不知八幡森(しらずやわたのもり)。
場所:千葉県市川市八幡2-8。JR総武本線「本八幡」駅の北東、約200m。国道14号線沿いで、市川市役所の斜め向かい(南西側)。「葛飾八幡宮」(前項)の大鳥居の向かい側でもある。駐車場なし。
「不知八幡森」は、「八幡不知森(やわたしらずのもり)」、「八幡の藪知らず」ともいう。18m四方ほどの雑木林で(江戸時代には既に同程度の広さになっていたという。)、かつては様々な樹木で覆われていたらしいが、現在では殆ど竹林になり、奥まで見通せないというほどではない。ちょっと見ただけでは判らないが、中央に窪みがあり、国道側から見て向って左端(東端)が少し盛り上がっているという。一画に小祠が祀られ、立派な石鳥居の扁額に「不知森神社」とあって、その脇に「不知八幡森」の石碑が建立されている。しかし、それ以外の部分は玉垣とフェンスに囲まれて出入口はなく、禁足地となっている。入ると出られなくなるといわれ、これを迷信だとして水戸黄門こと徳川光圀が入ったところ、白髪の老人が現れて「戒めを破って入るとは何事か。汝は貴人であるから罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と叱られたという話は有名。
ここが禁足地となった理由については諸説あって、
①日本武尊の陣地であったため、
②平将門または平良将(将門の父)(あるいは、その他の貴人等)の墓所であるため、
③平将門と戦った平貞盛が「八門遁甲の陣」を敷いた場所で、その「死門」に当たり、入ると災いがあるため、
④「葛飾八幡宮」の旧地であったため、
⑤中央の窪地が放生池(魚等を放って、供養を行う池)だったため、
⑥行徳村の飛地の入会地で、八幡村民は立入禁止であったため、
など様々あって、一定しない。
このうち、①は、あるいは国道14号線が古代東海道のルートであったらしいことと関係があるかもしれないが、日本武尊自身がこの地に来たかどうかすら怪しい。②平将門または平良将の墓所とされる場所は他にもあり、この地だけを禁足地とするほどの必要があったか疑問。③は根拠不明で、論評の外だろう。④については、「葛飾八幡宮」の旧地は現・市川市宮久保付近(現在地の北東、約2km)といわれており、少なくとも中世まで国道14号線より南側はすぐ海(東京湾)だったことから、これも根拠が薄い。⑤も同様だろう。⑥は、他説のように「聖地」、「心霊スポット」的な要素がなく、ありそうなことのようにも思われる。しかし、そうであれば近世の資料もあるはずだが、どうやら証拠はないらしい。ところで、②には、平将門が討たれた後、家来がここまで将門の首を運んだとき、家来は動けなくなり、土偶人になってしまったという説もある。それが真実なら超常現象だが、合理的に考えるなら、将門の墓よりもっと古い古墳があり、埴輪の破片が出土していたのではないかとも思える。さて、真実はどこに?
「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(不知八幡森)
写真1:「不知森神社」。祭神不明。
写真2:「不知八幡森」の石碑。安政4年(1857年)に伊勢屋宇兵衛という人物が建てたらしい。
写真3:全景。さして広くないのがわかる。前面の道路が国道14号線(千葉街道)。
場所:千葉県市川市八幡2-8。JR総武本線「本八幡」駅の北東、約200m。国道14号線沿いで、市川市役所の斜め向かい(南西側)。「葛飾八幡宮」(前項)の大鳥居の向かい側でもある。駐車場なし。
「不知八幡森」は、「八幡不知森(やわたしらずのもり)」、「八幡の藪知らず」ともいう。18m四方ほどの雑木林で(江戸時代には既に同程度の広さになっていたという。)、かつては様々な樹木で覆われていたらしいが、現在では殆ど竹林になり、奥まで見通せないというほどではない。ちょっと見ただけでは判らないが、中央に窪みがあり、国道側から見て向って左端(東端)が少し盛り上がっているという。一画に小祠が祀られ、立派な石鳥居の扁額に「不知森神社」とあって、その脇に「不知八幡森」の石碑が建立されている。しかし、それ以外の部分は玉垣とフェンスに囲まれて出入口はなく、禁足地となっている。入ると出られなくなるといわれ、これを迷信だとして水戸黄門こと徳川光圀が入ったところ、白髪の老人が現れて「戒めを破って入るとは何事か。汝は貴人であるから罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と叱られたという話は有名。
ここが禁足地となった理由については諸説あって、
①日本武尊の陣地であったため、
②平将門または平良将(将門の父)(あるいは、その他の貴人等)の墓所であるため、
③平将門と戦った平貞盛が「八門遁甲の陣」を敷いた場所で、その「死門」に当たり、入ると災いがあるため、
④「葛飾八幡宮」の旧地であったため、
⑤中央の窪地が放生池(魚等を放って、供養を行う池)だったため、
⑥行徳村の飛地の入会地で、八幡村民は立入禁止であったため、
など様々あって、一定しない。
このうち、①は、あるいは国道14号線が古代東海道のルートであったらしいことと関係があるかもしれないが、日本武尊自身がこの地に来たかどうかすら怪しい。②平将門または平良将の墓所とされる場所は他にもあり、この地だけを禁足地とするほどの必要があったか疑問。③は根拠不明で、論評の外だろう。④については、「葛飾八幡宮」の旧地は現・市川市宮久保付近(現在地の北東、約2km)といわれており、少なくとも中世まで国道14号線より南側はすぐ海(東京湾)だったことから、これも根拠が薄い。⑤も同様だろう。⑥は、他説のように「聖地」、「心霊スポット」的な要素がなく、ありそうなことのようにも思われる。しかし、そうであれば近世の資料もあるはずだが、どうやら証拠はないらしい。ところで、②には、平将門が討たれた後、家来がここまで将門の首を運んだとき、家来は動けなくなり、土偶人になってしまったという説もある。それが真実なら超常現象だが、合理的に考えるなら、将門の墓よりもっと古い古墳があり、埴輪の破片が出土していたのではないかとも思える。さて、真実はどこに?
「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(不知八幡森)
写真1:「不知森神社」。祭神不明。
写真2:「不知八幡森」の石碑。安政4年(1857年)に伊勢屋宇兵衛という人物が建てたらしい。
写真3:全景。さして広くないのがわかる。前面の道路が国道14号線(千葉街道)。