神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

白磐神社(出羽国式外社・その6)

2016-03-26 23:35:29 | 神社
白磐神社(はくぱんじんじゃ)。通称:葉山神社。
場所:山形県寒河江市大字田代字葉山1192-2。「(村山)葉山」(標高1462m)山頂付近にあり、登山ルートはいくつかあるが、「畑コース」(登山口:「葉山市民荘」、所要時間約3時間、駐車場有り)が最も確実。国道458号線「十部-峠」から尾根沿いに登るコースは高低差が少なく登りやすい(所要時間約1時間)ので、単に参拝目的なら最も良いルートなのだが、林道の土砂崩れにより2015年12月まで復旧工事が行われており、通行止めとなっている。
当神社の創建時期は不明。「葉山」は本来「端山」で、「奥山」に対して里に近い山という意味なので、全国各地に同名の山があり、区別するために「村山葉山」とも通称する。地域や時期によっても違うが、「出羽三山」は江戸時代初期まで「羽黒山」・「月山」・「葉山」を指し、「湯殿山」は「総奥之院」の扱いだったともいう。そういう事情で、古くから「葉山修験」という一派が活動しており、その中心を成していたのが「医王山 金剛日寺 大円院(葉山大円院)」だったという。その神仏混淆の縁起によれば、天地開闢の折、国常立尊が「葉山」山頂に五色の華、即ち妙法蓮華経の5文字が開くのを見て、天下って「葉山地主神」となった。その本地は薬師如来である。大宝2年(702年)、役小角(役行者)の命により、弟子の行玄が開山したとされる。そして、「日本三代実録」貞観12年(870年)の記事に、出羽国の「白磐神」と「須波神」に従五位下の神階を授与したとあり、そのうちの「白磐神」が当神社のこととされている(国史現在社)。その確実な証拠はないが、現在も「葉山」の南側に広く「白岩」という地名が残っており、通説といってよい。中世以降も、当地の領主に篤く庇護されたが、16世紀中頃、ともに「葉山」を「奥之院」としていた大寺「瑞宝山 慈恩寺」が離反したため「葉山修験」は次第に衰退した。それでも「大円院」は新庄藩の祈祷所などとして重用され、最盛期には宿坊19坊、末寺51ヵ寺があったが、江戸時代中期には宿坊が6坊まで減少、明治時代に入ると修験道が禁止されたこともあって、ますます衰退した。更に、第二次大戦後、寒河江市白岩字畑にあった本堂付近がGHQアメリカ陸軍の演習場の着弾地とされたため、昭和30年に本堂を解体・縮小し現在地(村山市岩野)に移転したという。この間、「白磐神社」の変遷はよくわからないが、「葉山薬師権現」などと呼ばれ、「千座川」の水源の神として、主に「作神」(農業神)として信仰されていたようであり、新庄藩主・戸沢氏により何回か「奥之院」(社殿)建替えがなされた記録がある(文久元年:1861年など)、現在では「葉山」山頂付近に社殿があって、「葉山神社」とも通称されている。現在の祭神は大己貴命と国常立命。
ところで、「日本三代実録」によれば、仁和3年(887年)、出羽国守が「出羽郡井口地」にある国府を「最上郡大山郷保宝士野」に移転したいと申請したが、朝廷は許可せず、現国府の「近側高敞之地」(近くて高台の場所)への移転を命じている。「井口」国府が「城輪柵跡」、「高敞」国府が「八森遺跡」に比定されているが、「保宝士野」がどこかは不明(「八森遺跡」:2016年1月16日記事参照)。諸説あるが、現・山形県河北町の「畑中遺跡」から「大山郷」と墨書された須恵器杯が出土したことから、「大山」とは「葉山」のことであり、その東~東南の平野が「保宝士野」ではないかという説が有力となっている。


写真1:「白磐神社」


写真2:天台宗「葉山大円院」(場所:山形県村山市岩野。山形県道299号線(樽石河北線)沿い「岩野簡易郵便局」の南、約140mの交差点を右折(北西へ)、狭い道路を道なりに約300m。駐車スペースあり)。山門には「葉山大権現」の額、「葉山修験道 大圓院」の標札?が掛かっている。


写真3:同上、山王堂(葉山大権現)


写真4:同上、本堂。本尊:薬師如来
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矢向神社(出羽国式外社・その5)

