神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

倶胝密山 聖寶院 六地蔵寺

2019-12-28 23:36:33 | 寺院
倶胝密山 聖寶院 六地蔵寺(ぐていみつざん しょうほういん ろくじぞうじ)。通称:水戸大師。
場所:茨城県水戸市六反田767。国道51号線「百合ヶ丘ニュータウン」交差点から「百合が丘通り」に入り南西へ約750m、「水戸中央病院」と「六地蔵寺」の案内板が出ているところを右折(北西へ)約100m、「水戸中央病院」の東側の角を右折(北東へ)、約300mで広い駐車場。国道から「六地蔵寺」への案内板が何本も立てられていて、上記よりも短距離でアプローチできる道路がいくつかあるが、狭くて見通しの悪い道路が殆どなので、上記の道路で行くのを勧める。
寺伝によれば、大同2年(807年)、六反田古墳群の霊地に開山されたという。その後、室町時代の永享元年(1429年)に宥覚上人によって中興され、三世の恵範上人が西国の諸大寺で遊学して多くの経典の収集や書写に努めたことにより、関東における檀林(僧侶の学問所)の1つとなった。中世以降、(常陸)大掾氏・佐竹氏、水戸徳川氏と続く当地の領主に篤く保護され、特に安産・子育ての霊場として信仰を集めたという。現在は真言宗の寺院で、末寺25ヵ寺を有する本山である。本尊は、行基作とされる身丈六尺の地蔵菩薩像6体。
因みに、「六地蔵」というのは、地蔵菩薩が6体に分身して、六道(地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天)に輪廻・転生する衆生を救済するとされることによる。ところで、民話では、当寺院の「六地蔵」が「七地蔵」になったことがあるという。昔、村人が参拝して、ふと顔を上げると6体あるはずの地蔵像が5体しかなかった。境内で水を撒いていた住職に尋ねると、「1体は、唐の金山寺が火事だというので、消火に出かけた。私も、こうして水を撒いて助勢しているのだ。」と答えた。これを信じなかったのか、村人たちは新しく1体を造って奉納した。やがて、消火に出かけた1体が牛の背に乗って戻って来て「七地蔵」になったという。


水戸大師 六地蔵寺のHP


写真1:「六地蔵寺」寺号標。駐車場から東側に少し進んだところ。ここから入ると、正面に四脚門がある。


写真2:駐車場からの入口。「茨城百景 六反田六地蔵尊」石碑。桜の名所としても名高い。


写真3:地蔵堂


写真4:石造の六地蔵像


写真5:大師堂


写真6:仁王像? なかなか味のある石像です。


写真7:本堂。水戸徳川家との関係が深く、歴代藩主の位牌を護持しているとのことで、「丸に三つ葉葵」の紋が使われている。


写真8:円墳? 境内に径約30mの円墳があるとのこと(前方後円墳かも、という説有り。)


写真9:胎内くぐり


写真10:同上、内部
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吉田山 神宮寺 薬王院

2019-12-21 23:26:42 | 寺院
吉田山 神宮寺 薬王院(よしださん じんぐうじ やくおういん)。
場所:茨城県水戸市元吉田町682。茨城県道180号線(長岡水戸線)「台町」交差点から北へ約180mのところに参道入口があり、左折(西へ)、約190mで正面が「仁王門」。柵で閉じられているので、向かって右手へ進み、境内に入る。駐車場有り。
寺伝によれば、延暦年間(782~806)に第50代桓武天皇の勅願所として伝教大師(最澄)により創建されたという。「神宮寺」という寺号は、当寺院から北東に約800m(直線距離)にある常陸国三宮「吉田神社」(2018年3月10日記事)の神宮寺(別当寺)であったことによるもので、神社・寺院ともに格式が高く、常陸国の有力豪族である常陸大掾氏、常陸江戸氏といった当地領主から篤く庇護を受けた。現在、国指定重要文化財となっている本堂は、大永7年(1527年)焼失の後、享禄2年(1529年)に再建されたもので、室町期の建築手法を今日に伝えているという。中世以降は武家勢力との結び付きが強くなり、通称も「神宮寺」から「薬王院」と呼ばれるようになった。水戸が佐竹氏の支配下に入ると、常陸太田から真言宗「一乗院」を当寺院に移したため、長らく天台宗であったのが真言宗に改宗された。江戸時代になると、佐竹氏の移封により天台宗に戻され、水戸藩の菩提所として代々の水戸藩主の庇護が篤く、寺中6ヶ坊・末寺8ヶ寺・門徒11ヶ寺を擁する大寺であった。特に、第2代藩主・徳川光圀の帰依は深く、貞享5年(1688年)に本堂の大修理を行った。このとき、南向きであった本堂が東向きに変えられ、禅宗様の建物に変えられた(昭和43年の大修理により、様式は元に戻された)。また、京都「青蓮院門跡」の直末寺に復し、水戸藩内唯一の天台宗檀林所(僧侶の養成機関)としたという。なお、本尊は薬師如来で、藤原期のものともいう(茨城県指定有形文化財)。


天台宗薬王院のHP

水戸観光コンベンション協会のHPから(薬王院)


写真1:「薬王院」参道入口。寺号標(「桓武帝勅願所 吉田山薬王院」)


