神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

木下別所廃寺跡

2013-08-31 23:15:32 | 史跡・文化財
木下別所廃寺跡(きおろしべっしょはいじあと)。
場所:千葉県印西市別所。印西中学校南側の市道を、同中学校から東に約600m進んだところの南側の畑で、「木下廃寺跡」の石碑は南奥の畑の端にある。駐車場なし。
利根川から約2km南の台地上の畑から古瓦が出土することは古くから知られており、昭和52~53年の発掘調査により、3つの基壇が発見された。この基壇は、西側に東西約13m×南北約10mの長方形、東側に一辺が約8.7mの正方形、北側に東西約18.6m×南北約13.5mの長方形となっており、それぞれ金堂、塔、講堂の跡であろうと推定されている(いわゆる「法起寺式伽藍配置」)。また、当地で採集された古瓦には、いわゆる「山田寺式軒瓦」に分類されるものであった。こうしたことから、この廃寺(名称は伝わっていないため、地名を取って「木下別所廃寺」と名づけられた。)の創建時期は7世紀末から8世紀初めと考えられ、「龍角寺」(2012年6月30日記事)に次ぐ古さとなる。このため、あるいは、この廃寺こそ、本来の「龍腹寺」(2012年7月7日記事)ではなかったか、とする説もあるようだ。

ところで、「木下別所廃寺跡」の東、約500mのところに天台宗「金龍山 地蔵寺 宝泉院」がある。寺伝によれば、天長6年(829年)~承和4年(837年)にかけて、慈覚大師(円仁。第3代天台座主)により仁明天皇の勅願所として建立されたという。かつては七堂伽藍を備えた大寺で、寺中に8ヵ寺があったとされるが、江戸時代には「宝泉院」のみで、ほかに「地蔵堂」があるという状況になっていた。現在、千葉県宗教法人名簿では単に「地蔵寺」で登録されているが、現地の案内板など一部資料では、「宝泉院」と「地蔵寺」を別々の寺院として扱っている。それぞれ、「宝剣様」、「別所の獅子舞」という有名なお祭りがあるらしい。「宝泉院」の本尊・阿弥陀如来像は鎌倉時代中期のものとされるほか、「地蔵堂」の木造地蔵菩薩立像は平安末期から鎌倉時代初期のものと推定されているという。
「地蔵寺(宝泉院)」の南側の細い道を西に進むと、「木下別所廃寺跡」のところに出る(写真1の場所)。廃寺の基壇は見つかったが、礎石は発見されていない。ひょっとしたら、「地蔵寺(宝泉院)」が廃寺の後身で、何らかの事情により移転したのかもしれない。


「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(宝泉院(印西市))

同上(地蔵寺(印西市))


写真1:「木下別所廃寺跡」。今は畑で、遺跡らしいものは何もない。


写真2:畑の端に、目立たない石碑が・・・。


写真3:「史跡 木下廃寺跡」の石碑


写真4:「地蔵寺(宝泉院)」(住所:印西市別所1005。駐車場有り)


写真5:いわゆる「地蔵尊」の境内入口。山門の手前に鳥居がある。「地蔵寺(宝泉院)」の北東、約200mの場所にある(住所:印西市別所1012)。


写真6:同上。向って左が地蔵堂(通称「別所地蔵堂」)、右が熊野神社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥見神社(千葉県印西市中根)

2013-08-24 23:41:44 | 神社
鳥見神社(とりみじんじゃ)。通称:中根鳥見神社。※「鳥見」の読みは「とみ」と「とりみ」があり、ここでは千葉県神社庁のHPの振り仮名によった。
場所:千葉県印西市中根1339。本埜第一小学校の北東、約300m。駐車場有り。
社伝によれば、崇神天皇5年(紀元前93年)の創建という。また、「千葉縣本埜村誌」によれば、景行天皇40年(110年)に日本武尊が東夷を征伐した際、当地に大和国鳥見山の神霊を祀って東国の鎮神としたとする。治承4年(1181年)、源頼朝が印旛浦遊覧の折に参拝し、良田三町を寄進したという。祭神は、饒速日命・宇摩志眞知命・御炊屋姫命。
当神社も標高約26mの台地上にある。また、当神社の南西、約600m(直線距離)のところには、大同2年(807年)創建という「玄林山 龍腹寺」(2012年7月7日記事)もあって、相応の由緒の古さも感じられる。そして、「中根」という地名こそ、「鳥見神社」が分布する地域の中心、根源の地を示すものだともいう。