2016-03-19 23:54:24 | 神社
矢向神社(やむきじんじゃ)。
場所:山形県新庄市大字本合海881。国道47号線と国道458号線が合流する「新庄市本合海」交差点から西へ約800mのところにある側道で、高架道路の下へ下りる。最上川側(北側)に進むと、「本合海水辺プラザ」という小公園の駐車場がある。その東側の最上川左岸(南岸)に当神社の鳥居がある。社殿は最上川の対岸にあって、今は舟でしか登りロに向かう方法がなく、一般人のお参りは困難。
創建時期は不明だが、「日本三代実録」によれば、貞観16年(874年)に「矢向神」に従五位下の神階を授与したという記事があり、これが当神社のこととされている。当神社は「延喜式神名帳」には登載されていないが、「六国史」にみえる、いわゆる「国史現在社」ということになる。また、史書ではなく、軍記物語ではあるが、室町時代前期頃に成立したとされる「義経記」によれば、文治3年(1187年)、源頼朝に追われた源義経が最上川を遡り奥州・平泉に向かう途中、「矢向の大明神を伏し拝み奉り、会津の津に著き給ふ。」とあり、船上から当神社を拝し、現・新庄市本合海の新田川河口付近とされる「会津の津」に上陸したとされている。現在の祭神は日本武尊。
なお、当神社は最上川右岸(北岸)にある八向山(標高205m)の断崖の中腹にある。山頂には「八向楯」という中世(天正年間頃)の城跡(新庄市指定史跡)があり、当神社はその本丸南側の下に当たる。最上川が大きく蛇行を繰り返しているところで、流れも速く、当神社の崖下の水面が「矢向巻」といわれて水上交通の難所となっているという。こうしたから、船運の守り神として信仰されたものと思われる。


「もがみ観光博」のHPから(八向楯(矢向神社))


写真1:「本合海水辺プラザ」案内板。近くに現在も乗船場がある。江戸時代の俳人・松尾芭蕉も、この付近から船に乗って最上川を下ったらしい。


写真2:「矢向神社」鳥居。扁額は「矢向大明神」


写真3:鳥居横にある「本合海周辺の由来」石碑


写真4:最上川右岸(北岸)の「八向山」の断崖。中腹に少し朱色のものが見える。なお、訪問日は大雨の翌日で、最上川も増水していて迫力があった。


写真5:上の写真のズームアップ。これが「矢向神社」の社殿らしい。
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古代鼠ヶ関址

2016-03-12 23:33:53 | 史跡・文化財
古代鼠ヶ関址(こだいねずがせきあと)。
場所:山形県鶴岡市鼠ヶ関字原海45-1。JR羽越本線「鼠ヶ関」駅から線路沿いに南へ、約240m。駐車場スペースあり。
「鼠ヶ関」は、平安時代に「白河関」、「勿来関」とともに「奥羽三関」といわれた関の1つで、出羽国の日本海側の玄関口であった。「日本書紀」斉明天皇4年(658年)の記事により「都岐沙羅柵(つきさらのき)」という古代城柵があったことが知られるが、その所在地は不明で、「鼠ヶ関」付近とする説もある。江戸時代には、現・国道7号線「鶴岡市鼡ヶ関」交差点付近に「鼠ヶ関御番所」があり、明治5年に廃止されたが、大正13年頃に「念珠関址」として内務省指定史蹟に指定された。ところが、そこから南に約1km離れた場所で、昭和43年に行われた発掘調査により「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」が発見された。すなわち、10~12世紀頃のものとされる軍事警察的な防御施設としての千鳥走行型柵列跡・建物跡(関)と、それを維持するための製鉄・製塩・土器窯跡などが出土した(昭和47年鶴岡市指定史跡)。このため、従来の「念珠関址」は、平成元年に「近世念珠関址」として鶴岡市指定史跡になった、というのが経緯らしい。
さて、「鼠ヶ関」の文献上の初見は、平安時代中期の歌人・能因法師の「能因歌枕」で、各国の名所を列挙している中に、出羽国の最初に「ねずみが関」とあるのがそれである、とされる。その他、詳細は省くが、軍記物語「保元物語」(成立:鎌倉時代?)には「念誦の関」、同じく「義経記」(成立:室町時代初期?)には「念珠の関」、史書「吾妻鏡」(成立:鎌倉時代末期頃)には「念種関」と表記されている。時代が下るが、俳人・松尾芭蕉の紀行文「おくのほそ道」では「鼠の関」としている。地名としては、明治22年の町村制施行により「山形県西田川郡念珠関村大字鼠ヶ関」、平成17年の市町村合併で「鶴岡市鼠ヶ関」になったという。「ネズ(ミ)」の語源については、①蝦夷の蔑称として「鼠」と称し、蝦夷の国に入る関の意味とする説、②十二支の「子(ネ)」は方位として「北」を意味し、最北の関とする説、③海岸の弁天島など小島が連なる様を念珠に例えたに因んだとする説、④関の付近は海岸線近くまで山の端が迫っており、「嶺隅(ねずみ)」または「根津(ねず)」という地形に因んだとする説などがあり、定説は無いようである。①、②の説にも魅力はあるが、昔から「鼠ヶ関」が天然の良港となっていたことからすれば、案外、「根津」説も有力なのではないかと思われる。
地形のことから言えば、現在では、「鼠ヶ関川」の河口はJR「鼠ヶ関」駅の北側にあるが、「古代鼠ヶ関址」や山形・新潟県境の位置を見ると、古代にはJR「鼠ヶ関」駅の南側に河口があったと思われる(因みに、「義経記」によれば、義経一行が「念珠の関」の木戸を通って出羽国に入り「はらかい」という場所に着いたとしているが、県境の北側に「原海(はらみ)」という地名が残っており、これが「はらかい」なら、「義経記」の記述に合うことになる。)。そうであれば、「古代鼠ヶ関址」~山形・新潟県境の辺りが正に山と川による自然の要害の場所であったことがよくわかる。


