神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

薩都神社(常陸国式内社・その23)

2019-09-28 23:42:05 | 神社
薩都神社(さつとじんじゃ)。
場所:茨城県常陸太田市里野宮町1052。国道349号線「瑞竜山入口」交差点から南に向かう道路(国道沿いにあるコンビニ「セブンイレブン常陸太田里野宮町店」の裏の道路)に入り、約300m。駐車場あり(神社の北側、「コミュニティ消防センター第3分団第1部」という建物の裏手の広場)。
「常陸国風土記」によれば、「長幡部神社」(前項)が鎮座する久慈郡太田郷の北に「薩都の里」があり、昔、「土雲(つちくも)」という「国栖(くず)」が居たが、兎上命(ウナカミ)が出兵して誅滅した。それで「よく殺して福(幸=さち)なことだ」と言ったことから、「佐都(さつ)」と名付けた、という。また、往古、立速男命(タチハヤオ)、別名・速経和気命(ハヤフワケ)という神が松沢というところの松の樹に降り立った。この神は、村人がその松の樹に向かって大小便をすると、病気にさせるなどして祟った。そこで、朝廷は片岡大連を遣わして、「神がいらっしゃるところは百姓が近くに住んでいて穢れのある場所です。高い山の清浄なところに移ってください。」と申し上げたところ、「賀毘礼の高峰」に登られた、という。これらを踏まえて、社伝によれば、「松沢」は当神社の南約700mの「松崎」(国道349号線沿いに同名のバス停がある。)であるとし、そこに延暦7年(788年)に最初の社が建てられたとする。そして、立速男命が「賀毘礼の高峰」に移ったのが延暦19年(800年)であるが、険しい山の上で、里人が参拝するのが困難であることから、大同元年(806年)に小中島(現社地の東隣)に里宮を建立、大永2年(1522年)に現社地に遷座したとされる。史料では、「続日本後紀」承和13年(846年)条に「常陸国勲十等薩都神に従五位下を授ける。」、「日本三代実録」貞観8年(866年)条に「常陸国従五位上勲七等の薩都神に正五位上を授ける。」、同・貞観16年(874年)条に「常陸国正五位上勲七等の薩都神に従四位下を授ける。」という記事があり、「延喜式神名帳」登載の「薩都神社」に比定される式内社。なお、社号の読み方は一般に「さとじんじゃ」とされているが、茨城県神社庁のHPでは「さつとじんじゃ」となっている。また、「久慈郡二の宮」という言い方もあるが、これは「延喜式神名帳」久慈郡内7座の登載順によるもの(官社に預かった順番に登載されたといわれている。)のようである。


茨城県神社庁のHPから(薩都神社)


写真1:「薩都神社」境内入口。神橋と社号標({式内(郷社)薩都神社」)。松の木も印象的。なお、松の木の後ろに鳥居があったようだ。


写真2:鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿
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長幡部神社(茨城県常陸太田市)(常陸国式内社・その22)

2019-09-21 23:19:22 | 神社
長幡部神社(ながはたべじんじゃ)。
場所:茨城県常陸太田市幡町539。国道349号線「金井町」交差点から茨城県道61号線(日立笠間線)を東~南東へ、約1.2km。「参道入口」の案内碑が建っているところから、社殿までは徒歩数分(約200m)。参道入口からは狭い道路で、行き止まりになるので、自動車では入らないように注意。なお、かなり大回りになるが、社殿の裏手を通る道路があり、そちらの方に駐車スペースがあるようだ(未確認)。
「常陸国風土記」(養老5年:721年成立?)によれば、皇孫・瓊瓊杵尊(ニニギ)が天降った時、その御服を織るために機具を携えて綺日女命(カムハタヒメ)が付き従ってきた。始めは筑紫国(現・福岡県)に降り立ち、美濃国(現・岐阜県)に移った。崇神天皇の御代(3世紀後半頃?)に、子孫の多弖命(タテ)が美濃国から常陸国に移住し当地に機殿(はたどの)を建ててて「長幡」(絹織物の1種。絁(あしぎぬ)」)を織った。「長幡部」は「長幡」を織る職業集団で、当神社はその祖を祀ったものという。「延喜式神名帳」に登載された「長幡部神社」に比定される式内社であるが、中世以降は「小幡足明神」、「駒形神社」と称され、また康平年間(1058~1065年)に源頼義が奥羽出兵の際に戦勝祈願を行い、凱旋時に鹿島・三島・神明(伊勢)・若宮(八幡)の「四所明神」を勧請したとことから「長幡部神社」の社号が忘れられ、後には「鹿島明神」と称するのみになったと伝えられる。延享年間(1744~1748年)になって、古老の口碑により旧号の「長幡部神社」に復したという。現在の祭神は、綺日女命と多弖命。
なお、現社地の北西、約700mのところに「元宮」と呼ばれるところがあり、旧社地であるというが、現在は「幡町団地」の南側の畑の中で、何の痕跡もない。現社地は小高いところにあるが、旧社地は里川の左岸(東岸)の平坦地で、「長幡部」の部民が機織りをしていた集落があったのかもしれない。