今となっては、どの「鳥見神社」が総本社かは決めがたいが、実は全く別の説もある。千葉県中央博物館大利根分館の佐藤誠氏によれば、「鳥見の丘」は印旛郡栄町矢口の台地(国道356号線(利根水郷ライン)に面する「矢口工業団地」(日本食研などの工場がある。)の南側)であり、具体的には「一之宮神社」(通称:矢口一之宮明神、鎮座地:印旛郡栄町矢口1)の場所がそれであり、「一之宮神社」こそが印旛の「鳥見神社」の本宮であるという。元は、物部氏がその祖神として「鳥見神社」を創建するが、その後、非物部系の大生部氏が移動してきて物部氏は現・印西市周辺に移住して各地に「鳥見神社」を建てたが、栄町矢口の「鳥見神社」本宮は衰退したということらしい。この説は、「一之宮神社」に伝わる古文書の記録と現地調査(印西市周辺の「鳥見神社」からは「香澄郷」(現・潮来付近)は見えないと判断)によるとのこと。その根拠となった古文書がどの程度信じられるのか判らず、何とも言えないのだが・・・。


「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(中根鳥見神社)

「白井市のご近所紹介」さんのHPから(鳥見神社&宗像神社) :これは労作

「神社探訪・狛犬見聞録」さんのHPから(一之宮神社)


写真1:「鳥見神社」(中根)正面鳥居


写真2:同上、拝殿


写真3:同上、簡素な社殿
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥見神社(千葉県印西市小林)

2013-08-17 23:40:24 | 神社
鳥見神社(とみじんじゃ)。通称:小林鳥見神社。
場所:千葉県印西市小林2712。千葉県道64号線(千葉臼井印西線)「平岡自然公園入口」交差点から東に進み、約1.8km。駐車場なし。なお、更に東に進むと小林小学校があり、そこから道なりに(北へ)台地を下りるとJR成田線にぶつかる。JR「小林」駅まで約1.2km。
社伝によれば、祟神天皇3年(紀元前95年)、大和国城上郡鳥見白庭山鎮座の鳥見大神を勧請して創建されたという。「鳥見大神」というのは、延喜式内社「等彌(とみ)神社」(現・奈良県桜井市桜井1109に鎮座)のことのようである。ただし、当神社の祭神は物部氏の祖神である饒速日命、宇摩志真知命、御炊屋姫命の3神であるが、「等彌神社」の祭神は大日霊貴命となっている。
印西市を中心に「鳥見神社」が20数社あるとされているが、松本隆志著「下総地方史の発掘」によれば、その多くは江戸時代に農地開拓に従って勧請されていったもので、それ以前に遡れるのは「大森鳥見神社」(前項)、当神社、「中根鳥見神社」の3社であろうという。このうち、当神社は佐倉城の鬼門除けの位置にあり、中世には総社的存在であったとされる。また、元の鎮座地は現在地から北に数百mのところの高台にあったとされており、そこが景行天皇が登った「鳥見ヶ丘」であるともいう。
なお、当神社の西、約200mのところに「道作古墳群」がある。円墳、前方後円墳合わせて約25基あるとされているが、そのうち最も大きな「道作1号墳」(資料によっては「15号墳」)は全長約46mという印旛沼北西部では最大の前方後円墳で、円筒埴輪等が出土している。調査が進んでいないので、詳細は不明であるが、埋葬施設(竪穴式石棺?)がある模様で、築造時期は6世紀後半とされる。


「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(小林の鳥見神社)

同上(道作古墳群)


写真1:「鳥見神社」(小林)正面。社号標は「郷社鳥見大神」


写真2:同上、社殿


写真3:「道作古墳群」の木碑


写真4:同上、道路に面した「道作1号墳」。前方後円墳の形がよく残っている。手前が前方部(南西)、奥が後円部(北東)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥見神社(千葉県印西市大森)

