神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

足柄明神跡

2011-11-29 23:57:38 | 神社
足柄明神跡(あしがらみょうじんあと)。
場所:静岡県駿東郡小山町竹之下と神奈川県南足柄市矢倉沢の境界付近。静岡県道・神奈川県道78号線(御殿場大井線)沿いで、足柄峠から神奈川県側に少し下がったところ。駐車場なし(「足柄峠広場公園」に駐車場あり)。
現在、神奈川県南足柄市苅野274に鎮座する「足柄神社」は、社伝によれば、天慶3年(940年)に明神ヶ岳に祀られたのが創始で、足柄峠、矢倉岳に遷座した後、鎌倉時代末期に現在地に遷座したとされる。このため、明治時代には「矢倉神社」と称したが、昭和14年に「足柄神社」に改称したという。主祭神は天照皇大御神であるが、伝承によれば、日本武尊東征のとき、明神ヶ岳から足柄峠を越えようとして道に迷い、白鹿に導かれて無事に峠を越えたといい、これを神霊の導きであるとして祀ったものという。
足柄峠の「足柄明神跡」は、その足柄峠の神社跡とされ、いわば足柄峠越えの守り神である。創建伝説に日本武尊が関わるということは、古代東海道沿いの神社には、よくある。矢倉岳山頂(870m)には、今も石祠があり、いわば「足柄神社」の奥宮とされているようだが、「足柄神社」は中世には神仏混淆しており(苅野には本地仏として聖観音像を祀る観音堂が残っている。)、山頂に祠を置くというのも中世的というか、密教・修験の影響と思う。古代には、単に旅の安全を守る山の神、または道の神だったのだろうと思われる。
なお、足柄峠は、中世後期に足柄城が築かれ、「足柄明神跡」も足柄城の出丸として利用されたところという。


景図工房さんのHPから(足柄神社)

神奈川県神社庁のHPから(足柄神社)


写真1:「足柄明神跡」入口の鳥居。扁額は「足柄明神」


写真2:今は玉垣に囲まれた石祠がある。


写真3:同上

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足柄関所跡

2011-11-25 23:57:24 | 史跡・文化財
足柄関所跡(あしがらせきしょあと)。
場所:静岡県駿東郡小山町竹之下と神奈川県南足柄市矢倉沢の境界付近。静岡県道・神奈川県道78号線(御殿場大井線)の足柄峠付近。「足柄峠広場」に駐車場有り。
8世紀末になると、律令制度が動揺し始め、次第に維持し難くなっていく。都の権威が衰え、9世紀には東国では各地で騒乱が起こるようになる。元慶2年(878年)の地震により相模国分寺の本尊である薬師如来像及び脇持仏像が破損し、その後火災により焼失したとの不吉な知らせが都に届いた。ちょうどその頃、足柄峠付近で、都へ運ぶ調庸(租税)の荷や馬を群盗(「しゅう馬の党」(「しゅう」は人偏に就という字)という。)が奪う事件が続発し、寛平元年(889年)には物部氏永という「強盗首」が蜂起し、暴れまわった。このようなことから、昌泰2年(899年)、相模国足柄坂・碓氷坂に関を設置する旨の太政官符が発せられている。ただし、当時、足柄峠の関所がどの場所に設けられたかは不明(峠付近ではなく、麓に設けられることのほうが多かったともいう。)で、現在の関所跡も、黒澤明監督の映画「乱」の撮影で使われたセットを移築したものだとか(笑)。
因みに、寛平元年(889年)、高望王が「平朝臣」の氏姓を与えられ、昌泰元年(898年)には上総介に任じられて、任地の上総国に赴いた。平高望は息子ら(平国香等)とともに関東地方で勢力を拡大し、いわゆる坂東平氏の基盤を固めたとされる。こうして、武士の時代に入っていくことになるのである。
さて、「足柄関所跡」の県道向かい側に「足柄山 聖天堂」がある。現在は、曹洞宗の「大雄山 宝鏡寺」(住所:静岡県駿東郡小山町竹之下1462)に属するが、寺伝によれば、相模国早川の海辺に聖天像が流れ着いていたのを地元民が拾い上げて祀っていたのを、弘仁2年(811年)に弘法大師が足柄山に祀ったとされる。「足柄山 聖天堂」の本尊は、「大聖歓喜天双身天王」(略して「聖天」)の白い石像というが、秘仏のため見ることはできない。関守の神が「聖天」というのは珍しい(「聖天」は財福の神とされる。)が、元々「聖天」は悪神であったのが、観世音菩薩によって護法善神となったという説話がある。このため、「聖天」を祀る場合には、十一面観世音菩薩も併せて祀ることが多いという。したがって、元は観音像も祀られていて、日本坂峠にある「高草山 法華寺」(2011年4月22日記事)と同様、峠を越える人々を援助した「布施屋」の機能を持っていたのかもしれない。


写真1:「足柄関所跡」。


写真2:近くにある「足柄峠一里塚」。東海道が足柄路から箱根路に変更されたのは元和4年(1618年)のことという。


写真3:向かい側にある「足柄山 聖天堂」。ここにも、熊に跨る金太郎像がある。
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駿河国の古代東海道(その13・足柄峠)

