神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

成田山 明王院 神護新勝寺

2014-01-25 23:35:01 | 寺院
成田山 明王院 神護新勝寺(なりたさん みょうおういん じんごしんしょうじ)。通称:成田山新勝寺、単に成田山とも。
「成田山 新勝寺」は、平将門の乱を平定するために朱雀天皇の勅により僧・寛朝により創建された(前項「不動塚」参照)。「新たに勝つ」という語句に因んで朱雀天皇から「神護新勝寺」という寺号を賜わり東国鎮護の寺院となったが、その後、戦国時代の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寺勢は衰退していたという。よく知られているのは、歌舞伎役者・市川團十郎との関係で、父親の出身地が当寺に近かった所縁から、初代・市川團十郎が子宝祈願を行ったところ、子(二代目・市川團十郎)を授かった。これに感謝して、当寺の不動明王が登場する芝居を打つと、これが大当たり、以来「成田屋」の屋号を名乗ったという。元禄16年(1703年)以降、たびたび江戸で「出開帳」が行われ、それに合わせた市川團十郎の芝居の人気とも相俟って、江戸っ子の信仰を集め、「成田山」詣でが盛んになったという。この人気は現在も続いており、正月の初詣客は全国でも「明治神宮」に次いで第2位ということが多い。
ところで、地図で見ると、千葉市市街地から北東に進んできた道(国道51号線)は、成田市で放射状に広がることがわかる。県道18号線(成田安食線)で北西に進むと、「龍角寺古墳群」(2012年6月23日記事)・「天竺山 寂光院 龍角寺」(2012年6月30日記事)がある。国道408号線でやや西よりに北上すると、景行天皇が常陸国を遠望したという「鳥身の丘」の比定地の1つである「一之宮神社」(通称:矢口一之宮明神)の鎮座地がある(「鳥見神社(千葉県印西市中根)」(2013年8月24日記事)参照)。千葉県道161号線(成田滑河線)でやや東よりに北上すると、古刹「滑河山 龍正院」がある。その東には、式外社「神崎神社」(千葉県道63号線(成田下総線)で)、下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)(国道51号線で)、「木内廃寺跡」・「小見川城山古墳群」(千葉県道44号線(成田小見川鹿島港線)で)など、重要スポットがあり、こうしてみると、現・成田市付近が古くから交通の要衝であったことがわかる。


「大本山 成田山」のHP


写真1:「成田山 新勝寺」総門。寺号標石碑は「成田山 金剛王院 新勝寺」となっている。現在は真言宗智山派の大本山であるが、宝永4年(1707年)に京都「大覚寺」の直末となり、「金剛王院」院室兼帯の令旨を受けて「成田山 金剛王院 新勝寺」と称したことによるものと思われる。


写真2:仁王門


写真3:大本堂


社員4:三重塔


写真5:釈迦堂。現在の大本堂建立までは本堂であったもの


写真6:光明堂。現在の釈迦堂が本堂となる前の本堂


写真7:奥之院。光明堂の背後にあり、洞窟の奥に大日如来像(不動明王の本地仏)が安置されている。
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不動塚(千葉県成田市)

2014-01-18 23:58:01 | 史跡・文化財
不動塚(ふどうづか)。「成田山 新勝寺」発祥の地。
場所:千葉県成田市並木町。国道409号線「並木坂上」交差点から東へ、約300m。JR成田線の線路に突き当たる手前で右(南)にカーヴする辺り。「金刀比羅神社」境内。駐車場なし。
「不動塚」は、「成田山 新勝寺」発祥の地とされる場所。即ち、平将門の乱を平定するため、朱雀天皇が天慶2年(939年)に寛朝(後に東寺長者、大僧正となる。)を東国へ遣わした。寛朝は京都「高雄山 神護寺」護摩堂の不動明王像(空海作とされる。)を奉じて、天慶3年(940年)に下総国公津ケ原で朝敵降伏の祈祷を行った。乱が平定された後、寛朝は都に戻ろうとしたが、不動明王像が動かず、「この地に留まって人々を救う。」とのお告げがあったことから、この不動明王像を本尊として「成田山 新勝寺」が開山された。その場所が、現在の「不動塚」付近であるということらしい。しかし、その後、戦国時代には荒廃し、江戸時代までは廃寺同様であったとされるが、「成田山 新勝寺」が再び現在のような隆盛となる次第については次項で。


写真1:「金刀比羅神社」(成田市並木町)