2013-08-10 23:38:58 | 神社
鳥見神社(とみじんじゃ)。通称:大森鳥見神社。
場所:千葉県印西市大森1943。印西中学校の西、約900m。県道4号線(千葉龍ヶ崎線)の「大森坂上」バス停付近の交差点を西に真っ直ぐ進むと、正面。駐車場有り。「大森坂上」というバス停の名の通り、東西に長い台地上の西の端に東向きの社殿がある。
社伝によれば、崇神天皇5年(紀元前93年)に創建、大同2年(807年)再建。古代物部氏が当地に進出した際、祖神である饒速日命(ニギハヤヒ)、宇摩志真知命(ウマシマジ)、御炊屋姫命(ミカシキヤヒメ)を祀ったのが創建の由来という。なお、当神社境内入口に印西市が設置した説明板では、「大森鳥見神社(おおもりとりみじんじゃ)」、鎮座年不明となっている。
印旛沼の北岸、印西市を中心とする地域に「鳥見神社」が現在も20数社あるといわれるが、その他の地域では殆ど見られない。「常陸国風土記」(成立:養老5年(721年))の行方郡の記事に、「(行方)郡家より南へ二十里のところに、香澄(かすみ)の里がある。古伝によれば、大足日子天皇(景行天皇)が下総国印波の鳥見の丘に登られたとき、東方を望んで「海には波がゆったり漂い、陸には霞が棚引いて、(常陸)国が波と霞の中にあるように見える」と仰せられたので、それ以来「霞の郷」と呼ぶようになった、という記述がある。「香澄」というのは、いわゆる二字の好字に変えたものだろう。平安時代中期の辞典である「和名類聚抄」にも行方郡の中に「香澄郷」があり、現在の茨城県潮来市の永山・清水・牛堀・上戸の辺りといわれている。これは「香澄郷」の地名発祥伝説であるが、「常陸国風土記」の編纂時期には既に、印旛地区に「鳥見の丘」があったということになる。因みに、「和名類聚抄」によれば、下総国印旛郡に「言美郷」があるが、これは「登美(とみ)郷」の誤記であろうというのが通説化している。地名が先か、神社が先か、これは何とも言えないが、当神社を含め、古い由緒を語る「鳥見神社」の多くが、その鎮座地こそ「鳥見の丘」であると主張しているようである。
さて、当神社の東、約300mのところに「上宿古墳」がある。この古墳は、横穴式石室を持つ方墳(現状:東西5.5m、南北3.8m、高さ1.2m)で、7世紀後半の築造とみられている。また、当神社のすぐ南側にある天台宗「雲冷山 千手院 長楽寺」は、慈覚大師(円仁)により承和11年(844年)に創建されたものという。


「千葉の観光まるごと紹介」のHPから(大森の鳥見神社)

同上(長楽寺(印西市))

同上(上宿古墳(印西市))


写真1:「鳥見神社」(大森)正面。鳥居の扁額は「正一位鳥見大明神」(享保12年(1727年)に正一位の宣旨を受けたとのこと)。


写真2:同上、拝殿


写真3:同上、本殿。赤レンガの玉垣?と、小ぶりだが姿の良い本殿


写真4:「長楽寺」本堂(住所:印西市大森2034-1)


写真5:「上宿古墳」説明板。古墳は個人住宅敷地内にあり、現地に行ったときには夏草に埋もれていたため、見学は遠慮した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弟橘媛の櫛塚

2013-08-03 23:41:00 | 史跡・文化財
弟橘媛の櫛塚(おとたちばなひめのくしづか)。
場所:茨城県龍ヶ崎市北方町。竜ヶ崎南高等学校(住所:茨城県龍ヶ崎市北方町120)の正門前(向って左)。駐車場なし。
下総国式内社「蛟蝄神社」の項(2013年1月5日記事)でも書いたが、日本武尊が東征の際に「蛟蝄神社」に立ち寄り、戦勝を祈願したとされ、そのときに馬を木に繋いだ場所が「立木」という地名になったという。古代東海道のルートを探していると、何故か、日本武尊の旧跡があることが多い。日本武尊の東征はヤマト政権による支配の道筋であり、国司や軍団の通り道である官道はヤマト政権の権威の象徴でもある、ということを示しているのかもしれない。
さて、「蛟蝄神社」の項でも大いに参考にさせていただいた「タヌポンの利根ぽんぽ行」さんのHPによれば、近くにもう1つ、日本武尊所縁の場所があるらしい。それが「弟橘媛の櫛塚」で、現・茨城県龍ヶ崎市北方に至ったとき、舟の形をした山を見て、相模国から上総国に渡る海で入水した妻の弟橘媛を思い出した。その舟形山の横に塚を築き、弟橘媛の形見の櫛を埋めて墓所としたとされるものらしい。舟形山は竜ヶ崎南高校建設のため削平されてしまったということで、現存しない。「櫛塚」は現存するが、古墳かどうかは判然としないが、頂上に石祠が祀られている。これは「吾妻神社」であるとされているようなので、少なくとも日本武尊と弟橘媛の伝説の存在を伝えるものなのだろう。この「櫛塚」の前の道路は千葉県道・茨城県道4号線(千葉竜ヶ崎線)で、木下良氏(古代交通研究会会長)の想定する古代東海道「於賦」駅付近(現・利根町役場)の東側からの一本道である。この道が「鎌倉街道」と呼ばれていたらしいことも、相当古くから存在したことを示しており、古代東海道の一部であったかもしれない。

※弟橘媛の入水伝説や「吾妻神社」については、このブログでも「足柄峠」(2011年11月22日記事)、「公津ヶ丘古墳群」(2012年6月16日記事)、「吾嬬神社」(2013年5月13日記事)で触れています。


「タヌポンの利根ぽんぽ行」さんのHP(龍ヶ崎南高近辺)


写真1:「弟橘媛の櫛塚」


写真2:塚上の石祠(吾妻神社?)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする