白磐神社(はくぱんじんじゃ)。通称:葉山神社。
場所:山形県寒河江市大字田代字葉山1192-2。「(村山)葉山」(標高1462m)山頂付近にあり、登山ルートはいくつかあるが、「畑コース」(登山口:「葉山市民荘」、所要時間約3時間、駐車場有り)が最も確実。国道458号線「十部-峠」から尾根沿いに登るコースは高低差が少なく登りやすい(所要時間約1時間)ので、単に参拝目的なら最も良いルートなのだが、林道の土砂崩れにより2015年12月まで復旧工事が行われており、通行止めとなっている。
当神社の創建時期は不明。「葉山」は本来「端山」で、「奥山」に対して里に近い山という意味なので、全国各地に同名の山があり、区別するために「村山葉山」とも通称する。地域や時期によっても違うが、「出羽三山」は江戸時代初期まで「羽黒山」・「月山」・「葉山」を指し、「湯殿山」は「総奥之院」の扱いだったともいう。そういう事情で、古くから「葉山修験」という一派が活動しており、その中心を成していたのが「医王山 金剛日寺 大円院(葉山大円院)」だったという。その神仏混淆の縁起によれば、天地開闢の折、国常立尊が「葉山」山頂に五色の華、即ち妙法蓮華経の5文字が開くのを見て、天下って「葉山地主神」となった。その本地は薬師如来である。大宝2年(702年)、役小角(役行者)の命により、弟子の行玄が開山したとされる。そして、「日本三代実録」貞観12年(870年)の記事に、出羽国の「白磐神」と「須波神」に従五位下の神階を授与したとあり、そのうちの「白磐神」が当神社のこととされている(国史現在社)。その確実な証拠はないが、現在も「葉山」の南側に広く「白岩」という地名が残っており、通説といってよい。中世以降も、当地の領主に篤く庇護されたが、16世紀中頃、ともに「葉山」を「奥之院」としていた大寺「瑞宝山 慈恩寺」が離反したため「葉山修験」は次第に衰退した。それでも「大円院」は新庄藩の祈祷所などとして重用され、最盛期には宿坊19坊、末寺51ヵ寺があったが、江戸時代中期には宿坊が6坊まで減少、明治時代に入ると修験道が禁止されたこともあって、ますます衰退した。更に、第二次大戦後、寒河江市白岩字畑にあった本堂付近がGHQアメリカ陸軍の演習場の着弾地とされたため、昭和30年に本堂を解体・縮小し現在地(村山市岩野)に移転したという。この間、「白磐神社」の変遷はよくわからないが、「葉山薬師権現」などと呼ばれ、「千座川」の水源の神として、主に「作神」(農業神)として信仰されていたようであり、新庄藩主・戸沢氏により何回か「奥之院」(社殿)建替えがなされた記録がある(文久元年:1861年など)、現在では「葉山」山頂付近に社殿があって、「葉山神社」とも通称されている。現在の祭神は大己貴命と国常立命。
ところで、「日本三代実録」によれば、仁和3年(887年)、出羽国守が「出羽郡井口地」にある国府を「最上郡大山郷保宝士野」に移転したいと申請したが、朝廷は許可せず、現国府の「近側高敞之地」(近くて高台の場所)への移転を命じている。「井口」国府が「城輪柵跡」、「高敞」国府が「八森遺跡」に比定されているが、「保宝士野」がどこかは不明(「八森遺跡」:2016年1月16日記事参照)。諸説あるが、現・山形県河北町の「畑中遺跡」から「大山郷」と墨書された須恵器杯が出土したことから、「大山」とは「葉山」のことであり、その東~東南の平野が「保宝士野」ではないかという説が有力となっている。
写真1:「白磐神社」
写真2:天台宗「葉山大円院」(場所:山形県村山市岩野。山形県道299号線(樽石河北線)沿い「岩野簡易郵便局」の南、約140mの交差点を右折(北西へ)、狭い道路を道なりに約300m。駐車スペースあり)。山門には「葉山大権現」の額、「葉山修験道 大圓院」の標札?が掛かっている。
写真3:同上、山王堂(葉山大権現)