写真1:「長幡部神社」参道入口


写真2:参道石段


写真3:一の鳥居。笠木・島木・神額が落ちてしまっていた。


写真4:二の鳥居


写真5:社殿正面


写真6:同上


写真7:境内
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鏡ヶ池(茨城県常陸大宮市)

2019-09-14 23:23:42 | 伝説の地
鏡ヶ池(かがみがいけ)。
場所:茨城県常陸大宮市下岩瀬501(春日神社の住所)。茨城県道61号線(日立笠間線)の久慈川に架かる「栄橋」の南西側の信号機がある交差点を北西へ、約1.5km。県道から少し東に入ったところに「下岩瀬新農村集落センター」があり、その近くに「鏡ヶ池」の案内板が立っている。「春日神社」社殿は「集落センターの南側、「鏡ヶ池」はその東側になる。駐車場は「集落センター」駐車場を利用。
現・茨城県常陸太田市の「長者屋敷跡」(前項)の「万石長者伝説」には続きがある。「万石長者」も、他の長者伝説と同様に、八幡太郎・源義家の軍勢に豪華な饗応をしたために却って警戒を持たせ、滅ぼされたという話であるが、違うのは、長者の幼い娘(朝日姫)が乳母に助けられて脱出し、現・茨城県常陸大宮市下岩瀬の「春日神社」付近に隠れ住んだ、というところである。「長者屋敷跡」からは、間に久慈川を挟むが、南西に直線距離で3km程。伝説によれば、朝日姫が18歳になったとき、万石長者の家を再興しようと、「岩瀬大明神」(現・「春日神社」)に百ヵ日の祈願を行った。その満願の日の朝、池辺の松に秘蔵の「八稜鏡」を掛けて化粧を始めたところ、誤って鏡を池の中に落としてしまった。朝日姫は、慌てて鏡を拾おうとして足を滑らし、池に落ちて溺れ死んだ。数百年経ち、池から妖気が漂うようになり、これが無念の思いを抱いて亡くなった朝日姫の怨霊であろうということになった。そこで、浄土宗「草地山 蓮華院 常福寺」(現・茨城県那珂市)第2世・了誉上人(上岩瀬城主・白石志摩守宗義の遺児という。1341~1420年)が朝日姫の霊を慰めて成仏させた。その後、一匹の亀が「八稜鏡」を背負って池から浮かび上がった。この鏡は「常福寺」に納められ、今も寺宝として保存されている(茨城県指定文化財。鎌倉時代中期頃の作とされる。)。また、当地では、亀を捕まえても、殺さずに「鏡ヶ池」に放つという。折角、生き延びたのに、神に祈って満願の日におぼれ死ぬ、数百年経ってから祟る、というようなところが、いろいろ割り切れない、理解しにくい話だが、色々な伝承が結びついて成立した民話なのだろうと思う。なお、「春日神社」の南西側に中世の館跡が発見されており(「下岩瀬館」)、そこに住んでいた若い女性が「鏡ヶ池」で溺れ死んだような事件があったのかもしれない。
因みに、下岩瀬の「春日神社」(常陸大宮市には同名の神社が4社ある。)は、社伝によれば、大同2年(807年)の創建。「岩瀬大明神」と称され、岩瀬地区の総鎮守であり、佐竹氏の祈願所でもあった。元禄年間(1688~1704年)、水戸藩第2代・徳川光圀の命により「春日神社」と改称したという。現在の祭神は、天照大神、天児屋根命、武甕槌命、経津主名、姫大神。


