木内廃寺跡(きのうちはいじあと)。
場所:千葉県香取市木内字権現台。県道44号線(成田小見川鹿島港線)「木内」交差点の南西約75mのところから台地に上る側道を進む(右へ)。道なりに西へ約460m進んだ三叉路の右側。駐車場なし。
「木内廃寺跡」は、黒部川が流れる平野の西側の台地上(標高約42m)にある古代寺院跡。この付近では、昔から布目瓦の破片が散らばる場所として知られており、昭和初期の道路工事で大量の瓦が出土したとされる。昭和56年に発掘調査が行われたが、既にかなり削平されており、基壇建物跡と数軒分の竪穴式住居跡が発見されるにとどまった。基壇建物跡は掘込み地業で、南北約11.3m以上、東西6.3m以上という規模だったが、東側部分は大きく削られていたので、あるいは正方形だったかもしれない。寺域は約100m四方、堂1つのみの寺院だったのだろうと推定されている。創建時期は、当初8世紀中頃とされていたが、いわゆる「山田寺式」の瓦の文様などから、7世紀第4四半期まで遡る可能性があるとされる。なお、当遺跡の西、約1kmのところに「清水入瓦窯跡」が発見されており、こちらで焼かれた瓦が使われたことが判明している。また、当遺跡で出土した瓦の文様は、匝瑳市の「大寺廃寺跡」(「天竺山 尊蓮院 龍尾寺」の項:2012年7月14日記事参照)や成田市の「龍正院瓦窯跡」(「滑河山 龍正院」の項:2014年2月1日記事参照)と同じもの、あるいは類似のものがあり、それぞれ関連があったらしい。
さて、当遺跡の北東約1.5kmのところには下海上国造一族の墳墓と考えられる城山古墳群(前項「城山古墳群」:2014年3月28日記事参照)があり、最後の古墳の築造時期は7世紀前半~中頃とされる。そうすると、中央政権の意向に従って、有力豪族である国造家が地方行政官として国家権力機構に組み込まれていくなかで、有力豪族の庇護の下、信仰の中心も古墳から寺院に移っていく過程がみられるものと考えられる。
ところで、当遺跡の「木内廃寺跡」、印西市にある「木下別所廃寺跡」(2013年8月31日記事)には「木」がついている。これは、廃寺の名前が伝わっていないため、所在地の地名を採ったものだが、ちょっと変なことを考えた。「木」は植物の木ではなくて、元は「城」あるいは「柵」の意味の「き」ではなかったのだろうか。そういえば、「結城廃寺跡」(2012年8月25日記事)の「城」の字は「き」と読ませる。つまり、地方の行政・軍事の中心である有力豪族の館のある場所を示す地名ではなかったか。そう考えると、古代寺院と地方有力豪族との結びつきが一層強く感じられるのだが、どうだろうか(これは思いつきレベルで、その地名発祥時期の研究が必要。台地上は中世山城となったところが多く、「き」が「城」としても、中世以来かもしれない。)。
写真1:正面の一段高くなったところが「木内廃寺跡」
写真2:「木内廃寺跡」の前にある道標。「東 鹿島大神 道」などと刻されている。この道路を東に向うと、小見川高校・小見川城山公園のところに出る。更に先にすすめば利根川に出、対岸の「息栖神社」を経て、「鹿島神宮」方面。
写真3:説明板も立てられている。
写真4:現状は畑で、廃寺跡らしいものは何も無い。
場所:千葉県香取市木内字権現台。県道44号線(成田小見川鹿島港線)「木内」交差点の南西約75mのところから台地に上る側道を進む(右へ)。道なりに西へ約460m進んだ三叉路の右側。駐車場なし。
「木内廃寺跡」は、黒部川が流れる平野の西側の台地上(標高約42m)にある古代寺院跡。この付近では、昔から布目瓦の破片が散らばる場所として知られており、昭和初期の道路工事で大量の瓦が出土したとされる。昭和56年に発掘調査が行われたが、既にかなり削平されており、基壇建物跡と数軒分の竪穴式住居跡が発見されるにとどまった。基壇建物跡は掘込み地業で、南北約11.3m以上、東西6.3m以上という規模だったが、東側部分は大きく削られていたので、あるいは正方形だったかもしれない。寺域は約100m四方、堂1つのみの寺院だったのだろうと推定されている。創建時期は、当初8世紀中頃とされていたが、いわゆる「山田寺式」の瓦の文様などから、7世紀第4四半期まで遡る可能性があるとされる。なお、当遺跡の西、約1kmのところに「清水入瓦窯跡」が発見されており、こちらで焼かれた瓦が使われたことが判明している。また、当遺跡で出土した瓦の文様は、匝瑳市の「大寺廃寺跡」(「天竺山 尊蓮院 龍尾寺」の項:2012年7月14日記事参照)や成田市の「龍正院瓦窯跡」(「滑河山 龍正院」の項:2014年2月1日記事参照)と同じもの、あるいは類似のものがあり、それぞれ関連があったらしい。
さて、当遺跡の北東約1.5kmのところには下海上国造一族の墳墓と考えられる城山古墳群(前項「城山古墳群」:2014年3月28日記事参照)があり、最後の古墳の築造時期は7世紀前半~中頃とされる。そうすると、中央政権の意向に従って、有力豪族である国造家が地方行政官として国家権力機構に組み込まれていくなかで、有力豪族の庇護の下、信仰の中心も古墳から寺院に移っていく過程がみられるものと考えられる。
ところで、当遺跡の「木内廃寺跡」、印西市にある「木下別所廃寺跡」(2013年8月31日記事)には「木」がついている。これは、廃寺の名前が伝わっていないため、所在地の地名を採ったものだが、ちょっと変なことを考えた。「木」は植物の木ではなくて、元は「城」あるいは「柵」の意味の「き」ではなかったのだろうか。そういえば、「結城廃寺跡」(2012年8月25日記事)の「城」の字は「き」と読ませる。つまり、地方の行政・軍事の中心である有力豪族の館のある場所を示す地名ではなかったか。そう考えると、古代寺院と地方有力豪族との結びつきが一層強く感じられるのだが、どうだろうか(これは思いつきレベルで、その地名発祥時期の研究が必要。台地上は中世山城となったところが多く、「き」が「城」としても、中世以来かもしれない。)。
写真1:正面の一段高くなったところが「木内廃寺跡」
写真2:「木内廃寺跡」の前にある道標。「東 鹿島大神 道」などと刻されている。この道路を東に向うと、小見川高校・小見川城山公園のところに出る。更に先にすすめば利根川に出、対岸の「息栖神社」を経て、「鹿島神宮」方面。
写真3:説明板も立てられている。
写真4:現状は畑で、廃寺跡らしいものは何も無い。