写真4:同上、本堂。本尊:薬師如来
場所:山形県寒河江市大字田代字葉山1192-2。「(村山)葉山」(標高1462m)山頂付近にあり、登山ルートはいくつかあるが、「畑コース」(登山口:「葉山市民荘」、所要時間約3時間、駐車場有り)が最も確実。国道458号線「十部-峠」から尾根沿いに登るコースは高低差が少なく登りやすい(所要時間約1時間)ので、単に参拝目的なら最も良いルートなのだが、林道の土砂崩れにより2015年12月まで復旧工事が行われており、通行止めとなっている。
当神社の創建時期は不明。「葉山」は本来「端山」で、「奥山」に対して里に近い山という意味なので、全国各地に同名の山があり、区別するために「村山葉山」とも通称する。地域や時期によっても違うが、「出羽三山」は江戸時代初期まで「羽黒山」・「月山」・「葉山」を指し、「湯殿山」は「総奥之院」の扱いだったともいう。そういう事情で、古くから「葉山修験」という一派が活動しており、その中心を成していたのが「医王山 金剛日寺 大円院(葉山大円院)」だったという。その神仏混淆の縁起によれば、天地開闢の折、国常立尊が「葉山」山頂に五色の華、即ち妙法蓮華経の5文字が開くのを見て、天下って「葉山地主神」となった。その本地は薬師如来である。大宝2年(702年)、役小角(役行者)の命により、弟子の行玄が開山したとされる。そして、「日本三代実録」貞観12年(870年)の記事に、出羽国の「白磐神」と「須波神」に従五位下の神階を授与したとあり、そのうちの「白磐神」が当神社のこととされている(国史現在社)。その確実な証拠はないが、現在も「葉山」の南側に広く「白岩」という地名が残っており、通説といってよい。中世以降も、当地の領主に篤く庇護されたが、16世紀中頃、ともに「葉山」を「奥之院」としていた大寺「瑞宝山 慈恩寺」が離反したため「葉山修験」は次第に衰退した。それでも「大円院」は新庄藩の祈祷所などとして重用され、最盛期には宿坊19坊、末寺51ヵ寺があったが、江戸時代中期には宿坊が6坊まで減少、明治時代に入ると修験道が禁止されたこともあって、ますます衰退した。更に、第二次大戦後、寒河江市白岩字畑にあった本堂付近がGHQアメリカ陸軍の演習場の着弾地とされたため、昭和30年に本堂を解体・縮小し現在地(村山市岩野)に移転したという。この間、「白磐神社」の変遷はよくわからないが、「葉山薬師権現」などと呼ばれ、「千座川」の水源の神として、主に「作神」(農業神)として信仰されていたようであり、新庄藩主・戸沢氏により何回か「奥之院」(社殿)建替えがなされた記録がある(文久元年:1861年など)、現在では「葉山」山頂付近に社殿があって、「葉山神社」とも通称されている。現在の祭神は大己貴命と国常立命。
ところで、「日本三代実録」によれば、仁和3年(887年)、出羽国守が「出羽郡井口地」にある国府を「最上郡大山郷保宝士野」に移転したいと申請したが、朝廷は許可せず、現国府の「近側高敞之地」(近くて高台の場所)への移転を命じている。「井口」国府が「城輪柵跡」、「高敞」国府が「八森遺跡」に比定されているが、「保宝士野」がどこかは不明(「八森遺跡」:2016年1月16日記事参照)。諸説あるが、現・山形県河北町の「畑中遺跡」から「大山郷」と墨書された須恵器杯が出土したことから、「大山」とは「葉山」のことであり、その東~東南の平野が「保宝士野」ではないかという説が有力となっている。
写真1:「白磐神社」
写真2:天台宗「葉山大円院」(場所:山形県村山市岩野。山形県道299号線(樽石河北線)沿い「岩野簡易郵便局」の南、約140mの交差点を右折(北西へ)、狭い道路を道なりに約300m。駐車スペースあり)。山門には「葉山大権現」の額、「葉山修験道 大圓院」の標札?が掛かっている。
写真3:同上、山王堂(葉山大権現)
写真4:同上、本堂。本尊:薬師如来