所:東京都墨田区立花1-1-15。JR総武本線「亀戸」駅から明治通りを北上、約900m。北十間川に架かる「福神橋」を渡り、右折(東へ)、直ぐ。
当神社の創建時期は不明であるが、次のような伝承がある。即ち、日本武尊が東征の折、相模国から上総国に渡るため海に乗り出したとき、海神の怒りを買って暴風が起こり、遭難の危機に陥った。このとき同行していた后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海神の怒りを解くために海に身を投げたところ、海が静まり、日本武尊一行は忽然と現れた浮島に無事上陸できた。この浮島に弟橘媛の着物が流れ着いたところから、これを築山に埋納し吾嬬大権現として祀ったのが当神社の創始である、というものである。また、当神社の境内に「連理の楠」という神木があるが、これは1つの根から2本の幹が出たもので、日本武尊が食事に使った箸を挿したものが大きく成長したものとされ、夫婦間の深い契りを象徴している。なお、「吾嬬」というのは、後に日本武尊が碓氷峠(日本書紀)または足柄峠(古事記)から東に向かい、弟橘媛を偲んで「あづまはや」(ああ、わが妻よ)と嘆いたということに因むもの。東国を「あづま(あずま)」と呼ぶのもこの故事により、また、関東には「吾妻神社」という神社が多数あって、弟橘媛命を祀っている。当神社も弟橘媛命を主祭神とし、日本武尊を相殿に祀る。鎮座地の「立花」というのも、当神社の弟橘媛命に由来するらしい。
さて、当神社の辺りは、江戸時代には「吾嬬の森」、「浮州の森」と呼ばれた微高地で、「日本武尊が築いた塚」との伝承があるように、古代の古墳ではないかという説もある。現在は長方形だが、本殿のある部分が更に少し高くなっていて、かつては円形になっていたといい、ひょっとすると前方後円墳だったかも?ということらしい。


墨田区のHPから(吾嬬神社の連理の楠)


写真1:「吾嬬神社」境内入口と社号標


写真2:鳥居と社殿。周囲より一段高くなっていることがわかる。長方形に整地されているが、古墳説もある。


写真3:古い社号標


写真4:神木「連理の楠」。墨田区の登録有形文化財。明治時代には幹周りが4~5mはあったというが、大正時代に枯れてしまった。この木の葉を煎じて飲むと、諸病に効くとされていたという。


写真5:「吾嬬森」の碑


写真6:石祠の本殿。更に一段高くなっている。


写真7:当神社の前を東西に流れる「北十間川」(福神橋から西を見る。正面に東京スカイツリー)。この川筋が古代~中世の海岸線だったらしい。
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