写真2:「不動塚」の碑と小堂


写真3:小堂の中の不動尊
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酒の井

2014-01-11 23:46:00 | 史跡・文化財
酒の井(さけのい)。
場所:千葉県印旛郡酒々井町酒々井137。酒々井小学校の南、約120mのところにあるが、狭い道路に囲まれ、わかり難い。徒歩なら、県道137号線(宗吾酒々井線、旧・国道51号線)沿いに案内標識が出ているところを西に入る。駐車場なし。
「酒々井(しすい)」というのは、なかなか読み難い地名だが、地名の由来の伝説がある。即ち、「昔、この地に年老いた父親と孝行息子が住んでいた。父親が酒好きだったので、息子は毎日働いて父親に酒を買って帰った。ある日、金が無く、酒を買えずに帰る途中、道端の井戸から酒の良い香りがした。この水を汲んで帰ると、それは上等の酒で、父親は大変喜んだ。ところが、この父子以外の者が飲むと、ただの水であり、村人は孝行息子の徳が天に通じたものと褒め称えた。」というもので、この酒の井戸から「酒酒井(しゅしゅい)」村と呼ばれるようになったとする。似たような伝説は他の地方にもあり、「孝子酒泉」とか「養老の滝」などと言われるものである。
「酒々井」の場合は、印旛沼に面して古くからの湧水地で、水量も豊富であったことから「出水(しゅすい)」と呼ばれていた。それを、僧侶が親孝行の徳を説くために「酒々井」とこじつけたものらしい。それが、いつしか、当地の鎮守「麻賀多神社」の神酒の仕込み水であった「酒々井山 円福院 神宮寺」の井戸が酒泉とされた、ということらしい。また、その井戸の傍らにあった石碑が「酒の井」を記念するものと信じられるようになったともいう。
「円福院」の創建は不明だが、室町時代には既に存在していたとされる真言宗智山派の寺院で、本尊は阿弥陀如来と伝わるが、寛永年間(1624~1645年)に落雷により焼失、現在では境内に建物はない。「神宮寺」という寺号は、当地の「麻賀多神社」の別当寺であったことによるらしい。なお、「酒の井」の碑とされる石碑は、下総地方に多く見られる板碑で、実は「酒の井」とは全く関係が無く、かなり摩滅しているが、蓮花と梵字の「キリーク」(阿弥陀如来の種字)が刻まれているという。


酒々井町のHPから(円福院の「酒の井碑」)


写真1:「円福院」境内入口


写真2:「伝・酒の井の碑」(向って右側)


写真3:「酒の井」(復元)


写真4:鎮守「麻賀多神社」鳥居(場所:酒々井町酒々井204。酒々井小学校の東南角)


写真5:同上、社殿

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長熊廃寺跡

2014-01-04 23:29:35 | 史跡・文化財
長熊廃寺跡(ながくまはいじあと)。
場所:千葉県佐倉市長熊260(「五良神社」の住所)。白銀小学校の東、約750mのところだが、場所がわかり難い。「佐倉市八街市酒々井町消防組合消防本部」の東側に国道296号線の上(高架)をクロスして通る道路があるが、「消防本部」の上付近から南東へ約450m進むと、「愛宕神社」の鳥居(写真1)があり、ここから参道を徒歩で約250m進むと「愛宕神社」の裏手(南~東側)にある。「愛宕神社」鳥居前に駐車スペース1~2台。
「長熊廃寺跡」は、佐倉市長熊に鎮座する「五良神社」(注)の境内にある廃寺跡。古くから瓦片が出土していたことから、昭和26年に立正大学史学研究室を中心とする調査団により発掘調査が行われた。その結果、塔を東に、金堂を西に配した所謂「法起寺」式伽藍配置を持つ、この地方の豪族の氏寺であり、出土した瓦の様式からして、奈良時代末期(8世紀末)に建立されたものと推定された(昭和42年千葉県指定史跡)。しかし、昭和61年の千葉県文化財センターによる再調査では、「法起寺」式伽藍配置であることに疑義を提起している。なお、このとき、「高岡寺」と記された墨書土器が発見されたことから、当時この寺は「高岡寺」と呼ばれていたと考えられている。
ところで、「長熊」という地名は、和名類聚抄の「印旛郡長隈郷」に由来するものと考えられ、古くからの呼称であることがわかる。また、当遺跡の西側に「白銀」という広い住宅団地があるが、ここにはかつて「高岡大山遺跡」(消滅)があり、7~10世紀の掘立柱建物200棟以上、竪穴建物400棟以上が発見された。建物はL字・コ字形など官衙的な配置がみられ、銅椀、皇朝十二銭、帯金具等も出土しており、この付近に郡衙があった可能性が高い。また、付近に「神門」、「別所」、「馬橋」、「馬渡」といった地名もあることから、延暦24年(805年)廃止された古代東海道の「鳥取」駅との関連も指摘されている。因みに、原則的な駅間の距離は4里=約16kmとされるが、「河曲」駅が現・千葉県庁付近とすれば、その(直線)距離は約17kmである。また、「長熊廃寺跡」の東南、約300mのところに現・千葉市~成田市~香取市を結ぶ国道51号線が通っている。

(注)「五良(ゴリョウ)神社」:由緒不明。祭神:鎌倉権五郎霊。元は「御霊社」または「鎌倉権五郎社」と称したとされる。鎌倉権五郎というのは、鎌倉景政という平安時代後期の武将で、桓武平氏の流れを汲み、父の代から相模国(現・神奈川県)鎌倉を領地として鎌倉氏を名乗ったとされる。一説に、平高望または平良文の子孫とするが、詳細は不明。後三年の役に参加し、右目を射られながらも奮戦した猛将として有名。歌舞伎の「暫」の主人公ともされている。なお、神奈川県鎌倉市周辺に今も「御霊神社」として鎌倉景政を祀る神社が多い。


佐倉市のHPから(長熊廃寺跡)


写真1:「愛宕神社」(住所:千葉県印旛郡酒々井町本佐倉376)鳥居。「五良神社」へは、この参道を進む。


写真2:「五良神社」鳥居。「愛宕神社」参道途中から分かれた先にある。


写真3:同上、社殿。参道が西についていて、社殿が南向きのため、社殿の前が狭い。


写真4:「長熊廃寺址」の石碑


写真5:境内といっても、現状は雑木林で、鳥居と社殿の間に伽藍の位置を示す小さな石碑が建てられている。これは「中門の址」


写真7:同上、「回廊東部の址」


写真8:同上、「塔の址」
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