山形県鶴岡市観光連盟のHPから(古代鼠ヶ関址)

「旬鮮ねずがせき(山形県鶴岡市鼠ヶ関オフィシャルサイト)」HP


写真1:「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」。石碑と説明板がある。


写真2:山形県・新潟県の県境標石碑。旧街道沿いに住宅が連続していて、県境があることを感じさせない。なお、この県境標の左側の道路の奥が「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」のある場所。


写真3:「鼠ヶ関マリーナ」(「鼠ヶ関」駅の西、約250m)の道路向かいに建立された「源義経上陸の地」石碑


写真4:「弁天島」(「鼠ヶ関」駅の北西、約700m)。「厳島神社」が鎮座している。


写真5:「厳島神社」境内の「源義経碑」。NHK大河ドラマ「源義経」(昭和41年)に因み、原作者の村上元三氏の揮毫によるもの。


写真6:「近世念珠関址」(国道7号線「鶴岡市鼡ヶ関」交差点付近(北角))。「勧進帳の本家」という木碑もあるが、「鼠ヶ関」を越える際の関守とのやり取りが歌舞伎「勧進帳」を思わせることによるものらしい。ただし、「勧進帳」の場所設定は「安宅の関」(現・石川県小松市)とされている。


写真7:同上、「史蹟念珠関址」の石碑。内務省指定史蹟のときのもの。

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小椋賣神社

2016-03-05 23:59:19 | 神社
小椋賣神社(おしめじんじゃ)。
場所:山形県酒田市楯山字大村山12-2。山形県道363号線(田沢下新田線)沿い、「田沢小学校」グラウンド南端から南へ約230mのところで左折(東へ。「楯山→」という案内標識がある。)。直進、約2.4km(道なりに進むと、途中でカーヴして「楯山川」を渡るようになっているが、渡らずに狭い道路の方へ進む。)。駐車場なし。
「日本三代実録」貞観15年(873年)の記事に、「出羽国飽海郡の伴部小椋賣(ともべのおくらめ)という婦人は、夫が亡くなった後も再嫁せず、墓の傍に居て尼となり、苦行して仏道に励んだ。これにより、位二階に叙し、家の租税を免除して、表彰した。」(意訳。なお、名の振り仮名は「訓読日本三代実録」(武田祐吉・佐藤謙三訳)による。)とある。「小椋賣」の没後、その徳を称えるため村の長老が祠堂を建て、木造を納めて祀ったという(創祀時期は不明。)。現在の祭神は、小椋賣命(オシメ)と大山祇命。因みに、「小椋賣」は、胡麻を絶って願を掛けたとされることから、当地では胡麻を植えず、植えると不吉なことが起きると語り伝えられているという。
なお、「日本三代実録」には、いわゆる「節婦」(貞節な女性)を表彰する記事は多く、「小椋賣」以外でも、例えば貞観13年(871年)の記事に「出羽国田川郡の「大荒木臣玉刀自」という婦人が同様の表彰を受けたことが見える(出羽国の例を挙げたが、もちろん他の国にもある。)。ただ、それを神として祀ると言う例は珍しいようだ。当神社の社号標の上部には「國史現在」と刻されているが、「国史現在社」というのは「日本三代実録」等の「六国史」に名が見える神社のことをいうのが普通で、当神社の場合、「小椋賣」は国史に見えるものの、当時は神ではなかっただろうから、通常は「国史現在社」にはカウントしていないようである。


写真1:「小椋賣神社」参道の石段


写真2:石段を上ったところに社号標と手水舎。この写真では見えないが、社号標の上部には「國史現在」と刻されている。


写真3:鳥居


写真4:社殿
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