現・茨城県潮来市の「長勝寺」境内(仏殿横)に「潮来の駅家跡」という木碑が建てられている。古代のハイウェイともいうべき「古代東海道」は、元々、上総国(現・千葉県南部)から下総国(現・千葉県北部)を経て常陸国(現・茨城県)に入るルートだったが、後に、上総国を経由しないで通るルートに変更された。また、別路として、下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)及び常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)付近を通るルートがあったとされている。それが「眞敷(ましき)」駅(現・千葉県成田市南敷?)~「板来(いたく)」駅(現・茨城県潮来市潮来?)~「曾尼(そね)」駅(現・茨城県行方市玉造?)~常陸国府(現・茨城家石岡市総社一丁目)というルートで、「板来」駅家と「曾尼」駅家のことは「常陸国風土記」行方郡条にも記載がある。「板来」駅家についての「常陸国風土記」の記事によれば、「板来村がある。海辺に近接して駅家を置いている。これを板来駅という。」(現代語訳)となっており、海辺というのは、現・潮来市は常陸利根川の左岸(北岸)に位置するが、古代、南側には内海の「香取海」が広がっていて、対岸の下総国から船で渡ってきたからだろう。因みに、「板来」という地名は、潮(海水)を方言で「イタ」と呼び、その打ち寄せるところとして「伊多来」、「板来」と当て字していたのを、元禄11年(1698年)に第2代水戸藩主・徳川光圀が「潮来」と改称したともいわれている。ところで、現在の「潮来」が「板来」の遺称地であることはほぼ間違いないとしても、「板来」駅家の遺跡はまだ見つかっていないので、厳密には所在地は確定していない。よって、「長勝寺」境内が「板来」駅家の跡とは断定できないが、「稲荷山」という山の南麓にあって、南側は常陸利根川に近いので、十分あり得ることだろう(なお、「稲荷山」は現在「稲荷山公園」となっていて、全長約28mの前方後円墳など8基が確認されている「稲荷山古墳群」がある。)。「鹿島神宮」が重要視されたのは、ヤマト政権からの蝦夷征討政策の前線基地だったからという説がある。その意味でいえば、蝦夷征討は奈良時代末~平安時代初めには概ね一段落し、その後は融和政策が採られていく。「板来」駅は、「日本後記」によれば、弘仁6年(815年)に廃止となっているが、これはそうした経緯の中でのことかと思われる。
蛇足:現・潮来市から常陸国府があった現・石岡市までは、現・霞ケ浦の東岸を北東に進めば、自然に到着する(国道355号線がある。)が、古代東海道のルートとしては行方台地上を通る、現在で言えば茨城県道50号線(水戸神栖線)が概ね相当したらしい。また、潮来からは、「鹿島神宮」に向かう支道があったと思われる。現在もJR鹿島線があり、「香取神宮」の最寄駅である「香取」駅から「潮来」駅を経由して「鹿島神宮」駅に行く。「鹿島神宮」の地政学的な意味は上記の通りだが、このルートでは2回、「香取海」を越える(現・常陸利根川と北浦)ことになるので、これも駅家の維持が難しくなった理由の1つではなかろうかと思われる。なお、「板来」駅家の所在地としては、潮来市潮来付近ではなく、潮来市延方(新宮地区)とする説も有力。こちらの方が、北浦を隔てて「鹿島神宮」とすぐ向かい合う場所にあり、「常陸国風土記」に「板来の南の海に、周囲3~4里(約1.5~2km)の洲がある。春には香島・行方両郡の男女が集まり、様々な貝を拾う。」という記述によく適合するとされる。
海雲山 長勝寺(かいうんざん ちょうしょうじ)。
場所:茨城県潮来市潮来428。国道51号線「土木事務所入口」交差点から南へ約110m進むと、広い「潮来市営長勝寺東駐車場」(無料)がある。山門へは、そこから南西へ約300mだが、途中の道路も狭い住宅地なので、自動車の場合は市営駐車場に止めれば、すぐ西側が「長勝寺」である。なお、JR鹿島線「潮来」駅からは、山門まで約650m(徒歩約8分)。
創建時期は不明だが、文治元年(1185年)に源頼朝が武運長久を祈願して創建したとの伝承がある。現存する銅鐘(国指定重要文化財)は、その銘によれば、元徳2年(1330年)、源頼朝の追善供養のために相模禅定門崇鑑(鎌倉幕府第14代執権・北条高時)が大檀那となって奉納したものとされる。仏殿(本堂)は室町時代後期のもので、茨城県指定有形文化財となっている。しかし、江戸時代には寺勢が衰え、荒廃していたため、これを憂えた水戸藩第2代藩主・徳川光圀が京都「妙心寺」第253世住職を務めた太嶽祖清禅師を招いて中興開山し、諸堂宇を再建した。楼門・方丈・書院・玄関・隠寮・庫裡(これらも茨城県指定有形文化財)などは、再建された元禄年間(1688~1704年)頃のもので、その後、幕府からも寺領10石の朱印状を賜り、隆盛したという。現在は臨済宗妙心寺派に属し、本尊は阿弥陀如来(伝・運慶作とされ、両脇侍像と共に茨城県指定有形文化財)。
写真1:「長勝寺」山門と寺号標(「長禅禅寺」)
写真2:山門(楼門)。元は真言宗豊山派「普門院」(現・潮来市洲崎)の山門を移築したものという。山門前は桜の名所となっている。
写真3:仏殿(本堂)
写真4:「文治梅(ぶんじばい)」。源頼朝手植えという梅の古木。傍にあるのは、「三吟句碑」で、俳人の松江・芭蕉・曾良の連句を記した石碑。
写真5:鐘楼。銅鐘は「常陸三古鐘」の1つとされる(他の2つは、茨城県土浦市の「等覚寺」と「般若寺」のもの。)。
写真6:勢至堂
写真7:玄関
写真8:「潮来の駅家跡」木碑。目立たない場所にあり、説明板もないので、多くの観光客には顧みられないことだろう。
蛇足:現・潮来市から常陸国府があった現・石岡市までは、現・霞ケ浦の東岸を北東に進めば、自然に到着する(国道355号線がある。)が、古代東海道のルートとしては行方台地上を通る、現在で言えば茨城県道50号線(水戸神栖線)が概ね相当したらしい。また、潮来からは、「鹿島神宮」に向かう支道があったと思われる。現在もJR鹿島線があり、「香取神宮」の最寄駅である「香取」駅から「潮来」駅を経由して「鹿島神宮」駅に行く。「鹿島神宮」の地政学的な意味は上記の通りだが、このルートでは2回、「香取海」を越える(現・常陸利根川と北浦)ことになるので、これも駅家の維持が難しくなった理由の1つではなかろうかと思われる。なお、「板来」駅家の所在地としては、潮来市潮来付近ではなく、潮来市延方(新宮地区)とする説も有力。こちらの方が、北浦を隔てて「鹿島神宮」とすぐ向かい合う場所にあり、「常陸国風土記」に「板来の南の海に、周囲3~4里(約1.5~2km)の洲がある。春には香島・行方両郡の男女が集まり、様々な貝を拾う。」という記述によく適合するとされる。
海雲山 長勝寺(かいうんざん ちょうしょうじ)。
場所:茨城県潮来市潮来428。国道51号線「土木事務所入口」交差点から南へ約110m進むと、広い「潮来市営長勝寺東駐車場」(無料)がある。山門へは、そこから南西へ約300mだが、途中の道路も狭い住宅地なので、自動車の場合は市営駐車場に止めれば、すぐ西側が「長勝寺」である。なお、JR鹿島線「潮来」駅からは、山門まで約650m(徒歩約8分)。
創建時期は不明だが、文治元年(1185年)に源頼朝が武運長久を祈願して創建したとの伝承がある。現存する銅鐘(国指定重要文化財)は、その銘によれば、元徳2年(1330年)、源頼朝の追善供養のために相模禅定門崇鑑(鎌倉幕府第14代執権・北条高時)が大檀那となって奉納したものとされる。仏殿(本堂)は室町時代後期のもので、茨城県指定有形文化財となっている。しかし、江戸時代には寺勢が衰え、荒廃していたため、これを憂えた水戸藩第2代藩主・徳川光圀が京都「妙心寺」第253世住職を務めた太嶽祖清禅師を招いて中興開山し、諸堂宇を再建した。楼門・方丈・書院・玄関・隠寮・庫裡(これらも茨城県指定有形文化財)などは、再建された元禄年間(1688~1704年)頃のもので、その後、幕府からも寺領10石の朱印状を賜り、隆盛したという。現在は臨済宗妙心寺派に属し、本尊は阿弥陀如来(伝・運慶作とされ、両脇侍像と共に茨城県指定有形文化財)。
写真1:「長勝寺」山門と寺号標(「長禅禅寺」)
写真2:山門(楼門)。元は真言宗豊山派「普門院」(現・潮来市洲崎)の山門を移築したものという。山門前は桜の名所となっている。
写真3:仏殿(本堂)
写真4:「文治梅(ぶんじばい)」。源頼朝手植えという梅の古木。傍にあるのは、「三吟句碑」で、俳人の松江・芭蕉・曾良の連句を記した石碑。
写真5:鐘楼。銅鐘は「常陸三古鐘」の1つとされる(他の2つは、茨城県土浦市の「等覚寺」と「般若寺」のもの。)。
写真6:勢至堂
写真7:玄関
写真8:「潮来の駅家跡」木碑。目立たない場所にあり、説明板もないので、多くの観光客には顧みられないことだろう。