写真2:仁王門。茅葺の八脚門で、茨城県指定有形文化財。


写真3:本堂(薬師堂)。茅葺型銅板葺入母屋造。


写真4:回向堂


写真5:五輪塔。水戸藩初代藩主・徳川頼房の次男として生まれたが夭逝した松平亀千代丸のためのもの(水戸市指定重要文化財)。
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磯部稲村神社

2019-12-14 23:15:33 | 神社
磯部稲村神社(いそべいなむらじんじゃ)。桜川磯部稲村神社ともいう。
場所:茨城県桜川市磯部779。国道50号線「岩瀬バイパス」の「元岩瀬」交差点から東南、約1.7kmの交差点を左折(斜めに東に)、約1km「稲荷橋」という小さな橋を渡ってすぐ左折(北へ)、途中「桜川公園」の横を通って約1㎞、正面突き当り。駐車場は向って左側にある。
社伝によれば、創建は景行天皇40年(111年)、日本武尊が伊勢神宮の荒祭宮である礒宮をこの地へ移祀したという。嘉祥2年(849年)、旱の折に桜川の水源地である鏡ヶ池で祈雨祭が行われたほか、天慶2年(939年)には平貞盛が平将門の追討祈願を行ったとされる。第108代・後水尾天皇(在位:1611~1629年)から「礒部大明神」の勅額を賜った(現存)。祭神は天照皇大神、木花佐久耶姫命など12柱で、古来から安産子育の神として尊崇を集めたという。常陸国式内社「稲村神社」の論社の1つとされるが、古代には当地は新治郡に属したと考えられるため、「延喜式神名帳」に久慈郡鎮座とあるのに矛盾するところから、可能性は低いとされる。
一方、当地は「白山桜(しろやまざくら)」の名所として古くから知られ、水戸藩第2代藩主・水戸光圀が現・水戸市周辺に盛んに移植したほか、歴代将軍家によっても玉川上水や隅田川などに移植したという。また、世阿弥(1363?~1443?年)作の謡曲「桜川」の舞台ともなっている。現在も、当神社の南側にある「磯部桜川公園」(元は当神社の馬場であったともいう。)は桜の名所で、国の名勝・天然記念物に指定されている。
なお、当神社の境内には「要石」がある。常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)の「要石」が凹型であるのに対して、こちらは凸型で、「鹿島神宮」の「要石」が地震を起こす大鯰(おおなまず)の頭を押さえ、当神社のそれが尾を押さえるという。下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)にも凸型の「要石」があって、両神宮の関係から見ても、こちらのほうが本家のような気はするが...どうなのだろうか。


茨城県神社庁のHPから(磯部稲村神社)


桜川市観光協会のHPから(櫻川磯部稲村神社)


写真1:「磯部稲村神社」境内入口、社号標(「郷社桜川磯部稲村神社」)


写真2:拝殿


写真3:本殿


写真4:境内の「紀貫之歌碑」。歌は「後撰和歌集」にある「常よりも 春べになれば さくら河 花の浪こそ 間なく寄すらめ」(巻第三 春下107。「新日本古典文学大系6」による。)だが、この歌碑では第1句が「いつよりも」に変えられている。また、第4句も「波の花」となっているが、これは昔から両説あるらしい。詞書に「さくら河といふ所ありと聞きて」とあるように、紀貫之自身が当地に来たのではないが、当時から桜の名所だったということが知れる。


写真5:同「要石」


写真6:同上


写真7:境外社「咳嗽社(しゃぶきしゃ)」。境内入口の手前、左手の小道を入ったところにある。


写真8:「御手洗池」
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石井神社(茨城県笠間市)

2019-12-07 23:25:09 | 神社
石井神社(いしいじんじゃ)。
場所:茨城県笠間市石井1074。国道355線と茨城県道1号線(宇都宮笠間線)の「石井神社前」交差点の北東角。駐車場有り。
創建時期は不明だが、社伝によれば大同2年(807年)の再建という。香取・鹿島の神こと経津主神(フツヌシ)と武甕槌命(タケミカツチ)による「葦原中国平定」の折、星神・香香背男(カガセオ)のみは従わせられなかったところ、建葉槌命(タケハツチ)が巨石に変身した香香背男を蹴り倒した。3つに分裂して飛び散った巨石の1つが当地の泉に落ち、これを鎮めるために創建されたのが当神社であるとされる(「大甕神社」2019年11月16日記事参照)。石が落ちた場所は当神社から南に約700m下ったところで、今も水が湧いている。「馬場先」という地名で、元はこの辺りが参道入口だったともいう。香香背男の話は民話の世界か、あるいは「石」のつく地名・神社の由来として後付けされたのかもしれないが、「常陸国風土記」に「笠間」という村があることが記されており、当地付近がその「笠間」村の中心部であったとされているので、創始はかなり古いのだろう。ひょっとすると、当地にも香香背男の勢力があり、これを討ったという歴史があったのかもしれない。なお、現在の祭神は「大甕神社」と同じく、建葉槌命。


石井神社のHP


写真1:「石井神社」正面鳥居。交差点の直ぐ横にあり、明るい境内。


写真2:拝殿、御神木(欅)


写真3:本殿


写真4:御神木の洞。その中を覗くと...


写真5:「斎庭の稲穂の神勅」石板


写真6:香香背男が変身した「巨石」の破片が落ちたという泉付近。当神社により説明板が建てられている。場所は、当神社のHPに地図が掲載されているが正しくなく、「石井南」交差点から約160m南下し、左側(東側)の農道に入ったところにある。


写真7:泉
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