2011-11-22 23:55:33 | 古道
古代東海道は、「横走」駅を過ぎて、駿河国と相摸(相模)国の国境である「足柄峠」を越えた。「足柄峠」は「足柄坂」とも呼ばれ、「足柄坂」の東の東海道(この場合は、行政区画(国)の意味)を「坂東(ばんどう)」といった。また、古事記によれば、日本武尊が東征からの帰路、足柄峠から東を向いて、東征の途中で失った妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ…)と慨嘆したというところから、足柄峠より東を「あづま」と称するようになったとされる。なお、日本書紀では、この逸話は碓氷峠でのこととしている。
「足柄路」は延暦21年(802年)の富士山の噴火で通行不能になり、一時的に「筥荷(箱根)路」が代替したが、僅か1年で旧に復した。駅家制度が廃絶した後も、紀行文などでみると、「更級日記」(1020年頃)と「海道記」(1223年頃)では「足柄路」を通っているが、「東関紀行」(1242年頃)と「十六夜日記」(1278年頃)では「箱根路」を越えている。江戸時代になると、距離を短縮できる「箱根路」が整備され、こちらがメインルートとなった。


写真1:JR御殿場線「足柄」駅にある「足柄山 金太郎」像。金太郎は坂田金時の幼名といい、「金時神社」(小山町)の社伝によれば、金太郎の生誕は天暦10年(956年)5月だとする。


写真2:足柄峠の登り口。自動車は右へ(県道78号線)、古道は直進。


写真3:峠近くの「足柄古道」


写真4:「足柄峠」の案内板。日本武尊の「吾妻はや」の伝承も記載されている。


写真5:「足柄峠広場」(足柄城の一の郭だったところ)。毎年9月の第2日曜日に、小山町(駿河国)と南足柄市(相模国)とで「領地争奪綱引き合戦」が行われ、勝者が1年間この広場を領地とする。このときは、広場は駿河国領だった。この広場から見る富士山は絶景だが、あいにく訪問日には雲がかかって見えなかった。
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上横山遺跡

2011-11-18 22:24:22 | 史跡・文化財
上横山遺跡(かみよこやまいせき)。
場所:静岡県駿東郡小山町竹之下。静岡県立小山高校(住所:静岡県駿東郡小山町竹之下369)の南側。駐車場なし。
「上横山遺跡」は、東名高速道路の東側に広がる台地上にある、奈良時代初め(8世紀前半)の遺跡で、昭和55年の発掘調査により、竪穴式住居跡28棟、掘立柱建物(倉庫?)跡6棟が発見された。また、ここから出土した土器は、静岡県東部のもののほか、山梨県や神奈川県のもの、更には平城京で使われた土器に類似したものも見つかっている。実は、小山高校の敷地からも金属製の馬具等も見つかっている(「横山遺跡」と称されている。)。小山高校の南側の道路は足柄峠への道路ともつながっていることも考え合わせると、これらの遺跡が交通の要衝にあり、あるいは古代東海道に面していたのではないかとも考えられている。多数の住居・倉庫の存在や、その配置等から考えると、地方豪族の屋敷跡か官衙跡とされているが、あるいは、元は地方豪族の館であったものを、足柄峠越えの布施屋としたのかもしれない。いやいや、ひょっとすると、これが「横走」駅家だったかもしれない。「長倉」駅家からやや距離が離れるが、この辺りの古代東海道は何度か富士山の噴火被害にあっているはずで、駅家も被害を避けて別の場所に再建されたということもないとは言えない。創設当初の駅家の場所とは異なる、何回かの移転先かもしれない。もちろん、何の証拠もないので、妄想レベルだけれども。


写真1:「上横山遺跡」説明板。遺跡自体は広い工場敷地の中。


写真2:道路の向かい側には「陣場」戦跡の碑もある。足利尊氏軍と新田義貞軍(官軍)が戦った「竹之下合戦」(1335年)で、官軍
が布陣したところらしい。尊氏軍は足利峠の東側に布陣。


写真3:「上横山遺跡」付近から見る富士山
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中清水水神公園

2011-11-15 23:41:43 | その他
中清水水神公園(なかしみずすいじんこうえん)。
場所:御殿場市中清水641-1地先。国道246号線「矢場居」交差点から東に約200m入ると、道路の中央に木が生えているところがあるので、そこを右折(南へ)。「中清水報徳会館」という公民館?の先。駐車スペースあり。
富士山麓には多くの水源があるが、「中清水水神公園」もその一つで、小祠ながら鳥居を備えた「水神社」があり、清らかな水が湧き出している。この辺りは「駒門風穴」の真北、約1.5kmの場所にあり、「横走関」や古代東海道の「横走」駅の想定地内にあるといってよい場所である(2011年11月8日記事参照)。富士山の度重なる噴火によって、地形その他風景全体が古代とは全く違ったものになっているはずなので、当時と比べることはできないが、菅原孝標女が「更級日記」に記した「えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし。」という情景は、例えば下の写真2のような姿だったとは考えられられないだろうか。清水が湧く場所も長い年月には変わってしまっただろうが、古くから、このような場所が多く見られたのではないだろうか。長い旅路には、泉はまさにオアシスであり、こうしたところにこそ駅家が置かれたのだろうと思う。


「名水アルバム」さんのHPから(中清水水神公園)


写真1:「水神公園」の看板


写真2:池の北側の水源。石の祠がある。


写真3:池の中の石像。不動明王だろうか?


写真4:池の南側の「水神社」。裏手に水源がある。





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