薩埵峠(さったとうげ)。
場所:静岡市清水区興津井上町と由比西倉澤との境界付近。国道52号線「八木間元」交差点から東に向かい、興津大橋で興津川を渡って左折(北へ)、東名高速道路の高架下を越えたところに「薩埵峠」の矢印案内板があり、右折(東へ)。そこから、約1.5km。駐車場有り。
「薩埵峠」の名は、真言宗醍醐派の寺院「薩埵山 東勝院」(場所:静岡市清水区興津井上町796)の本尊「薩埵地蔵」に由来している(「薩埵」というのは、「菩提薩埵」の略で、「菩薩」と同じ。)。文治元年(1185年)、麓の由比の浦の海中に夜な夜な光を放つものがあり、拾い上げてみると地蔵菩薩の石像であった。元は山上に祀っていたが、後に現在地に移したという。地蔵菩薩は道祖神と習合し、道の守り神として道の難所や村の入口等に安置されることが多いから、峠を越える旅人の守護神であったかもしれない。なお、峠の名として、文献上に「薩埵」の名が現れるのは南北朝時代(1336~1392年)以降とされる。「佐田」と表記したものがあり、「狭(サ)処(タ)」または「先(サ)処(タ)」=岬の意味ではないかともいわれる。
さて、「薩埵峠」と呼ばれるようになる前には、「磐城山(いわきやま)」といわれていたらしい興津川の右岸(西岸)の「清水東部老人憩の家」に「磐城山」を歌った万葉歌碑が建てられている。「磐城山 直(ただ)越え来ませ 礒埼(いそさき)の 許奴美(こぬみ)の浜に 吾立ち待たむ」=「磐城山をまっすぐに越えてきてください。礒埼の許奴美の浜に私は立って待っていますから。」。この歌の作者は不詳で、そもそも駿河国の歌かも明らかではない。だいたい「イワキ山」というのは、岩がゴツゴツした山の意味で、だから全国各地にあって、一般名詞に近い。ただし、古くから、この歌の「磐城山」は薩埵峠の山のことだとされてきた。「許奴美の浜」というのも近くにあったらしい(興津川河口付近?)。「許奴美の浜」には女神がいて、「磐城山」の向こうには恋人の男神がいた。しかし、「磐城山」には荒ぶる神がいて、男神が女神のもとに通ってくるのを妨げたので、女神は空しく待つことが多かった、という伝説があり、この万葉歌は伝説を踏まえたものともいわれる。なお、「こぬみ」という地名は「不来見」かもしれないという。
さて、古代東海道はどこを通っていたか。「磐城山」の歌が残っている以上、(困難ではあっても)峠を越える道もあったのだろう。しかし、薩埵峠の下、岫崎(くきがさき)と呼ばれた波打ち際を通ったのではないかといわれている。時代は下るが、「海道記」(貞応2年:1223年)の作者も「岫崎」を通っている。
「マイタウン清水」さんのHPから(薩埵峠)
写真1:「磐城山」の万葉歌碑。清水東部老人憩の家にある(場所:静岡市清水区興津中町1288)
写真2:薩埵峠の駐車場の端にある「薩埵峠山之神遺跡」の石碑。「山之神遺跡」というのは、「鞍佐里神社」(静岡市清水区由比西倉沢)の旧社地だったから、という。
写真3:駐車場の少し下にある近世東海道
写真4:駐車場から由比側に少し下りた路傍にある「薩埵峠」の碑
場所:静岡市清水区興津井上町と由比西倉澤との境界付近。国道52号線「八木間元」交差点から東に向かい、興津大橋で興津川を渡って左折(北へ)、東名高速道路の高架下を越えたところに「薩埵峠」の矢印案内板があり、右折(東へ)。そこから、約1.5km。駐車場有り。
「薩埵峠」の名は、真言宗醍醐派の寺院「薩埵山 東勝院」(場所:静岡市清水区興津井上町796)の本尊「薩埵地蔵」に由来している(「薩埵」というのは、「菩提薩埵」の略で、「菩薩」と同じ。)。文治元年(1185年)、麓の由比の浦の海中に夜な夜な光を放つものがあり、拾い上げてみると地蔵菩薩の石像であった。元は山上に祀っていたが、後に現在地に移したという。地蔵菩薩は道祖神と習合し、道の守り神として道の難所や村の入口等に安置されることが多いから、峠を越える旅人の守護神であったかもしれない。なお、峠の名として、文献上に「薩埵」の名が現れるのは南北朝時代(1336~1392年)以降とされる。「佐田」と表記したものがあり、「狭(サ)処(タ)」または「先(サ)処(タ)」=岬の意味ではないかともいわれる。
さて、「薩埵峠」と呼ばれるようになる前には、「磐城山(いわきやま)」といわれていたらしい興津川の右岸(西岸)の「清水東部老人憩の家」に「磐城山」を歌った万葉歌碑が建てられている。「磐城山 直(ただ)越え来ませ 礒埼(いそさき)の 許奴美(こぬみ)の浜に 吾立ち待たむ」=「磐城山をまっすぐに越えてきてください。礒埼の許奴美の浜に私は立って待っていますから。」。この歌の作者は不詳で、そもそも駿河国の歌かも明らかではない。だいたい「イワキ山」というのは、岩がゴツゴツした山の意味で、だから全国各地にあって、一般名詞に近い。ただし、古くから、この歌の「磐城山」は薩埵峠の山のことだとされてきた。「許奴美の浜」というのも近くにあったらしい(興津川河口付近?)。「許奴美の浜」には女神がいて、「磐城山」の向こうには恋人の男神がいた。しかし、「磐城山」には荒ぶる神がいて、男神が女神のもとに通ってくるのを妨げたので、女神は空しく待つことが多かった、という伝説があり、この万葉歌は伝説を踏まえたものともいわれる。なお、「こぬみ」という地名は「不来見」かもしれないという。
さて、古代東海道はどこを通っていたか。「磐城山」の歌が残っている以上、(困難ではあっても)峠を越える道もあったのだろう。しかし、薩埵峠の下、岫崎(くきがさき)と呼ばれた波打ち際を通ったのではないかといわれている。時代は下るが、「海道記」(貞応2年:1223年)の作者も「岫崎」を通っている。
「マイタウン清水」さんのHPから(薩埵峠)
写真1:「磐城山」の万葉歌碑。清水東部老人憩の家にある(場所:静岡市清水区興津中町1288)
写真2:薩埵峠の駐車場の端にある「薩埵峠山之神遺跡」の石碑。「山之神遺跡」というのは、「鞍佐里神社」(静岡市清水区由比西倉沢)の旧社地だったから、という。
写真3:駐車場の少し下にある近世東海道
写真4:駐車場から由比側に少し下りた路傍にある「薩埵峠」の碑