寒川神社(さむかわじんじゃ)。
場所:千葉市中央区寒川町1丁目123番地。国道357号線の1本東側の道路(これが旧街道らしい。)沿いで、寒川小学校の東側。駐車場有り。
当神社の創建は不明。御神宝の獅子頭に、室町時代の文明13年(1481年)銘があり、そのときに社殿も修復したとの記載があるので、創建はそれ以前となる。一説によれば、当神社が下総国式内社「寒川神社」であるという。
江戸時代には、当地寒川村にある神明社が式内社「寒川神社」とされることが多かった。しかし、当地は天正年間(1573~1592年)頃までは結城村と称しており、その後、清泉があったことから寒川村に改称したという。また、当神社は寒川新田と呼ばれたところにあり、式内社が鎮座するような場所ではなかったというようなことが考証され、千葉県船橋市にある「三山大明神」こと「二宮神社」が式内社「寒川神社」とされるようになり、今では通説となっている(このことは下記「寒川神社」のHPの付録にも記されている。)。
では、なぜ当神社が「寒川神社」とされるようになったのか。それはもちろん、鎮座地が寒川という地名であり、少なくとも江戸時代には既に下総国に「寒川神社」と称する神社がなかったことが大きいと思われる。それに加えて、当地は現在では静かな住宅地だが、かつては千葉の大きな漁業港として栄え(明治時代には魚市場も置かれた。)、経済力が豊かであった。そうした中で、網元などから、海上安全の神として、古社である当神社に対する信仰が篤かったという事情もありそうである。なお、当神社の祭神は、元々は神明社であったことから天照大神であったが、寒川神社と称するようになって相模国一宮「寒川神社」に合わせて寒川比古命・寒川比売命を祀るようになったらしい。
当神社は、式内社「寒川神社」の論社として必ず俎上に載せられ、その度に式内社であることを否定されるという残念な状況になっているが、下総国に「寒川神社」という名の神社が他には無くなっている現在、ある意味貴重な存在と言えるのではないだろうか。
下総国 寒川神社のHP
写真1:「寒川神社」正面鳥居
写真2:社殿前の鳥居と社号標(シンプルに「寒川神社」)
場所:千葉市中央区寒川町1丁目123番地。国道357号線の1本東側の道路(これが旧街道らしい。)沿いで、寒川小学校の東側。駐車場有り。
当神社の創建は不明。御神宝の獅子頭に、室町時代の文明13年(1481年)銘があり、そのときに社殿も修復したとの記載があるので、創建はそれ以前となる。一説によれば、当神社が下総国式内社「寒川神社」であるという。
江戸時代には、当地寒川村にある神明社が式内社「寒川神社」とされることが多かった。しかし、当地は天正年間(1573~1592年)頃までは結城村と称しており、その後、清泉があったことから寒川村に改称したという。また、当神社は寒川新田と呼ばれたところにあり、式内社が鎮座するような場所ではなかったというようなことが考証され、千葉県船橋市にある「三山大明神」こと「二宮神社」が式内社「寒川神社」とされるようになり、今では通説となっている(このことは下記「寒川神社」のHPの付録にも記されている。)。
では、なぜ当神社が「寒川神社」とされるようになったのか。それはもちろん、鎮座地が寒川という地名であり、少なくとも江戸時代には既に下総国に「寒川神社」と称する神社がなかったことが大きいと思われる。それに加えて、当地は現在では静かな住宅地だが、かつては千葉の大きな漁業港として栄え(明治時代には魚市場も置かれた。)、経済力が豊かであった。そうした中で、網元などから、海上安全の神として、古社である当神社に対する信仰が篤かったという事情もありそうである。なお、当神社の祭神は、元々は神明社であったことから天照大神であったが、寒川神社と称するようになって相模国一宮「寒川神社」に合わせて寒川比古命・寒川比売命を祀るようになったらしい。
当神社は、式内社「寒川神社」の論社として必ず俎上に載せられ、その度に式内社であることを否定されるという残念な状況になっているが、下総国に「寒川神社」という名の神社が他には無くなっている現在、ある意味貴重な存在と言えるのではないだろうか。
下総国 寒川神社のHP
写真1:「寒川神社」正面鳥居
写真2:社殿前の鳥居と社号標(シンプルに「寒川神社」)