常陸大宮市観光協会のHPから(朝日姫と鏡ヶ池)

常福寺のHP:寺宝の「八稜鏡」の画像があります。


写真1:「春日神社 累代城主祈願所 霊跡鏡ヶ池」の案内板。「春日神社」よりも「鏡ヶ池」の文字の方が大きい。


写真2:「春日神社」社号標


写真3:同上、鳥居


写真4:同上、拝殿


写真5:同上、本殿


写真6:「鏡ヶ池」


写真7:同上


写真8:同上、ちょうど睡蓮(スイレン)が咲いていた。


写真9:「春日神社」と「鏡ヶ池」の由来を刻した石碑
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長者屋敷遺跡(茨城県常陸太田市)

2019-09-07 23:43:20 | 史跡・文化財
長者屋敷遺跡(ちょうじゃやしきいせき)。
場所:茨城県常陸太田市薬谷町・大里町。国道293号線と茨城県道166号線(和田上河合線)の「久米西」交差点から、県道を南~南東へ約1km。「金砂郷中学校」の南側で、県道と山田川に挟まれた地域。
「長者屋敷遺跡」は、古くから奈良~平安時代の土器や瓦、炭化米などが出土する地域で、「万石長者」(または「薬谷長者」)という大金持ちの屋敷があったという。伝説によれば、昔、ある孝行な若者が高齢の父に食べさせるため「袋田の滝」近くの「鰐ヶ淵」で鯉(コイ)を探していたところ、淵の主である竜が白髭の老人になって現れ、打ち出の小槌を授けられた。この若者が小槌のおかげで大金持ちになり、当地に移り住んで「万石長者」と呼ばれるようになったという。この「万石長者」にも、八幡太郎・源義家を饗応し、その豪華さのために義家に滅ぼされたという、所謂「長者伝説」が残っている(「台渡里官衙遺跡群」2019年3月16日記事参照)。面白いのは、「長者」は古代官道の駅長出身と伝えられることが多いが、「万石長者」は逆に、財を成してから駅長になったと伝えられていることである。ともあれ、「長者伝説」がある場所は、古代官衙があった場所の可能性が高いことは周知のことで、当地については、平成7年に行われた県道改良工事に伴う発掘調査により、方形に巡ると推定される溝が発見されたほか、「久寺」と墨書された土器も出土していることから、郡家に付属する寺院(郡寺)の存在が認められる。炭化米は正倉院(税として徴収された米や布等を納める倉庫)があった可能性もあり、確定されてはいないが、当地に「久慈郡家(郡衙)」があった可能性が高いと考えられるようになっている。
因みに、地域内にある「近津神社」は創建時期不明だが、元は「万石長者」の氏寺であったという。また、「長者屋敷遺跡」の南にある「糠塚古墳」は、「万石長者」が米糠を積んでできたものとの伝説がある。「糠塚」、あるいは「糠山」というのは各地にあり、大抵は、長者(大金持ち)が米糠を捨てたのが積み上がったもの(庶民には贅沢な白米を大量に消費していた象徴)という民話である。「万石長者」という人物が居たとして、どのような人物だったのか、は分からないが、久慈郡家に関係する人物だった可能性は高い。なお、茨城県内第2位の大きさを誇る「梵天山古墳」(2019年8月17日記事)は初代久自国造・船瀬足尼の墳墓とされるが、当地の南東、約3km(直線距離)のところにある。


写真1:「長者屋敷跡」石碑(場所:常陸太田市大里町3316付近。鮮魚・海鮮料理店「魚富」の向かい側。駐車場なし。)


写真2:同上


写真3:「糠塚古墳」(場所:常陸太田市薬谷町1407。県道沿い、上記石碑の南、約200m。駐車場なし。)。現在はかなり削平されているが、元は径30mほどの円墳であったらしい。昭和63年、周辺から人間や動物などの埴輪が出土したという。


写真4:「近津神社」(場所:常陸太田市薬谷町128。「金砂郷中学校」の南、約200m、駐車場なし。)。祭神:面足命(オモダル)・惶根命(カシコネ)。旧村社で、徳川光圀の寺社改革により、元禄7年(1694年)に「龍九寺」(廃寺。現在は薬師堂のみ再建されているとのこと。)境内から現在地に遷座して薬谷村の鎮守になったという。


写真5:同上、社殿
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